<もう一度だけ、会えたなら>
汽車が出発の鐘を鳴らす。エドワードは幼なじみを抱き締めて、別れを告げた。
「帰って来るときは、連絡してね。帰って来なくても、連絡してね!」
「おう。じゃあな、ウィンリィ」
西へ向かう汽車は、元・鋼の錬金術師を乗せて動き出した。
車窓からの景色を眺め、エドワードは小さく息を吐いた。
これでいいんだ。
彼に別れを言う隙を与えず出発してしまったが、長々としても、逆に行けなくなってしまいそうだ。第一、あの男とは恋人でも何でもない。
挨拶ではないキスをしたし、一時はそれらしいことをしたが、それだけだ。
帰って来る頃には忘れているだろう。
ため息と共に過去を置いて、エドワードの長い旅が始まった。
国軍大佐は視力と鷹の目を取り戻し、ついに野望を叶えた。
国を治める頂点、大総統に就任したのである。
全てを手に入れることができたが、エドワードは行ってしまった。
女を抱いても、手応えはない。心は喜ばないのをわかっている。
あの時、行くなと言えば、行かないでくれたのだろうか?
しかし引き留めることも出来ず、ロイはおちつかなげに、執務室の中をうろうろしていた。
――五年後。
あっという間に月日が経った。
帰ってきたエドワードに、リゼンブール中が歓喜した。
ひととおり挨拶や報告が済むと休む間も惜しんで、エドワードはセントラル行きの汽車へ飛び乗った。
夕方に着いた懐かしい街は、変わらず歓迎してくれる。
軍指令部へ行くと、彼に会うのは簡単なことではなかった。
受付嬢はマニュアル通り、ややこしい手続きを言い渡したうえに、多忙のため会うことができるかすらわからない、とかつての英雄とは知らずに伝えた。
銀時計も何もないエドワードは、立ち尽くして途方に暮れる。
名前を聞けば一瞬で通る、だが不安もあった。
まだこの自分に対して思い抱いた感情を、覚えているだろうか?
立場が変わり、世界が変わった。
もし逆の立場なら、とっくに忘れている。
それにエドワードは、なぜ今更自分が必死になって置いてけぼりにした男に会おうとしているのかも、ちゃんと理解していなかった。どうするべきか考えながら、正面入口から外へ続く階段の端に座り込む。
夕陽が沈むのが見え、心も沈んでしまいそうだ。
大体、そこまでしてどうする気なのだろう。
大総統ならば、もうとっくに結婚していてもおかしくない。傷つくだけだ。
馬鹿らしくなって立ち上がった時、背後から話し声が聞こえた。
「この件については早急に決めていただかないと、手続きができません」
「それは君の仕事だろう、任せるよ」
「閣下!」
「私の仕事ばかり増やすな」
「違いますっ、」
エドワードは、懐かしい顔を見て動けなかった。
代わりにリザが、駆けよって笑顔を見せる。
「エドワードくん。帰ったのね」
「将軍……久しぶり」
ハグを交わして、珍しく感情を露にした女将軍を見つめ、その背後から近づいてきた男に視線を移した。
「……エドワード・エルリック」
「よお……じゃないか。お久しぶりです、閣下」
「よしてくれ。前と同じでいい」
握手をして、黒い目が相変わらず様々なものを映すのを見つける。
風景、人物、世情、物事の動き。そして、自分。
「ホークアイ将軍、今日は彼と二人で食事がしたい。護衛は不要だ」
その言葉に、言うと思ったと聞こえそうなため息をついて、リザは敬礼した。
「お疲れさまです」
「いいのか?」
急な展開に心配するエドワードを乗せて、車が走り出す。
ロイは少し笑って、頷いた。
「大丈夫だ。それより……背が伸びたな」
「まずそこか。やっぱりな」
隣に感じる体温が、身体の芯を暖める。
ロイはさっきよりも笑って、自宅に着くまで旅の道中を尋ね、エドワードは別れを言わなかったことを気にしながら答えるのだった。
使用人が数名働く屋敷は郊外にあり、パーティーができるようやたらに広く作られている。
「独り身には広すぎるのだがね」
広間に案内し、シェフに二人分だと伝える。
いつもより豪華な食事を遠慮がちに済ませて、ワインを開けた。
「きみと酒が飲める日が来るとはね」
「バカにしてんのか?」
「嬉しいんだよ」
その顔があまりにも優しくて、穏やかに見えた。
とても軍人の頂点に君臨する男とは思えない。
ロイも、久しぶりに心の底から気を楽にしている自分に、驚いていた。
エドワードが仮に自分の命を狙っていたとしたら、今なら成功率100%だろう、と考え一人笑う。
「今夜は泊まっていくといい」
「そんなに世話になるわけには……」
「1つ、ここから街へ戻るには車でないと時間がかかる。2つ、遠慮する必要は全くない。……きみと私の仲だろう」
「……ありがとう」
旅の疲れが溶け出すような風呂に入り、バスローブに着替えた。
まだ作られて間もないのか、屋敷はあまり生活の匂いがしない。
客室へ戻る途中、ドアが開いたままの部屋にロイがひとりじっと座っているのを見た。
一人がけのソファに、こちらに背を向けている。
五年前の記憶が心を揺さぶる。
だがエドワードは何も言わず、客室へ向かった。
廊下を進み、自分が使うことになっている客室のドアの前で立ち止まる。
戻りたい自分は、迷っている。
5年前に戻りたいのか?それは不可能だ。
なら、どうしたいのか?
なぜ自分は、すぐにここセントラルに向かったのだろう。
リゼンブールでゆっくりして、旅の疲れを取ってしばらくしてから、ちらっと報告に寄るだけのつもりだった。
なんのために、彼に会いにきて、そしてなぜこんな時間まで留まっているのだろう。
また、自分がここに留まることをなぜ彼は許すのだろう。
なぜ、ドアが開いたままだったのだろう。
エドワードはゆっくりと、廊下をひき返した。
背後に気配を感じて、ロイはソファと思考から立ち上がった。
ベッドサイドのランプが作りだすだけの薄闇に、エドワードが立っている。
すっかり青年になったその姿は、旅で各地の様々な情報を吸収して大人びた。
しかし凛々しくきゅっと上がったその眼は、少年の頃のまま輝きを失わずに真っ直ぐに見つめてくる。
人殺しの目ではない、そのことがロイにとって大変重要なことだった。
己の憧れでもあるのだろう。
この青年から目を離せず、また青年もとい兄弟の成長を見守っていきたいと強く願ったのは、それだけではないが。
「……とりあえず、入りなさい」
「……おう」
ドアを閉めて一瞬思案したが、鍵は開けたままにした。
振り返れば、金色の瞳がいとおしく輝いている。
思わず、その瞳に触れるがごとく頬を撫でて、存在を確かめた。
エドワードは逃げなかった。
迷いが走る。
ロイは目の前に流れる微かな息遣いを聞いていた。
「近くなったな」
目線は5cm程下にある。5年前と比べたら、随分な差だ。
「あんたはシワができた」
目尻をじっと見つめて、エドワードが言う。
本当は35歳のシワのない男と、目を合わせないようにして、しかしその声は優しく響いた。
俯いた金髪が、なにか考えている。
未だ迷いながら、ゆっくりとロイは頬から肩へ手を移動した。
怖い、と思った。
同時に、これで拒絶されたら完全に終われる、と妙な安堵も感じた。
だからエドワードが顔を上げて目を閉じた時、直後に唇を重ねてきた時は、どういう意味のキスなのか考えなくてはならなかった。
一度離れた、その後何を言うのか待ったが、彼は戸惑うロイともう一度唇を重ねた。
落ち着かないまましてしまったキスが、封印しようとしていた想いを揺り起こす。
次第に止まらなくなって、お互いに強く求めた。
海水の冷たさに早く慣れようとするかのように、身体をかき抱き、輪郭を撫でて、唇から繋がろうとする。
勢いでエドワードがロイをベッドに倒し、呼吸を荒げた彼はロイを見つめていた。
大総統が自宅で、何をしようと咎める国民は一人もいない。警備員も静かだ。
ロイは向きを変え、自分の大胆な行動に自分と同じような思考回路で後悔し始めたらしい元恋人を組み敷いて安心させてやった。
戸惑ったままだった腕が、しっかりと背に回される。
その腕は、エドワードの本当の腕だった。
隣に眠る温もりに懐かしくも切ない想いを抱きながら目覚めた翌朝、お互いにおはようと言い合って笑う。
何か考えているらしいエドワードは、軍服を身に着けるロイに寝たままで話しかけた。
「しばらく宿を借りていいか?代わりに家事とか、やるからさ」
何でもないように言われて、苦笑する。
「昼間は無人の家だ、好きに使ってくれ」
昨夜はあのまま激しく、一度ならずエドワードが腰が痛いと言うまで求め合った。
おかげで誰も代わりになれないという意味は体の相性だけでなく、心なのだと気付いてしまった。
手放したくない、と思いながら、彼の夢は邪魔したくない。
なかなか出かけず何も言わないエドワードが、何を考えているのかはわからないが、ロイはそれ以上求めることができなかった。
そんなロイの葛藤を知らず、エドワードもまた気付いていた。
しかし彼には成すべき事がある。
その狭間で揺れが解決しない限り、ロイに言う事は何も無いのだ。
5年前のあのとき逃げた心が、暴れはじめていた。
執務が終わると、途端に不安が押し寄せる。
ただの人間としての自分はこんなにも弱かったのかと自嘲しながら、家路についた。
帰ったらまた、誰もいない家になっているのではないか、また何も言わずに消えてしまうのではないか。
ロイの不安をよそに、リビングのドアを開けると質の良い料理の香りが広がっていた。
「お帰り」
気恥ずかしそうに笑って、エドワードが食卓をセットしている。
椅子に座らされて何の真似だと問えば、泊まっている礼だと答えた。
「まだ、ここに居るのか?」
「ああ、うん。しばらくは」
曖昧な返事に、サラダを皿に取り分けようとした手を思わず掴む。
「どこへでも行けばいいだろう?なぜ行かないんだ。行くなら早く行ってくれ」
案外、抑えたつもりが掠れた声になってしまった。
そのせいかエドワードも、怒らずに大人しくしている。
ロイは掴んだ手を自信無さげに、ゆっくりと離した。
傷ついたような金色の目がそれを見ていた。
「邪魔か?それなら……」
「それは違う、一緒にいればいるほど別れが辛くなる」
否定の言葉に、エドワードは黙る。
金色の目がロイを映した。
「……行かないでって」
「え?」
「言え」
小さな声に、瞠目する。
「……行かない、で」
「本当に?」
言われた通りに口に出して、初めて言葉の意味を理解した。
「……エドワード。本当は君に、この先ずっといっしょにいてほしい。だが、君の自由に口出しはしたくない。気持ちを聞かせてくれないか」
真っ直ぐに見つめ返す黒い目には、もう迷いはなかった。
「……行かないよ」
エドワードは椅子に座り、確かめるかのようにつぶやいてから、しっかりとロイを見た。
「どこへも行かない。あんたが死ぬまで傍にいてやる」
そして、微笑んだ。
その顔は、ロイが今まで記憶の中に大切にしまってきた勝気で腕白だった少年の笑顔とは違い、心の真理を理解した大人の男が、娘に向けるような愛情に満ちていた。
「アンタの力が、必要なんだ。オレ自身にとっても。あのとき……ごめん」
「エドワード……ありがとう」
礼を言った途端、照れたのか目を逸らしてふてくされた顔に変わった。
それを誤魔化したいのだろう、少し怒りっぽい口調でエドワードは言う。
「肉が冷めたじゃねーか」
温めに皿を持ちキッチンへ行って、一粒だけ涙を落とした。
やっと、落ち着いた。
これこそが、ずっと欲しくても手に入らなかったもの。
ずっと昔に、失ってしまったもの。
アルフォンスの顔が浮かび、苦笑する。
やっかいな報告をしたら、弟はなんと言うだろう。
「居場所、か……」
エドワードは温め直したメインを持って、戻った。
涙はとっくに、蒸発していた。
終
2011/09