<つぐない>
帝国ホテル最上階にあるラウンジ。薄暗い照明によって、大都会のど真ん中にそびえる72階からの夜景がより美しく鮮明に強調される。大きなパノラマ窓に面した席は全て対面で、正方形のテーブルを挟んで一人掛けのソファのようなゆったりした椅子が用意され、宿泊していなくともビジネスやプライベートで利用する客は多い。
電話を貰ったのはこちらだと言うのに、わざわざここを指定したのは鬼道が気を遣ってのことだ。一つ下の階を丸ごと占領しているプレジデントスイートからなら、エレベーターで約一分程ご足労願うだけで済む。
鬼道は入ってすぐにラウンジを見渡し、肩肘をついて指を顎に添え感慨深げに夜景を眺めるその姿を見つけた。真っ直ぐに向かっていくと、やや彫りが深くなり皺が増えた面長の顔が少しだけ動いて、鬼道を見た。
「お待たせしてすみません」
鬼道が言うと、 知っている中で一番低い声がただ「いや」とだけ答える。実際に応答があったことによって実感が増したのだろう、鬼道は安堵に微笑を広げ腰を下ろした。不動は彼らの隣のテーブルへ、そっぽを向いて座る。手を伸ばせば鬼道の肩に触れるくらいの場所で、分かってはいてもどこか遠くへ行ってしまうのではないかと気が気でなかった。
そんな不動の心境をよそに、鬼道は話し掛ける。
「総帥……いえ、今は黒岩監督とお呼びするべきでしたね」
静かな沈黙が否定ではないことを示す。鬼道は他に何か言おうと口を開きかけたが、ややあって苦笑と共に閉じてしまった。黒岩は斜め下テーブルの辺りを見据えたまま動かない。
ウェイターが御通しを運んできて、コーヒーを三つと鬼道が言う。カクテルシェイカーの似合いそうな三十代半ばの好印象な男性が去っていくと、鬼道は微かな吐息と共に意図的に肩の力を少し抜いた。
「……すみません、言葉がうまく出て来なくて……お会いできただけで満足してしまって」
黒岩はやっと口を開いた。
「構わん。沈黙もまた必要な時がある」
空気が打ち解けていくのを、不動は黙って傍観する。
「フィディオにはもう会いましたか?」
「色々助けてくれた」
「ルシェはどうですか? あなたのことを、ずっと気にしていました」
「ああ。連絡はした。近いうちに会うだろう」
暗に近いうちに会うと仄めかしているのだろう。ゆったりと、思い出からの夢想が現実化していく。さぞかし感激に咽び泣きたいのだろうと考えてから、不動は密かに自嘲した。鬼道は満足げに息を吐いて、夜景を眺める。丸いサングラスに無数の都市の輝きが映った。
「おれはーーずっと、迷っていたんだと、今分かりました」
不動の聞いたことのない話が始まる。
「あなたに最初に教わった事が、迷いを断ち切れ、だったのに」
また沈黙が訪れ、遠くでひそやかに、ムーディーなトランペットが歌っているのだけが聞こえていた。湯気をたてた純白のコーヒーカップを三つ、ウェイターが運んでくる。そのうちの一つに、ブラックのまま鬼道が口を付けた。
「鬼道」
カップとソーサーを置こうとした手が止まり、視線を上げる。
「お前は今、幸福そうだな」
かちゃりとかわいらしい音をたてて陶器が落ち着き、鬼道は微笑んだ。嬉しそうに、唇からわずかに白い歯をのぞかせて。
「はい。――ありがとうございます」
それはあなたのおかげだと、その微笑が言っていた。黒岩は唇を動かさず黙っていたが、コーヒーを取り上げてひとくち飲んだ。
不動は目の前に置かれたコーヒーを眺め、さっきまで自分が疑念を抱いていたことを恥じた。鬼道は自分が思っているよりも強く、聡明で、ここへ来たのには高尚な理由があった。
かちゃりとカップを置く音がして、思考の泉から引き上げられる。あれから特に会話をしていないのに、黒岩がむくりと立ち上がった。
「また、連絡する」
「はい」
礼儀から立ち上がって見送る鬼道を一瞥し、そう言って踵を返す。通りすがりざま足を止めて、サングラス越しに鋭い目が不動を見た。不動は困惑と疑念を持って見つめ返した。黒岩はフッと口元を歪め、何か言いたそうにしていたが結局何も言わず、ゆっくりとした大股で行ってしまった。
後から考えるとそれは、何か祝いに似た言葉か、労いの言葉か、それとも「鬼道を頼む」とでも言いたそうな風に思えたが、その時の不動は冷静に徹し黙っているようにするだけで精一杯で、不愉快な印象しか残らなかった。
*
地下四階までのエレベーター内は静まり返っていた。コンクリートの上を歩きながら車を認めた頃、鬼道が鍵をくれと言ったので、今度は助手席に座る。しかしシートベルトも着けずなかなかエンジンをかけようとしないので、不動は訝しんだ。どうしたと問う前に、鬼道が呟くように言う。
「不動」
「んだよ――」
懐かしくなって泣きそうだからやっぱり運転を替わるのかなどと嫌味の一つでも言ってやろうと身構えたが、長い指がサングラスを外すのを見て、やめた。
「すまなかった」
予想外の台詞が追い討ちをかける。困惑するばかりの不動に、それを分かっているらしい鬼道が話を始める。
「今だから本当に正直に言うが……あの人はおれにとって、とても大切な存在だった。両親と同じくらい、世話になったからというだけでなく、今でも尊敬している。色々あって傷ついて、それでもだ。――いや、」
不動が口を挟もうとした理由を分かっている鬼道は先に止めた。
「お前に救われたのも事実だ。でも情けないことにおれは、ずっと迷っていた。あの人が死んだのにおれはどこへ行けばいいのだろうと。あの人が幸せを目の前にして亡くなってしまったことを――、ずっと引っ掛かっていたんだ。おれがもっと早く許していれば、あの人を救えるくらい強ければ……なんて、無意味だと分かっていても、後悔が頭から離れなかった」
鬼道が顔を向けて、Yシャツが微かに衣擦れの音をたてる。
「お前は、そんなおれに今までずっと耐えていたんじゃないか? だから……すまなかった」
やっと鬼道の思考と心境に追い付いて、不動は盛大にため息を吐いた。
「意味わかんねえんだけど。鬼道くんがどうだろうと、勝手に離れないって決めたのはオレだし」
鬼道の表情が変化した。しばらくハンドルの辺りを眺めて考えているらしいのを、やれやれと思いながらじっと待つ。少しして、呟くように小さな声がぽつりと言った。
「ずっと離さないでくれて、ありがとうな」
それは意外な台詞だった。顔を向けたのが分かって、目を合わせる。薄暗い社内で赤い目が外の蛍光灯を映して、微かに光り揺れていた。
「このことを……ずっと言いたかったんだ、おれは」
鬼道が思わずといった風で腕に触れた。それでは妙だと思ったのか、手は少し滑って不動の手に重なる。膝の辺りに物理的な邪魔があるなともどかしみながら、堪らずに肩を掴んで抱き寄せた。
「ばかだな。んなの、言わなくていいよ」
首元に顔を突っ込んで彼の匂いをいっぱいに吸い込む。鼻の奥がツンとして、目を閉じた。
「これからも離す気なんかさらさらねぇし」
腕が伸びてきたが、引き離そうとするのではなく、少し体勢を変えてしっかりと抱き合い、不動の背を掴むためだった。ぎゅ、と力を込めて、それから抜く。しかし完全には離れずに、シートに凭れて額を寄せた。
「明日どこかへ行かないか?」
もっとこうしているには早く家へ帰らねばと、鬼道はゆっくり体を起こしながら言う。
「どこかって、旅行とか?」
「ああ。行きたいところが、たくさんあるんだ」
やっとエンジンをかけ、愛車がいきり立つ。不動はシートベルトを締め、楽な格好で窓に肘をついた。
「へぇ? お供しますよ、どこへでも」
地下駐車場にエンジン音が響き渡る。二人を乗せた車は四階分のスロープを上がり、星のきれいな夜の街へ出て行った。
end
2014/08