<会話の少ない夫婦>






 平穏な日常を過ごしていると思っていたある日、三十路を目前に、ある一つの問題が浮き上がった。インターネットというものは眉唾物の情報ばかりで信用できないところがある。それをどうやって見極めるかと言えば、最終的には己がどう思うかに限る。


 ある晩もう仕事も終え、早く寝れば良かったのにあと十五分だけと情報を流し読みしていたとき、ニュースサイトの脇に積み重なるコラムの中に目を引く見出しがあってついクリックしてしまった。内容は、夫婦が倦怠期になる理由は会話が減っているためというもの。年を重ねれば重ねるほど、事態は深刻になっていくらしい。
 鬼道は青ざめた。身に覚えがあることをじわじわと思いだし、自覚し始めたからだ。不動と一緒に暮らし始めて五年、最近は「おい」とか「なあ」でほとんどの会話が済む。
 もちろん新しい用件や予定、重要なことはきちんと話をするが、日常的なこと――例えば「醤油を取ってくれ」とか、「チャンネルを変えてくれ」とか、「今日は忙しいから買い物当番を替わってくれ」などなど。不動はそれらのことを今までの統計と現在の状況、声音と表情で判断し、「おい」と呼び掛けた時に瞬時に「ん」と醤油を取ってくれたり、「今日は遅くなる」と言えば「ん」と答えるだけで夕飯は作って置いてくれる。
 最初の頃はもちろんこうではなかった。元々世間話なんてしないし、これといってお喋り好きな人間でもないので、日常会話は少な目、どうしても事務的な内容が多くなる。それでもしょっちゅう言った言わないで揉め、生活のズレが生じると言い争いになり、むくれたまま風呂に入って一人で寝る。すると真っ暗な寝室に足音が近付き、動かないで待っていると隣に温もりがやってきて、黙ったまま仲直りする。
 そんな日々を繰り返していくうち、お互いに歩みより、妥協点を模索し、ズレを直して、確かに今では穏やかな日常だと思っていたのだが。

 このままではいけないと思い、鬼道はパソコンを閉じてすっくと立ち上がった。次に何か話しかけられたら、せめて一行以上喋ろう。次に何か物を頼むときは、頼んだ時に世間話でも挟んでみよう。急にやると変に思われるから、少しずつ行うのが肝心だ。

「どうかした?」

 立ち尽くしたままでよっぽど妙な雰囲気だったのだろう、急に呼び掛けられて鬼道は心臓が飛び上がったが、表面上は平常に見えた。

「いや……」

 それだけ言って、トイレへ向かう。ソファに座ったままの不動の首がくるりと半回転して、「どうもおかしい」と思いながら視線が追いかけているのを感じる。行きたくもないトイレへ向かうのはやめ、途中で曲がってキッチンへ入った。水を飲んで落ち着こうと考え、何をこんなに動揺しているのかと思う。

「なあ……」

 呟いて振り返ろうとすると、いつの間にキッチンへ来ていたのか不動は後ろからゆっくりと脇の下に手を差し込み、腹に回して抱き締めてきた。

「なに?」

 尋ねておきながらもう自分が相手の希望を叶えていることを知っているような声音だ。鬼道も、もうこれ以上の言葉が無駄だと知り、小さく「いや……」と流した。腹を抱える彼の手の甲を撫で、腰を捻って振り返る。青と緑が混在する切れ長の目に向かって、一瞬くだらん事で悩んだが杞憂だったと視線で伝えた。

「何でもない」

 呟くように言ったその唇でキスをする。しっとりと、長めの浅いキスだ。青と緑が混在する切れ長の目が見つめ返す。

「ふぅん」

 鼻の奥を鳴らした、その目が語っていた。不動にとっては、少ない情報で鬼道の望みを探り、無言のままに的中させることが一番の喜びであったのだ。積み重ねてきたそれを受けて、鬼道は知っていた。





end




2014/08

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