<八月十四日の涙>






 お盆の二日前のことだった。休みを数日とったから旅行にと誘われて、勘繰りすぎたことが原因の一つ。この時期は色々と敏感になり、ちょっとしたことでも考えすぎる。「オレのご機嫌なんか取らなくていいんだぜ」と余計な一言が決定打で、お互いに口を開く気もせず、背を向けて寝た。翌朝出掛けた鬼道は、日付が変わっても帰って来なかった。
 行き先を告げずに帰りが遅くなったことはたまにあったが、喧嘩した直後だと余計に不安が襲う。もうあの頃とは違う、自己管理も金も理性もある大人なのだから、もう少し信頼してやるべきだとは自分でも思っているのだが。

 鬼道が言っていた。「お前はおれのことを何だと思っているんだ」心配しすぎなのは片目のロン毛の方だとずっと思っていたが、食事と就寝を共にするようになって自分の彼へ対する想いがやや逸脱しているのを認めないわけにはいかなかった。「いつまでこだわってんだよ」「けっこうな忠誠心だな」「大事なことって言うなら、もっと目の前にいっぱいあんじゃねぇのか」
 ――全部、彼ではなく、自分へ向けた台詞だった。




 *



 静まり返った校舎とは逆に、グラウンドは賑やかだ。円堂の姿を見ると、無条件で安堵できる。しかし今日は、それでもまだ落ち着くはずがない。音無を見つけて声を掛ける前に、向こうが気付いて近寄ってきた。

「不動さん! どうしたんですか?」

 尋ねているのに知っているような顔をしているから、不動は苦笑して黙っていた。案の定、音無は困ったように微笑んで言う。

「やっぱり、兄さんのことですよね……すみません」
「は? なんでお前が謝るんだよ」
「兄さん、わざといなくなるから」

 その言葉に、納得しながら少し安堵する。
 珍しい訪問者に気付いていたサッカー部の面々が、ホイッスルが鳴ったと同時に走ってきた。

「こんにちは不動さん!」
「どうしたんですか?」
「サッカーしましょう!」

 キラキラ輝いた目には申し訳ないが、とてもそんな気分じゃない。

「悪ィ、今度な」
「不動さんは別の用事があって来たの。忙しいから、また今度ね」

 気を利かせて、音無が引き離してくれた。不動を連れて、心底残念そうな中学生たちの視線を受けながら正門へ向かう。道々、音無が話したことは、不動の予想したいくつかの可能性のどれにも当てはまらなかった。

「兄さん、先に墓参りに行ってるんです。私は明日の十五日に合流する予定なんですけど……あ、いつも兄妹で、一泊二日で行ってるんです。だけど今年は、先に行ってるって。何があったかは聞いてませんけど……」

 音無は場所といつも泊まる旅館を教えてくれた。礼を言って、ちんたら立ち去る。角を曲がったところで自慢の足を全速力、大通りで思いっきり手を振ってタクシーを捕まえた。




 *



 蝉の合唱を遠くに聴きながら、タクシーの運転手に短い礼を伝えて、入道雲の下を歩く。こうべを垂れた淡い緑色の稲穂を背景に、誰もいない墓地で見つけるのは容易く、ずらりと並んだ墓の中の一つ、長方形の黒い石の前に、鬼道は立っていた。

「なぜここがわかった」

 近付くと、こちらを見もせず驚いている風でもない声が静かに尋ねる。

「音無が……」

 鬼道はそれだけ聞いたところで、「そうか」とでも言うように、どこか満足げに頷いた。墓には知らない苗字が刻まれている。

「お前、わざと妹に居場所教えただろ」

 いまいち自信がなくて聞いてしまったが、鬼道はそんなことも気にせず、さほど動揺もしていないらしい。

「だから、なんだ」
「オレに、ここへ来て欲しかったんじゃねェの?」

 今度は確信を持って問うと、鬼道は長い溜め息を吐いた。やっと分かったか、と言いたい時に彼がする癖だ。

「――最初から、そのつもりだったんだ。なのに……」
「ああ……悪かったよ。ゴメン」

 素直に言うと、それは少し彼を驚かせたらしかった。少し考え、鬼道は不動の腕を掴み、ぐいと引き寄せる。よろけた不動は彼の肩に掴まって、隣に並んだ。

「父さん、母さん。おれは今、しあわせです」

 子供のようにたどたどしく言ったあと、鬼道は再び開きかけた口を閉じて、そのまま何も言わなくなった。沈黙したまましかし動かないので、顔を見れば泣いている。何となく予想はついたが、どきりとした。元々鬼道は、霊の類は信じていない論理的な現実主義者だ。
 一時は幻覚に惑わされたりしたこともあったが、そう いったものは全て己の心の弱さが見せるものだと理解してからは、克服すると共にさらに現実主義を深めた。心の底から共感したから、よく分かる。
 その鬼道が今、わざと口にした言葉は決して半信半疑などではなく、かといってこの日本独特の風習で死者に声が届くなどと信じたわけでもなかったが、敢えて口にしたのだ。そして彼はずっとこの瞬間を望んでいて、それによって自分の中で変化が起きることも知っていたが、今改めて実感し、自覚し、そして得たものの予想以上の大きさに泣いているのだった。

「お、お前も何か言え」
「えっ」
「こんにちはくらい言えないのか、このばか」

 涙を拭いもせず、鬼道は上ずった声をできるだけ下げてそう言った。

「え、と……コンチハ」

 とりあえず会釈も付けて、できるだけ丁寧に挨拶したが、なんて言えばいいのか言葉が浮かばない。鬼道は顎を伝った水滴を指で拭い、やっと不動の腕を離してポケットからハンカチを取り出した。不動は目の前がぼやけ、思わず鬼道の肩を掴んだままの指に力をこめた。

「オレも、息子さんに逢えて、しあわせです――」

 そう言って頭を下げるのが精一杯だった。
 鬼道は、もうとっくに乾いて熱くなっている黒い御影石をひとなでして、空の桶を持って歩き出す。二人して鼻を啜り、次の瞬間吹き出した。恥ずかしくて、くすぐったくて、ひとしきり控えめに笑い合った。それから手を繋いで、鬼道が車を停めた所まで歩いた。
 蝉はまだ合唱しているし、入道雲は僅かしか動いていない。繋いだ手は熱かったし車の中はもっと暑かったが、いつまでも一緒にいようと心に誓った。






end

*W司令塔の日2014*


2014/08

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