<天体観測>
夏休みのとある日、午前一時半すぎ。帝国学生寮の蒸し暑い布団の上でゴロゴロしていると、鬼道からメールが来た。
こんな夜更けに何の用だろうと思いながら返事を打つ。
>起きているか?
>なんか用?
>眠れないなら五丁目の踏切まで来い
>はあ? なんで
>来れば分かる
行くしかあるまい。不動はがばと起き上がって、Tシャツを部屋着にしているダサいヤツから外に出れるレベルに着替え、鍵と携帯と財布だけ持ってそっと出掛けた。
町ごと眠っているかの如く静まり返った踏切の脇に、鬼道が佇んでいた。
「早かったな」
「……何その大荷物」
さすがに視界が暗いからか、ゴーグルをはずして首にかけ、肩に大きな黒くて長いナイロンバッグを掛けて、反対側の手にはトートバッグを持っている。何をする気なのか見当もつかない。
「まあ、ついて来い」
午前二時をすぎた。鬼道は事務的なキーホルダーの付いた鍵を使って、真っ暗な五階建てのビルへ入って行く。
「これってさぁ……けっこうワルい子なんじゃねーの?」
鬼道はやや照れ混じりに口角を上げた。
「いいだろう? 一年に一回くらい……」
階段を登り始めた時はついて行くしかないと思っていたが、まさか屋上まで行くとは思わなかった。さすがに息を切らした不動に未開封のペットボトルを渡し、鬼道も息を整えながら荷物を床に下ろした。
不動は冷蔵庫から出して持ってきましたと言わんばかりの冷えた軟水を喉に流し込み、蓋をせずに鬼道の前へ差し出 。彼は躊躇せずに受け取って、不動に倣った。蓋を渡して、ふぅと一息つく。真夏における都会の夜のぬるい風が吹いた。
「で? わざわざこんなところで何すんの?」
「眠れなくてな。一人でも来るつもりだった」
そう言いながら鬼道は、ナイロンバッグから中身を取り出す。それはしっかりした天体望遠鏡で、脚を広げれば何かの発射台のように暗闇に構える。
「そっちは?」
興味本位でトートバッグを指すと、鬼道は得意気を隠すようにちいさく笑った。
「水分と夜食だ」
一人分以上はある上等なパンと上等なジャムのサンドイッチをつまみながら、交代で望遠鏡を覗き込んだ。曇っているなとは思っていたが、雨が降るとは思っていなかった。
「何も、見えないな」
何を見たかったのか、ポツポツと降りだした水滴に濡れながら、鬼道は雲で覆われた空を見上げている。暗闇を映す赤い眼が揺れていた。今にも泣き出しそうに見えて、だが不動は動けなかった。深い闇に飲まれないようにすることだけで、精一杯だった。
∵
鬼道はプロリーガーとしての輝かしいキャリアを確立しつつあった。体調も良好、精神も安定している。だが、一つだけ忘れられない出来事があった。
帰国して実家に泊まり、一息ついた時、メールが来た。不動からだった。相変わらずつっけんどんな調子に違和感なく返している時点で、彼を相当に甘やかしていると思う。
>起きてる?
>ああ。これから寝ようとしていた
>出て来いよ。見せたいモンがあるんだ
>どこへ?
>五丁目の踏切
一気に、眠っていたものが覚醒したような気分になった。Tシャツにパジャマのズボンという姿だったのを、下だけカーゴパンツに履き替えて携帯電話と財布と鍵をポケットに突っ込み、駆けていく。不足のある文面でも、相手によってはどこの五丁目の踏切だか分かる。
あの頃より背の高い影が待っていた。
「よお」
「おまえ、いつ……」
街灯を背に、不動は口角を上げる。
「今日。……あ、もう昨日か」
そう言って歩き出したのを、慌てて追いかけた。午前二時、真夏における都会の夜のなまぬるい風が肌を撫でていく。クビキリギスと夜更かしなセミの鳴き声をBGMに、アスファルトの道を黙々と進んだ。あの頃、高等部の学生寮から走って来たであろう不動と、胸を高鳴らせながら歩いた道だ。記憶力に感心しつつ目的を推測していると、隣に並んで歩く不動が呟くように言った。
「変わってねぇなぁ」
十年経っても、町はそれほど変化が無い。空き地が増えたり、マンションが建ったり、看板が新しくなったりしたが、目立つ建物や全体の印象は変わらない。
「そうだな」
相槌を打ちながら、蘇った思い出を眺めていた。夏休みだと言うのに実家にもなかなか帰らず、毎日何をしているのかと問えば「別に」と目を逸らした不動。まさか単身、海外へ行くためにバイトをしているとまでは、さすがの鬼道もなかなか思い至らなかった。
真夜中に誘い出したのは、思い出が欲しかったから。結局、不完全燃焼のうちに終わってしまい、苦いままの思い出となった。それを思い出して、鬼道は顔をしかめる。
「なあ、あのビルいま入れねぇよな? 鉄塔でも行くか」
独り言のように呟いて角を曲がろうとする不動に、苛立ちのようなものが沸き上がる。
「どういうつもりだ」
立ち止まって低い声を出すと、不動は数歩戻ってきて、何か言いかけたが、何も言わないまま口を閉じた。
「悪いがおれはヒマじゃない、用が無いなら帰るぞ」
不動は何か考えているのだろう、黙ったままだ。小さく息を吐いて背を向けようとすると、不動が手首を掴んだ。
「待てよ」
「なんだ……!」
いい加減にしろと言う前に、不動の言葉に空気が変わる。
「あのとき見たかったやつを見せてやるよ」
暗闇に煌めく青みがかった深緑の目に射抜かれ、鬼道は抵抗をやめた。ポケットを探り、鍵束を持っていることを手で確かめる。
「鍵ならここにある」
そう言って先に歩き出した鬼道を、不動は黙って追いかけた。きっと呆れているに違いない。
五階建てのビルは今も仕事で使っている。鬼道が足を運ぶことは滅多に無いが、合鍵は渡されていた。屋上までの階段は余裕で上れた。あの頃と変わらない景色が広がって、鬼道は佇む。後ろから不動がやって来て、隣に並んだ。
「あ、ホラ」
「あ……」
人差し指の先で、きらり、きらりと一粒の光が流れ落ちていく。毎年この時期になると発生する、定常の流星群。
「なぜ……わかった?」
声が掠れそうだったし、聞いても仕方のないことだったが、言わずにはおれなかった。不動は小さく笑って、「おセンチな鬼道クンのことだからさ」とだけ言った。
何も見えなかったあの日から、天体望遠鏡は部屋の物置の奥へしまいこんで、それきり忙しくなったこともあって忘れていたのに。瞬いて流れていく星を見て、あのときの願い事が叶えられているのを知る。しかしもう新しく願い事をする歳でもない。
「ありがとう」
もう、見つけていたのだ。そう思った瞬間、どうしようもなくなって、隣の背に手を回し抱きしめた。不動は動かなかったが、ふっと笑うのがわかった。
「結構きれいだぜ。見なくていいのかよ?」
「……ああ。もう、じゅうぶんだ」
見たかったものはここにある。穏やかな風は生ぬるく、蒸し暑い夜だったが、しばらくの間熱い腕を絡ませ抱き合っていた。
二人の頭上では、幾千もの星の欠片が、誰かの夢を連れて夜空の彼方へ流れて行った。
BU/MP/OF/CHI/CK/ENの同題の歌に寄せて。
朔之介様に捧げます。
『Legend Of Wplaymaker』企画ありがとうございました!
2014/08