<梅酒と初夏の雨と磁石の話>





 十五歳。自我が独立したいと喚くのを抑え、同級生たちとくだらないやりとりを交わし、大人を心の中で蔑み見下す。いつか自分も成人したら、ああいう大人にだけはなりたくないとか、あら探しばかりする。
 誰よりも早く成熟したくて、一人前と認められるためでも何でもない事柄で得意になり、必死でつま先立ちになって背くらべをしている。
 鬼道は彼らのことを一歩引いて眺めながら、自分もまた例に漏れず背伸びしていると自覚していた。
 バケツをひっくり返したような土砂降りでも練習すると言う円堂を、風邪をひいたら練習どころではなくなるからと豪炎寺と共になだめた後、かけがえのない親友二人と別れの挨拶を交わし、一人で改札を通ってホームまでの階段を上る。三十分電車に乗り、最寄り駅から七分歩けば、家へ着く。車の送迎を断ったのは、雷門中学の校風にそぐわないからだ。もうボールに片足を乗せて高笑いしていた鬼道有人ではない。傘にはねる滝のような雨粒の音を聴きながら歩くのも、気に入っていた。
 電車の床に傘を突き立てて支えにし、スニーカーを明日までに乾かさねばと考えながら、ふと携帯電話の画面から顔を上げて窓の外を見た。薄闇に煌々とそびえる、巨大な帝国学園の輪郭が見えた。




 帰宅すると、養父は居間で夕刊を読んでいた。

「高校はどうするか、決めたか?」
「まだ検討中です」

 鞄を肩から下ろして、前を横切り階段へ向かう。

「雷門も悪くはないが、家庭教師を雇わなければならんからな、早めに言ってくれ」
「はい。すみません」

 養父が老眼鏡を外したので、話があるのかと思い立ち止まった。しかし養父は新聞を置いて立ち上がった。

「サッカーならどこでもできるだろう」
「はい……」

 そのまま、手洗いだろうか、行ってしまった背中を見送り、鬼道は自分の部屋へ向かう。
 サッカーのことで言うならむしろ、円堂と豪炎寺が作り上げた今の雷門イレブンと、敵として戦ってみたい。つまり問題はそこではないのだ。
 帝国学園高等部へ行けば何もかもうまく行くし、学園側も鬼道の入学を是非にと言ってきている。それを渋る程の理由は、たったひとりの少年にあった。




 夕食も風呂も済み、夜の二十二時。マンション一部屋はありそうな台所で、一つだけ電気をつけて、豊川丸恵が立っていた。鬼道は何も言わず作業台代わりのテーブルについて座り、背の低い彼女が小さな手をテキパキと動かすのを眺める。

「坊っちゃん、お勉強はいいんですか?」
「うん」

 数年前、自分は養子で坊っちゃんではないのだから、その呼び方は違うんじゃないかと言ったことがある。朗らかに笑って、「坊っちゃんというのは、あたしみたいなおばあさんが、可愛い男の子に言う呼び方なんですよ」と返された。

「じゃあ、ちょっと手伝っておくんなさいな」

 盆ザルに山盛りになった青い梅の実が、目の前のテーブルに置かれた。鬼道は渡された爪楊枝を使って、うぶ毛が覆う梅の実を持ち、一つずつヘタを丁寧に取る。何度か行ったことがあるが、養父の妹、つまり叔母の家の庭には大きくはないが梅の木が三本もあり、毎年たくさんの実をつけるので、おすそ分けを送ってくれるらしい。

「最近、お友達が増えたんですね」
「え? ああ……まあね」

 家も駅も離れている不動の存在を、彼女がなぜ知っているのか。思い返せば、練習試合で不動に貸したタオルを彼が返しに来た時、鬼道は家にいなくて、代わりに丸恵が預かってくれたのを覚えている。その他にも、ちょくちょく携帯電話で話している場面にお茶を持って来てくれたり通りがかったりするために、声のトーンや話し口調で相手が違うことが分かるのだろう。鬼道はちょうど今抱えている悩みを見透かされたかのように感じて、そっと胸の奥から息を吐き出した。

「高校に入ったら、もっとたくさんお友達が増えますね、きっと。坊っちゃんは人気者だから」
「そうかな。……けど、たくさんいても大変だよ。誰の誘いを断って、誰を誘うべきなのか、分からなくなってしまう」

 黒ずんだヘタに爪楊枝を刺すと、軽い力で引っ張っただけで取れ、梅の実のかわいらしいくぼみが現れる。うぶ毛に覆われた丸い表面を撫でて、匂いを嗅いだ。ほんの微かに、甘い香りを放ち始めている。丸恵は大きな瓶を梅の横に置いて、ふぅと一息ついた。

「ひとの出会いには全て意味があると言いますけど、何年も続くのはごくわずかなんですよ。一生の親友だなんて思ってても、この歳になると、年賀状くらいしか出しませんでね。若いうちに楽しめるだけ楽しんだ方がいいですよ」
「うん……」

 最後の梅のヘタを取り終わって、鬼道はヘタの山と爪楊枝を手で集めてゴミ箱へ捨てた。

「できたよ」
「まあ、ありがとう、助かりました。さ、もう寝る時間ですよ、坊っちゃん」
「ああ。おやすみなさい」

 水を飲んで大人しくベッドへ入ったはいいものの、とても眠れなくて、しばらく天井を見つめながら何を優先すべきかについてもう一人の自分と議論を交わした。雨は少し弱まったが、まだ巨大なシャワーのように降り続いている。





「それで、本題なんだが……」
『なに?』

 鬼道から電話をかけるとは珍しいと思っていながら、からかうと折角の機会が失われかねないことを分かっていて、先を急かすだけにとどめておく不動の声は明るめだ。前半の理由はやや不快に感じながら、後半の理由に怒る気を削がれ、鬼道は結局、口角をゆるめてしまう。

「明日、うちへ遊びに来ないか?」
『遊びに?』

 不動が面白そうに聞き返した。いつも何かをする時は、源田や佐久間か誰かの家か、鬼道が帝国学園に来た時であったし、常に数人誰かが周りにいて、二人きりで話すことはあっても、会うことは無かった。

「帰るのが大変なら、泊まってもいい」
『泊まりに?』

 本格的に驚いたらしく、電話が切れたかと思うほど沈黙があった。

「……別に、他に用事があるなら明日でなくとも構わないが」
『いや、』

 そういうことではないらしい。不動が動揺しているというのが電話越しでもはっきり分かるのは、いつも感情を隠す彼にしてはとても珍しいと思った。

『用事なんかねーよ。いきなり泊まれとか言うから、ビックリしただけ』
「何も、強制的に泊まれとは……」
『なに、MVP映像鑑賞会でもすんの? 鬼道クンの分析にケチつける役なら喜んでやるぜ』

 考えていなかったがそれもいいなと思いながら、鬼道は少し笑った。不動が乗り気だということを確認して、安堵したのだ。

「明日、学校が終わったら家へ来い。場所は分かるだろう?」
『あー……まあ』
「じゃあな」

 電話を切って、ふうと息を吐く。顔が熱いのに加え、FFIの試合前みたいに心臓がうるさいことに気付いた。理由は、携帯電話が熱くなっているせいではない。





 リンコーンと、古めかしいドアベルが鳴る。鬼道は小走りに玄関へ向かい、最後の数歩は急いできたことがばれないようにゆっくり歩いて、玄関ドアを開けた。

「よお」

 不動の私服姿は久しぶりだ。黒い無地のTシャツにチェックの半袖シャツを羽織って、膝上丈のグレーのカーゴパンツを履いている。前回は源田の家で、ゲームをしに皆で集まった時、そのさらに前はクリスマス会だった。

「ああ」

 今日は午後からずっと霧雨が降っている。軽い仕草で中に入れと促すと、不動はやや緊張した面持ちで従い、傘立てにビニール傘を差して湿ったスニーカーを脱ぎ、用意してあったスリッパに足を入れた。
 彼がこの家に来るのは三回目だ。練習試合の時に貸したフェイスタオルをわざわざ返しに来た時と、クリスマスパーティーに呼んだ時。どちらもすぐに帰ってしまったから、鬼道の部屋でゆっくり過ごすことはなかったし、落ち着いて広い家に慣れることもできなかっただろう。今日は二人きり。今まで曖昧で掴みづらかった関係を、少しでも明瞭にしたい。せめて<友達>とか、名称のあるものに。




 途中飛ばしつつ二試合観たところで、休憩しようと意見が一致した。不動が便所へ行っている間に、飲み物を新しく用意する。玄関にある大時計が、二十時を打っているのが遠くに聴こえた。
 戻ってきた不動が、テーブルに置かれたコップの中身を覗き込んで尋ねた。サイダーとは明らかに色が違う。

「これなに? 麦茶……じゃねぇな」
「梅酒だ」

 聞いた途端、不動が意外そうな目を向けてくる。鬼道はできるだけ影響されないように、不敵に笑んだ。

「マルさんが毎年作るんだ。ちなみにこれは、十年モノだ」
「へーえ。マルさんって?」
「うちの家政婦」
「ああ……ン、うめぇじゃん」

 ソファへ戻り、先ほどと同じように並んで腰掛ける。ゴーグルを外して、液晶画面に張り付いていたせいで疲れた目を休ませていると、隣でしゃらしゃらと細かい氷の揺れる音がした。
 急に、静寂が居心地悪くなる。悪いというか、落ち着かないのだ。隣の体温を、動作を、存在を意識せずにはおれない。次のDVDをデッキに入れればいいだけなのだろうが、何かを待っている自分がいる。こちらから動くべきなのだろうかと、とりとめのない迷路に落ちていくが、止められない。

「……なぁ」

 没頭していたところへ突然呼びかけられて心臓が跳ねたが、体まで反応しなかったようで助かった。聞いていると言う代わりに顔を向けると、不動は真っ暗なテレビ画面を見ていたが、やけに真剣な表情があって胸の奥が驚いた。

「高校、どうすんの」

 きっと、ずっと聞きたかった事なのだろう。不動の横顔は苦い表情をしていた。聞くんじゃなかったと、そのつるりとした後頭部が言っていた。だから鬼道は静かな声で答えた。

「戻るつもりだ」

 不動は表情を変えず、振り向きもせず、黙って梅酒をちびりと飲んだ。

「おまえとも、良き友人としてうまくやっていけそうだしな」

 沈黙が息苦しくて、つい余計なことまで口にしてしまった。鬼道はそれこそ言うんじゃなかったと思った。だが不動はちょっと驚いた顔を向けたあと、梅酒と氷が入ったコップをテーブルに置いて呟いた。

「誰が、良き友人になんかなるかよ……」

 絶望へ先走った鬼道の心が動揺する。ギュウと締め付けられそうになって、いやまだだ、もう少し待てと、声のかぎり叫ぶ。期待は、応えられた。

「磁石は離れるかくっつくか、どっちかだろ」

 目が合って、締め付けられた心が歓喜にふるえた。自分がどういう顔をしているのか全く分からないが、おそらく間抜けで情けない表情だろう、不動の緑色の目がやけに凛々しく光っていて、見惚れるしかなかった。
 予想通りに、不動の顔が近付いてくる。珍しく遠慮がちで、様子を見ながら。鬼道も少しだけ顔を近付けて、目を閉じた。
 唇が、そっとやわらかいものに触れた。触れただけでも、それが相手の唇だと感じ取ることができた。思考が消える。唇に全神経が集中して、他のことを忘れる。
 この行為の意味なんて考えたこともなかったが、今知ってしまった。どくんと脈打った胸が蕩けそうになって、慌てて理性を引き留めた。
 混乱が収まって、思考が戻ってきたはいいが、相変わらず、すっかり気が動転してしまっている。押し付けたままで、この先はどうしたらいいのだろう。いつ離したらいいのだろう。思わず息を止めてしまったが、どのように吸って吐いたらいいのだろう。不動も困ってはいないだろうか?
 思わず鬼道は顔を引いた。

「は……っ」

 離れた瞬間、呼吸が乱れたことを隠しきれずに、鬼道はそれを恥じた。だが不動は何も言わず、鬼道が離れた理由を知るまで待っていた。拒絶ではなく、単に息が続かなくなっただけだと知ると、彼はもう一度口付けた。
 ゆっくり、静かに、鼻から吐いた息が頬をかすめていく。前髪が額を撫で、不動は弱い力で鬼道の二の腕を掴んだ。
 彼の真似をして、ゆっくり静かに、息を吐く。開いた唇を閉じようとして、相手の唇と触れ合ってとじられなくなった。もう一度閉じようとして、そこへ不動はいつもの調子を取り戻したらしく、少し強めに押し付けてきた。尾てい骨の辺りがぞわりと波打つ。
 不動の舌が入ってきた。歯列を撫でて、すき間から滑りこんでくる。好奇心よりも自然に、鬼道も舌を伸ばした。しつこくはない濃い甘みと、ほんのりかすめるアルコールの香り。舌を絡め合うのに夢中になるのは、微々たる快感を得ようとして――ただそれだけだろうか?

「ん……、んぅ……」

 無意識に、不動の胸元をゆるく掴む。シャツの感触、小さなボタンと布越しの体温を、手指に感じた。
 不動は静かに顔を離した。開いた目と目が合って、つい俯いてしまった。
 手を離して、距離を取る。言うべき言葉なんてあるのかどうか、普段通りに話していいものか分からないし、そもそも普段通りに話すとはどのような話し方だったかすら分からない。聞きたいことはたくさんあるが、お前も初めてだったのかとか、使えないカードばかりだ。
 必死で言葉を探していると、不動が言った。

「もう……帰ら、ねえと」
「ん……、ああ、そうだな」

 その声が、かなりの動揺を表している。キスくらいで動揺するなど、司令塔のくせにと思うが、自分も相手の顔なんて見れない。鬼道はゴーグルを着けたい衝動に駆られたが、それはなんだか卑怯な手段のような気がして、伸ばしかけた手を腕組みをして脇の下にしまった。

「じゃあ……」
「あ、ああ。おやすみ」

 玄関まで見送る。重い音をたてて閉まったドアの前で、鬼道は先ほどの出来事がフラッシュバックし、頭が沸騰するかのような感覚に襲われた。

「新しいゲームがあったのに……」

 こんな精神状態で、泊まれるわけがない。次にどんな顔をして会えばいいのかすら分からないというのに、不動が平気だとしたら殴ってやりたい。平気じゃないから、帰ったのだが。
 言いたいことはたくさんあった。何一つ口に出せなかった。後から後から、言葉が湧き出てくる。「覚えていろ」と強い目線で言ってやりたいのに、相手はもういない。
 だが早くも欲望が騒ぎ始めていた。もっとしたい。さっきの快感をもっと得たい。あの続きはどうなるのか、先へ進みたい。残った梅酒の最後のひとくちを飲み干し、鬼道はソファに凭れた。




end




2014/06

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