実家の近くに、木々と苔とベンチしかないような小さな公園があって、これまた水溜まりのように小さな溜池があった。母に連れられて妹と遊びに来た時に見つけた、小さな池は枯れ葉が溜まっていて油が浮き、藻だらけでとても眺めたくなるような池ではなかったが、幼い好奇心がおさまらず、アメンボ以外に何が居るのだろうかと、じっと目を凝らして見ていた。
 ゆらりと水面の下で何かが動き、思わず柵から身を乗り出して母に窘められた。一見不快に見えた池は泥と緑の藻に守られ、真っ黒な鯉たちが悠々と泳いでいたのだった。





<溜池の鯉>





 鬼道有人は珍しく苛立っていた。
 常にフィールド全体を視界に入れつつ見るべきところをより深く見るためのゴーグルを介して、冷静沈着でいることが天才ゲームメーカーと謳われた彼の特徴であり、また特に秀でた能力である。故に、かれこれ三日間も集中力が途切れ、思うようにいかない時つい大きな声を出してしまうほど苛立っていることは大変珍しかった。しかも、普段から他人への態度は正義感とスポーツマンシップに乗っ取り、注意深く良識的で理性ある行動を取るよう心がけているのにも関わらずだ。

 問題はたった一人の少年という部分が、さらに怒りを助長する。自分よりも二ヶ月早く生まれ、0.3cm身長が高く、全教科ほぼ互角、得意とするポジションはミッドフィルダー、同じ師に教わったくせにプレースタイルはまるで粗悪な、不動明王である。
 イエローカードすれすれの攻撃的なプレーと、人をからかい小馬鹿にしたような態度さえなければ、頭のキレも身体能力も抜群で、申し分ない選手だと思う。だが相変わらず、何か言えばひとこと余計な言葉をもらうし、練習は殆ど一緒にせず少し離れた所で見ているかコソコソ隠れているし、食事となれば通りすがりに自分が嫌いだからと言ってプチトマトを鬼道の皿に乗せて行くのだ。全く嫌がらせとしか思えない。

 妹の春奈は暢気に「不動さんも頑張ってくださいね!」なんて可愛い声をかけてやっているが、鬼道からしてみれば妹の半径十メートル以内に近付くのもやめてほしい。
 自分の指示なんて聞きもしない、馬鹿にした上相手にしようともしない人間が珍しく、最初は新鮮だと思って好奇心に満ちた目で見ていた。どうやら中身は馬鹿ではないらしく、それなら誤解もしくは偏見があるのだろうと思い、もう少し打ち解けて人間関係もチームの流れも良くしたいと考えたこともあったのだが、如何せん話そうとしても目を合わせず真面目に答えないときている。

 今日という今日は許せないといきり立ち、ホイッスルが鳴った途端、鬼道は赤いマントをはためかせ大股でグラウンドを横切って行った。

「不動! 話がある」

 端の方で一人、木を相手にボールを蹴っていたのを止めた不動は、休憩に入った途端に直進してきた鬼道の様子をちらりと窺っただけで、再び練習を再開した。

「なんだよ鬼道ちゃん? 明日のことなら知らないぜ。いくら準備が完璧だとしても、いざ本番って時にどうなるかなんて誰にも分からねーんだからな」

 明日は大事な試合の一つであるというのに、目の前のモヒカンには努力のドの字も見当たらない。握りしめた拳を奮わせて、鬼道は口を開いた。

「お前はチームの一員なんだぞ。そんな態度では皆の邪魔になるだけだ!」
「へぇ、そのチームのリーダーが今こうやって士気を下げてんだから、よっぽど相乗効果が期待できそうだな」
「貴様……!」

 つい手が動いてしまった。不動の肩を掴み、自分と真正面から対峙させる。他のチームメイトたちは二人から離れたグラウンドの反対側で休憩しているのを横目で確認し、キッと忌々しいモヒカンを睨み付ける。

「おれに言いたいことがあるなら正々堂々ちゃんと目を見て話したらどうだ!」

 彼らに聞こえないように、近くで威圧感を与える低い声を出したことにより、本当に本気で怒っていることが伝わっただろう。不動は驚いていたが、すぐに彼もやり返してきた。

「よく言うぜ、いっつもお目め隠してるクセに」

 これが小学生の喧嘩なら、あっかんべーをして立ち去るところである。しかし不動は鬼道の反応を待ち、攻撃に備えて身構えていた。
 鬼道も退がるどころか、頭に血が上って沸騰しているのが分かっていたが、不動の前に立ちはだかり、些か乱暴にゴーグルを外して見せた。

「これでいいか。さあ、文句があるなら言ってみろ」

 目尻の下を擦りむいてヒリヒリしたが、そんな些末なことは今はどうでもいい。さあ来いとばかりに身構えたが、やっと目を見た不動は半口を開けて呆けた顔をしたまま動かないので、肩がずり落ちた。

「おい、聞いているのか!」
「お前さあ……」

 急に大人しくなった不動は一歩近付いて、太陽の下に晒された鬼道の目を覗き込む。右手が左の頬に添えられていて、どういうつもりなのか戸惑いのうちに様子を見ていると、突然ハッとして何も言わず早足で宿舎へ消えてしまった。困惑に追うこともできず、鬼道は立ったまま呆然とする。

「何なんだ……」

 脳が記憶を再生して、理解の手がかりを探し始めた。ゴーグルを外したら挙動がおかしくなったのは何故か?
普段、見慣れていない素顔に驚いただけにしては、反応が強すぎるように思うし、不可解だ。しかも、その後逃げるように去ってしまった。益々理解不能だ。無言で去るなど失礼極まりないが、奴に対して礼儀を説きだしたらキリがない。振り返した怒りもすぐにため息に変わり、半ば諦めながら、無意識にチームメイトたちのいる休憩所へ向かう。
 先程の光景をもう一度思い出そうとしてみた。鬼道はゴーグルを外したあと、陽光の眩しさに目を細め、木陰の下に入り、鋭い目付きを意識してできるだけ強く睨み付けた。憤りは、意外な行動を取って驚かせたことによる快感でわずかに緩和していた。
 それを見た不動は確かに驚愕していたが、怖れているのではなく、嫌悪でもなく、唖然としたまま一歩近付いて、顔を覗き込んできた。

 その時、その瞬間、永遠にも感じた刹那が、重要だった。

 木漏れ日が彼の深い池のような青緑の瞳の中できらきらと他方向に反射し、そよ風がツヤのある前髪を細やかに揺らしていた。
 不快でしかなかったその目は、敵対心も猜疑心も無く、ただ真っ直ぐに鬼道の目を見つめていた。もし頭突きされたらかわせないくらいの至近距離で、0.3cm上から、五秒間ほど。

「……っ!?」

 どくん、と脈動が激しくなって、グラウンドの真ん中で鬼道は足を止めた。鼓動が早くアドレナリンが出ているのは、腹を立てていた時から分かっていたが、今感じている頬の火照りは、種類が違うようだ。
 一体これは何が起こったのか、まさか病気ではないしと必死に思考を巡らそうとする脳も、鼓動に打ち砕かれていって、混乱に目眩すら覚える。
 不動の心情を推理したいのに、突然の動揺がなかなか収まらず、今度は鬼道が呆然とする番だった。





 夕食時、食堂で見かけた姿はいつもと変わらないように思うが、いつ引き留めようかと様子を探っているうちにどこかへ消えてしまった。食べ終わってもチームメイトたちに捕まり、他愛ない話の輪からやっと抜け出せたのは入浴前だった。
 しかしノックしても返事がない開けっ放しのドアから覗いた部屋には、姿が無い。上着も見当たらないことから推理してグラウンドへ出てみると、不動が一人佇んでいた。

「不動!」

 不味そうな顔を向けたあと、さすがに観念したのか腕を組んで待ち構えている。

「天才ゲームメーカーさんにはストーキングのご趣味がおありなんですかぁ」

 呆れたように言われた皮肉を呆れて受け流し、ため息を一つ手を伸ばせば触れる程のところに立って辺りを見渡した。

「さっきは悪かった」
「へぇ、謝るんだ?」
「だがお前も悪い。何故逃げた?」
「逃げてねぇよ。便所」
「それなら一言いえ」
「ハッ、先生じゃあるめぇし。んな義務はないね」
「ふざけるのもいい加減にしろ」

 相も変わらない態度に再び怒りがこみ上げてきたが、誰もいないからといって油断した自分が馬鹿だったとひとりごちる。

「戦闘続行ならお断りだぜ、風呂入って寝ろよ」
「なんで協力しようとしないんだ? サッカーはチームプレイだろう。明日のことだって、コソコソ一人で考えるより二人で考えた方がよっぽど効率的だ。おれが誰だろうと、関係ない」

 ため息で苛々を吐き出し、目線を合わせる。またゴーグルを外そうとしたら腕を掴んで張り倒してやるとまで身構えていたのだが、相手はモヒカンの横をポリポリかき、ため息を吐いて呟いた。

「効率的……ね」

 まだ何か言うのかと思いきや、鬼道の横を通って、宿舎へ向かう。

「考えとくわ」
「なっ……待て! おい、不動! 話は終わってない!」

 振り返った時には既に遠く、言い終わる頃には宿舎の中に入っていた。

「何なんだ……!」

 わなわなと震える鬼道は、もう金輪際、奴に対しては1ミリたりとも譲歩するまいと握った拳のように固く心に決める。肩をいからせたまま戻るのは癪だったので、涼しい風の吹く夜のグラウンドを食後の散歩も兼ねて一回りした。

 独りでいるうち気持ちが落ち着いてきて、一番最後の風呂で温まりちょうど良くなった。
 適度に眠気も訪れ、明日の準備をしてとっとと寝てしまおうとジャージのポケットに何か残していないか習慣で探っている時だった。

「あいつ……」

 出てきたのは一枚の絆創膏である。半ば無意識に目尻の下に触れると、薄いかさぶたができていてすぐに治りそうな気配だった。眉間にシワを寄せ、鬼道は絆創膏をジャージのポケットに戻す。どうやら、握り締めたばかりの決心をゆるめなければならないようだった。



 ***

 鉢合わせを避けるため、皆の怪訝な目線を無視して烏の行水を済ませた不動は、部屋へ戻ってベッドに寝転がった。疲れているはずなのに、昼間からのいざこざと明日への不安や興奮で、なかなか寝付けそうにない。苦笑して無理矢理目を閉じれば、陽光に煌めく赤い瞳が瞼の裏に蘇る。

「あーっ、くそ……」

 起き上がり、両手を広げて深呼吸する。何度か繰り返して混乱と興奮の最中から何とか抜け出した不動は、先程よりも本来の冷静な判断力を取り戻していた。

「効率的、か」

 先日からモヤモヤと胸にあったものが昼間あの瞬間に爆発的に大きくなり、それは中身の無い風船と言うよりは発酵して膨らんだパンのようで、しかしそれが何なのか理解するところまでは至っていない。もう一度見ることができれば、何かが分かる気がする。
 そんな何だか分からないものの前で狼狽しているだけの男にはなりたくないとだけ、強く思った。
 だから明日はやり方を少し変えてみよう。あの夕暮れにきらめく星のような瞳をもう一度拝むためには、用意周到な作戦が必要なようだ。
 長期戦を覚悟して、不動は目を閉じた。





おわり



2013/06

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