<りんご酢がなかった>
帝国学園中等部、サッカー部専用グラウンド。
ベンチに座っていた鬼道はすっくと立ち上がって、よく通るややハスキーなアルトを響かせた。
「よし、お前たち! 休憩にするぞ」
「はいっ!」
女性でありながら男性に混じってサッカーを極め、母校である帝国学園総帥に就任した彼女は、いつも専用ジャージに身を包み、腕組みをしてサングラス越しに練習風景を見守っている。その豊満な胸と華奢な体のどこに秘めているのか、数年前イタリアで見せたプレーはそれこそチームの微細な乱れを整え勝利へ導きたる女神の舞と呼ばれ、仮に鬼道財閥令嬢という立場が無くても、知らぬ者は居ないだろう。鬼道は、雅野を始め帝国サッカー部員たちの憧れであり、聖母であった。
「ああ、今日も美しいなあ……」
専用ドリンクで喉を潤した雅野がため息混じりに呟くと、隣に並んだ中邑がうっとりと目を細める。
「カレシとか、いるのかな……」
「バーカおまえ、いるに決まってるだろ」
後ろから見ていた龍崎が言うと、すかさず華村が割り込んできた。
「バカはお前だろ。あの鬼道さんだぞ」
「は? 何がだよ」
いつの間にか、メンバー全員が聞いている。彼らの期待がこもった顔を見回して、華村は続けた。
「父さんの話じゃ、毎晩のようにパーティーに顔を出され、愛想を振り撒かれているが、エスコートする男はその日によってちがうらしい。まだ見合いもしてないとか言ってるし、ああ、従兄弟が写真送ったから知ってるんだけど……これから色々調べて気に入った相手を選んでるところなんじゃないか?」
ごくり……と全員が生唾を呑んだ。
視線をやると、佐久間コーチが渡したミネラルウォーターを500mlペットボトルから直接に口を付けて飲んでいるのが見えた。健康的なピンク色の唇が、ペットボトルの飲み口を支え、離れたあとはしっとりと濡れて……
「うわぁぁぁっ」
「ばかおまえ、静かにしろ」
思わず声をあげた雅野に、数人が慌てる。案の定、どうかしたのかと言わんばかりに立ち上がった鬼道が、こちらへ向かってきた。
「あ! 何でもないです!」
「大丈夫です!」
聞かれる前に答えておけばいいだろうと思った中邑と雅野が叫ぶ。鬼道はメンバーをちらと見渡し、微かに首を傾げた。癖で腕組みをすると、組んだ腕の上に柔らかそうな膨らみが二つ乗る。
「そうか? 顔が赤いようだが……」
テンパった中学生が必死に言い訳を探しているところへタイミングよく電話がかかってきて、鬼道はポケットから携帯電話を取り出した。液晶画面を見て眉間のシワが増え、不機嫌な声で応答する。
「何だ?……いや、休憩中だ」
一体誰からだろうかと、その様子を見て思う。
「なに? 酢? ……どの酢だ?」
何かあったのだろうか。調味料の話をわざわざ携帯電話にかけてくるなんて、身内か、よっぽど親しい人物なのだろう。
「りんご酢だな? 分かった」
恐らく帰りがけの買い物を頼まれたのだろう。調理人か、メイドさんかもしれない。いや、使用人が主人に買い物なんて頼むだろうか。メンバーたちは期末試験の時より頭を回転させ、耳をダンボ状態にしながら、まったく聞いていないふりをして皆で色んな方向を向いたりぶらぶらしたりいい加減な準備運動をしたりしていた。
「……ああ、いつもは実家にいるんだ、お前が来る時くらいしか寝泊まりしないんだから、仕方ないだろう」
どうやら、ご実家からの電話ではないようだ。と思った途端、鬼道は教え子たちに背を向けて声を潜めた。
「なっ……こんなところでする話じゃないっ」
慌てた様子で、控えめに叫んでいる。すぐに咳払いをして、鬼道は取り乱してなどいなかったかのように背筋を伸ばした。
「そういう問題じゃ……とにかく、帰ってから聞くから……ああ、じゃあな」
鬼道は今忙しいんだという空気を全面に漂わせ、急いで電話を切った。そりゃそうだろう。たかが酢がどうとか言っている話なんて、もう5分オーバーしている休憩時間にするものじゃない。
「……まったく」
電話を切った直後の一瞬、彼女の顔に、まるで母親が長年付き添ってきて何も良いところがない父親の小さな甲斐性を見つけて喜んだ時のような、優しい微笑が浮かんだ。しかしすぐに口元を引き締め、声も出ない中学生たちの横をすたすたと通って行く鬼道は、不機嫌な様子ですたすた歩くことによって別の何かを誤魔化しているように見えた。誰からなんですかとは聞けず、そのままチラ見を続ける。
「佐久間、メモ持ってないか。何でもいい」
「メモ? ……これでいいか?」
「ああ、すまない」
バインダーに付けていた鉛筆で[りんご酢]ときれいな字で書いたメモを、鬼道は携帯電話と一緒にジャージのポケットにしまった。
「すまなかったな、お前たち。再開だ」
そんなにか。そんなにりんご酢が大事なのか。
「どうした? ポジションにつけ。予選は来週だぞ」
当然勝ってフットボールフロンティア・インターナショナルにも出るんだからなと言う、自信たっぷりの微笑が輝く。
「は、はいっ!」
りんご酢電話の相手は、鬼道がわざわざ実家を離れプライベート用のマンションで寝泊まりし、そこで料理をするくらいの奴だ。もしかしたら妹さんかもしれない。親しい女友達かもしれない。
それでもやっぱり、やけに上機嫌そうなその理由が自分たちにとって不穏でも、彼女の笑顔のために世界一のトロフィーを取って見せようと意気込む少年たちなのであった。
数カ月後、優勝後に鬼道財閥令嬢が結婚報道で騒ぎになったのはまた別の話。
end
2014/09