<RELAX with YOU>
帰って来たその顔を見て、オレはやばいと思った。
「おかえり……大丈夫か?」
「ああ……ただいま」
サングラスで隠れているにも関わらず、口は下がり、肌は血色が悪く、十歳は老けて見える気がする。眉にも力がない。
鬼道は靴を脱ぎ、重い足取りで廊下を歩いた。オレは後からゆっくりついていく。
「なんか食う? もう寝たら?」
もう何も考えたくないであろう脳に、選択肢を見せてやる。鬼道は鞄と上着をソファに放り、ネクタイをほどきながら悩んだ。
「風呂に入ってくる……」
「ん」
再び重い足取りで着替えを取りに寝室へ向かう背を見送り、少し神経が張り詰める。今にも倒れるかもしれないし、風呂に入れたって眠ってしまうかもしれない。それほど彼の様子は不安を感じさせた。
ドアの開閉の音が聞こえ、浴室の引き戸が開閉される音のあと、シャワーが床に当たる音が始まった。いつでも対応でき、耳を研ぎ澄ましていられるように、火を 消し換気扇も止める。今夜は野菜が多目のあっさりした水炊きを用意したのも、ここのところ鬼道が珍しく疲労を見せているからだったが、まさかここまで深刻 になってくるとは。
あと自分にできることは何だろうかと考えていると、携帯電話が鳴った。080から始まるが、知らない番号だ。
「ハイ、」
『不動』
「あ? 鬼道くん?」
驚いたが、すぐに察しがつく。以前に用があって風呂場を覗いたとき、湯船に浸かりながらタブレットを使っていた。すっかり忘れていたが、タブレットでも電話はできる。
「なに、風呂から掛けてンの?」
『不動、一緒に入れ』
「はい?」
『一緒に、風呂に入れ』
どこか抜けた、寝ぼけたような声だが、言い方が切羽詰まっているときのものだと分かる。オレは「ちょっと待って」と応えて電話を切り、風呂場へ向かった。確かめるために、まず引き戸を開ける。
「不動、」
やはりそうだ。ハンドタオルとタブレットを受け取り、洗濯機の蓋を閉めてその上に置く。
「マジで? いま?」
「ああ。……言っておくがおれは何もする気はない」
本気らしい。一旦閉めて、服を脱ぎ始めた。全裸になったところで、一瞬迷いが生じる。何となく、いつだったか商店街でもらったまま放置していた手拭いを見つけて、腰に巻いた。銭湯だって温泉だって、こうするだろう。
中へ入ると、鬼道が首を回してこっちを見た。胸まで湯に浸かり、髪はゴムとクリップを駆使して濡れないようにまとめている。うなじが見えて、オレは密かに喜んだ。
「っはは、あっはっはっは……」
出し抜けに笑い出した鬼道に、首を傾げて見せる。
「なんだよ?」
「だっておまえ、それ……今さらすぎるだろう、ははは」
声をあげて楽しそうに笑っているので、反論する気がすっかり失せた。まあ確かに、今さらだ。オレはバカバカしくなった手拭いを脱衣所に放り、またドアを閉め、シャワーで軽くホコリを流してから湯船に浸かった。鬼道はオレを待ちながら、どこかぼんやりと言うか、うっとりしているように見える。
「一緒に風呂に入るなんて、何年ぶりかな」
「入ったこと、あったか?」
「どうかな……わかんねえ」
このマンションの浴槽はゆったりしていて、大人二人が何とか入れる大きさだ。一人だったら180cmの男でも足を伸ばして入れる。今は少しだけ膝を曲げて、それぞれ左側に体を寄せ、向かい合っていた。
「こういうのも、たまにはいいだろう」
肩まで湯に浸かった鬼道は、満足気に目を細める。熱くもなく、ぬるくもない、長湯にはもってこいの絶妙な温度。空気の読める湯沸し器だ。
「で、何がどうしたわけ?」
「エロくない体の付き合いというやつだ」
「なにそれ」
思わずちいさく吹き出す。何か言い回しが違う気がしたが、多少言葉の使い方が変でも、もうどうにもできないのだろう。する気もないのかもしれない。生真面目な奴にしては珍しいことだ。
「確かに、裸の鬼道くん見ててムラムラしないのは初めてかも……」
「初めてなのか?」
オレは肩を竦めて誤魔化した。鬼道はくすくすと笑う。
「おれはさっきムラムラしたぞ?」
「えっうそ、いつだよ?」
「でもすぐにおさまったな」
じゃれるように、足を傾けてくる。押されたオレの膝は湯の中で倒される。
「ぁあ? だからいつだよ」
「んん……お前が入って来たとき、かな」
「隠してたのに?」
「そこは関係ない」
しれっと言いながら鬼道は腰を上げ、移動して、オレと並んで座ろうとした。ちゃぷちゃぷと湯がゆれる。
「無理だって」
止めようとしたが、不満げな鬼道は、何とか体をずらして落ち着こうとする。オレの肩に腕を回したがやめ、肩に頬を乗せてきた。オレは斜めに座ってスペースを空けることで協力してやった。
「温泉の、でかい風呂に行きたいな……」
どこか悲しげな溜息の後に、鬼道がつぶやく。その肩の丸みを、何となく撫でる。
「明日は休みを取ったが、とても長距離ドライブへ繰り出すというわけには……」
「どこまで行く気だよ。箱根なら二時間だぜ」
「行くなら道後温泉しかありえんだろう」
「なんでだよ。やだよ」
聞く耳は持たないということを示すために、鬼道はふんと鼻を鳴らす。わずかに身じろぎ、力を抜く。
「ほら……いい感じだ……」
オレの肩に寄りかかって、目を閉じ、鬼道は深い息を吐いた。
「おい、寝るなよ」
「うん」
鬼道が喉の奥でした返事を聴きながら、そうか、と納得する。忙しいだろうからと、できるだけ触れないようにしていた。煩わさないように気を遣い、帰ってきたら体に良いものを食べさせて、風呂に入れ、二時にはならないように見張って、できるだけ早く寝かせる。
それじゃ、ダメなんだ。こいつは。
急に下腹部の芯が疼き出して、オレは焦る。鬼道はすっかり和んでいるらしい。明日は覚悟しろよと声に出さずに、真似して深い息を吐いたが、オレも一緒にすっかりリラックスしていると誤解されたかもしれない。
end
2015/09