私は帝国ホテルのフロント係。勤めて三年になる。未だに凡ミスをしてしまうこともあるが、そこそこ慣れてきた仕事に意義を見出だし始めているところだ。
この仕事は、本当に様々な人間と会う。訪れる客たちは名に恥じぬ最高のサービスを求めて訪れ、自由に滞在する。
この時期になると、待ち合わせが圧倒的に多い。特に、恋人たちだ。遠くから来た相手と待ち合わせして、片方が滞在する場合もある。レストランは数ヵ月前に予約でいっぱいになり、特別な日にプロポーズをしようとサプライズを注文されることも多い。まぁこれはフロントにはあまり関係のない話だ。
街がイルミネーションで飾られデパートがこぞって最終決戦に乗り出す季節、このホテルのロビーの真ん中にも木が置かれる。三メートル以上あるだろう、ノルウェーから取り寄せた本物の大きすぎる鉢植えは、無数の電飾と色とりどりの玉とガラスでできた雪の結晶などで飾られ、キラキラと華やかにきらめいている。ロビーが三階までの吹き抜けだからこそ置ける代物だ。廊下やエレベーターなど、建物全体に流れるナット・キングコールの穏やかな歌声と相まって、何とも言えないホリデーシーズン独特の空気を盛り上げている。
そして今、紳士がひとり、その前に立っている。正確にはそのツリーの裏側だ。分かりやすい場所だが、正面ドアからの視界にすぐには入らないため、目立たぬよう待ち合わせするのにうってつけだ。
何歳くらいだろうか、髭も生やさず若く見えるが、それなりの地位を築き家庭を持っていそうで、やつれても老け込んでもおらず、とても健康的で落ち着いている。ふわふわと触り心地の良さそうなくすんだ茶色の髪は太めのドレッドで、ハーフアップにし、下半分はそれを解いてゆるやかなウェーブが肩に流れている。
建築家かデザイナーか、または映画監督かもしれないと思ったが、それにしては体格が良い。中肉中背だが、コートの上からでも分かるしっかりした体つきは、全身を使うスポーツで長年鍛えられたものだ。
年齢を感じさせない引き締まったその体躯を、硬すぎず柔らかすぎない濃紺のウールのロングコートが膝下まで包んでいる。あの洒落た仕立ての良さは、イタリア製だろうか。カシミヤ混かもしれない。
ワインより温かみのある、深い赤のカシミヤマフラーを首に掛け、革手袋をはめている。鞄は無し、持ち物は恐らくポケットに入れたケイタイとカギと財布とハンカチのみ、といった所だろうか。
機械が微細な振動で着信を知らせたのだろう、彼はポケットから小さめの高機能携帯電話を取り出し、耳に当てて何事か話し始めた。内容は聞こえないが、真剣な表情で、後半は手帳を見ながら喋ったりしているあたり、仕事の話ではないかと見当をつける。
しばらく話してやっと通話を終え、手帳と共にポケットにしまった。思考を巡らす眉間のしわの下には、熟れたリンゴのように紅く艶のある切れ長の眼が、長方形の縁なし眼鏡に守られて光っている。
ふと、その顔が僅かに変化した。目線の先を追うと、たった今ロビーへ入ってきた男が真っ直ぐに近付いていくのに気付いた。紳士に、先ほどとは別人のような柔らかい微笑を見る。寒々しい冬空の下で、ふとぽかぽかした陽光が差した時のような。
後から来た男は恐らく紳士と同じくらいの年齢で、性格は違えど背丈も体格も似ており、栗色のくせ毛を首もとで無造作にはねさせ、海軍のものを模した紺色のコートのポケットに両手を入れていた。彼も髭は無く、整った顔は何となく何十年も戦いに勝ち続けながら飢えたままのオオカミを連想させた。
控えめにワックスでセットした髪とざっくりした毛糸のマフラーには、微かに雪が掛かっている。近付くなり冷たさも気にせず、二人は抱き合った。しっかりと互いの肩に両腕を回して、それは友人の再会を喜ぶ抱擁より、もっと特別なものに見えた。
たっぷり三十は数えられただろう、やっと体を離し、二人はフロントへ向かってくる。私は慌てて、見ていなかったふりをしつつ待ち構えた。
「いらっしゃいませ」
後から来た男が、カウンターに腕を乗せて言う。
「予約した不動だけど」
「はい。不動様でございますね、少々お待ちくださいませ」
思ったよりやや高めの声だ。少し離れていたドレッドの紳士が、目の前の不動という男に近寄るのを視界の端に捉えながら、私はコンピューターで管理している記録を確認する。
「なぜ連絡しなかったんだ」
やや掠れた中低音が心地好く響いた。不動氏は、カウンターに乗っている小さなツリーの横の、陶器でできた小さな雪だるまを指先で軽くいじる。
「したろ」
「昨日の夜中だぞ! ほとんど今朝だ」
先程の抱擁など無かったかのように、不機嫌な言葉が出てくる。
「お待たせ致しました。本日ご予約の不動様ですね」
しかし私は、彼らが不機嫌に見えるのは半分以上意図的に遊んでいるだけで、微塵も怒ってなどいないのだということを、ほぼ無意識に感じ取っていた。二人の関係がどの程度のものなのかは分からないが、彼らの醸し出す独特で微妙な雰囲気を、私は興味深く観察していた。
「仕方ねえだろ。直前まで、来れるかどうかわかんなかったんだから……時差もあるし」
「1408号室でございます。お荷物はお運びしております」
「どうも」
カードキーを渡すと、不動はドレッドの紳士と並んでエレベーターへ向かい歩き出した。
「ごゆっくりお過ごしくださいませ」
後ろ姿を見送り、不動が紳士の腰に片手を回すのを眺める。てっきりふざけて拒絶するかと思ったが、紳士は平然とした顔で、しかし腕組みをしていて、べったりくっつくなどということはしない。辛うじて、彼らの会話が聞こえた。
「腹は減っていないのか?」
「ルームサービスでいいじゃん」
到着したエレベーターからは四人家族が降りて、フロントへ向かって来た。空になったエレベーターに乗り込む二人を見送り、私は新たな業務に待ち構える。しかしエレベーターの扉が閉まる寸前に見えた光景に、思わず首を戻した。
二人は引き寄せられるように唇を重ね、頬に触れ合って、それを金属の扉が音もなく隠していったのだ。先程から渦巻いていた二人についての謎が解け、雪が解けるように腑に落ちる。
「あのー……」
四人家族の父親に困惑そうな目を向けられ、私は慌てて向き直った。
「はい、大変お待たせ致しました」
営業スマイルが板についてきたなと思う勤続3年目の今日この頃だったが、この時は心の底から満面の笑顔になれた。
ふと幼少期の、とある年のことを思い出す。クリスマスだというのに、父が出張で留守にしていた。母と二人でイブを過ごし、好きなことをして過ごさせてもらったが、あれはきっと母の気遣いだったのだろう。そして父は26日の朝に、プレゼントをたくさん抱えて帰ってきた。煙突からではなく、玄関からだったが。
その時の母から感じた、表面化していない感情が、さっき感じた不思議な雰囲気と似ていた。彼らの幸福のしぶきが私にも降り掛かったようで、無愛想なお客も気にならなくなる。見慣れたロビーが一段と輝いて見えた。