<振動、ぬか漬け、ある朝のふたり>





 夕陽と同じくらい、夜明けの空も好きだ。紺から橙に変わり、淡い空色が戻って来ようとしている。鬼道はまだ帰らない。別に待っているわけではないし、いつも通り眠った。起きるのが早すぎただけだ。
 新聞配達も終わり、世界は明るさを取り戻してきて、スズメがさえずる頃、静まり返った部屋でひとり寝転がっていた。
 時々、愛する人は二度と帰ってこないんじゃないかと思う時がある――もう興味が失せたとか必要が無くなったとか、もしくは不幸なことが起こるか、何らかの理由で。こんな風に考えることが、最近は多くなった。歳をとるごとに多くなるのかもしれない。
 だが一方で、既に半分、永遠なんてものを信じていない自分もいる。いつまでも続くものなんてないのだから、どんなものにも本気で向き合うことは無意味なのだ、後で自分が損をしたり、期待はずれでがっかりするだけなのだと、ささやく悪魔を飼っている。

 まだ目覚ましは鳴らない。代わりにドアの鍵穴にキーが差し込まれる小さな音が耳に届き、飼い主を察知した犬みたいに喜びが襲う。
 まだ寝てると思っているのだろう、音をたてないようドアを閉めて、そろりそろりと入ってくる。驚かすのも悪くないが、疲れているだろうから、こちらからゆっくり寝室のドアを開けて顔を合わせた。

「おけーり」
「すまない、起こしてしまったか」
「いや、なんか目ぇ覚めちゃって。結構前から、起きてた」

 鬼道はいま、"外から来た人の臭い"がする。黒いトレンチコートを脱ぐと、少しそれが薄くなった。
 長袖のTシャツとスウェットパンツという姿のオレは、さぞひどいボサボサ頭の寝ぼけた顔だったのだろう。オレをまじまじと見て、鬼道が微笑んだ。そんなのは 珍しかったから驚いていたら、ただいまのキス。こんなこといちいちするカップルなんて今さら少ないだろう、ましてや男同士で。

「ン……」

 唇を離して鬼道が言った。

「隙だらけだぞ」

 だから気を遣って、こちらからは何もしないでおく。

「疲れてるんじゃねぇの?」
「ああ、だが……だからこそ、だ」

 鬼道の唇が弧を描く。オレは、ああ、そう、どーなっても知りませんよと肩をすくめ、仕方なくといった風に笑って見せる。その裏で、求められる喜びに震えるオレがいることを、きっと知っているのだろう。
 ベルトを外す鬼道のネクタイをほどきながら、唇は離さずに一秒おきにキスをした。悪魔の言葉に頷きながら永遠を信じない自分の、残りの半分では、この世の不思議を信じているのだ。

 剥き出しのオレの腰を撫でて、催促するように擦り寄ってくる。猫みたいだと思いながら、その頭に撫でるでもなく手を置いた。

「……人間はエネルギーで出来ていると、知っているか?」

 顎の下からの呟くような声に、陶酔からわずかに醒める。水面から顔だけ出したような感じだ。見れば柘榴のような目が、朝陽にきらきらと光った。舐めたら甘いんじゃないかと思わせる、複雑にカットされた鉱石みたいな真紅。時計は起きて以降見ていないから、何分経ったかなんてもう分からない。

「あぁ、なんだっけ。アヤシイ系の本に、エーテルだか何だかって書いてあったよーな……」

 やる気の無い眠そうな声に、鬼道は頷く。オレたちはベッドに横になり、向かい合っている。

「おれたちは個々に周波数を発していて、言葉や意識以外に、交信してるそうだ。それは見たり聴いたりできない、ごく微量の振動らしい」
「まぁ、こうやって動いただけで、空気が揺れるわけだしなぁ」

 オレは片手をゆらりゆらりと、宙に浮かせる。やる気が無いわけじゃなく眠いわけでもなくて、ただこの空間にお前といることに陶酔しているだけだと、相手には伝わっているらしい。

「そう、心臓の鼓動とかな。こうして……」

 鬼道が右の手のひらを、オレの胸の、中心からやや左に当てた。肌と肌が吸い寄せられるように重なり、鬼道の温もりが伝わってくる。落ち着いてからだいぶ経っていたはずだが、鼓動はまだ強い。これは中学の時からずっと治まらない。

「ふふ……くっくっくっ……」
「なんだよ」

 恥ずかしくなってオレはむくれる。鬼道は照れ笑いに手の甲で口を覆い、顔を背けた。

「まぁとにかく、心臓の音を聴いているだけで、人は安心するということだ」

 小さく肩をすくめて、半ば無理やり起き上がる。これ以上このままここで寝転がっていたら、骨まで溶かされてしまいそうだ。

「成る程? ハイレベルな知識をどうも。けど、腹減ってちゃ安心もくそもねぇだろ。用意すっから風呂行って来いよ」

 肯定に起き上がった鬼道を残し、ゆったりとキッチンへ向かう。
 後から後から笑みがこぼれ、シャワーへ向かう鬼道にバレないようにするのがなかなか難しかった。朝陽がまぶしすぎてくしゃみが出そうだとか、色々言い訳はできるだろうけど。
 光が強すぎるほど闇も濃くなる。だがオレはその真ん中に立つ。なぜって、お前が真ん中に立っているためには、オレが隣で見ててやらなきゃならないから。そうだろ?
 お前の起こす振動がオレの心臓を動かしている。







2015/11

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