<布団>
人生における全てのことは、ひとつひとつ積み重なっていく。見えないところに溜まっていくから、時おり篩にかけて整理する。
大切なものはしっかりと塗り込む。例えば家の壁に漆喰を塗るように。蜂が巣を作るように。そこからまた、小さな芽が出ることを願って。
出会ってすぐに、恋を認めた。それから十五年、まるで兄弟みたいに、人生に起きたほとんどのことを共有してきた俺たち。
同棲しようと言い出したのは不動が先だった。俺はその場で即答したが、実現したのは一年前だ。それまでは、二人とも四方八方から来るオファーに応え、実家以外に落ち着く家も無く、忙しくしていて不可能だった。
だがそんな中でもしょっちゅうお互いの住んでいるところへ上がり込んでいたから、ほとんど同棲しているのと変わらなかった。だから「いっそ、同じ家でよくね? どっかに買っちまえばいいじゃん。オレ半分出すし」などとしれっと言い出した奴に、「ああ、そうだな」としれっと返したのだ。
何が変わるわけでもないと思っていたが、それは甘かった。
家事は分担制だから、むしろ楽になった。日替わりで調整しながら徐々に慣れていくうちリズムが出来て、仕事も捗るようになり、一緒に行うことでトレーニングも進化していくように思えた。そこまでは良かった。
よく映画やドラマで、結婚までせずとも同棲を始めると、いつの間にか色々なことが日常に埋もれてしまうものだという表現があるが、俺はそれを信じていなかった。軽く考えてもいなかった、ただ実感が湧かなかったのだ。実際にそうなってみるまで。
夫婦という言葉に馴染みがないのかもしれない。俺と不動は男同士である上、夫婦のそれとは空気感が違うように思う。だが、根本的なスタンスは同じだ。愛する者同士がお互いを助け合いながら一つ屋根の下で生活を共にしているということだ。
俺は戸惑った。以前より情熱を感じなくなったのは、単に年齢のせい、つまりホルモンの減少とかそういった生態的な原因からではないのかと思った。あの頃は若かったなあなどと思い出ばかり回想して、ようやく気付く。いつからこんな毎日になってしまったのだろうか?
全く触れ合わないわけではない。性欲は健康に気を遣っていれば自然に沸き上がるものだし、それを処理するのにより快感を得る方が良いと思うから一緒にする。だが、ただそれだけだ。出したら終わり、というのは今も昔も変わらないが、いつの間にか色々なことがそれぞれ細かく変化してしまった。
効率性を優先するのは構わない。性格もよく理解しているつもりだし、以前に比べたら当然なのだが、お互いの良いところも悪いところも含めて全部分かり合って、馴染んできた気がする。相手の行動を予測することはできるし、裏をかくこともできる。だから不動などは、よっぽどの事が無い限りは、試合以外で俺にトゲを向けることはなくなった。
だからつまらなくなった、と言うとそれは少し違う。周囲に馴染んで、俺の言うことに頷き、ふざけたりもして、よく笑う不動は、見ていて飽きずいとおしい。
だが何か、ここへ来て何かが足りない。素晴らしい絵を前に、あと一つ何か書き加えれば完璧な絵になる気がするのと似ている。俺はあまり絵を真剣に描いたことはないが、たぶんそのような感じだ。足りないという悩みすら、ある人から見れば贅沢なのかもしれない。
「ただいまー」
不動の声がして、俺は顔を上げる。ソファに横になって贅沢な悩みに没頭してから、三十分経っていた。仮眠をとるはずだったのだが、ぼーっとしていたので同じようなことだろう。
「おかえり」
「なに、そんなトコで寝てたの?」
「いや……まあ、ぼーっとしていた」
不動はコートを脱いでハンガーに掛け、マフラーを外す。そういえば仮眠をとろうと思った時に暖房を止めていたので、家の中はひんやりしてきている。外からの冷気によって、さらに温度が下がったようだ。
「お疲れさん」
時計を見ると夜の十一時。予定に聞いていた通りだ。ちなみに俺が帰宅したのは九時半で、食事は残り物を使い簡単に済ませた。
「お前もな」
「そーだなー、オトシゴロの男子中学生が二十人はキツいぜ。オレもヒトのこと言えなかったけどさぁ」
苦笑を浮かべ風呂へ向かう不動に短い笑い声で応え、微笑ましく見送る。明日は日曜日だが、不動はとある中学へ朝練に向かう。コーチングを任されて半年、大会に向けて見違えるほど成長しているらしい。弱小チームをわざわざ選んで自分から乗り込んでいく姿から刺激を受けながら、自身は帝国サッカー部を指揮してきた。
来年は世界大会が控えている。不動も俺も日本代表に選ばれた。そうか、と俺は一つ思い出す。ここしばらく敵として対峙していない。真っ向勝負をしていないのだ。
だが――俺はパソコンの前へ向かい、仕事の残りを片付けながら考えた。次に浮かぶ疑問は、こうだ。敵として対峙したいほど退屈しているのだろうか?
そうだ、とは言いたくない。むしろ、どちらかと言うと……一つ納得しかけたとき、開いたままのドアから風呂上がりの不動が入ってきた。
「まだ寝ねぇの?」
すぐ斜め後ろまで来て、肩ではなく椅子の背もたれに手を掛ける。決算の時期だ、色々と調整があるので、普段よりやるべき事が増え気味であることを、不動は心配しているのだ。振り向いて目を合わせ、その気持ちに応える。
「ああ、もう少しで終わる」
「ン……おやすみ」
「おやすみ……」
何かが気になったが、何だか分からない。
俺は不動が去ってから、真実が徐々に明確になっていく様を感じて、それがまるで、ブロンズ像などを作った時に、粘土の型をハンマーで壊す過程に於いて、最後のひと欠片が取れた時のようで、大きな感慨に襲われ、背凭れに体重を預けて少し茫然とした。
さっき不動が入ってきた時、似たような感覚を以前にも感じたことを思い出した。それは高校生の時、メディアルームでパソコンを使っていた時のこと。
何か理由があってチーム全員のデータを確認していたのだが、それは当然部活が終わってからで、随分と遅い時間だった。不動は俺が下校組にいないのを不思議に思って、探しに来た。十年以上も前のことだ。
メディアルームの照明がついていたから、外から見れば誰かがいると一目瞭然だっただろう。俺は全員帰宅したと思っていたので、背後で足音がして非常に驚いた。
不動は俺の隣までやって来て、パソコンを覗き込みながら、俺の肩に手を置いた。そう、わざと、体重はかけないが手の重さは感じる程度に、自分のことを身体で意識させるように、手を置いた。
若い頃は相手の気を惹こうと躍起になっていただけで、今はその必要がないために自然な関係になっている。大人になって色々なことが積もりすぎて、ただ見えなくなっていたのだ。見えないところで、それは大きく育っていた。
・・・
何を思ったのか、未だに室内でもサングラスを掛けっぱなしの同居人が、いきなり部屋を片付け始め、一部屋を畳張りにすると言い出した。このマンションは和室が無くても特に必要ないからと買ったはずだけど、まあ一年も経てば気分も変わるだろうと思う。
だからオレは、特に深く考えずに、朝食の席で「和室にしようと思うんだが」という言葉に、味噌汁を飲みながら「んん、良いんじゃね?」と答えておいた。
大して、問題ないだろうと思ったからだ。鬼道が考えることなら、まともな考えだろうという思い込みがあった。
リフォームが終わり、片付けを任せて、オレは中学生二十人分のデータと格闘していた。タイムを測り、成長率を見て、文句を言う奴を叱り、挫けそうな奴を宥める。段々と苛ついてくるけれども、これも試練だ。オレは眉間に誰かさんみたいなシワを作りながら、どこかで楽しんでいた。
さて、畳の新品臭さが抜けた頃のある晩、家に帰るとやっぱり寒かった。
鬼道はパジャマの上にガウン姿で、ダイニングテーブルで仕事をしている。足元では電気ストーブが仕事をしていた。
「おかえり」
「おう、ただいま」
毎日毎日、淡々と繰り返す。十一時を過ぎれば、眠くもなってくる。退屈なわけではないが、なんったって外は今にも雪が降りそうだし、家の中も大して暖かいわけじゃない。
こういう時はとっとと風呂で温まって、湯冷めしないうちに寝るに限る。そう判断したオレは、また風呂場へ直行した。
風呂から出ると、リビングは暗くなっていた。オレは記憶を頼りに廊下を進み、寝室のドアを開ける。でも真っ暗な寝室は寒々としていて、一瞬怖くなった。
焦る気持ちを抑え、和室のドアを開ける。戸袋を付けるのは大変だからドアはそのまま洋式で、開けると畳なのだから変な感じだ。
そこには旅館にあるような一般的な布団が二枚敷いてあり、既に片方に鬼道が横になっていた。掛け布団から肩と頭だけ出して、スマホを見ながら肘枕をついている格好が、オッサンくさい紺色のパジャマでも何故か様になっている。
「どしたの、いきなり」
「ん……」
鬼道は欠伸を一つ、肘枕をやめてスマホを少し離れた畳の上へ置き、布団に潜ってから答えた。
「何となくだ」
何となく、というだけでお前は畳を敷いて布団を買うのかよ? と口に出しそうになったが、意味の無いツッコミは最近控えている。奴の考えていることが大分わかるようになってきてしまったからだ。
「んじゃ、今日は旅館ごっこね」
「おい。せっかく敷いてやったのに」
外側からすぐ隣に潜り込もうとすると、鬼道は少し内側へ寄って場所を空けた。冷たい布団をめくると、すぐに肌に当たる。一瞬畳の上で冷めてしまった足の裏を当てないよう気を付けながら、横になって、首まで布団を掛けた。微妙に、腕がはみ出す。
「足りねーじゃん」
「だから言ったんだ」
笑って、二人で布団をずらし、二枚を重ねて、一枚半くらいの大きさにして掛けた。これなら隙間ができない。
枕も寄せてやっと落ち着いて、オレはしみじみと薄い闇の中の鬼道を見た。ぽかぽかと体の芯から温かく、お互いをいつもより近く感じる。
「外が寒くなかったら、このあったかさも分かんねーんだろうな」
「そう、だな……」
「……なんだよ?」
「ん? 眠いんだ……おやすみ」
「……オヤスミ」
指に触れ、輪郭を確かめるようにゆっくりと撫でる。同じようにされて、親指が捕まった。好きにさせておく。手を繋いでいるようなものだ。
子供みたいな戯れに、思わぬ方向へ思考回路が繋がった。子供の頃は、こうやって布団で眠っていた。父と母と、同じ部屋に布団を敷いて、畳の上で。恐らく鬼道もそうだっただろう。時々はみ出したり、逆さになったりしながら、川の字で寝ていたかもしれない。
そうか、こいつ、甘えたかったのか。
そう思った瞬間、自分の中に同じ気持ちがあったことを知った。どうしようもなく顔が緩んで、布団の中で腕を伸ばして抱き寄せる。首に鼻を埋めると、くすぐったそうな照れ臭そうなうめきが聞こえた。
淡々とした日常の積み重ねがいかに大切であったかを思い知ると同時に、無理矢理一枚の布団に寝ようとして正解だったなと思う。オレは静かに深く息を吐いて、目を閉じた。
そんなオレたちを、夜が静かに包んでいく。