<更衣室、ロッカー、曇りガラス>






 たかが男の裸だと、言い訳を考えている自分に気が付いた。
 鬼道の裸を見たのは、初めてではない。雷門中での合宿中や、ライオコット島の宿舎でも、着替えや風呂で見かけることはあった。確かに円堂や綱海など、常に半裸でいる方がかえって自然に見えるタイプとは違って、どちらかといえば厚着で、できるだけ人前で肌をむやみに晒すような場面は避けている印象だ。そんな天才ゲームメーカーも、十六歳。
 帝国学園に彼が戻ってきて、二ヶ月半が過ぎている。しばらく雷門中にいた鬼道と元クラスメイトたちが新しく高校生活に馴染むのは、意外にあっという間だった。
 そして、中学から特待生として上がってきた自分も。クラスメイトの中に鬼道がいること。チームメイトの中に鬼道がいること。馴染んできた、と思っていたのだが。

(なんだこれ……?)

 シャワー室から更衣室へ戻る途中、不動は鬼道がユニフォームを脱いでいるところを見て、更衣室へ入るに入れなくなってしまったのだった。他の皆はもう着替えを済ませ、ミーティングルームで飲み物を飲んだり、談笑したり、帰宅した者もいるだろう。不動はたまたまいつもよりシャワーを浴びるのが遅れ、最後に出て来たと思ったのだが、自分が出る頃になって鬼道が入ろうとしているのだった。
 一体何が起きているのか、自分では分からない。心臓が早鐘のようにバクバク鳴って、体中が熱いのは確かだ。風邪を引いたのだろうか。

 扉の陰から覗かれているとは知らず、不動に背を向けたままユニフォームシャツを脱いだ鬼道は、それを丁寧に畳んで棚に置き、次にユニフォームパンツを下ろしていく。覗きたいわけではないのだが、いつ出ていけばいいかタイミングを見失ったため、鬼道の動向を監視して隠れているしかない。

 今日みたいに試合が無く練習だけの日は、恐らくほとんどの部員がスパッツではなく一般的な下着を着用している。鬼道はグレーのボクサーブリーフだった。やや長めの丈で、ピッタリと腿にフィットしている伸縮性のありそうな、高級感のある柔らかい綿。夏用で薄いのだろう、二メートル離れたところからでも爽やかさが伝わってくる気がした。

 それから、靴下を脱ぐ。汗と泥が染みているため、脱いだユニフォームと共に洗濯物入れ用のビニールへ入れる。最後に鬼道は、グレーのボクサーブリーフを下ろして足から抜いた。素早くバスタオルを手に取り、シャワー室へ向かう。

(あ……やべ!)

 壁に貼り付くようにして隠れ、息を潜める。まるで壁と同化しているかのように気配を消そうと念じたのが功を奏したのか、鬼道はすたすたと脇目も振らずに行ってしまった。
 引き戸が閉まり、鬼道がシャワー室へ入ってお湯の音が聞こえたら、移動するのは今しかない。素早く音を立てないよう更衣室へ入り、壁で隠れるシャワー室からの完全な死角へ入る。
 やっと一息つけて、不動はゆっくりと大きく溜息を吐いた。

(バレてねーだろうな……?)

 少し気になって、鬼道が自分に気付いていないことを確かめるため、引き戸の曇りガラス越しに、薄茶色と肌色が形作るシルエットを眺めた。何も身につけていない鬼道が、引き戸の向こうにいる。さっき見た、きめ細かい肌が脳裏を過ぎった。居ても立ってもいられなくなって、不動は慌てて自分のロッカーへ行き、下着とジャージのズボンとTシャツを身に着ける。

(ヤバい。オレおかしいんじゃねーの)

 まるで心にも曇りガラスがはめ込まれてしまったかのようだ。自分のことなのに、何がどうなっているのか分からない。
 もしも全部脱いでしまえば、楽になるのだろうか。ハダカの気持ちで鬼道に接することができれば、何か分かるのだろうか。
 ハダカになって、何をすればいいのだろうか――?
 不動は自分の思考回路の行き着く先にうっすらと気付いて、危険を感じて考えるのをやめた。そんなことありえない。

(ねーよ。まじ、ねーよ。第一、男同士じゃん、オレたち。ハッ、マジありえねー)

 馬鹿馬鹿しいと鼻で笑って、荷物を持ち上げる。
 きっとこんな馬鹿馬鹿しいことは、曇りガラスの向こうで、忘れられていくだろう。そんな風に軽く考えていたのだが、数日後に状況がすっかり変わることを、不動はまだ知る由もなかった。










 やばい、早く出ないと。鬼道が来る前に出ないと、また――。
 あれから一週間後、帝国学園高校サッカー部、更衣室。
 不動は急いで、湯に濡れた体をタオルで拭き、下着と制服のズボンを身に着けた。ベルトなんて後回しだ。白い半袖の襟付きシャツに袖を通し、ボタンを留めるのも後にして荷物をまとめる。
 だが着替えとタオルを押し込んだスポーツバッグのジッパーを閉じながら膝でロッカーの扉を閉め、出入り口のドアへ向かって一歩踏み出した時。目の前に鬼道が現れて、心臓が肋骨の中で飛び上がった。

「なんだ、まだいたのか」
「あ、ああ……」

 鬼道も少し驚いたらしい、いつもよりほんの少し挙動不審になったように見えた。自分のロッカーへ向かい、扉を開ける。
 数十分前に「今週もご苦労」とねぎらい合い、やっと明日は土曜日だと浮かれた気分で、皆いそいそとシャワーを浴びて帰っていった。不動もとっくに今頃校門を出ていたはずなのだが、源田から提案された必殺タクティクスについてメモを取り、アイディアを書き足したりしていたら、うっかり二十分も経っていたのだ。

「お前も早く帰って休め」

 バサッと音がして、肩から外されたマントが宙に翻った。その赤が触発したのか、ずっとくすぶっていたところにとうとう火がついたのか。闘牛じゃあるまいし、などと思いながら、衝動が理性で抑えられなくなっていくのは溜め込みすぎたせいだろう。
 不動は荷物を下ろし、真っ直ぐ鬼道の背を目指して進んでいった。彼はちょうど、ユニフォームシャツを脱いだところ。露わになった背中に手を伸ばし、そっと指先で触れる。

「……っ!? な、なんだ?」

 くすぐったそうにビクンッと反応した鬼道が、驚いてすぐさま振り返る。

「いや、あのさ……」

 ゴーグルを外した鬼道の顔を、目の前でまじまじと見つめるのは、これが初めてだ。宝石のような赤に吸い込まれ、いちごシロップのように甘く溶かされてしまいそうな気がする。
 ごくり……と鬼道の喉仏が動いた。その横の肩に手を掛け、少年の細さと青年の逞しさが混在するみずみずしい筋肉を掴む。

「不動……?」

 その声は珍しく焦りながら、しかし嫌悪感は無く、どこか甘い響きを持っていた。その甘い響きが期待であると分かったのは、肩を掴んだ手でゆっくりと胸を撫で下ろした時。
 ピク……と筋肉が動くのを感じながら、なめらかな肌を滑っていく。腹筋はそれなりに付いているが、綺麗に割れているのに軟らかい。呼吸をする度に収縮するのを見ながら、腰へ移っていく。

「ふ……っ」
「鬼道クンの肌ってすげー綺麗な」
「な、なにを言って……」

 ぐっと体を近付けると、鬼道の背が開けっ放しのロッカーの縁に当たり、がたんと小さな音を立てた。咄嗟に、なのか、鬼道が腕を掴んできた。しっかりと、痛くない程度に力強く掴まれたところから、痛いほど熱が伝わってくる。
 もしかして、このまま、もう少し……。
 掴まれた腕を何となく引かれた気がして、もう半歩近付いた。体の前面が触れ合うか触れ合わないか。羽織っただけのシャツの縁が、むき出しの鬼道の胸をくすぐる。
 自分の心臓の音がうるさい。鬼道の熱い吐息に、視界も思考も曇ってしまったようだ。そっと目を閉じていき、赤い目が視界から見えなくなっていく――。

「……分かった。じゃあ、先行ってて!」

 遠く、通路の方から声がして、一瞬で我に返った。誰かが来る。

「……!!!」

 不動と鬼道は慌てふためいた。冷静に考えれば全く隠れる必要なんて無いのに、二人は焦って周囲を見渡し、鬼道は自分のロッカーを閉じ、不動は掃除用具入れの扉を開けて、素早く一緒に中へ入った。不動の荷物だけが反対側のロッカーの陰に取り残されているが、そこまで時間が足りなかった。仕方ない。気付かれないことを祈る。
 掃除用具入れの中は、男子高校生がピッタリと二人入る広さ。当然ながら真っ暗だし、足元のバケツと、立てかけてあるモップやデッキブラシの柄が少し邪魔だが、息を潜めて動かずにいる分には問題ない。内側から扉を閉めて、二人は同時に大きく溜息を吐いた。
 直後に、更衣室のドアが開く。間一髪、危なかった。

「……あれ、誰かいるのか?」
「鬼道さんかな」

 声で識別すると、入って来たのは成神と洞面のようだ。忘れ物をしたらしく、成神が自分のロッカーを開けている。

「これからゲーセン行くのに財布忘れるとかないでしょ〜」
「だよなー。まじありえねー」

 ふざけた会話を交わしながら、成神はごそごそとロッカー内を探っている。洞面は近くで見ているのだろう、足音がしない。
 このまま静かにしていれば、問題なさそうだ。外の二人は、成神の財布が見つかったらすぐに出て行って、他の仲間とゲーセンで合流するのだろう。長居はしないらしいと安堵したためか、急に、目の前のもう一つの体へ意識が向く。
 ぴったりと密着している状態で、この一週間、悶々と思いを巡らせていた体がすぐ目の前に存在していた。鬼道はもぞもぞと、音を立てないように慎重に体の位置を調整しようとしている。だが、それは時々肌と肌を擦れ合わせたり、軟らかい肉を押し付けたりすることになり、元々荒ぶっていた不動の煩悩をこれでもかというほど刺激した。
 汗の臭いも、今は不愉快に感じない。相手が鬼道だからだろうか。制汗剤が高級だからか――いや、鬼道は皆と同じブランドを使っていたはず。
 不動は位置調整に協力すると同時に、ゆっくりと少しだけ膝を上げ、鬼道の太腿を撫で上げるようにした。

「は……!」

 漏れた吐息を聞いて、手応えを感じる。
 微妙にねじれたり曲がったりしていた腕や体が自然な位置で収まり、居心地は良くなった。
 熱い股間が主張しているのが、ズボンと下着越しでも分かるだろう。だが鬼道は少しためらったのち、やや引きがちだった体を真っ直ぐに、むしろ不動の方へ寄せさえしてきた。
 無意識なのだろうか、意識的なのだろうか、いずれにしても思考回路が焼き切れそうだと不動は思う。

「まだ〜?」
「おっかしーなー……ここじゃないのかなぁ?」
「え〜」

 洞面と成神の声が聞こえる。不動は自分の心臓の音が、彼らに聞こえているんじゃないかと思うくらいうるさくなっているのを自覚した。目眩が起こっているような気がするが、もう熱くてよく分からない。
 ふと鬼道の心臓もドキドキしているような感触があり、確かめるために胸へ手を当てた。鬼道がピクッと肩を揺らす。緊張に鼓動が速くなるのは当然のことだが、もし鬼道も自分と同じような心境だとしたら――。

「あった! 良かったー」
「ロッカー汚すぎだよ〜」
「うるさいよー」

 洞面と成神のふざけたやりとりを聞いて、二人ほぼ同時にそっと胸を撫で下ろした。
 しかし、はぁ……っ、と首にかかった鬼道の吐息が熱を帯びていて、火に油を注がれたように感じる。
 ちょうど不動が当てた親指の辺りに心臓が近いのか、自分と同じくらいの速さで脈打っているのが伝わってきた。手を動かそうとすると、鬼道が咎めるように手首を掴んだ。意識するなと言いたいのだろうが、無理がある。それに、不動はだからこそ手を下ろしたかったのだが、掴まれて固定されてしまってはこれ以上動かせない。
 早く喋れるようになりたい、弁明させてほしいと心の中でガタついていると、外でロッカーの扉を閉める音が聞こえた。

「よっし、んじゃ行こうぜ」
「見つかって良かったね〜」
「ホントだよな」

 もうこの訳の分からない状況から出れるかもしれないという焦りと、鬼道の心臓の鼓動をいつまでも感じていることの背徳感とが相まって、不動は幾分か慎重さを欠いて手を動かした。

「ッ……!」

 鬼道の体が跳ね、倒れないようにしがみつかれる。

「あーあ、もう一生出て来ないかと……」
「アハハ、大げさだな〜」

 洞面と成神の呑気な声を遠くに聞きながら、何が起こったのか理解できず、不動はまた元の位置へ手を動かす。

「ッ……!!」

 ぱしっと鬼道に手首を強く掴まれ、しかしバランスを崩しそうになったままなのか慎重な鬼道にしがみつかれているため、体はさっきより密着した気がする。気を付けているはずが、鬼道の肘かどこかが当たったのか、かたん、とデッキブラシの柄が微かな音を立てた。

「……あれ、誰かいる?」

 洞面が言った。
 ヤバい。息を潜め、石像になったつもりで、耳をそばだてる。

「鬼道さん? いるんですか」

 成神が呼びかけ、足音が左から右へ移動し、少し間を置いて戻っていく。

「気のせいだな。不審者とか、ここのセキュリティで入れるわけないし」
「だね」

 洞面と成神は、中学一年からサッカー部に所属しており、天才のキャプテンを崇拝レベルで尊敬している。そんな鬼道のプライベートを、わざわざ見ようとするデリカシーの無い人間ではない。
 ロッカーの陰に置いたままの不動のスポーツバッグも特に気にすることなく、二人は出て行った。
 やっとドアが閉まり、念のため十秒数える。

「……っもう、いいだろう」

 鬼道が言って、先に掃除用具入れの扉を開けた。

「まったく、何だってこんなことにならなきゃいけないんだ……」
「ハハ……ぁ、危なかったな」

 シャワーを浴びてサッパリしたはずなのに、シャツの下は汗だくになっている。鬼道と密着していたから、とても暑かった。単にくっついているからというだけではなく……。
 さっき鬼道がうっかりデッキブラシの柄に当たった時、直前に撫でた胸の感触をぼんやりと覚えている。夏へ向かうこの時期は特に肌寒いわけではなく、どちらかと言えば心地よい気温で、更衣室内は空調設備が整っているとはいえ、運動後だと、もっと涼しくていいと感じるほど。それなのに、ぷくりと立った突起が手のひらに引っ掛かったのだ。

「鬼道、」

 後を追って、掃除用具入れの外へ。背を向けて立ち尽くす鬼道の後ろへ立って、肩を掴んで振り向かせようか迷う。
 名前を呼ばれて、鬼道は体を強張らせたように見えた。少なくとも、腕に力が込められたのは分かった。微かに震える拳を見つめながら、もし殴られても構わないとさえ思う自分が嫌になる。そこまでして、手に入れたいと思うのか。
 答えはイエスだ。

「なァ――おまえに、もっとさわりたい」

 肩を掴むより先に、驚いてつい振り向いてしまったらしい。耳まで上気した鬼道の顔には、羞恥と動揺が表れている。赤い目にうっすらと涙が溜まっているのを見て、頭のどこかで、何かが焼き切れた。
 慌てて顔を背け、人差し指かどこかで目元を拭い、鬼道は言った。

「さ、さわるなどと……おれは男だぞ」
「わかってる」

 即答したことも驚きだったのか、自分のロッカーを開けようとした鬼道の手が止まった。
 その腰を掴み、背後から下腹部へ手を伸ばす。

「こんなになってるじゃん」
「んひぁ……ッ」
「つらいだろ……?」

 ユニフォームパンツの上からでも分かる昂りをそっと撫でて、仰け反った鬼道の体を抱きとめた。

「は、はなせ……」
「鬼道……」

 下はそれ以上触れずに、胸へ手を滑らせ、突起を探す。すぐに見つかった。そっと摘むと、言葉を探す鬼道の口から熱い吐息がこぼれる。

「ま、また誰か来たら、どうする」

 いい加減にもう来ないはずだと言いたくなったのと、離れがたいのをぐっと我慢して、一旦ドアに鍵を掛けてから戻る。
 まだベルトも通していなかった制服のスボンを脱ぎ、下着に白シャツを羽織った格好になった。

「オレもこんなになってる……気付いただろ」
「……」

 鬼道はテントを張っている黒いボクサーブリーフを、凝視しないように気をつけながらも、目を逸らせないようだった。
 ゆっくりと近付いていって、至近距離で向かい合う。手が震えかけている。

「こんなの、お前を見て……初めて、だから」
「っ……ふどう……」

 鬼道がくっと目を歪め、その切なげな濡れた赤が綺麗で見惚れていたら、腕が二本伸びてきて、抱き寄せられた。どちらからともなく、あるべき位置で交わる唇。吐息が混ざり、勢いよくストッパーが外れていく。
 腕も足も絡み合いながら、ロッカーに押し付け、無我夢中でまさぐりあった。
 震えるほど――全身が、熱い。








2017/06/17 #W司令塔深夜の60分一本勝負


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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki