<ちょっと遅れた青い春>
自分が鬼道に対して抱いているものに、名前を付けたことがなかった。強いて言えば、憧れや嫉妬のようなものが混じっていて、唯一自分と同じくらいの実力と知能を持つ男だと思っていた。
キャプテンへの、憧憬のような尊敬のようなものとは違う。円堂は云わば親方や師匠のような、みんなにとって必要なリーダーであり、リスペクトする以外に何があるのだろうという感じの存在だった。だが鬼道は立場としても似ていて、どうしても対立する方に意識が向いてしまう。
(一時期は、アイツに似てるって言われンのも嫌だったのになァ……)
そんな二人がいつの間にか思考の一部を共有するようになり、一緒に食事をし、合鍵を使うようになるとは、一体誰が想像しただろうか。不動本人も意外に思っていた。
母校の監督として君臨する元天才ゲームメーカーは、帝国学園の近くにマンションの一室を借り、養父から課せられた経済や経営学の勉強をこなしながら、サッカーの指導をしている。不動は定職に就かず、トレーニングコーチとして都内の学校を回っていた。
行動範囲が近いし、一緒にいて気苦労が少ないので、日本へ帰国してからはなぜか同じ部屋に暮らしている。それなりの家賃がするマンションの一室は、男二人でちょうどいい広さだ。対等に折り合いをつけて、かつての敵と送る共同生活は、不動にとってはとても有意義に感じられた。
(オレは現実的なんだよ)
中学生の頃は、いつかサッカーで有名になったら掃いて捨てるほど女が寄ってくるんだろうと思っていたが、そんな考えが災いしたのかどうか、帝国高等部へ上がったらすっかりそんなことは忘れてしまった。
勉強と練習で毎日精一杯だったというのもある。だが、高校生になって雷門から帝国へ戻ってきた鬼道とよくつるむようになり、女などに意識が向かなくなってしまった。鬼道とボールを蹴って、戦術について話をするだけで、最高に充実していた。
だが溜まるものは溜まる。自分だけじゃつまらない。どうにかこのフラストレーションを発散する、簡単で合理的な方法は無いものかと考えていると、鬼道が言った。「おまえ、彼女は居ないのか」
最初は、なんでそんな分かりきったことを聞くんだと思った。フラストレーションを抱えてはいるものの、鬼道と過ごす方がよっぽど有意義だから会っているのに、と。
だがすぐに分かった。鬼道は男の自分に興味があるのだ。
不動にとっては、鬼道と戦略やプレー、他の選手の分析、意見の交換などをする時間が何より楽しく有意義に感じていたので、授業や移動の合間に隙あらば話していたし、それが一日の目的の大半を占めていた。
だから夜寝る前に、明かりを消した寮の部屋で少しばかり激しい運動をしても、無駄な時間どころか一石二鳥のような気さえしていた。フラストレーションは日々コンスタントにきれいさっぱり解消され、おかげで頭が冴える効果付き。
相手が男だというのは、そんなに大きな問題じゃない。お互いにメリットがあり、とても理に適った生活だった。
それから数年、適宜調整し形を変え、大人になってもまだ、理に適った生活は続いている。
鬼道は何杯ロックを煽ってもほろ酔い程度にしかならないが、酒を飲むと時々、思考がややネガティブな方へ向かう。
この日もそうだった。
「おまえ、彼女とか作らないのか」
不動は、開いた口が塞がらない、というのを初めて自分で経験した。
グラスを片手にアンニュイな空気をまとう鬼道がやけに艶っぽいのはともかく、問い掛けられた内容が、気に食わないにも程がある。
「ハッ、作るわけねーだろ!」
バカにしたように笑い飛ばし、そのままバスルームへ向かう。誰が今更、女なんぞに興味を持つか。
イライラしている自分を何とかなだめ、ゆっくり湯船に浸かると、少し落ち着いてきた。
(なんでこんなにムカついてんだ?)
自分が誰かと恋人同士になるなんてことは、鬼道と付き合い始めてから一切考えたことが無かった。そんなことを考える必要は無かったからだ。
でも頭に来たのは、誤解されたことも含んでいるが、それ以上に別のことだと思った。
不動が鬼道ではない誰かと付き合う可能性を考えるということは、鬼道も不動以外の誰かと付き合う可能性も考えるということだ。もしかして彼は、自分以外の誰かと付き合いたいのだろうか? いや、もう既に、ずっと二股をかけられていたのか?
そこまで疑心暗鬼に陥ってから初めて、不動は自分と鬼道の関係に名前が無いことの不安定さを思い知った。同時に、今まで気付かなかった、鬼道に対しての感情も浮かび上がってきた。
(オレ、あいつに惚れてンのか……?)
試しにそう思ったら、全ての辻褄が合った。出会ってから今まで過ごしてきた中で起こった、些細なことへの自分の気持ちが、どこから発生していたのか、完全に腑に落ちた。今回の苛立ちもそうだ。鬼道を誰にも渡したくない、鬼道に誤解されたくない、今の関係を維持したい――。
「まじかよ……」
思わず顔を覆うが、濡れるだけで、ぜんぜん落ち着かなかった。のぼせる前に湯船から出たが、時既に遅しかもしれない、少しクラクラする。
鬼道とは顔を合わせないようにして、おやすみと一言、さっさと自分の部屋のベッドに入った。今はもう少し気持ちの整理をしなければ、話をしても余計にこじらせてしまいそうだ。多少誤解されても、後で説明すればいいと、この時は考えていた。
翌日の夜、いつも通りに帰ってきた鬼道が、やけに神妙な顔でサングラスまで外して、謝ってきた。朝はやけに普段通りを装おうとしているなと思っていたら、やはり彼は今回の件を流すことはできなかったらしい。
「不動……昨日は、すまなかった。おれの言ったことで気に障ったなら、謝る」
そう言われても、不動としては複雑な気持ちのままだし、謝られるようなことは何も無い。
「や、ていうか……謝んなくていいし」
その一言で少しほっとしたのか、鬼道は話をしたがっているようだったので、不動は彼を促すようにしながら先にダイニングチェアへ腰掛けた。促されて向かいに座った鬼道が、テーブルの上で組んだ手を見つめながら口を開く。
「おれは……不動じゃなければ、こんな関係は望まない」
「え……?」
予想外の言葉に、不動は動揺した。
思い返せば、鬼道が他の人間と深い関係になった気配はない。
体の関係も、最初に誘ってきたのは鬼道だった。詳しいくせに随分と痛そうで、気を遣いながら、それでも彼が気持ちいいならばと一生懸命になっていたのを、昨日のことのように覚えている。あの頃はなかば遊び半分だったが、いつしか回数を重ねるうちに特別な行為になっていった。
試行錯誤しながら慣れていくことで、最初はいかに初心者だったかを思い知る。だがよく思い出してみると、それは鬼道にも言えることだった。
それに、鬼道の性格を考えると、あまり大っぴらに誰か他人と同じ家に暮らすなんてことは選びそうにない。そもそも家のこともあるし、一人で暮らす方が自由気ままで何かと都合が良いはずだ。
「だが……お前がおれのせいで不幸になるのは嫌なんだ……」
二十歳になった時、養父に自分の性癖を打ち明けたと教えてくれた。強く叩かれたが、怒ってはいなかったという。だから自分は少しでも立派な人間になって、鬼道の名に相応しい後継者を探し育てるのだと。
今思い返せばあれは、結婚しないで済んだことと、片頬を痛めたのと引き換えに男と付き合うのを認めてもらったという意味だ。それから数年経って日本へ戻った不動は、鬼道に住むところを聞かれ、おまえんちでよくね?と冗談半分で口にして、現在に至る。今までそこまで深く考えていなかったが、養父公認の同棲だったのだ。そして、危険を犯して養父の許可を取るほど、鬼道は本気なのだ。
「まじかよ……」
つぶやいた一言を、鬼道は聞いていないようだった。
「おれはただ、気の合う誰かとルームシェアしてみたかっただけなんだ。不動を束縛するつもりなんてない」
「はぁ、束縛ゥ?」
なんで話がそっちへ行くんだと、不動は面食らう。だがすぐに、鬼道の考えていることが分かった。
「だから、おれのことは気にしないで――」
「何言ってンだよさっきから!?」
大声で遮ると、鬼道は顔を上げた。まだ、いつもは凛々しい眉が切なげに下がったまま。不動はみぞおちがギュッと締め付けられるのを感じた。
「昨日まで気付いてなかったけど、オレだってお前じゃなかったら男とヤッたり一緒に暮らしたりしねえっての! 他に興味があったらとっくに行ってるっての、オレ嘘つきじゃねーし、こんな、毎日楽しくて、気持ちいい生活は初めてで、どっか態度おかしい時とかあっかもしんねえけど。鬼道のことどう思ってるかなんて、昨日まで気付いてなかったけど!」
鬼道は驚いていた。言葉を理解するのに時間がかかっているようだ。
不動は自分でも回りくどい言い方しかしていないことを申し訳なく思ったが、言い換える気がどうしても起こらない。顔が燃えそうだ。
「は……? おれのことを、どう思ってる……?」
突っ込むとこ、そこかよ。不動は勢い良く立ち上がり、また鬼道を驚かせた。
「お前と同じだよ。たぶん!」
捨て台詞を残して、大股で部屋を出る。行動だけ見たらまるで怒っているかのようだが、鬼道がよく考えたらそうじゃないことが分かるだろう。
不動は自分の部屋に引きこもって何とか落ち着こうとした。だが、トイレかと思っていたのになかなか戻って来ないため、心配して鬼道がやって来た。
「ふどう……? 大丈夫か」
慌ててドアに鍵をかける。
「ああ、大丈夫だよ! ちょっとあの……いまテンパってるから! 後でな!」
もう本当に嫌だと思って頭を抱えたとき、ドア越しにまた声が聞こえた。
「……気になっているんだが……おれがお前の人生を変えてしまったんだろうか……?」
不動は音を出さないように気をつけながら、やりきれない気持ちを枕にぶつけた。
(またどうしてこいつは、こういう時は面倒くさい方向にしか頭が働かねえんだよおおお)
何か返事をしてやらないと、どんどん鬼道の不安は増してしまう気がした。
思い切って解錠し、ドアを開ける。俯いた鬼道が、片膝を立ててドアの前の床に座っていた。顔を上げた彼の前に仏頂面で正座し、一瞬沈黙を置いた。そして、耐えかねた鬼道が口を開く前に、その唇を塞ぐ。
胸が焼けそうに熱い。全身が熱く、沸騰して溶けそうだ。目を閉じたおかげで少し気恥ずかしさが紛れた気がするが、まだみぞおちは強く締め付けられたまま。その烈火のような苦しさから逃れたくて、何度もキスをした。
鬼道が応えると、舌を絡ませ合って、合間に少し空気を吸う。いつの間にか後頭部を支える彼の手が、熱を増加させていく。苦しさは増すばかりだが、髪の毛の隙間から地肌へ当てられた鬼道の指に、少し解消された気がした。
強くキスするたびに無意識に少しずつ押してしまい、意図せず床へ押し倒した。最後は鬼道が、腹筋だけで上半身を浮かした体勢に一瞬疲れ、床に背を付けたとき自然に唇が離れて、そのまま追うのをやめた。
上気した頬の上で、濡れた紅い目が二つ、未だ困惑に揺れている。不動は仏頂面のまま深呼吸して言った。
「じゃあ聞くけど。オレはいま、鬼道有人が世界一幸せで何の苦労もなく暮らせることを願ってる。でも当の本人はなんかごちゃごちゃ考えてるしわけわかんねえことばっか言いやがる。オレはどうしたらいいんだよ?」
鬼道は眉間にしわを作り、少しの間目を閉じた。
「わ、わかった」
そのまま彼も深呼吸をひとつ、目の上に腕を乗せてか細い声で答える。
「なにもしなくていい……」
震えた声になんだかとてつもなく申し訳なくなって、不動は、床に伏せられたほうの手を取った。
2017/05