<傷痕>





 十六歳になったおれは、サッカーはもちろん、勉強も家のことも全て、順調に過ごしていた。恋愛も風変わりで控えめにではあったが、人並みに青春を謳歌しているように感じていた。
 だが、おれはずっと、心の奥に傷があるのを知っていた。
 癒えることは永遠にない。なぜなら、それができる唯一の人物はもうこの世に居ないからだ。
 和解した直後に、あの人は居なくなってしまった。もっと沢山、話したいことがあったのに。仮に話せたとしても、言葉よりも、サッカーで、態度の端々で、心の奥に染み込むまで変化を感じることが必要だった。

 影山に反旗を翻したことを、おれはずっと気にしていた――後悔というのではないが、心苦しかった。
 もっとおれに何かできたんじゃないだろうか。もっとうまい方法があったんじゃないだろうか。せめてあの時、激情に身を任せて飛び出して行ったりせず、残って、とことん話し合っていれば。そんな思いが、どうしても消えない。
 最後の日に言葉を交わせたのはせめてもの救いだった。けれど足りない。潜水艦にいたドーピングチームが使い捨て人形のような扱いを受けたのも、空中に浮かぶスタジアムで育てられた間に合わせの神々が二度とサッカーできない体になるまで洗脳されてしまったのも、全て、おれが裏切ったことが原因なのだから。
 きっと、優しい人は「お前のせいじゃない」と言ってくれるだろう。だがそれでも、「まったくおれは関係ない」と言うことができないのは明らかだ。おれでさえ駒の一つにすぎなかった。まだ木の破片だった頃に拾われ、あの人の手によって削り出された、最高の駒だった。だからこそ、抉られた傷は癒えない。
 しかもおれは、自分が正しいと思っている。知っている。このおれ、最高の愛弟子である鬼道有人が反旗を翻したからこそ、あのような結果に行き着き、今のおれが在り、結果として最高の"鬼道有人" が完成されたのだと。

 ――おれだけなら、まだよかった。このまま癒えぬ傷を抱いて静かに暮らしていける。だが時々一緒に眠るようになって、恋人が後遺症を抱えていることを初めて知った。

 不動がおれの家に泊まったとある日の真夜中、ふと目が覚めた。用意された客室を無視しておれの部屋で、肌を寄せて眠っていた隣の不動が、呻いている。
 額には玉のような汗が浮き、彼は呼吸を荒げて苦しそうにしていた。

「不動……?」

 心配になって、肩を掴んだ。起こすつもりはなかったのだが、もし既に起きているのなら、自分も起きていることを知らせて安心させてやりたいと考えた。
 その目が――昨日は太陽の光に輝いていた翡翠色の目がハッと開いて、闇の中で獰猛に光る。
 まずい、と直感で思ったが、おれは責任を感じて動かずにいた。睡眠を妨げたことについてか、これから起きることの原因についてか、どちらの責任かは分からない。両方かもしれない。

「あぁ……鬼道クンだァ……」

 間延びした、人を馬鹿にしたようなその喋り方を聞いて、さっと血の気が引いた。潜水艦で初めて会ったときのことを瞬時に思い出す。
 だが今は、妖しく光る石など無いはずだ。
 身構えたおれに向かって、不動が近付いてくる。思わず、体を引いた。

「あれェ、なにしてンの?」

 きっと、まだ寝ぼけているのだろう。不動になにか言って、目を覚まさせてやりたいが、声が出ない。喉がつかえているようだ。

「昨日は楽しかったよなァ。もっと楽しもうぜェ」

 伸ばされた手を、思わず避けてしまった。
 不動は少し驚いた後、小さく声をあげて笑う。

「ヒャハハハッ。オレのこと二重人格かと思っただろォ? ざァんねん、違うンだな~!」

 冷たい片手で喉を掴まれ、咄嗟にその手首を押さえるが、苦しさは減らない。

「これが、オレだ。ふ、ど、う、あ、き、お。分かるだろ? 鬼道クンなら……天才ゲームメーカー様よォ」
「う、ぐ……」

 おれの知っている不動は、こんなことはしないと思っていた。確かに初めて会った時は、狂気と嗜虐が服を着て笑っているような奴で、おれはそんな奴に負けてたまるかと、相手にする価値もない人間なのだと決め付け、思い込んだ。
 だがあれは、石の副作用だったはずだ。不動本来の人格ではない。
 心の中で、まるで白い布に墨汁をこぼしたかのように、濃い闇が染み出してくる。こんな感情は、あのとき、強い力で頬を叩かれた時に、捨てたはずなのに。

「やめ、ろ、……ッ!」
「分からねェならその体に刻み込んでやるよォ!!」

 信じたい。こんなのお前じゃない。元に戻ってくれ。
 いくら願っても、変わる様子は見えない。
 引き裂くようにパジャマを開かれ、己の無防備さを思い知る。

「ふど……っ、……」

 苦しみながらこじ開けた薄い目で、暗い翡翠を見た。
 闇の中で光る目はいつもより爛々と欲望に輝き、それでも、ただ一人を映している。
 そのとき、不動の胸を突き返そうと押していた両腕から、力が抜けていった。
 ああ、いいんだ。おれは何故、抵抗していたのだろう。

「ハッ、何だよ、もう終わりか? つまんねェなァ」

 憤りのこもった手が喉を突き放し、おれはむせる。落ち着かないうちに今度ははだけた胸元を掴んで引き上げられ、目線の先では、いとしい唇が嘲笑に歪む。

「っ……、そう、だな……」

 おれは間違っていた。
 両腕を伸ばし、痩せた肩に巻きつける。不動が少し抵抗しかけたが、それを止めるほどの強さで叫んだ。

「なに――」
「好きなようにしろ!」

 それは諦めではなく、突き放すのでもなく、今大事なことは何をするかではないという思いがこめられた叫びだった。

「お前の言う通りだ。不動明王は、不動明王だ……他の誰でも……」

 言葉が出て来なくなって、久しぶりに感情的になっている自分に気付く。
 他の誰でもない。どんな姿でも。

「おれはいる……不動、おれは、ここにいるから……どこへも行かない」

 なぜ、愛したのがお前だったのだろう。なぜ、おれたちはこうしているのだろう――同情とも愛情ともつかない涙が目尻から零れ、シーツが濡れる。
 腕を離して、おれは目の前の恋人を見た。
 不動はしばらくおれを見つめたまま呆然としていたが、やがてニィッと、唇を歪めて笑った。






 またいつ真夜中に目が覚めるか分からない、と思った。
 不安だからというよりも、不動が心配でたまらなかった。もし自分を信じてもらえず、どこかへ行ってしまったら……そうしたら眠れなくなったが、一睡もできなかった次の晩、今度は揺すっても起きないほど眠った。
 若いからか、今までの鍛え方が良いおかげか、サッカーだけは続けられた。それも、ただ何とか続けられたというのではない。予想する以上に体は反応し、吸収していった。
 不動は変わらない。男子高校生らしく何も問題ないような顔をして、友達とふざけたり、程々の成績を取ったり、予想外の展開でオフサイドトラップを見事に決めて見せたりする。
 気に食わない部分も沢山あるが、人一倍向上心が強く、器用なくせに天邪鬼で、皮肉屋な、そんな不動のことを愛おしいと感じるおれの体には、服の上からでは見えないところに歯型と痣がいくつか残っている。
 おれはずっとこの不安を抱えて生きていく。それがせめてもの贖罪だから。
 この呪いからは、永久に逃れられない。
 ――いや、逃れる必要はない。いつか認めなければならないのだ。それはとても過酷で、陰惨な道に思えた。
 だが、ふたりなら、いつか。








2017/06
2023/09加筆

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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki