<不動が指輪を失くした話>





AM05:00



 不動はぱちっと目を開けた。カーテン越しに、昇ったばかりの朝日が差している。まだ鳴っていないアラームを止めると同時に一気に意識が覚醒し、思わず起き上がった。
 今日は、二十九年間の人生で一番重大な日だ。

「ん……明王?」

 隣に仰向けで寝ていた鬼道が起きたらしい、少しくぐもってかすれた声が呼ぶ。

「オハヨ」

 本当なら、今日これから行うイベントの雰囲気にたまには浸りきって、手を取り合い、くちづけを交わすところ。だが、不動は寝間着にしている長袖Tシャツとパジャマのズボンといった格好で、ベッドから下りた。
 無性に、不安に駆られている。確かめないと安心できない。だから探し始めた。

「どうした……? 何か、探し物か?」

 鬼道が起き上がり、伸びをしながら聞く。本当はもっと気持ちの良い目覚めのはずだったのに、不安を過ぎらせている。不動はさらに焦った。

「ええと……ウン……」

 曖昧な返事を挟みながら、鞄の中、引き出しの中、クローゼットを開けて上着のポケット、と次々に調べていく。

「悪ぃな、起こしちまって」
「明王」

 様子がおかしいと気付いた鬼道が、諭すような声で止める。それでも探すのをやめず、金庫を開けた不動に近付いてきた。隣に鬼道がやって来てやっと、不動は探すのを中断した。

「どうしたんだ? 何かあったなら、言ってくれ」
「……」
「俺たちは……隠し事をしないと、思っていた」

 鬼道の優しい声音と、思い詰めた眉を見て、もう一人の自分にみぞおちを裏から握り込まれたような感じがした。

「……有人、ごめん」
「どうしたんだ。言ってくれ」

 恐怖に怯えた表情をしているのが自分でも分かったが、他にどんな表情をすればいいのか分からなかった。鬼道への気遣いを怠りたくはなかったのに、今はとても、自分の感情を制御しようとするのでいっぱいいっぱいだった。

「指輪……見なかったよな?」

 その一言で、鬼道は状況を全て把握したようだった。

「……お前に預けたじゃないか」
「金庫にしまっといたんだよ!」

 分かりきった答えを聞いて、つい大声を出してしまった不動は、直後に自責の念に襲われて掌で顔を覆った。

「金庫にも無いのか」
「ごめん。ほんとごめん……オレ……」
「落ち着け、明王。明王……」

 鬼道は冷静に見えた。少なくとも、不動よりは。

「やめた方がいいって暗示かも……」
「何を言ってるんだ、ここまで来て……今更中止なんてできないぞ」

 できるだけ優しく、不動を責めないように気遣いながら、状況を整理するために発せられたその言葉がそっと胸に刺さる。
 そう、もう当日だ。いまさら、中止なんてできない。開始まであと七時間ほどだ――人生の四半世紀を迎え、気持ちを確かめ合い、これから一生添い遂げると決めた二人の、結婚式まで。






 ・  ・  ・






 十ヶ月前。不動は落ち着いた高級感のある、老舗のテーラーにいた。
 肩から袖口まで、シュルシュルと巻き尺が当てられていく。
 オーダーメイドで着るものを作ってもらうなんて初めてだ。人生で一度きりの、特別な衣装。ドラマチックな方がイベントらしくて見栄えがするからと、クラシックな形のタキシードだ。
 調整を待っている間、先に終えた恋人はソファで電話をしている。プランナーから式場選びについて報告を受けているのだ。
 ほぼ近いサイズのジャケットを着せられ、振り向いて見せる。膝裏まで長さのある優雅な燕尾。電話を終えた鬼道が、サングラスの下でやわらかく微笑んだ。

「うん。やはりシロシロが良いと思う」

 シロシロというのは、ジャケット、ベスト、シャツ、パンツ、タイも何もかも、全て純白ということだ。候補の中には、ジャケットが淡いグレーのものや、様々な色のベスト、タイが集められ、ガラステーブルの上に山積みになっていた。
 もう一つの意味は、鬼道も同じ純白のタキシードを着るということだ。どちらが右でも左でもない、そんな意味を込めて、二人で相談して決めた。

「かしこまりました。ではこちらでお仕立て致します」

 不動は照れ臭さが抜けないままぎこちなく鬼道に微笑み返して、まち針が取れないよう慎重に脱いだジャケットを初老のテーラーに渡す。
 人生最大に責任のあるイベントは、十ヶ月後に迫っている。

 出会ってから五年ほど同じ学年で、高校は同じだった。しょっちゅう皆でサッカーをしたが、いつしか二人きりで会うようになっていった。
 高校卒業後、二年間はメールと電話だけ。それから三年ほど、欧州でひとつ屋根の下に暮らした。そうして、日本に帰ってからも一緒にいる。
 双方、ベタベタするタイプではないし筆不精で、数週間会わない期間もちょくちょくあったが、なぜか、会っていない時間を感じない。なのに飽きない。
 良いところも悪いところも認め合って、切磋琢磨し合える関係。論理的に物事を捉え、笑うポイントが同じで、お互いの趣味を理解できる。おまけに、体の相性も良い。これ以上のパートナーがいるだろうか。

 何度も自問したが、その度に相手を選んだ。十年以上ずっと、互いに相手以外へ興味を持たなかった。一体、始まりはいつからだったのだろう。それすら分からなくなるほど自然に付き合ううち、お互いが俗に言う恋人同士という関係だとはっきり自覚したのは、高校二年の夏だった。
 だが、自覚しても特に関係が変わることはなかった。貞操観念について真面目に考えるようになったとか、今まで何となく感情を制限していたのをやめるようにしたとか、そんな程度。
 他にもっと、他人の前でも親密な距離感を隠さない者たちがいたためか、周囲も不動と鬼道の関係について特に疑問に思うことはなく、むしろ温かく見守り、応援してくれていた。






 ・  ・  ・






 テーラーに行った日の二ヶ月前、夕食の食器を片付け終えた鬼道が言った。

「結婚したら、変わってしまうんだろうか?」

 ケッコン――その単語をすっかり忘れていた不動は、麦茶の入ったコップを片手に暫し呆然とする。鬼道が何を言いたいのか、どういう意図でその発言になったのか考えながら答えた。

「どうだろうな。子供が出来たらどうのこうのって聞くけど。そういうのって、ホルモンが減ったせいとか、稼ぐのに仕事増やしたせいとか、どっちかが育児で忙しくなったせいとか、だろ。そもそも結婚したとかそういうのでガラッと変わるんなら、元々どっかが合わなかったんだろうし……まあ、変わるってのが、どう変わるかにもよるよな」

 うっすらと母親の顔を思い出しながら淡々と言うと、鬼道は少し俯いた。
 もしかして気に障る応え方だっただろうかと気を揉み、最後に慌てて付け足したのだが、時既に遅しだっただろうか。
 鬼道は時々、こうして家族の話を振って来るが、その度に答えるのが難しく感じ、そのせいなのか鬼道を俯かせてしまう。今もそうだ。しかしそれ以上何を言えばいいか分からず困惑していると、珍しくぼそぼそとした、歯切れの悪い声が聞こえ始めた。

「今まで変わらなかったのなら……変わりようがないと、おれは思うんだが……」
「あ……? ああ、そうだな。少なくとも、オレは変わりようがないしねぇ」

 自分たちのことを言っているんだと気付いた不動は、 麦茶を飲み干してコップを置き、意味もなく首を撫でながらそっぽを向いて言う。

「お前とはその……色々あったが……今まで出会ったどの人間よりも、居心地がいいんだ。だから、これから先も……こんな風に、やっていけたらと、思っている」

 やはりそうだ。ということは、今まで俯いていたのも、全部が全部マイナスだったわけじゃないかもしれない。
 時間をかけているわりには情報の少ない鬼道の言葉を記憶して、ゆっくり反芻する。

「もちろん、お前さえ良ければだが……」

 そう付け足した鬼道が、やけに慎重な様子なのはよく伝わってきて、一体なぜなのかと思いつつもしっかりと顔を向けて頷く。

「ああ、ウン……オレは良いぜ」

 ほっとしたような様子で、鬼道が座り直す。その何とも言えないやわらかい表情を見て、胸の奥がふわっとする。

「そうなると、色々なことを考慮して、指輪を嵌めておいたほうがいいと考えたんだが、不動の意見を聞きたい」
「は……?」

 やけに間抜けな声が出て、一瞬だけ思考が止まった。

「ああ……っ、いいぜ」

 さっきと同じ返事になってしまったが、喉が詰まってそれ以上何も言葉が出て来ない。
 まさか自分がプロポーズされるなんて、想像もしていなかったのだ。言葉にできない形の無いもので胸がいっぱいで、どうしようもなく、唇を触れ合わせることすらためらっていた。
 膝と額を突き合わせ、遠慮がちに両手を握り合う。やっと気持ちが伝わりきって安心したのか、鬼道は嬉しそうに親指で不動の手の甲を撫でた。
 出会う前から、鬼道有人ただひとりを追いかけてきた。燃えるような闘争心に、いつから別の感情が混ざったのか分からない。気がついたら彼の全てを手に入れたいと願うようになっていた。それが今、叶おうとしている。

「実際は、指輪を嵌めていようがいまいが、おれの気持ちは変わらない。だが、一つの意志を表現するものとして、物質の力を借りようと思ったんだ」
「ウン……分かってる」
「これからうまくいかないことや、今までよりつらいことがあるかもしれない、だが、おれは――」
「ウン、分かってるよ。分かってるから、言い出したんだろ」

 眺めていた鬼道の膝に、ぽたっと水滴が落ちるのを見た。重ねた両手を抜いて、強く抱き締める。背に回してしがみついてきた手の強さは予想以上で、不動の目の奥も熱く痺れた。
 長く共に過ごせば、過ごすほどに、互いを知りすぎて、衝突も多くなる。だがその度に、誤魔化すことなく分かち合ってきた。痛みも苦しみも、喜びも、すべて知っている。過ごしてきた時間が長いほど、共有したものも増え、絆は強くなっていく。
 何があっても、離れない。そう決めた夜だった。





 養父の承諾はあっさり取れたらしい。元々有人自身が養子であるから、彼が選んだ後継者が優秀であれば、結婚して子供を作る必要は無いと納得してもらえたそうだ。
 それも、鬼道有人が二十九歳にして財閥を任せられるほどの頭脳と器を持ち、今までの努力を認めてもらえたということだ。

 挨拶へ行く提案は、不動から先に切り出した。苦手なことは早いうちに済ませておいた方がいい。それに、ここでしっかり決意を見せなければ男が廃ると、妙に矜持もあった。
 小雨の降り続く日曜日、鬼道家の庭の豪奢な紫陽花の咲きっぷりを眺めながら、数年ぶりに格調高い玄関ホールへ入った。

「君が天才の遺伝子を絶やす男か。噂は聞いているよ」
「どーも……」

 握手を交わし、にこやかにしたつもりが、少し苦味が滲んでしまったのを隠せなかっただろうと冷や汗をかいていると、意外にも養父はどこか吹っ切れたような微笑を浮かべた。

「血が繋がっていなくとも立派な後継者を育てることができるということは、よく知っているつもりだがね」

 すっかり成長して同じ目線になった養子を見て浮かべた微笑は、本物の父親のそれで、不動は少し、自分の中での父親に対する考えを改めようという気になり、自分もいつか養子を迎えても良いかもしれないとまで、うっすらと思った。

 ティールームに案内され、一人ずつゆったりと椅子に腰掛ける。フランス製の、木製の座面と背面にクッションを入れて、草花の柄を織り込んだ厚い布地が貼ってある豪華で高価そうな椅子だ。しかし布地の色合いがシックで落ち着いているため、派手には見えない。
 他にも壁紙や、家具など、部屋を見渡すと、鬼道がどういう家で幼少期から思春期を過ごしたのかがうっすらと見てとれる。
 用意していた世間話を始める間もなく、初老の執事がティーセットを銀のトレイに乗せてやってきた。優美な草花の柄が職人の手で色付けられたティーセットで良い香りの紅茶が淹れられ、砂糖の数を聞かれる。一つと答えた不動は、それが最高級のアールグレイであると知っていた。
 寡黙だが柔らかい雰囲気の執事が深々と一礼して去っていき、紅茶でほっと一息。和やかな空気の中、鬼道の養父が訊ねてきた。

「式はどうするんだ?」

 思わず、鬼道と顔を見合わせる。鬼道もまだ話を聞いていなかったらしい。

「そこまでする必要は……ありますか?」
「皆、幸せな話題が出ると、金を使いたくなるものだ」

 鬼道は少し考えていた。不動はともかく、彼はこれまで、ひどく自分の性癖を批難されることは無かった、むしろ円堂や仲間たちには早い段階で感づかれ、肯定されていたものの、自分では社会的に許されないと思い込んでいたし、養父との話し合いも十年以上時間をかけてコツコツと行ってきたらしい。指輪を嵌めるくらいは許してもらえるだろうとタイミングを見計らってカムアウトしただけで、まさかその養父に式の話を提案されるとは思ってもみなかったのだ。

「そうですね。……どうだ? 気が進まないなら――」
「いや、やった方がいいんなら、やろうぜ」

 思わず手を伸ばし、養父の前だということを思い出して途中で止まった。その行き場を失った手を、鬼道がそっと捕らえ、自分の膝に置く。重ねた手を見て養父は、やれやれと言わんばかりに微笑んだ。

「決まりだな、準備をさせよう」
「い、いえ、そんな……自分たちで、やりますから」

 式場や規模や予算の話を始めた養父に、最初は謙遜と謝意から抵抗していた鬼道だったが、鬼道家のたった一人の長男が結婚をするのだから、世間体という意味でもしっかり挙げなさいと言われ、渋々、費用の一部を受け取る、鬼道グループの式場で、最高のプランナーを付ける、という三つの条件を飲むことにした。

「明王君は、婿入りということになるが、異論は無いかね?」
「元よりそのつもりです」
「心意気は十分なようだな」

 目を見て話すトップクラスの経営者には、嘘をついてもすぐにバレる。
 逆に言えば、彼にさえ認められれば、怖いものは無くなるということだ。
 彼と執事は帰り際、二人に増えた息子たちを玄関まで見送ってくれた。

「じゃあ、日程が決まったらまた、連絡します」
「ああ、分かった。必ず出席しよう。……まったく、とんだ破壊的イノベーションだな」

 独り愉快そうにハッハッハと笑う養父を見て、鬼道が仕方無さそうにくすりと笑う。つられて笑みを浮かべた不動も、心が随分と軽くなっているのを感じた。

 指輪も鬼道グループの宝石店で購入してはどうかと養父に提案されたので、帰りに二人で下見に行くことにした。シンプルなものなら何でもいいと言う鬼道だったので、ちょっとはひねりを利かせたいと考え、素材やデザインを見せてもらい、特徴や込められた意味を長々と聞く。正直、込められた意味はどれも同じなのでどうでも良かったが、何か聞く度に裏返った声で返事をする店員が面白かった。
 店員は二人とも三十代と四十代の女性で、手が震えるほど緊張しているらしい。鬼道のファンのようで、恋人の存在もうっすらと知ってはいたが、実際に目の当たりにするとは思っていなかったのだろう。しかも、自分の職場で。

「こういうところからゴシップが漏れる。徐々に広まっていく。自分で言いふらすより、その方がいい」

 店員のほうがテンパっていて妙な感覚に包まれたが、彼女たちが離れた隙にそんなことを呟く鬼道もまた、いつになく挙動不審に見えた。
 デザインの希望や予算、アレルギーの有無などを聞かれ、薬指の太さを測ってもらい、全く同じサイズに感動して涙ぐまれたりして、さすがに不動も動揺したが、無事に予約注文をすることができた。
 マットなチタン製の平打ちリングに、ツヤのあるゴールドのラインが入った、都会的なデザイン。チタンは丈夫で錆びず、ダイヤモンドのように硬く、ずっと付けていてもアレルギーにはなりにくいという。

「熱しやすく冷めやすい、叩けば跳ね返って、引っ張ればすぐに戻る。ひねくれもので、とても手のかかる素材です」

 その説明を聞いて鬼道が意味深に自分を見るものだから、不動も意味深な目線を返し、お互いにひっそりと笑った。






・  ・  ・



AM06:45


 思いつく場所と、スルーするだろう場所と、とにかく家中隈無く探し回った。
 これまでの行動を記憶の限り書き出して、思い当たる場所を全て見た。
 どこにもない。
 まるで二人の絆をつなぐものは存在しなくなった、と言わんばかりの状況に、世界を神を、何もかもを恨みそうになったが、世界も神も言い換えれば自分自身だ。失くしたのは自分の責任。そこから逃げないように、この状況をどうすればいいのか考えるように、意識しているだけで精一杯な自分が、もっと嫌だった。

「――くそっ」

 悪態をついてクッションを投げる姿に、鬼道が心配して声をかけてくる。

「この家には無いんじゃないのか? 別の場所に保管してあるとか、誰かに預けたとか」
「預けるわけねーだろ! 車もカバンも全部見たよ」

 大声で即答したのが気に食わなかったのだろう。不動だって、この状況で今の自分のような態度に相手をしていたら、不愉快になるに決まっている。
 それでも鬼道は、黙って部屋を出て行くだけでやり過ごしてくれた。
 自己嫌悪だけがつのり、不動は頭を抱えてベッドに腰掛ける。
 自分が、いつもの冷静さを失い、不安に囚われているのが手に取るように分かった。それでもどうにもできないほど、パニックになっている。ここまでコントロールできない状態は今まで無かったように思う。
 嵌めていようがいまいが気持ちは変わらないと、鬼道は言ってくれた。だがこんな、当日の朝に大切な誓いの証を失くすような人間に、どんな気持ちを抱くというのか。
 このまま消えたい。そう思って、不動は全身の力が抜けたような気がした。
 やはり、最初から無理があったんだ。






 ・  ・  ・






 現在から二ヶ月前。
 結婚式の内容のほぼ全てがはっきりして、じわじわと高まる緊張感に、必死で耐えていた。
 六歳までの苗字が刻まれた墓石に向かい両手を合わせて、鬼道は目を閉じている。隣で同じように両手を合わせ、心の中で念じた。
 ――大事な息子さんのことを、これからもしっかり支えられるよう努力します。
 例えどんな反応をされても、本当に目の前でそう告げられたら。そう思うと、ふっと目頭が熱くなった。

 結婚式に関わる費用は、結局ほとんど鬼道家が出した。自慢の一人息子が人生において重要な公表をする場なのだから、鬼道家としての矜持も示さなければならないと。これには、鬼道は従うほかは無かった。既に同性と結婚させてくれという我儘を聞いていることを逆手に取って、養父が思いの限り尽くしたいのだと考えれば、微笑ましいことでもある気がする。
 欠席する者は縁の浅いごく一部。二人の仲間は世界中から、呼んだら呼んだだけ来てくれそうな勢いだった。



 いよいよ挙式が近づき、自分たちが行おうとしていることへのプレッシャーが日に日に積み上げられていく。だが、仲間であり友人でもある馴染みの面々が手伝ってくれ、一つ一つ不安が消えていくようだった。
 春奈は二人を全面的にサポートする態勢で、鬼道と不動が疎い装飾やケーキ、引き出物、料理など、細やかな気配りを持って色々と相談に乗ってくれた。
 披露宴の司会は佐久間と、補佐で源田に頼んだ。二人とも鬼道と同じくらいの長い付き合いで、鬼道とはもっと長く、不動よりも色々なことを知っている。特に佐久間は鬼道の親友であり、右腕であり、誰よりも鬼道のことを知っている良き理解者だったが、不思議と恋愛感情は芽生えなかったらしい。不動とも、最近では良き友人として、ふざけて悪態をつき合うほどの間柄だ。今回の大役を引き受けて、感無量といった様子だった。

 忙しい中でも、互いに浮かれた面も多くあった。一年前に引退したとはいえ、同性の元サッカー選手同士が派手に結婚式を挙げるのだから、世界中で話題になるはずだ。鬼道家というだけで注目を浴びる。相乗効果はどれほどのものだろう。そんな緊張の中で、それほど大きなことを成し遂げるのだという達成感への期待と、公表できる喜び。後へ続く者たちへのエール。
 だが、そんな付属の事柄はどうでも良かった。互いに結ばれる、それは二人の間でしっかりと認識できていればいいのであって、本当は書類も指輪も何も必要はない。ただ、二人の関係が世界に一つ小さな輝く小石を落とすことになる、それは確実に分かっていたので、許可も下りたことだし、どうせなら派手にやろうと、そんな風に思っていた。






 ・  ・  ・






AM07:30



 ――まさか、当日になって指輪を失くすなんて。
 うなだれてリビングへ行くと、鬼道がコーヒーを淹れていた。

「いま呼びに行こうと思っていた」

 優しい声に、芳しい香り。マグカップを受け取って、音を立てずに一口啜る。いつもより一時間遅いが、美味しさと温かさは変わらない。
 礼を言おうとして、不動が顔を上げたのとほぼ同時に、鬼道が口を開いた。

「もうだめだ、このままでは……。まだ9時だ。今のうちに中止しよう」

 一瞬、コーヒーの入ったマグカップを持っていることすら忘れるほど、驚いた。

「ちょ、待てって。指輪なんて形だけだって、お前が言ってたんじゃねぇか。失くしたのは悪かったけど、止めるなんて……」

 彼の気持ちを和らげたくて、ひきつってでも笑みを浮かべようとしたが、鬼道は不動を見ずに小さく首を振って、マグカップをカウンターへ置いた。

「あれは特注の名前入りだぞ! 素材にもこだわって一緒に選んだんだ……大事に取っておくならまだしも、どこにあるか分からないなんて……こんなに探して、無いのだから、中止しろということなんだ」
「は……? いや、待てよ。オレに幻滅したんだろ? はっきり言ってくれよ、大事な指輪当日に探し回ってるなんて最低だって」
「そうじゃない。お前のことじゃない」
「だったら何だよ?」

 スマホを取りに行こうとする鬼道を追う。みぞおちが苦しい。
 電話しようとした鬼道の、その手首を咄嗟に掴んで止めた。

「待てよ。じゃあ、ほら、式でやるのは別の指輪で、とか……形式上さ。本物は、後でポロッと出て来るかもしれねーし。大勢ヒト呼んじまって、こんな当日のギリギリになって、今更中止とか無理だろ?」

 手首を掴む不動の手を軽く振りほどいて、鬼道は言った。

「今から買ってきた適当な気休めに誓うくらいなら、中止した方がマシだ!」

 キッチンに響いた自分の声を聞いて、鬼道は我に返ったらしい。赤い目が見開き、怯えているのを見た。






 ・  ・  ・






 タキシードの採寸を終え、テーラーから帰った夜。

「ふど〜、この間ここに置いといた紙袋はどうした?」
「ああ、それなら書斎に入って右側の床」
「すまんな」

 書斎へ向かおうとした鬼道を追いかけて、ひとつ提案をした。

「なぁ、あきおって呼べよ。オレもゆうとって呼ぶから」
「は……」

 振り向いた鬼道が、笑いを堪えたような、妙な表情をして固まった。不動にはそれが、彼の照れ隠しだと知っている。

「イヤ、は……じゃなくて。なにいまさら照れてんの。結婚すんだろ、オレたち。ケッコン」
「あ、ああ……そうだな」

 するりと背後へ回り抱き締めると、鬼道は自分のみぞおちで交差する不動の腕をそっと握り、頬に己の頬を軽くすり寄せた。

「明王……か」

 改めて呼ばれたことによって、抑えていた照れくささが爆発する。

「有人さんのお婿さんですよ?」
「よせっ、恥ずかしい。はは……」
「今更なに言ってくれちゃってんの〜」

 ふざけて少し取っ組み合い、抱き止めて、キスをした。ゆっくりと、優しく。
 お互いに、相手と一緒ならどこへでも行けると確信していた。付き合って十年、出会ってからはそれ以上経っている。
 いたずら心で歯列を舌でなぞると、鬼道が、ふ……と軽く笑って喜びを伝えながら応える。次第に淫らになっていくキスを一旦中断するためには、ぐっと手に力を込め、互いの二の腕を掴んで離れようと意識してからも、さらに少し時間がかかった。

「変わるはずがないな、おれたちは」

 とん、と壁に背がついた。少しもたれかかってくる鬼道の体重を受け止めながら、不動はいつの間にか流れ着いたらしい寝室ドアの横の壁に背を預けて寄り掛かった。

「もし変わるとしたら、もっと開放的になりそうだ。怖い。止めてくれ」
「なにそれ。“開放的”とか。路上でセックスしちゃうやつ?」
「それは露出狂だ」
「どう違うの」
「ああ……お前に相談したおれがバカだった」

 くすくす笑って、またキスをする。

「確かに、十年前と比べるとおまえ、随分と“開放的”になってるよな」

 そう言って紺色のポロシャツごと腰から脇腹を撫でると、くすぐったそうに身をよじりながら鬼道は言った。

「猫を被らなくなっただけだ」

 それからドアを開けて、二人で寝室に入って、服を脱ぐよりも先に手足を絡めたために脱ぎづらくなったり、くすぐりすぎて暴れたため二人ともベッドから落ちそうになったり、笑い声が響いたりした。






 ・  ・  ・






AM07:57



 ソファに移動して、いつになく丸い鬼道の背に片手を添える。

「ごめん……」

 このまま床へ座って、鬼道の膝に額をつけたら許してもらえるだろうか。どうしたら許してもらえるだろうか。そんなことばかり高速でぐるぐると考えていると、もう少しで床に移動しようというとき、鬼道が言った。

「違う。おれのせいで無くなったんだ」
「は……?」
「全部おれが悪いんだ」

 俯いたままの鬼道の手が、ぎゅっと膝のパジャマを掴む。両手を伸ばしてその手を掴み、不動は静かに叫んだ。

「そんなわけねーだろ!」

 鬼道は顔を上げない。不動は、床に下りて正座し、鬼道を見上げる格好で言った。

「オレが原因なんだよ、全部。失くしたのもオレ、その原因を作ったのもオレ」

 鬼道の眉間に、不可解だという時のシワが刻まれる。それを見て、懐かしく思いながら、不動は苦い笑みを浮かべた。出会った頃、鬼道はよく、そんな顔をしていた。

「バチが当たったんだよ……。それに、お前を巻き込んじまったんだ」
「何の話だ」
「オレはずっと、出会った時から、鬼道有人を独り占めしたかった。結婚したらそれが叶うと分かって、けっこう有頂天になってた。トントン拍子に運びすぎて……いつものオレだったら、もっと慎重に過ごしてたかもしれねーのにな。こういうの、筋金入りのバカって言うんだろ」
「何を言ってるんだ……そんなの、」

 否定しようとした鬼道の言葉を遮って、不動は言葉を続ける。

「関係ないって、そう言ってくれるだろうけど、事実はこのザマだ。せっかくの指輪失くして、テンパって、お前に迷惑ばっかかけてる。こんなんじゃ……パートナー失格だろ」

 鬼道は少し考え、首を横に振った。
 すっと両手を抜いて、今度は不動の手が包まれる。

「本当は、最初から無理なんじゃないかと思っていたんだ。だから、おれのせいだと言った。おれが隠していた不安が、お前に伝染ったんだと」

 そうじゃないと心の中で叫んだ不動の声を、まるで聞いたかのようで、鬼道はふっと微笑んだ。

「式だの、イベントだのは全て、外的要因だろう。そんなの本当は関係ないんだ。ただ明王と結婚したかった」

 ぎゅ、と重ねた手に、力がこもった。

「お前と家族になりたかったんだ……」

 不動の肩に額を乗せて、鬼道はゆっくりと長い息を吐いた。
 その背を撫でて、しっかりと抱き締める。

「馬鹿だな、オレたち」

 とっくに、答えは知っていたのに。

「お互いに気を遣いすぎててさ。馬鹿みてェ」
「フッ……そうだな。馬鹿同士でお似合いじゃないか」

 鬼道は曲げていた上体を起こし、不動の頬に片手を添える。

「このまま、本当にドタキャンして、二人で先にハネムーンへ行くか?」

 それは彼にしては珍しい皮肉で、不動は思わず顔を綻ばせた。

「なにがどう変わっても、オレは有人といたい」

 鬼道はふっと微笑んで、不動の唇に唇を重ねた。

「どんなに変わっても、おれはその望みを叶えたい」






AM09:37



 とりあえず式だけはせっかくだから挙げよう、指輪は何とかしてもらおう、後でちゃんとしたものを新しく作ろう。
 いずれにしても指輪で誓うわけじゃないのだから。
 ということで、式場へ急いだ。
 客人たちが来やすいよう、都内の一等地にある教会風の建物。式場と、披露宴会場、来賓室、新郎新婦の控室などが、全て揃っている。
 タクシーを下りると、入り口の門の前で、鬼道が選んだ白いミニドレスを着た春奈が待っていた。

「おはようございます、二人とも」

 眩しいほどの笑顔を湛えた彼女が手に持っている小さな箱を見て、不動と鬼道は挨拶もできないまま固まった。
 二人の心境が分からない春奈は、首を傾げる。

「あれっ、どうしたの?」
「いやッ……何でも……何でもない……」
「お前なぁ……っ」

 安堵に涙が滲んで、思わず二人で抱き合った。
 その白いビロード張りの箱には、互いの名前が内側に刻まれたチタンのリングが収められている。
 三日前、不安が頂点に達した不動は、鬼道に黙って指輪を春奈に預けた。もしも自分が正気を失ったら、これはどこかで溶かして刃物に変えてくれと一言添えて。

「なんで覚えていなかったんだ……!? おれにひとこと言ってくれれば……!」
「言えたらこんなことしねーよ! パニクりすぎて記憶障害が起きるみてーだから、今後も気を付けてくれよな」
「何をふざけたことを……」
「あの、大丈夫?」

 抱き合ったまま泣きそうな顔で大の男二人が喚くのを見ていた春奈が、再び首を傾げる。

「大丈夫だ。何の問題もない」

 鬼道の肩を抱きながらぐっと親指を立てて、不動が言う。

「春奈のおかげで、何もかも万全だ。お前は大丈夫か?」

 鬼道が兄として一応尋ねると、春奈は一瞬きょとんとしてから、ふわりと微笑んだ。

「うん。全然大丈夫よ。今日からお兄ちゃんが二人になるだなんて、私は宇宙一幸せ者だもの!」
「春奈……」

 思わず妹を抱き締め、鬼道は微笑んだ。不動もまた、そのまま胸いっぱいに溢れる、気持ちが通じ合う感覚に浸る。
 書類や物では、語ることのできない感覚。

「ちょっと、急がなくちゃ! 目標達成までには、まだまだ準備があるんですよ」
「はい」

 口を揃えて健気な返事をしたお互いの顔を見合わせ、ふっと笑う。
 もう既に、ゆるやかなカーブを描いて、変化は訪れている。あまりにも心地よすぎて、気付かなかっただけ。
 空は抜けるような快晴で、スズメたちがさえずっていた。






Congratulation!








2017/06


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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki