<たとえ運命が切り裂こうとも>






 満月が透き通った光を湖に落としている。
 その湖面を窓越しに眺め、鬼道はランタンの灯りを消した。幼い頃はスペルを覚えるために一生懸命唱えていたが、成人の儀を控えたいまは手をかざして、撫でるように動かすだけでいい。
 鬼道には能力があった。それはこの美しい村で生きていくために、必要な力。
 机の上に置いた水晶玉は、牡羊の台座に据えられている。丸椅子に座った鬼道が両手をかざすと、暗闇の中で碧い目が二つ、妖しく輝いた。

「Anam Mòr, seall dhomh na dh’ fheumas mi fhaicinn.」

 囁くように唱えると、水晶玉の中に色水を落としたかのように霞が広がり、小さな台風のようにぐるぐると渦を作った。そして、ゆっくりと雲が晴れていき、鮮明な映像が映し出される。
 若い男が走っているところだった。
 一人で、何かから追われているようだ。
 鬼道は息を呑んだ。

「不動……!」

 胸が締め付けられ、息苦しさに耐えながら、目を見開いて凝視する。
 栗色の髪を無造作に顎まで伸ばした頭が、急に仰け反って止まった。その背には狩人の放った矢が三本突き刺さっている。
 不動は膝を折ってうつ伏せに倒れ、痛みにもがいた。そこへ村人たちが追いつき、彼の首に聖なるロープで作った処刑の輪をかける。
 罪人の木まで引きずられていく苦しげな不動の細くなった目が、溶けるように薄れていき、水晶玉の中は元の霞に戻った。

「そん……な……」

 鬼道は闇に包まれた部屋の中で、しばらく動けずにいた。
 これから知るべきことは、二日前にやってきた旅芸人の一行に、狼が居ないかどうかのはず。なぜ不動が関わっているのだろう?





 台所の横にある裏口の戸を、コンココンコン、とノックする小さな音がした。あの叩き方をするのは、一人しかいないと知っている。
 鬼道が動けずにいると、客は勝手に入ってきた。もともと、彼が来ると知っていたから裏口の鍵を開けておいたのだ。

「よお、いるか?」

 少し甘えたような、明るい声が控えめに響く。もしもここに第三者がいたら、どうするのだろうか。警戒心がなさすぎる、と鬼道は唇を噛んだ。そんなふうに油断するまでにしたのは、自分だ。
 部屋の中は、窓の外に降り注ぐ月光のおかげで、真っ暗闇ではない。

「なんてカオしてんだよ」

 灯りもつけずベッドに座ったまま動かない恋人を見つけ、不動は低い声で怪訝そうに言った。

「何でもない」

 窄まった喉からやっと声を絞り出すが、いつも通りには到底振る舞えない。

「何でもないわけねーだろ。死にそうな表情だぜ」

 外気で冷え切った指先が頬に触れた。冷たいはずなのに、ぬくもりを感じる。体温と生命、そして優しさ。
 鬼道は押し返そうとした。

「やめてくれ……やめてくれ!」
「どうした?」

 不動は雪で湿った外套を脱ぐと、隣に腰掛けた。さらにぬくもりに包まれ、拒絶は困難になる。
 どんなに拒絶しても、ずっとドアの外で待ち続ける犬のようだ。

「おまえが、吊るされるのを視た」

 どうしても声が震えてしまう。
 少しの沈黙が流れる。

「ハッ……そういうことか」

 どこか諦めたような声で呟いた後、長いため息をついて、不動は静かに言った。

「オレはいつ吊るされてもおかしくねェって思ってる」
「そんな……っ、おまえは……!」
「気付いてたんだろ?」

 不動はこの村の外れに住んでいるが、人間でありながら、完全に味方とは言えない部分がある。狼が来ても村を守る気は無い。

「だが……っ」

 本気を出せば霊媒師や占い師のふりをして、村を乗っ取る狼の計画を手助けすることもできるはず。だが不動は何もせず、村外れの小さな小屋で、他の村人たちと距離を置いて暮らしている。

「おれが視たのは、おれの不安を具現化したものに過ぎない。現実に起こることを予知したわけじゃないんだ」
「でも、オレがいつ吊られてもおかしくねェって、おまえも思ってンだろ」
「吊られてほしくない」

 必死に、鬼道は彼の服を掴んだ。

「こんなふうに、おれが……」

 感情が噴き出して喉が詰まる。

「好きになってしまったから、おれの中の罪悪感が、きっと」

 震える手が、ゆっくりと不動の服を放そうとする。その手を、上から抑え込むようにして包まれた。

「鬼道」

 目を閉じると、大粒の涙がぼろぼろと膝へ落ちていく。

「こうなると分かっていたはずだ。好きになんか、なりたくなかったんだ……」
「オイ、鬼道」

 両肩を掴まれ、やっと口を閉じて不動を見る。さっきまでとは全く違う表情をしていた。

「もうやめろ」

 目の前の深いエメラルドグリーンは、真っ直ぐに自分を見ていた。
 落ち着かせるように、慰めるように、触れるだけのキスをされる。

「オマエは何も間違っちゃいねえよ」

 濡れた頬が温もりを求める。鬼道は彼の腕にしがみついた。
 いつもより口付けが丁寧で長いと感じたのは、気の所為だろうか。どうしようもなく、鬼道は指先に力を込めた。

「ん……っふ……」

 着ているものを脱いで、舌で誘うようにキスを返すと、まだ心配げな目で見ながら、不動も服を脱いでいく。

「おれは……自分の心に嘘はつけない」

 ベッドの上で寄り添う。肌が触れ合うたび、全身が燃え上がるようだ。

「オレも、今はつきたくねェな」

 いつもはこれほどまでにくるおしく昂らなかったはずだが、今夜は特に切なさが勝ってしまっている。満月のせいだろうか。
 腰に回される手に歓喜を感じ、ゆっくりと押し倒す彼の髪を眺め、絶望の足音を聞く。

「不動……」

 この熱さは、本物だ。唇を合わせ、舌を絡め、互いの姿をまさぐり合う。ずっとずっと求めていたもの。
 生命を燃やすうち運命が二人を繋いだなら、なぜ引き裂こうとするのだろうか。
 





 部屋に立ち込める空気はまだ熱を持っている。鬼道は隣に横たわるむき出しの肩に唇を付けた。

「不動……どこにも行かないでくれ」

 答える代わりに、不動はしっかりと腰に手を回し、深く深く口付けた。

「心配すんな。ヘマしねえよ」

 それからぽつぽつと、他愛のないことを話したが、不動はいつも長居しない。

「じゃあな、また来る。鍵かけとけよ」

 それ以上は引き留めることができず、開いた口から言葉が出て来なくなってしまう。鬼道は口を閉じて伸ばしかけた手を握りしめ、別れのキスを受けて不動を見送った。





 外套に袖を通し、不動は空を見上げた。真夜中の静寂に、丸い月が輝いている。
 森の中を進んでいくと、行く手の木の幹に寄りかかっている男が見えた。

「どういうつもりだ」

 白金の焔のような髪が月光に照らされて、ことさらに美形っぷりを強調している。狩人は言った。

「鬼道につけ込んでなにかする気なら、ただじゃおかないぞ」
「落ち着けよ。そういうんじゃねェって」

 両手を開いて、受容を促すかのように。

「……オレは人間だよ、あいつに嘘はつかねえ」

 訪れた静寂を切り裂くように、遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
 豪炎寺は遠吠えの聞こえた方角を睨む。

「なら良いがな」

 マントをひるがえすと、豪炎寺は弓を握りしめ走って行った。
 今日は満月だ。狼が最も活発になる夜、狩人たちは総出で村の警備に当たっている。
 不動に狩人や猟師のスキルはない。だから大人しく家の中で、鍵をかけて、眠れない夜を過ごすしかできないのだ。
 ――それとも。
 村外れにぽつんと建っている、不動が響木村長から借りた家が見えてきた時。

「おい、ニンゲン」

 振り向くと、一星が立っていた。月光に照らされた青い瞳が、妖しく光っている。
 不動は驚いたが、すぐに、フッと挑戦的に口を歪めた。

 たとえ運命が切り裂こうとも、この心は、魂は、共に在る。

(続きません)








2021/02


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