<スウェット鬼道くん>
高校生活の間に、オレと鬼道はいわゆる、そういう仲になった。何でだかは分からないが、鬼道がそっちの気を醸し出していたのか、オレの下半身が相手を選ばなさすぎたのか。長く続かないだろうと思って、気軽に始めただけ。実際、高校を卒業してからは渡欧したりあちこち移籍したりと忙しい日々が続いたので、色恋沙汰にうつつを抜かす余裕なんてなかった。
それでも若さというのは恐ろしいもので、留まるところを知らない性欲は片道二時間の特急に乗ることだって何とも思わずに、互いのスケジュールを調整しては中間地点の町の狭いホテルで密会したこともある。
こんなところはもうこりごりだと鬼道がキレて、それからはちゃんと予定を立てて互いの家に行くようになった。今思えば、ずいぶん回り道をしてしまったと思う。
家に行き来するようになっても、やっぱりキツくて、それでも止められない自分の気持ちを整理できず、鬼道に八つ当たりしてしまうこともあった。
しばらくは些細な喧嘩も戯れのうち、鬼道が反撃してくるのもかわしていたが、人生、タイミングの悪いことは重なるもので。
ある時オレがミーティングに十回目の遅刻をしたのをきっかけに、慣れてきていたチームをクビになった。それを隠してただ南米へ移ると言ったら、鬼道は黙っていた。きっとジェネラルマネージャーから、何があったか聞いていたのだろう。
離れたことは、まあまあ効果があった。オレは心の底から反省し、鬼道に毎日メールしたい気持ちを堪えた。鬼道からも、何も来なかった。誰か別の奴と一緒にいる妄想を必死で追い払いながら、何とかまともな経歴を作り二年で欧州へ戻った。
ところが、やっと戻った時には、鬼道は日本へ帰っていて。落胆する間もなくオレも後に続き、円堂に頼まれた問題をみんなで解決して、鬼道のそばで少し居心地悪い空気を吸い、今に至る。
どちらが先だったか、松風たち子供の相手や昔のメンバーの相手をしている間は話すことなど何も無かったのだが。打ち上げを終え二次会へ行く連中を見送り、さあ帰るぞという段階になって、いざ顔を合わせるとそうはいかない。路地裏で待ち伏せ、近付いて、触れたらもう駄目だった。
誰かに見られるかもしれないと思いながら、とにかく体のどこかで触れるのを止められなくて、爆発しそうな熱にオレはやっと気付いた。世界一こいつのことを想い続けてきたんだと。
離れていた期間はたったの二年。けれど高校時代から考えると、離れていた期間の方が長かったように感じる。
オレは今、もうすぐ二十五歳になろうとしていて、鬼道の持つマンションの一室でのんびりとコーヒーを淹れようとしている。実は昨日までスペインでチームミーティングに出席していて、ついさっき帰ってきたところなのだが、飛行機で爆睡したから全然眠くない。時差ボケ無く日常へ戻れそうだ。
「オハヨ」
「ああ……おはよう。おかえり」
「ただいま」
鬼道が起きてきた。朝はあまり得意ではないらしく、自慢の頭脳がフル回転を始めるためには、絶妙な濃さの一杯のコーヒーが必要だ。
おかえりの一言がなんだか妙に嬉しくて、オレはコーヒー豆を電動ミルで挽きながら喜びを噛み締めていた。
湯を沸かしている間、旅先の他愛ない話でもしてやろうと思い、振り向いて鬼道を見る。予想していなかった彼の姿に、思わず五度見した。
「それ、さぁ、」
あくびを噛み殺した眠そうな鬼道が、ハッと一気に深刻な顔つきに変わる。
「ま、間違えた。すまない」
話が見えないが、今鬼道が着ているのは二年前オレがイタリアのアパートに置いていったスウェットで間違いなさそうだ。待てよ、ここは日本だったよな。なぜそれがここにあるんだとか、なんで着ているんだとか聞きたいが、恋人が自分の服を着ているという事実に驚きすぎてしまって、喜ぶのも追いつかない。ついでに言うとちょっと、というかかなりボロいので、鬼道には着て欲しくなかったという微妙な残念さもある。
「いや、オレそれ捨てなかったっけ……」
「置いていったんだ」
「で……、なんで捨ててないの?」
「お前の物だろう」
「捨てていいっつったじゃん。あンとき聞いてなかった?」
「ああ、聞いていた」
「じゃあなんで今着てんの?」
「だから、間違えたんだ」
無性に恥ずかしくなってきた。鬼道はすぐバレるウソをついている。それがどんな理由にしろ、鬼道の気まずそうな、どこか照れくさくて堪らなそうな雰囲気からして、恥ずかしいのは明らかだ。もうツッコむのをやめて見なかったことにすればよかったのに、オレは追及を続けてしまった。
「絹のパジャマとは間違えないだろ」
「最近、シルクは肌がざわざわして落ち着かない」
「それで?」
「だからオーガニックコットンのパジャマにした」
「いや、それだってコレとは間違えないだろ」
「誰だって間違える時はある」
「ウソだろ」
カウンターに寄りかかって全部話すまで動かないぞと言いたげなオレをちらっと見て、鬼道は観念したように俯いて言った。
「……眠れなかったんだ」
それだけで答えは推測できたが、理解して認めるためには、もっと自己肯定感が必要だと感じた。
「お前が、居ないと」
「は?」
思わずもう一度見た。鬼道を、胸から裸足のままの足元まで。記憶が正しければ、その薄いグレーのスウェットの上下は、安売りしていたのを買って十八歳からずっと着ていて、もう小さな毛玉はいくつも出来ているし、裾を踏んで引きずって歩いていたからボロボロになっているはず。鬼道が着ているスウェットは、その通りの見た目だった。
「だから、これを着れば眠れると思った」
「……で?」
鬼道は答えず、その代わりに視線を逸らしたまま、呆れたように少しだけ微笑んだ。
「この一週間も、お前が居なかったから」
いちいちソレ着て寝ていた、と。
不動は思わず、長い溜息を吐いて頭を下げ、顔を覆った。がっつりと歯を食いしばる。変なニヤけ面になってしまいそうだ。いや、なりかけている。
一瞬歓喜の渦が収まった瞬間、真顔を意識して、鬼道に尋ねた。
「お前さぁ、今一番食べたいものは?」
「え? そんな、急に言われてもな……」
鬼道は面食らっている。そりゃそうだ、話題がいきなり変わったように感じるだろう。しかも真顔で。
「いいから。イクラが乗ってる鯛めしか? 一杯五万の海鮮丼か? それともパンケーキとかか? なんかあるだろ」
「煮魚と豆腐の味噌汁……」
「よし、他には?」
だんだん、オレが何を意図して聞いているのか、分かってきたらしい。鬼道は嬉しそうに微笑んで答えた。
「いつものやつだ。お前の味付けで」
「分かった。顔洗ってこいよ」
本当はもっと贅沢な要求をしてほしかったが、今は思いつかないだけかもしれない。とりあえず呑んだことにしておく。
オレはカウンターに寄りかかっていた体を起こし、背を向ける。
「あと、それは捨てて新しいの買え」
「いやだ! このクタクタ感は、新品では出ない。着心地がいいんだ」
わがままな二十五歳に秒で抵抗され、また呆れて向かい合う羽目になった。鬼道は腕組みをして立っている。
仕方なく、オレは鬼道の後ろのソファを見、壁を見て、ヤカンを見てから、視線を戻し、鬼道に不意打ちっぽくキスをした。本当はずっとずっとしたくて堪らなかった。
うなじをそっと指先で撫でて、ささやく。
「オレの臭いなら毎晩たっぷり染み込ませてやるよ……」
顔面に食器拭きが押し付けられ、視界が真っ暗になった。
そして、ヤカンの湯が沸騰し始めた音と、鬼道が怒った様子でドカドカと洗面所へ歩いていく音がする。あれは照れ隠し。食器拭きを押し付けられる前からのニヤけ面は隠せていなかったなと思いながら、自分より鬼道の方が恥ずかしがっていると思うと、そんなことはどうでもいい。
オレはニヤニヤしながら、沸騰したまま数秒放置されて呆れ始めたヤカンの火を止めに行った。
問題は、いつ新品にすり替えるかだ。
おわり
2019/05