<予約は一生分でお願いします。After>

 付き合い始めてどのくらいだろう、出会ってからは丸三年が過ぎた。オレは二十七歳、仕事は絶好調で、同世代の友達の結婚式に呼ばれる頃。しかしオレの恋人は男だ。それも、世界的に有名な超の付く天才ゲームメーカー。
 若くして日本を代表する最高峰の司令塔で、所属したチームは無敗を誇り、ピッチでもベンチでも彼が居れば悪魔も滅ぶと言われているその人が今、ちょうど隣でお気に入りの深緑のバスローブに身を包み、苦労して伸ばしたのをオレが丹念に巻き上げた自慢のドレッドをタオルでぽんぽん叩いている。
 風呂上がりで上気した肌からは高級石鹸のハーブの香りがほのかに漂い、サングラスを外したせいでよく見える顔は心なしか気が抜けて緩んでいる。彼のこんな姿が見れるプライベートゾーンに居るのはオレだけだ。

 オレだけが知る彼の姿は増えた。前戯をみっちりすると恥が先行して真っ赤にとろけてしまうこととか、頭を撫でられるのが好きなこととか、ベッドの中では然り気無く下の名前で呼んでくることとか。
 オレは三年前は都会によくいるチャラチャラしたしがない美容師だったが、かの鬼道選手の完璧なスタイルを維持しているドレッドのプロと評判が高まり、世界的に有名なラッパー(好奇心と独占欲が旺盛な新しいものに敏感なアメリカ人)がわざわざ訪れたりしたもので一気に話題になった。店は小さいもんだから、既に半年先まで予約が入っている。

「アンタのおかげだよ」

 確かに忙しいが、こなせない範囲ではないし、何よりやりがいがある。そう言ったら鬼道は枕の上で、猫科のような切れ長の赤い目をふっと細めた。

「才能があるからな」
「んー。アンタの髪が世界レベルでややこしいせい」

 くすんだハニーブラウンをもてあそぶオレの手を捕らえ、笑ってゆっくりキスしてくれた。その時に感じた、まさに今オレは人生を謳歌している。



 ***

 お抱え美容師と一緒に住み始めて二年程経っただろうか。女性相手ならともかく、記念日など儲けないから正確な日付は覚えていない。ただふと寒くなると、出会った頃を思い出すのだ。
 不動は以前より忙しくなった。何よりなことだが、帰ったら風呂に入って寝るだけの生活では、ろくに話もできない。一緒に住んでいなかったら電話もできないかもしれないと考えて何とかやり過ごすそうとしたが、やはり難しい。唯一共に過ごしている時間は彼が休みの日くらいで、それでも日常生活の諸々に埋まってしまう。
 プロサッカー選手は、試合以外の日は暇が多い。言い換えれば休息であり体を休めるための必要な時間というわけだ。おれは義父の仕事も少し手伝っているから手持ち無沙汰になる時間はほとんどないが、美容師とは生活リズムが違いすぎる。
 まず彼らは朝が遅い。おれは早朝のランニングを日課にしていて、そこから一日が始まる。だが恋人の帰宅時間が遅いので、就寝時間と起床時間を不承不承一時間ずつ遅らせた。唯一、やっと手に入れた幸福にゆっくりと浸れるのがベッドの中だ。しかしそれでも、寄り添って眠れるだけマシという感じがしなくもない。
 これ以上を望むことが我儘なのだろうか。

「お前の鯛飯が食べたい」

 呟いてみたが反応はない。見れば既に寝息をたてている。その額にかかる肩まで伸ばした栗色のくせ毛をそっとよけてやりながら、言い様の無い感情に支配されていくのを何とかして食い止めようと心が働く。
 二十七年間生きてきて、サッカーだけに全力を捧げてきたおれにとって、愛は特別なものだった。だからこそ失うことに対して敏感になってしまう。
 こいつが有名になるのは誇らしいが、その分、取り囲む人間が増える。初めに、おれにとって一緒に住むという意味も、浮気は嫌いだということも伝えてあるし、そもそも奴は浮気できるような性格ではないと思うが、漠然とした不安は擦っても洗っても消えない。
 人は実体の無いものに不安を感じる。愛や友情や約束をどうにかして形にしようとするが、家や文章や宝石にしたって、やはり物体と感情は別物だから限界がある。価値のあるものであればあるほど疑惑が深まり、疑いだせばきりがない。だから確認が必要になるのだ。
 どうしたらずっと変わらない関係でいられるのか?変化するのが常の人間にとって、変わらないでいることは難しい。おれはあどけない寝顔を眺めることで少しでも自分を安心させようとした。



 ***

 周知の事実だと思うが、この業界にはゲイやおネエが多い。だからオレは、彼らの持つ雰囲気や価値観に昔から慣れていた。
 オレの師匠は今も故郷で床屋をやっているが、かれこれ四十年付き合ってる男の恋人がいる。その恋人は元同級生の今は刑事で、いやがらせの捜査を頼んだ時に再会し、色々あって現在の状況に落ち着いたらしい。詳しくは知らないが、腐れ縁と言っていた響木さんは男らしい情に厚い人だ。男にしか興味が無いと言っていた。しかし自分の仕事に誇りと信念を持っていて、何の取り柄も無くブラブラ田舎町の掃き溜めでうろついていたオレを拾い、何もねぇなら何かやれと鋏を持たせてくれた。
 都会へ出たオレは、響木さんの知り合いに色々と世話になった。きらびやかな大通りで宝石店を営むそこの若い店長は、見た目は男で中身は完全に女。女装する奴としない奴と色々いるけど、しろ姉はしない。素のままで十分美人だからだ。

「あっきー! 久しぶりっ」

 月曜日の夜九時、スタッフも帰ったというのに突然、近くを通りかかったからという理由で閉店後に入ってきた。ムートンブーツにラメ入りのブラックデニム風レギンス、白いハイネックセーターにファー付きのシルバーのダウンジャケット。相変わらずなのを確認して、オレは口角を上げた。

「よお……元気そうだな」
「ちょっと! 元気なんてもんじゃないよ! あっきーがとうとう結婚したって言うもんだからもうボク、嬉しくって! アツアツな二人のせいで実家の雪も溶けちゃうよっ」
「おいおい、やめてくれよ……つうか、別に結婚したわけじゃねぇって」

 彼、吹雪士郎は高級ブランド群を相手にする一流宝石デザイナーだ。恋人はイタリアで活躍中のストライカー、ドラゴン染岡。不動が独立してからも色々と世話を焼いてくれ、たまたま遠距離恋愛でサッカー選手が恋人という共通点ができて、大体一方的だが何かと相談したり連絡する頻度が増えた。

「あ! なにこれ、指輪してないの? うっそ、信じらんない!」

 そう言ってオレの手をじろじろ見るしろ姉の左手薬指には、小さなダイヤが連なった華奢な銀色が輝いている。彼が芸術だと豪語する派手なアクセサリーとは違い、影でひそやかに輝いている。それが結婚指輪だとは聞いていなかったが、会う度に違う服を着て同じ指輪をしている彼を少し観察すれば分かることだ。

「だから結婚したわけじゃねぇって……居候生活も二年目だよって話が何でそうなるんだよ?」
「結婚してないなら愛人生活じゃないの?」
「んなわけねーだろ」

 からかいを受け流して、そんなわけがないと信じきっている自分がいることにひとり驚く。それもそのはず、あれでいて鬼道は分かりやすい。不器用でかなりの奥手だが、サングラスの下は感情豊かだ。この小さな島国を格調高いサムライの国として独特の謙虚さも持ち合わせながら誇り高く世界に君臨させた鬼道有人が甘えた声で名を呼んでくるのだ、自惚れない方がおかしい。

「大体、指輪なんて喜ばねえんじゃねぇかなぁ。アンタと違って、女扱いすると怒る」

 左手をひらひらと見せつけて、しかしその笑顔が本当に幸せそうで許してしまう。

「これはね、いつどこにいても竜ちゃんを感じられるお守りなんだ。モノに頼るのはよくないとか言うけど、遠距離でも近距離でも同じだと思うな。バランスが大事ってことだよ」
「バランスねぇ……」

 半信半疑で呟くと、吹雪は少し口を尖らせて言った。

「愛なんて油断してるとすぐ壊れちゃうんだからねっ。料理だって鍋から目を離したら焦げるでしょ? おんなじだよ。だから確かめあうんじゃない」

 例えが分かりやすかったこともあり、けっこうグサッときた。思い当たる節がある。自分のことしか考えていなくて、相手も同じように感じていると思い込んでいたなんて、なんという都合の良さだ、浅はかすぎる。

「気をつけなよ。どうせあっきーが惚れるんだから美人なんでしょ、しっかり捕まえとかないと。どうなっても知らないよ」
「おい……シャレになんねぇよ」
「という訳で、今から下見に来ない?」
「はあ?」

 笑顔の吹雪には誰も逆らえない。





 ブランドショップが立ち並ぶ大通りに面した小さな店、ICE GRANDは氷を象った紋章をサインに、小さいながらも輝いてひときわ目立っている。とっくに閉店した店の鍵を開け、吹雪は中に入った。壁一面に氷のようなショーケースが連なり、それぞれブローチやネックレスやリングが美しく見えるよう演出を加えて、目の飛び出るような値札と共に展示されている。まるで氷の中に閉じ込められた宝石だ。
 吹雪はレジの下から分厚いクリアファイルを取り出し、カウンターに広げてめくり始めた。様々なデザインの指輪がちらちらと現れては消えていく。

「これもイマイチ、これもイマイチ……ねえあっきー、いっそのこと僕がオリジナルデザインで作るよ」
「何も、そこまでしなくても……」
「だってこれって、お金と暇を持て余した奥サマ向けなんだもん。どう見たって、イケメンが慎ましい愛の証にさり気なく身に付けるって感じじゃないでしょ?」
「そう言われても……まあ確かに、こんなのやっても絶対着けねーな……」

 大きな石が存在を主張するものとか、流線形で華奢な作りのものとか、そもそも石がハート形をしているものなど言語道断である。

「でしょ! だから着けてもらえそうなやつ作ってあげる」
「いや、だから……」

 ポケットで携帯電話が振動した。ディスプレイを見れば鬼道からの着信と表示されている。

「まあまあ、任せなさいって。僕はちゃあ~んと分かってるから。来週のクリスマスに間に合うようにしてあげるっ」

 鼻歌を歌い出しそうな吹雪に片手を上げて、電話に出た。

「何?」
『何?じゃない。メール見てないのか?』
「メール? わり、見てない」

 メールなんか来てないじゃないかと思ったが、もしかしたらセンター止まりかなんかになっているのかもしれない。こんな時に。電波よ、ちゃんと仕事してくれ。

『……今どこだ』

 何だかやばい気がするが、電波のせいにしてはいけない。

「あー……友達といる。けど、すぐ――」
『何? なぜ連絡しなかった』

 吹雪が耳を近づけてくるので、押し戻して離れた。

「シャッター下ろす前にいきなり来てさ。昔世話んなった人なんだよ」
『だが。……連絡くらいできただろう』
「メールなんか来てないぜ。なあ、そんなことくらいで怒るなよ。もう帰るから」

 言ってはいけないセリフを言ってしまった。鬼道は常に落ち着いていて何があっても騒いだりしないが、怒ると少し声が低くなる。

『そんなことくらいって何だ。お前にとってはそんなことくらいなのか?』
「いや、そういう意味じゃ――」
『もういい。お前がどこで何をしようが、好きにしろ』

 しまった。電話が切れて、冷や汗が流れる。

「悪ぃ、オレ、帰るわ」
「出来上がったらメールするよ」
「しろ姉。――ありがとな」

 全てを理解している優しい微笑に見送られ、不動はきらびやかな宝石店を後にした。





 何となく嫌な予感がしつつ速足で帰ってきたが、嫌な予感は的中した――と言うより、深刻な事態だと分かっていたのに認めたくないだけだったのかもしれない。恐る恐る鍵を開けたが、ドアが開かない。普段使わないチェーンロックが掛かっていた。

「マジかよ……有人! 開けてくれよ。なあ!」

 手も入らない隙間から中に向かって叫ぶ。これじゃまるで、浮気したダンナと普段から鬱憤の溜まっていた妻だ。まさか勘違いされているのではと血の気が引いて携帯電話を取り出した時、廊下に鬼道が現れて少しホッとした。

「なあ有人。こんなとこでガタガタやんの近所迷惑だから。開けてくれよ」

 ドアの隙間から苦笑すると、鬼道は腕組みしてその姿を眺めたあと声だけで笑った。

「ふん、なかなか似合っているぞ」
「似合ってるかもしれないけど、開けてくれよ」

 ちょっと冗談ぽく卑下したのが、ここは効いた。逆効果の場合もある。

「なんか誤解があるみてーだから、ちゃんと話そうぜ?」

 さらに優しく言えば、渋々仕方ないといった様子の手がチェーンを外した。
 中に入ったら、カバンを放り出してすぐに腕の中へ捕らえる。抵抗には遇わずに、むしろわずかだが抱き締め返された。安堵と同時にどうしようもない愛しさが募り、それはそのまま腕の力に表れる。背後で静かに重いドアが閉まった。

「ゴメン」
「ん」

 仲直り完了。一言で済むのは、お互い効率主義で、言い争う時間が無駄だと分かっているからだ。

「メール返ってこない時点で電話すりゃ良かったじゃん」

 腕の力を抜いて耳元で囁くのを楽しむように言うと、弱い声が迷いながら言った。

「そんなことで、いちいち――」
「あ、今、そんなことっつった?」

 覗き込もうとした顔を背けられた。どうやら勘違いされていたわけではなさそうだ。また一つ、自惚れたくなる。

「来月から休み増やす。そんで去年みたいに年明けに連休取って、どっか行こうぜ」

 鬼道が顔を上げてやっと目を合わせた。靴を脱ぎながら、すかさず先手を打つ。

「別に、そんなことで帳消しにしようとか思ってねーけど。スタッフ休ませねぇと、今日とかもだいぶキてたからさ」

 一番キてたのは自分だとは言わず。

「そういうことは早く言え」

 彼はまた腕を組む、だが声は少し柔らかくなった。

「オレさぁ、考えてることを口に出すのキライなんだよ」

 駄々をこねる子供みたいに言ってみる。自分でも情けない声だと思ったが、そのおかげかどうか、ちょっと哀しげに睨みの一瞥をもらっただけで済んだ。

「重要なことは言うべきだ」

 曖昧に頷いて、ばつの悪そうに唇をへの字に曲げる。鬼道はちょっと微笑んだ。

「だが、おれも……すまなかった。少し子供じみていたな」
「何が?」

 このタイミングでリビングへ向かってゆっくり歩き出したのは、用があるからというより何かを誤魔化したいからだと思う。その証拠に、心許ない声が言った。

「お前がどんどん有名になるから……少し、その――不安になってな」
「あ? なんの不安?」
「だから――」

 不動がついて来るので誤魔化すのを諦め、立ち止まると小さな溜め息がこぼれた。負い目があるので、不動は少し甘やかす。

「オレが有名になったとしたら、アンタのおかげだよ。だけどまあ、オレだって腕は磨いてるから、箔に恥じない技術を持ってるつもりだぜ? 一流のお客を抱えるのは一流の店だけだからなァ」
「ああ。おれも嬉しい」

 落ち着いたところで、ソファに座る。大の字になって体を伸ばす不動を、鬼道は立ったまま見ていた。

「お前は――不安にならないのか?」

 ソファに凭れて、後ろに立っている彼を振り返り見上げる。

「ウン、なるよ。でも、すぐ消してくれるからさ。かの天才ゲームメーカー様が寂しがったりヤキモチ妬いてくれるなんて、どんだけ夢中なんだって話だろ? アンタ、演技は下手くそみたいだし」
「なっ……なん……うるさい」

 珍しく慌てた鬼道は一瞬のうちに自己分析したらしい、突然どやと言わんばかりの得意気な顔で見下ろしてきた。

「フッ、だとしたら、おまえの前でだけだ。世間でおれは、冷静沈着でポーカーフェイスが得意な天才司令塔というイメージで通っているのだからな」

 自慢しているのか照れ隠しなのか、そもそも自慢しているポイントがおかしいし、今サングラスかけてねーからじゃん?というツッコミはしないでおく。わざと間を置いてすっと立ち上がると鬼道は咄嗟に逃げようとしたが、それより早く捕まえた。唇と頬と首と、とにかく貪るようにキスをしまくる。壁に押し付けて、震動で棚の本が二冊倒れた。

「ちょ、ちょっと待っ……」
「むり。待たねぇ。アンタ可愛すぎ」
「か、かわいいだと……おいっ、待てと言っ、ン……!」

 今度はわりと激しい抵抗に遇ったが、照れ隠しだと信じて突き進む。
 重ねた唇の隙間から熱を引き出せば、すぐに力が抜けていく。無意識なのか、引き出すもの以上に応える彼に正気を失いそうになった。食虫植物みたいだ。逆にこっちがやられてしまう。

「はぁ……っ、……」

 何度も何度もキスをして、いつの間にか床の上で向き合って座っていた。しがみつく手を握り、荒くなった息づかいを恥じてつかの間、動きを止める。見つめ合うだけで心が繋がるとは知らなかった。





 正直に言って、待てないのはこちらの方だ。数分前にあったささいな怒りはどこへやら、今はすっかり愛と共に降り注ぐ歓喜を浴びて恍惚にうち溶けている。

「は……はぁ……」

 卑怯な両手から逃れなんとか立ち上がったはいいものの、ベッドへ誘導するのがやっとだった。服を脱ぐ間も惜しんで求め合うのは、時間に縛られた安っぽい理由とはまったく違う。

「明王……もう、」

 切ない呻きに応える強く示すような短いキスは、ちょっと待ってろという意味。だがナイトテーブルの引き出しからコンドームの箱を掴んだ不動の腕を止め、ゆっくり起き上がった。

「今日は、いい……」

 そのまま不動と向き合うように座る。

「えっ……、……」

 腰を浮かし、言葉を取り落とした彼の股間に跨がった。不動は「マジで?」と言いたげに口元を歪める。本当はだらしない顔になりそうなところを照れ隠しで格好つけているのだろうが、営業スマイルよりよっぽどいい。

「はぁ、ん……ッ!」

 吐息を絡めながら、平らなのにはちきれそうな胸を押し付け合って、濃厚で緻密な世界に落ちていく。

「有人……」

 堪えきれなくなってつぶやいた名前。いとおしい瞳の光を探してさまよう。

「んっ……、は……」

 律動するより一点を突く方が快い。押し倒して不動を見下ろしながら、腰を揺らす。彼の両手が、筋肉で丸く張った尻を掴んだ。

「ふ、あ……うぁ――ッ!」

 放射された熱が暗闇に拡がる。やっと得られた歓び、しかしこれはまだ始まりに過ぎない。少しすれ違い、ブレることがあっても、体を繋げることで確かめ合うことができる。
 心の奥にあるものをできるだけ解放しようと、何度もキスをした。



 ***

 そして迎えた一週間後のクリスマスの朝。だるい腰にムチを打ったランニングから戻る。昨夜はイヴだからというわけではなかったのだが(別にロマンチストじゃない)、調子に乗りすぎた感はある。かの天才ゲームメーカーが、何回戦まで行ったか覚えていないというのは相当のことだ。
 シャワーを浴びて、先ほどまで恨めしいほど満たされた顔ですやすや眠っていた恋人を起こしに行こうとすると、リビングからニュースと料理の音が聞こえていた。近付くと、不動はちらと顔を上げて微笑む。

「おはよ」

 ベーコンエッグの香りが手元のフライパンから部屋中に流れ出ている。キッチンカウンターについて座ると、鬼道は口に拳を当てて欠伸をした。

「おはよう……」
「なに、二度寝すりゃよかったのに」
「するか。まったく、誰のせいだ」

 大体何でこいつのほうが元気なんだ、納得がいかない。不公平だから、受け身の気分もいつか味わってもらいたい。

「人のせいにすんの? ノリノリだったくせに」

 睨んで、出されたトーストをバターを塗っておこうといつものように持ち上げた。カラカラカランと、銀色の小さなものが皿の中へ滑り落ちる。

「なん――だ、これは!」

 反応にストッパーがかかっているみたいに、しどろもどろな鬼道は思わず立ち上がった。

「おい、あきお……!」

 焼き上がったベーコンエッグが入ったままフライパンの火を止めて、不動は腕を組んだ。その顔は誰かに似て、妙に得意げ。

「見りゃ分かんだろ?」

 確かに見れば分かるのだが。

「だからって、こんな……」
「ん? ゴツすぎず華奢すぎずイイだろ。そんな高価くてもしょうがねぇし気取ってないけど一応石とか付いてんだろ」

 やや幅があり帯のように薄く角ばったマットシルバーの輪には、確かに内側に青みがかった小さなダイヤが埋め込まれているのが見えた。文字も彫られている。多分、二人分のイニシャルだろう。

「そういう問題じゃない! 箱はどうした? パンに乗せるなんて、普通にできないのかお前は? そもそも、食べてしまったらどうするんだ!」

 分かってんだろ、オレはこういう奴だって。箱なんかあってもなくても同じだ。お前なら気付くし食べるにしても必ずバター塗るから持ち上げた時下に落ちるし、もし万が一口に入ったって飲み込まないだろ、と言いたげな目線を受け、鬼道は何か言いかけて開いたままだった口をゆっくりと閉じた。
 そして突然カウンター越しに胸ぐらを掴み、引き寄せてした乱暴なキスに、不動はさすがにちょっと驚いていた。

「それに、なんでそんなところにいるんだ? バカのせいで何もかも冷めたじゃないか」

 不意打ちを取ってやったが、何だか切羽詰まった苦肉の策に思えるし、カウンター越しが気に入らない。だからまだ憤慨する。

「温め直すって。――ところで今の、誓いのキスってやつ?」

 上機嫌で言う不動を睨み、再び腰を下ろす。冗談じゃない。トーストを持ち上げ、バターケースを開ける。

「ほら、それオレが食うから」
「見ろ。冷めるとバターが溶けないだろう。塗りにくい事この上ない」
「分かってるって。今もう一枚焼くから」
「固くなって、塗りにくくて、穴が開くんだ……」
「おいおい、泣くことないだろ……」

 不動がやさしく笑った。サングラスをかけていないせいで、朝陽が眩しいんだと言っても言い訳にはならない。欠伸のせいだと言っても無理がある。なんだってこんな粗暴で失礼な奴に惚れてしまったのか。
 無言で、ややぶっきらぼうに指輪と左手を差し出した。側へやって来た不動は床に膝をつき、その手を取って薬指にくすんだ銀色を嵌めてやる。

「ほら、ぴったりじゃん。ただの輪っかだけど。意味はあるだろ?」

 手を握ったまま顔を覗き込まれ、鬼道は耳まで薔薇色に染まった。ムッとした顔で平静を保つのが精一杯だ。

「お前いつだったか、こういうのアホくさいとか言ってなかったか」

 絞り出した声はまだ震えている。それを聞いて不動は笑った。

「男同士だと面倒くせーって意味だよ。籍入れとか式とかどこはダメでどこなら挙げられてって」
「まあ……おれも、拘っている訳じゃないが」
「じゃあいいじゃん。これは、オレの気持ちを一部実体化させただけ」
「それにしても……こんなもの。そもそも、おれが先に……」

 熱い顔を両手で覆って呻くと、不動が膝に腕を乗せてきた。

「ああ、オレの分は考えて無かったけど。くれるなら肌身離さず着けてやってもいいぜ?」
「……明王」

 すがるように腕を伸ばし、鬼道は彼を抱き締めた。普段から必要最低限のことしか言わないのが人格になってしまっているが、たまには言葉や形にすることも必要だ。
 今、言わなければ機を逸してしまう。相手と足並みを揃え、離れる時は離れ、掴むべきところはしっかりと掴む、それがバランスというものだ。
 鬼道は深呼吸して口を開いた。鼻に馴染んだ不動の匂いで満たされる。

「生まれてこの方、おれがこんなセリフを言うとは思いもよらなかったんだが……やはり、何遍考えても、おれはお前を愛している」

 腕を緩めると、ハッと笑う嬉しそうな笑顔が目の前にあった。その表情に心を奪われて約三年。変わらないでいるより、共に変化するほうがいい。

「オレもだよ、有人」

 冷えた器用な手が、完璧なドレッドを愛しげに撫でた。

 おわり





2014/01


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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki