<鬼百合は摘まれる>
高校二年生の冬、イルミネーションに輝く街へ車を出させ、鬼道は一人で――正確に言えば運転手と二人で、クリスマスプレゼントを買いに来ていた。
あげたくもない相手の社交辞令まで選ばなくてはならず、全く決まらない。パーティーなんて憂鬱の種でしかないのだが、これも義務だ。
早く卒業して一人前の女性として、仕事も恋も絶対的に圧倒的に容易く支配したいと思っていた矢先、諸悪の根源と鉢合わせした。
車を降りた鬼道の目に入ったのは、黒いミリタリー調コートに身を包んだ不動である。
「あ、」
「……何をしているんだ、お前」
「買い物」
高級デパートやブランドの並ぶ街には、学生はともかく不動は特に不釣り合いだ。見つかったせいか、居心地の悪そうな不動を連れ、鬼道は車内に戻る。
「すまないが、少し降りていてくれ」
無口な運転手は頷いて、ピカピカの車体を磨き始めた。
ドアが閉まるが早いか、もう何も言えなくなっている。絡み付く舌に痺れた花びらが独りでに開く。
「今日、大丈夫だろ?」
そう言いながら不動はコートのボタンを外し、ズボンのジッパーを下ろした。
「あ、待っ……ッ!」
ウールのプリーツスカートに変な皺が付くだろうが、もう遅い。車体がギシギシ揺れて山崎に気付かれているだろうが、構わない。無口な運転手で良かった。
「は……、たまンねェ……」
「んぁ、やっ……はッ……」
セーターの中に入ってきた冷たい手が、闇の中で乳房をまさぐる。足のやり場がなくて、不動の腰に絡めると窓に当たってしまう。スモークガラスでなかったらとんでもない光景が丸見えだろう。ここは都会のど真ん中であり、しかも今日は日曜日で、人通りはいつもより多い。
思わずキュッと締めてしまった途端に不動の律動が強くなった。
「ンッ、ん、ふ……んぅう――ッ!」
必死で口を押さえながら、震える体を鎮めようとする。
急に会ってすぐに挿入されあっという間に終わるなんて、どこかの娼婦みたいだ。子宮に振りかけられる飛沫を感じて、蒼白になりながら苦しいほどの快感を得た。
「……最低だな」
きちんとシートに座り、呟いて乱れた服を直す。拒絶しない理由を分かっているのかどうか、不動は髪をかき上げ、黙って息を整えていた。それを見て、馬子にも衣装という言葉を思い出す。
「二十四日の夜は空いているか?」
「あ? 鬼道チャンのほうが忙しかったと思うんですけど」
冬休み前の学校帰り、予定を聞かれたことを思い出す。
「ああ。ある実業家の主催でクリスマスパーティーがあるんだが、一緒に来てくれないか?」
「なんで?」
「なんで……」
不動の台詞を尽く無視しているが、今に始まったことではない。それらしい理由を自慢の頭が叩き出すまで、一分もかかった。
「第一に、鬼道家の長女がエスコートなしなんてあり得ない。第二に、くだらない連中が声をかけてくるのが鬱陶しい。去年は散々だった。だからお前みたいな目つきの悪い男が側にいれば、助かる」
「そんな理由かよ」
「衣装は貸してやる。黙って五ツ星の料理でもつまみながら隣に立っているだけだ、楽な仕事だろう?」
「仕事、ねぇ……ふぅん?」
品定めするように鬼道を眺め、不動は答えた。
「別にいいけど? バイトも休みだし」
挨拶代わりのキスを受けて、不動に続いて車を降りる。別々の方向に歩き出してから、買い物にも付き合ってもらえば良かったと後悔した。
最初に断られた時からイヴの予定を空けたままにしていたなんて言えない不動は、黙って頼まれた通りにした。
デパートにいたのはたまたまスペイン語の本を大きい本屋に買いに来ただけだったのだが、エスカレーターへ向かう途中で通りかかった宝石店で指輪を見ていたことは言わなかった。
プラチナの滑らかな曲線に、様々なデザインで星のようなダイヤモンドが嵌められた沢山の小さな輪を眺め、こんなもので永遠が約束されるなんておかしな話だと思う。やけに笑顔の店員に話しかけられる前に逃げて来た。
バイトして貯めた金でブランド物のペンダントをクリスマスにプレゼントするんだと自慢しているクラスメイトがいて、皆考えることは同じかと笑った。
手ぶらでくぐった鬼道家の門はまるで映画に出てくる貴族の館のようだった。今目の前にある壁紙も、絵画の額縁のような姿見も、現実離れしている。その中に映る自分も、今夜は別人だった。
首まで伸びたくせ毛に櫛を通してスプレーで固め気取ったオールバックにした後、初老の執事はタキシードの胸ポケットに緑のポケットチーフを差し入れた。
「お嬢様、不動様のご支度が整いました」
大仰な扉が両側に開いた向こうに、深い緑の膝丈ドレスを身に纏い黒のストールを肩に掛けた鬼道が待っていた。
「よし、では行くぞ」
不動を見て満足そうに微笑み、車へ向かう。慣れない服に戸惑いながらついていくが、そのせいで襲いかかる妙な妄想に慌てた。指輪なんか見ていたからだ。それに、ドレス姿は大人びて見える。直視できないほどに、意味もなく美しく。
「安心しろ、今から行くところはバカしかいない」
鬼道が溜め息と共に言った。
走り出した車はすいすいと住宅街を抜けていく。よほど腕のいい運転手らしい。
「なんでわざわざンなとこ行くんだよ? 放置したらマズイのか」
「説明しただろう。去年と同じだ、放置はまずい」
「オレみたいなのが行って問題ないよーな場所なのに、放置できないとはねぇ……金持ちの世界はよく分かんねェな」
「確かに複雑だな。建前でしか話をしないし、それが普通になっている」
その言葉には彼女自身が己へ向けた皮肉が込められているようにも感じた。
着いたところはこれまた贅沢な造りの豪邸で、外観は和風の平屋だが中へ入ると靴のままで絨毯の上を行き交う大きな広間があり、今夜はそこがパーティー会場らしかった。
「お待ちしておりました。鬼道様」
さぞかし、鬼道が連れてきた自分は名前すら知らず、注目を浴びるんだろうなと冷めた目で広間を見渡す。
「お父様、遅くなりました」
不動が鬼道の父に会釈すると、父は笑顔で不動の肩を叩いた。
「君が不動君か。この間は世話になったな。有奈は恥ずかしがって何も話さないのだが、成る程、良い目をしているじゃないか」
「お父様」
「有奈さんは大切な友達です。いつも親しくして頂いてます」
制止しようとした鬼道より先に、にこやかにはっきりと告げると父は満足そうに微笑んだ。
「そうか。では今日は災難だな。楽しんで行ってくれたまえ」
笑顔で見送ると、鬼道は不動を連れて歩き、主宰から順に挨拶をして回った。
立ち止まるところは、どこかの若い御曹司、初老の男性、小さな頃から知っているらしい着飾ったマダムなど。帝国学園で先輩に当たる女子もいたが、ドレス姿だとピンと来ない。
やっと終わったのか、約二百人の老若男女が歓談する中を横切り、豪華な軽食の並ぶテーブルの前へ不動を連れて行く。
「ちょっとここで待っていてくれ。適当に食べるといい」
「はいよ」
彼女は機嫌が良くないらしかったが、不動にはどうにもできない理由からだった。
三日前、今日のための準備をしていた時のことだ。
「本当にこれでいいのか?」
そう言ってくるりと回ってドレスを揺らし首を傾げた鬼道に、メイドはにこりと笑って頷いた。
「お嬢様、たいへん素晴らしくお似合いでございます。帝国学園の校色でありもみの木を象徴する深い緑は時期的に相応しいですし、パーティーでお嬢様の明るい髪の色を引き立たせ、白いお肌をよりいっそう美しく見せていただけます」
「そんなのは、まあ、いいんだが……村前、本当にこれでいいんだろうか」
先程と同じ言葉でも込められた意味が違うことを読み取るメイドは、微笑に憂いを混ぜた。
「お嬢様は不安なのでございますね」
「不安? ……そうかもしれない」
ベッドに腰を下ろし俯くと、メイドは目の前の絨毯に膝をついて、箱から靴を取り出した。
「例えばシンデレラは身分の違いに苦しみましたが、決して傲らず己を強く持っていましたね。お嬢様も強く優しくお美しい御心をお持ちですが立場はシンデレラと逆ですから、言い方が無作法ですが、どんな殿方も射止めることができるのです。この世の素晴らしいものでお嬢様がお持ちでないものは、素晴らしい旦那様だけでございますよ」
銀色のいつもよりヒールの高いパンプスは、確かにガラスの靴に錯覚できそうだった。鬼道は立ち上がり、鏡の前まで歩いて振り返る。
「自信を持て、ということか」
鏡の中の自分は、慣れないドレスも少しは様になってきたような気がする。美しさが武器になるとは思えないが、勝算はあるような気がしていた。
「よくお似合いでございます」
メイドは満足そうに微笑んだ。
ふと見ると、不動は高校生のくせにワイングラスを片手に女性に囲まれていた。二十代から三十代の、どこかの社長令嬢や親族または御曹司の妻、親や夫の金で遊び暮らしているような女狐たち。
「――サッカーです」
「海外とか行くの?」
「まあ、そのうち」
「すごーい!」
「カッコイイー」
音もなく近付き、優しく微笑んでそっと隣へ立つ。
「明王」
鬼道に微笑を向けられる前に、女性たちは浮かれた足取りでどこへやら散っていった。
「楽しそうだな?」
一瞬で微笑を消し不動の表情を覗うと、不動は肩を竦めた。
「まあ、そこそこね」
「ちょっと来い」
広間から廊下へ出て、開いたままのドアから小さな部屋へ入る。ご丁寧に電気がつけられているそこはどうやら休憩室らしく、二つのソファとグランドピアノ、小さなテーブルが置いてあった。社交辞令に疲れた仲良し四人組が、騒がしい会場から出て一息つくのにもってこいの場所である。
鬼道は扉を閉め、不動の首に両腕を巻き付けた。腰を引こうとする彼の体をドアに押し付け、不機嫌な顔で見つめる。
「誰も来ない」
ゆっくりと息を吐いてから、不動は見つめ返し口の端を歪めた。
「……何だよ、ヤキモチ?」
「ワイン、飲んだのか?」
「高級ワインは味が違うな」
数秒の沈黙の後、不動の頭を抱き寄せて唇を重ねる。
「おい、鬼道ちゃん……」
「抱け。今すぐしたい」
制止しようとした不動のジャケットを脱がせようとすると、その手を掴んで止められた。
「何言ってんだよ? 酔ってんの?」
緑の鋭い眼が、今は動揺を孕んで揺れている。さらに何かを言いかけて開いた口は、言葉を発せずに閉じられた。
それが許せなくて、鬼道はさらに腹を立てた。
「お前は、」
私の何なのだと、無意味な問いをちぎって捨てる。ここで泣くわけにはいかない。
「そんな気分じゃないね」
後から取って付けたようなわざとらしい台詞に、何かが引っかかった。ジャケットを直し、まだ何か言おうとする不動の胸を押さえる。
その鬼道の肩に触れる手が妙に優しくて、思わず弱い力で振り払ってしまった。
「なぁ。さっきからなんか変だぜ? オレのこと名前で呼んだりさ」
「悪いか」
「そーじゃなくて」
ドレスや靴や宝石など、何の意味もない。不動の着ている上等な黒い生地が嫌悪すべきものに思え、彼に謝りたくなった。
いつからこんなに惹かれてしまったのだろう、色欲にしか脳の働かない生ゴミのような男に。
くだらない会話をして、罵り合いながら体を繋げて、いつしか本気になっていた。
塗り固めた嘘が愛しくてたまらない。最初から花は太陽しか見ていなかったのだ。
「……帰れ。車を出させる」
鬼道について玄関へ向かう不動は、一言も口にしなかった。
聖人の誕生日を祝うはずなのに、十七歳の冬は寒々としていた。
そして不動は姿を消す
2013/07
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki