<鬼百合は咲き誇る>





引っ越す前に、温泉へ行きたいと言い出したのはどちらだったか。どこか誰にも邪魔されずゆっくり話がしたいと言ったのは妻の方で、それなら温泉へ行きたいと言ったのは夫の方だ。
積年の想い叶ってめでたく結婚したはいいものの、仕事をこなす上二人して慣れない子育てにかかりっきりで、ただでさえ少ない二人の時間も週に何度か行為だけの淡白なものになってしまっていた。
そんなわけで一歳半になった息子をよくなついているメイドに預け、一泊なら何とかなるだろうと半ば強引に山奥の旅館へやって来た。名湯の側で知られる大きな老舗旅館は心地よい静寂の中で広々としていて、育児疲れも少しは解消できるだろう。
「鬼道ですが」
「二名様ですね。別館のお部屋へご案内します」
この名を自分が名乗ると、まだ物凄く奇妙な感じがする。不動は少し離れたところでロビーを見渡していた鬼道に目配せして、足元に置いていた旅行鞄を肩にかけ直した。
和服姿の仲居に続いて案内された部屋は曙という名前を冠し、ホテルで言うところのスペシャルスイートらしい。
「ごゆっくりおくつろぎくださいませ。お夕飯は七時にお持ち致します」
スススと音もなく襖が閉じられ、慎ましくも豪華な部屋に念願の二人きりで閉じ込められる。
鬼道は荷物を置いて、部屋を見て回っていた。なるほど窓からの景色も一級である、少し高台になっている別館の最北端にあるこの部屋からは、富士山と湖と一面に広がる緑が一望でき、電線はもちろん余計な建物は映らないよう造られていた。
先回りして見に行った風呂は総檜造りで、大人四人が足を伸ばして入れそうなほどの大きさだ。パノラマ写真よろしく横へ大きく開いた窓には先程と同じ景色が映っていて、ほぼ露天風呂と変わらない。
鬼道が来て、隣から中を覗き込んだ。
「……先に入れ」
言おうとしたことを先に言われてしまった不動は小さく肩を竦めて応じ、早速服を脱ぎ始める。メイドに電話をかけながら出ていく鬼道を横目で見送り、何となく思った。
まるで新婚旅行みたいだ。
今更である。



体に手拭いを当てて、ゆっくりと引き戸を開く。不動は檜の湯船に両腕を広げマフィアのボスよろしく凭れて――本人は久しぶりの休暇ということもあり随分リラックスして――寛いでいたが、鬼道を見て驚いたらしくやや身を起こした。
「やっと落ち着いたな」
手拭いを畳んで隣に腰を下ろし、熱すぎずぬるすぎない絶妙な湯加減にほっと息を吐いていると、不動が呟いた。
「ああ……式の後はゆっくりできなかったからな」
「うん、オレ暫くいなかったし」
自虐的な台詞は無視して、改めて緑の目を見つめる。窓の外に同じような色が広がっていて、温かい湯が心をほぐしていく。
「いいか……、明王」
景色を眺めながら、湯船の縁に両腕を組んで凭れる。
「私はずっと自分に、つきたくもない嘘をついていたんだ。その嘘がなければ、お前と私は中学二年からの五年間ずっと恋人として付き合っていたことになる。分かっているだろう?」
整理しておきたかったことをやっと言えて、自分の中に小さな変化を感じ、鬼道は気付かれぬ程少しだけ微笑んだ。案の定、不動は面食らっているらしい。
「はあ? ちょっと待てよ……」
「まあ、音信不通の六年を含めて欲しいなら、今の今まで継続中ということになるが……」
「待てって。どういうことだよ。どんな思考回路でそうなるんだよ」
凭れた格好のまま、目だけを不動に向ける。緑の目は鬼道の顔が見える位置へ移動していた。
「私は別れの言葉を聞いた覚えはない」
「じゃあ何か? そっちも完全潔白だってのか?」
この話になることは分かってはいたが、改めて指摘されると心苦しい。眉が動いたのだろう、不動が笑った。
「お前、顔に出すぎ」
誰のせいだとでも言うように、諸悪の根源を睨みつける。
「明王が居なくなった時、混乱して、何もかもどうでもよくなって、誘いを断れなかった……。でも、一度だけだ」
不動は手を伸ばし、濡れないよう高く結わえられた淡いハニーブラウンを一房、軽く掴んで弄ぶ。
「どこのどいつだよ」
わざとなのか、耳元で囁くように尋ねる声は、憤りの色が滲んでいる。
「帝大の……先輩だ」
「ははァ~、金持ちのアホか」
「確かに頭は悪くなかったが、しつこい男だった……弁護士志望だったから丁度いいかもしれないが」
色々と思い出して本当に気持ち悪くなった。額を押さえると、不動の手がそっと背中に当てられる。
「で?」
「おかげで、よく分かった。大体、私を満足させられる男なんてそうはいない」
湯船の縁に頬杖をつき、不動は当惑気味の表情をしていたが、やがて困ったように笑った。
「有奈ってさあ……まあいいや。じゃあ六年ぐらいずっとおあずけだったわけだ?」
「おあずけなんて可愛いものじゃない! お前なんて二度と顔も見たくない、絶対に許さないと思って、お前みたいな虫けら以下より百万倍イイ男を引き寄せてやると思って、私は……」
今まで溜め込んでいた言葉が溢れだして止まらなくなっていることに気付き、鬼道は一息ついて冷静さを取り戻した。
「でも、ダメだったんだ。お前の感触なんかすぐに消えたが、もう誰とも付き合う気がしなかった」
黙っているのでどうしたのかと夫を見ると、眉間に皺を作って腕を組み、遠くを眺めていた。
「そんな顔をするな」
その頬を撫でて、きゅんと締め付けられた胸と共に体を近付ける。
「六年間禁欲させたんだから、おあいこだろう?」
「ごめん」
小さな呟きに、微笑んだ余裕も無くなった。謝るのは自分の方だというのに。
「さみしかったろ」
今度は不動の手が頬を撫でる。
「だ、誰がだ!? いつそんな事を言った!」
「結婚したっつっても、なんかバタバタしてるし」
その事については不満や寂しい気持ちが散々溜まっていたが、今は動揺を隠すので精一杯だ。
「気にするな? 私も忙しかったし、もう慣れた」
言った後、未だに眉の下がっている不動を見ていて、ふと笑みがこぼれた。不服そうな不動は、しかし理由を分かっているのか苦笑に留める。
「んだよ」
小さく吐息を残して、鬼道は湯から上がり、湯船の縁に腰掛ける。
「言っておくが、私は今もお前を許してはいないぞ。もっとマトモな付き合い方は沢山あった筈だからな」
不動の体に合わせて、ゆっくりと湯が動いた。彼は鬼道の太腿に口付けて、呟くように言う。
「あの頃のオレはさ、確かにバカだったよ。お前を手に入れたくて仕方なかったのに、傷つけてばっかでさ。ずっと後悔し続けてきたし、今でも不安は残っちまってるし、ああ、これをずっと背負ってくんだなって思ってる」
「明王……」
「でも、後悔とか、もうどうでもいい。特に今は」
太腿から、脇腹、腕、肩へと、ひとつひとつ確かめるように口付ける、その頭を軽く抱き寄せた。
「後悔はずっとしていろ。良い戒めだ。でも、不安に思う必要はない」
肩に手をかけて湯船に戻り、不動の膝に乗る格好になる。
「犯罪者に惚れてしまったのだから、私も同罪だろう」
見つめた先では、緑の目が左右に揺れた。
「いや、おかしいだろそれ。どこに惚れる要素あんだよ。お前さぁ、オレのせいで――ナントカ症候群とか、ああいうやつになっちゃったんじゃねぇの?」
「ストックホルム症候群か。それはない」
「だって……怖かっただろ?」
背中に両腕を回して尋ねてくる不動がまるで濡れてしょぼくれた大型犬のようで――髪型のせいもあるが、思わず吹き出してしまった。叔父の家の、怖くないジャーマンシェパードを思い出した。
「……っははは!」
彼の肩に額をつけて、自分は今すっかりリラックスしているのだと改めて実感する。不動はやや面食らっていたが、自分が可笑しい事を言ったと分かっている為つられて笑ってもいた。
「おい。笑うなよ」
「そうだな、怖くなかったと言えば嘘になる。でも……今だから言うが、心のどこかで望んでいた部分もあったかもしれない」
小さな声で呟くように白状すると、不動も黙った後、秘密話をするように小さな声で囁いた。
「……何それ、ヤバくねぇ?」
「お前が、例えば不細工で太った奴とか、鼻息の荒いゴツい奴だったら、まずあり得ない。回し蹴りだってできた」
「結局、顔かよ?」
きっぱりと言い切った鬼道に、不動がわざとらしく怪訝な顔をする。
「そのナルシスト思考はどうにかならないか?」
呆れて言う鬼道はしかし、目を逸らした。不動の顔は客観的に見れば上の下といったところだと思うが、恋は盲目という通り、惚れてしまえば関係ないのである。
「顔と言われても微妙だな……見かけが劣っていても優秀な人はいるし、顔が良くても最低な人間はいる……とにかく、お前じゃなかったらもっと抵抗していた。窓を開けて叫べば先生だって来た」
「いや、来ねぇだろ」
「不能にしてやってもよかった」
「それは困ります」
一瞬本気で青ざめた不動に笑って、肩に凭れかかる。
「知っての通り、私の周りは、なんとかして取り入ろうとする人間ばかりだ。男はみんな同じに見える……チャラチャラ声をかけてくるか、オカマみたいにクネクネとすぐ枯れる花を持ってくるか、どちらかだ。不動明王はそうじゃなかった」
「確かに"そうじゃなかった"けど」
皮肉っぽく不動は目を逸らす。
「全く信じられないことに、今もお前以外の男にはこれっぽっちも興味がわかない。わいたとしても、仕事ができるとかそんな程度だ。……私だって、できればもっとイイ男がよかった」
口をへの字にして睨みつけてやるが、どうやらあまり効果はないらしい。小さく溜息を吐き両肩に手を置いて、諭すように真っ直ぐ覗き込む赤い目を見つめ返し、不動はゆっくりと口角を上げる。
「オレもそうだぜ? 離れてる間浮気してないっての、あれマジだから。他の女が女に見えなくてさ。……不能になったかと思った」
「えっ? だ、大丈夫だろう?」
「大丈夫に決まってンだろ。もう結果も出したし、バッチリ」
ぐっと抱き寄せられて、首筋への口付けを許す。目を閉じて肩の力を抜き、唇の触れる瞬間に意識を集中した。
「――人間にも発情期があるんだそうだ」
ふぅん、と鬼道の顎の下にある不動の喉の奥から、さもどうでもいいことのような声がした。
「いつ?」
「お互い相手を魅力的に感じて、したいと思った時、らしいが……夫婦とは言え、それが一致することはなかなか大変だ。しかも、感情じゃなくて生理的な現象だから」
不動の手のひらが開いたまま下から滑ってきて、片方の乳房をそっと包み込むようにして掴んだ。
「感情は関係ねぇの?」
「多分、生殖機能の一環として、脳に信号が行くんじゃないか」
「じゃあオレたち年中発情期じゃん」
「一緒にするな!」
口調は強く言ったが、鬼道は胸を愛撫する不動の頭を抱えるようにして撫でる。
手のひらに収まってしまいそうな乳房は、出産後も完璧な造形を保っている。それでもやや色濃く膨らんだ突起を、口に含んだまでは良かったのだが、調子に乗って吸おうとしたので「こら」とたしなめておく。
湯気の中に吐息が混ざり、ゆっくりと腰を落とすと硬いものに触れた。
そのまま、唇を重ね合わせる。恍惚に身を任せていると、不動の手が尻を抱え密着させ、目も開いていない子猫が母猫の乳首を探すように、やがてするりと挿入された。
「はぁ……今までに何回ヤったと思ってるんだ。いい加減に飽きないのか」
待ち構えていた腰を揺らしながら、挑発的に目を細める。
「足りるワケねェだろ?」
不動はニヤリと笑って体を起こし、鬼道を湯に浮かせるようにして抱え直した。
「どれだけ……ッ、……あ、」
「もう限界」
彼の肩にしがみついて、湯船の縁にチャプチャプと揺れた湯が当たる音を聴く。温かい湯が二人の隙間に入ってきて快感を減らす。
「あ、やッ……お湯が……」
「はッ……イヤ?」
「イヤじゃ、ないけど……変っな、カンジだ……っ」
ここで嫌だと言ったら不動はすぐに改善してくれただろうが、浮いたまま不安定な体と朦朧とする意識が別のところから快楽を呼んでいて、やめる気が起きなかった。そんなことも気にならないくらい、彼を求めていた。
「ふぁ……ッ! や、ア、あき、ぁあ――ッ!」
一緒に震える不動の肩にしがみついて、悲鳴と共に飛びそうな意識を湯に浮かべるようにして身を任せた。顔が火照って、くらくらする。
「のぼせたじゃないか……」
「ああ……、オレものぼせてきた」
言うなり不動は彼女を抱き上げてゆっくりとだが立ち上がり、そのまま湯船を出た。
「ちょっ……下ろせ! 何を考えているんだ貴様!」
「あ、久しぶりに聞いた。その口調……」
聞く耳を持たない上機嫌の不動にしがみつくしかなく、鬼道はこんな時に誰か来たらと余計な考えを巡らせる。夕飯は七時と言っていたから、あと四時間は誰も来ないはずだ。


畳が濡れるのも構わず膝をついて、ゆっくりと布団に下ろす。鬼道は腕の中で身動ぎしたが、すっかり勢いを増した自身は彼女の中で有頂天になっている。それを感じた上、不動の心情も読めたのだろう、妻はどこか自嘲気味に微笑を浮かべた。
「まったく……十四の私に言ってやりたいよ、目の前の最低なクズと結婚するぞって」
同意の意を込めて笑い、不動はキスをした。
「なぁ。鬼道チャンってずっと謎だったんだけど、オレの事どう思ってたの?」
ずっと燻っていた疑問を口にすると、鬼道は思わず胸の下から抜け出そうとするかのように、僅かに身を捩った。
「お前、知らないで今こんな……!?」
「なんだよ?」
「バカだと思っていたが、本当にバカだな」
「うるせぇなぁ……」
罵る赤い顔が可愛くて、笑ってしまう口をわざとへの字にするのは難しい。鬼道は不動の肩に両腕をしっかりと回し、彼の腰に脚を巻き付けた。
「強引で最低なクズなのに……。お前の強さに惹かれたんだろう、負けたくないという気持ちが一番強かった」
「それでか。ずっとツンツンしてたよな」
「デレデレするわけないだろうっ? その辺のバカ女と、一緒にするな……っ」
落ち着いてきていた呼吸が荒くなっていくのに合わせ、腰を動かす。どちらかと言えば、意識など無視して勝手に腰が動いていたと言う方が正しい。
巻き付いた滑らかな二本の脚が不動を誘惑し、これ以上底は無いと思っていた更に奥へ連れ込もうとする。
「奥様は二人目をご所望で?」
「悪くない。でも……」
肌が触れ合うだけで火花が散るような錯覚に、眩暈を覚えるのは長湯のせいだけではない。
「今はただ、出会った頃みたいに滅茶苦茶にされたいんだ……」
揺らめく赤い瞳。恍惚の中に狂い咲いた淫美な香りに、不動は痺れるような感覚を味わった。
「お望み通りにしてやるぜ」
蕩けるような口付けを交わして、次第に強くなる律動に意識を奪われていく。手はどこを掴めばいいのか、足はどこを押さえればいいのか分からなくなって、ひたすら盲目的にまさぐり合う。
「はっ……分かるか……? 私の中は、お前の為だけに進化してきたことを……。その形に、ぴったりハマるように……」
「何、生物学者みたいなコト言ってんの」
「本当、なんだぞ。だから、気持ちいいんだ……運命なんかじゃない。ここでもし、別の男に乗り換えたとしたら、今度はその形に変わっていくだろう……」
「オーイ。やめろよ、気持ち悪ィ」
「乗り換えないでおいたのは……何故だと思う?」
ふふっと笑って言う優しげな女神はしかし、例えば万が一機嫌を損ねたら大蛇に変身するんじゃなかろうかという妖しさが漂う。
「何故ですか?」
答えを分かっていながら尋ねると、鬼道は目を閉じて微笑した。
「自分で、考えろ……っ」
増幅し続ける熱に侵され、呼吸すらもどかしくなる。すぐに訪れた二度目の射精は湯に溶けずに済み、彼女の神聖なる扉に叩きつけられた。




仲居が来る三十分後までに、せめて浴衣くらいはきちんと着ておかなければと思うが、久しぶりに二人きりで何の干渉も無く肌を寄せ合っていられるのが嬉しくて、未だに布団に寝転がっていた。
「んー、じゃあ、いつから好きになってくれたの?」
どれがどちらの手か分からなくなる程には溶け合ってしまった気がする。布団に肘をついてその手を頭に当てている不動は、胸に寄り添う鬼道の肩を掴んでいて、親指でゆっくりと撫でた。彼女はしばらく考え込んでから言った。
「そう言うお前はいつからなんだ?」
「最初から。まず転校先でスゲー美人を見つけるだろ、そんでそれが帝国を象徴する女神様みたいに崇められてるらしいじゃねーか、これはモノにしてやろうと思ったら、まんまと返り討ちに遭ったわけ。その強気なところが堪らなくて、どうやったら本気でオトせるかずっと考えてた」
途中から鬼道の小さな笑い声が混じっていた。
「その答えが、W杯優勝か?」
「何か一つでっかい事やって一人前になったら、鬼道有奈の隣に立っても恥ずかしくないと思ったんだよ」
「呆れた奴だ」
フンと鼻を鳴らしつつ、鬼道は僅かに身を寄せる。
「そっちこそ何だよ、再会するなり既成事実作りやがって」
ニヤける顔もそのままにからかうと、胸を指の腹でぺしと叩かれた。
「妙な言い方をするな!」
先程彼女が身を寄せてきたのをいいことに、肘枕をやめて抱きしめる。柔らかい髪からほのかにラベンダーの香りがした。
「後継ぎ産んだら用無しかと思ったもん、マジで」
「そん……そんな訳ないだろう!」
分かっているのに必死になるところに誠意を感じて、からかうのをやめにした不動は、目を合わせて微笑んだ。
「冗談だって。もう高ニの時にはラブラブだっただろ? オレたち」
鬼道は「それはどうかな」と言わんばかりにわざと嫌そうな顔をする。
「それでクリスマスパーティーにも素直について来たのか? お父様に媚を売りに」
「人聞き悪ィなァ。良かっただろ? それにあれは、誘拐事件のご褒美的なヤツだし」
「ああ……あれか。あの時は本当に、お前が来てくれて良かったと心から思った」
「ご褒美と言えば、また何かコスプレしてよ」
そう言ったら、膝で太腿を蹴られた。
「まったくお前という奴は! コスプレだの何だのと……神社でのことだって忘れてないからな!」
「ああ、楽しかったなァ。また外でヤろうぜ」
「誰がヤるか!」
「好きなクセに。車でもいいぜ」
「よくない! 私が好きなのは――」
「好きなのは?」
「別荘、とか……」
「ああアレか。やっぱ、見えそーな所でコソコソすんの好きなんだろ」
「何でそうなるんだ!」
またしても胸をぺしと叩き、真っ赤な顔の鬼道は上半身を起こしてまで憤慨する。
「大体、この私でなかったら扱いきれない野蛮な猛獣のくせをして、注文が多いんだ、この万年発情期が!」
「なァなァなァ、言っとくけど、有奈に惚れてたのは最初ッからだけど、真っ当に生きてお前を胸張って迎えに行ってやろうって考えが閃いたのはあの花火ン時だぜ。まだ中二でさぁ、廃ビルの屋上で」
「初めてデートした時か……」
さすがに恥ずかしくなって目を逸らす。
「あのまま、あそこでヤッちまおうって思ってたのに、出来なかったんだよ……その目に花火がキラキラ映っててさ」
鬼道はやや驚いていたが次第に嬉しそうな微笑みを開かせ、起こしていた上半身の力を抜いて照れ臭そうな夫に寄り添った。
「それにしても、何か言ってから行けばよかったものを……」
「言えるワケねぇだろ、カッコ悪ぃ」
呆れる鬼道は、はっとして顔を上げた。
「私を試したのか?」
表情をじっくり見られたくなくて、何となく顔を撫でて誤魔化す。
「それもある。まだオレのこと気にしてくれンなら、賭けてみようってな。六年もかかっちまったけど」
「どれだけバカなんだ……」
再び胸に顔を埋めた鬼道の声はやや上ずり、絶望に出会った時のようなニュアンスを含んでいる。
「後悔してる?」
「するわけがない。私が惚れた男は救いようのない世界一のバカだが、幸いなことに、多少は立派で誇らしい部分も持ち合わせている」
強く凛々しい、いつもの調子に戻った鬼道は、いつもにも増して美しく見え、惚れ直さざるを得ない上に貴重なデレの台詞をもらって、完全に鼻の下が伸びた。
「へぇ~、照れるなァ」
また膝で太腿を蹴られた。
「でもそれって、完璧主義の鬼道チャンが自分のために捻じ曲げたんじゃなくて?」
いい加減にしないと、そろそろ腹も減ってきた。半ば誤魔化すために起き上がろうとした不動に、鬼道は上半身だけ覆い被さる。
「明王が私を見つけたのは偶然じゃない。もう、そんなくだらない事で悩むな。もし罪を償いたいと言うのなら――」
きれいな人差し指が、不動の鼻の頭に向けられた。
「全身全霊で愛せ」
その手を取って引き寄せ、抱きしめる。
「命令なんか御免だね」
美しい花をもぎ取って踏みにじり、自分の行いに後悔した少年は、その球根に水をやり続けた。毎日毎日、芽が出ても安心したりせずに陽光の下で様子を見続けた。
「どうせ、愛さないなんて不可能だぜ」
鬼百合は再び少年に向かって、誇らしげに咲いたのだった。






末永くお幸せに

2013/08
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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki