<鬼百合は染まる>





太陽の国イタリアでは、男も女も愛に生きている。そんなイタリアの客人が来ると言うので、多少こぎれいに身なりを整え、夫婦でごちそうを用意した実家のリビングで息子と待っていたのだが。
「おお、やっと会えたね! 麗しきシニョリーナ!」
ドアを開けるなり両腕を広げて、不動の元チームメイトであるフィディオ・アルデナはとっておきの甘い笑顔を輝かせた。
後ろからげんなりと現れる夫は空港まで迎えに行っていたのだが、予想が的中したことで二重に機嫌を悪くしたようだった。派手に登場した上いきなり跪く外国人男性に驚いて、二歳になった息子は母の背後に隠れている。
「やあ、僕はフィディオ。こんな美しい夜に君に会えるなんてと胸を輝かせていたけれど、君に会ったら夜の美しさもどこへやらだよ! さあその花のような名前を僕に教えてくれ、シニョリーナ」
「おい。せめてシニョーラを使え」
すかさず不動が不機嫌な声を出すが、気の済むまでやらせないと止まらないイタリア人の扱いは心得ているのか、本格的に止めはしない。
「鬼道有奈です。手を離してくれませんか、シニョール」
「ユウナ! ああ、僕の女神!」
鬼道以外の声は聞いていないらしい――手を離さないので鬼道の声も届いているか怪しいフィディオに、不動は頭を押さえて溜息を吐く。
「なんということだ、君のように知りうる限りの全ての言語をもってしても表しきれないほどの魅力を持った女性には初めて会うよ! 神の言葉ラテン語も真っ青だ」
同じチームで数年プレーしてきた仲間だ、性格や私生活など大方のことは知っているためによく分かる。彼が女性に対してどこかの軟派王子のように接するのはいつものことだが、今回は少し違う。
「いい加減にしねぇとその芸術的な鼻とやらをへし折るぞ」
黙って聞いていた鬼道がやっと口を開いた。
「シニョール・アルデナ、沢山の嬉しい言葉をありがとうございます。でも私は既婚者ですから、どうか程々にしてくださいね」
呆れたように微笑む鬼道の手を握って跪いた姿勢のまま、軟派王子は彼女を見上げる。
「ねえユウナ、こんな奴に君は勿体無いよ。友達が敏腕の離婚弁護士なんだ、僕と新しい人生の花を咲かせよう」
「てっめェ……」
「そうだな、こんなやつに勿体無いというのは同意しますね」
えっと非難を込めて鬼道を見ると、一瞬目線を合わせて微笑んだ。女神の威厳と慈愛に満ち溢れた微笑は、何度見ても胸を焦がす。
「しかし生憎、今はそのろくでなしの相手で忙しいんです。来世で会うことがあったら、また声をかけてみてください」
握られていない方の手でフィディオの手を優しく叩き、やっと解放された鬼道は密かに溜息をつく。
「ああユウナ……是非そうしてくれ。僕は絶対に君のことを忘れないよ」
「今日は腕をふるって伝統的な和食を用意しましたから、そんなことすぐに忘れますよ」
燃え上がる視線にやれやれと人見知りの息子を連れて、鬼道は先に居間へ向かう。やっと立ち上がったフィディオが心底残念そうに言った。
「残念だ。かなり本気だったのに」
聞き捨てならない台詞には、釘を刺しておかねばなるまい。
「今度触ったらただじゃおかねェぞ」
「まあまあ、程々にしてよ。過保護だなぁ」
本気で殴られそうな気迫をひらりと交わして、上機嫌のフィディオはスタスタと鬼道について行った。その後滞在中、事あるごとにちょっかいをかけてくるフィディオには手を焼いたが、多くは不動への羨望と嫉妬から来たものであり、そしてそれは彼の兄弟愛にも似たものであった。





不動が日本へ戻るのを待って実家からそう遠くないマンションへ引っ越し、一年経ってやっと日常が落ち着いてきた頃。その日常というのが問題だった。
不動は練習を終えるとすぐに家に帰り、夕食を作ってくれるので家族一緒に食べる。その後鬼道は昼間できなかった分の仕事をするのだが、これが遅くまでかかり、会議や取引先との接待などがあると夕食すら共にできない時も多々ある。もちろんそういう時は、やっとの思いで帰っても二人とも寝てしまっているのだが、不動が息子に絵本を読んで聞かせているうちに寝てしまったりすることも多いので、大抵冷たいベッドに一人で寝るはめになってしまう。
息子は何不自由なくすくすくと育ち、仕事と育児に追われながらも二人の時間が無いわけではないのだが、不安要素が多すぎる。
生活のことだけではなく、不動の周囲についてもそうだ。行く先々で黄色い歓声が起こり、ちょっと口角を上げて目線をやったりすれば大騒ぎする女性ファンが、予想外に大勢いる。週刊誌や新聞、テレビのワイドショーでの取り上げられっぷりは飽きる程目にした。電撃結婚など鬼道絡みの恋愛スクープはもちろん、「お帰り!孤高の反逆児」とか、ネタにされているものも含め。
しかしインタビューで、女性アナウンサーに「結婚してーっと叫ぶファンもいらっしゃいますよね」と言われ、不動は肩を竦め「オレがフラれたら考えるかもしれませんね。フラれないように今頑張ってるんですけどね」と答えていて、「取りつく島もないようです」と締め括り苦笑されていたのを見たこともある。その時はちょっと嬉しかったのだが、マスコミに流す言葉なんてたかが知れている。
相変わらず虎視眈々とゴシップを狙う世間の視線には幼少期から慣れているし、どうでもいい。そんなことよりも、試練があればあるほど絆は深くなると言うが、果たして現状はどうなのだろうか?
実家へは毎日のように、仕事の都合と父に顔を合わせに寄るのだが、ある時いつも仕事中息子の面倒を見てくれるメイドに近況を聞かれ、今までスムーズに頭を回転させていた鬼道は躓いた。
「ご家族水入らずの生活はいかがでございますか? いえあの、不躾ながらお嬢様は、何と言いますか……完全に圧倒的な幸福!という風には感じられませんので、少々気になった次第です。私の目がカビ腐って曇っているのかもしれませんね」
中学の時からずっと側で見守ってきてくれた彼女になら、下着の色や痔でも何でも相談することができる。鬼道は思いきって、おずおずとだが思いの丈を洗いざらい吐き出した。
「まったく! お嬢様の一番お側にいられるというのに、その人類最高の幸福を有難く噛み締めず、挙句お嬢様を悩ませるような輩はさっさと滅びればよいのです。永久消滅してしまえば、地獄が焼く手間も省けます」
そんなことをアニメのような可愛らしい声で穏やかに言ってのけるのだから、まったく彼女はとんだメイドである。私の夫に失礼だとでも言えば二度と口に出さないだろうが、鬼道はただ苦笑して、寂しさから来る怒りが収まるのを待ってやった。
「ああ……そのような輩にまだ情けをかけられようというのですから、お嬢様はまことに、大変寛容でいらっしゃいますね。至極当然のことですけれども」
「村前、私のことはもういいから。――越してから一年経つ。私は浮かれすぎているんだろうか? お前が居ないと、どうも判断が狂う」
「そんなことは」
なかなか落ち着かないメイドにやれやれと溜息を一つ、聞きたかったことを口にする。メイドは優しく冷静に答えた。
「ただ、少し心配しすぎる傾向はおありですね。今のお嬢様は全てを手に入れられたわけです。不安があって当然です。そんな時こそ、揺るぎなく胸を張っておられなくては」
「胸……」
思わず手を当てたなだらかな双丘は相変わらずだ。とりあえず労いと礼を言ってとぼとぼ帰ってきたが、どこかに疑問が残った。
帰ってから、風呂に入る時タンスを開けて、その疑問が分かり青ざめた。下着の詰まった小さな引き出しは、白と肌色のみ。二十七年間生きて来てずっと変わらなかったのだが、この色気の無さで不動はよくもまあ我慢して付き合ってこれたものだ。高校時代は少し可愛げのあるものをと思っていたが、不動が姿を消してからはそんな努力も虚しくなり、すっかり元のように地味で機能重視のものばかり選んでいた。中学生時代なんて目も当てられないスポーツブラだ。
こんなところに穴があったとは、なんたる不覚か。早急に対処せねばと湯船の中で息子と戯れながら、自慢の脳を働かせた。





鬼道は元々、男性に対して反応が鈍いタイプである。でなければ自分などに騙されなかっただろう。当然、不動が色々と周囲のことを教えてからは異性の目も気にするようになったが、一番注目を浴びる存在のくせに相変わらず無防備も甚だしい。
不安要素はフィディオだけではない。分かってはいたが温泉での告白があってから、蓋をしてきたはずの部分がムズムズと動き出していた。
出会った頃から、彼女の名前と気位に見合うような男にならなければと精一杯だったが、薬指に約束を嵌めても安心などできない。一生続けると誓ったはずなのに、ちょっとしたことで隙間ができ、不安が入り込む。
常に気張っているには、精神力が要される。それも踏まえて選択をしたのだが、ひたすら走り続けるだけでは埒が明かない。褒美をねだる気はないが、なぜこうも不安が付き纏うのだろうか。
だからと言って土曜の夜、鬼道に余裕があるからと息子を任せて久しぶりにチームで飲みに行き、帰りが十一時を過ぎていいわけがない。雰囲気に流される性質は持っていないのだが、あれこれ考えながら飲んでいたのと、腰が重くなって、つい長居してしまった。
これはまずいなと思いながら帰ると、家の中は電気が消えている。どうやって息子を別の部屋で寝かしつけたのか、鬼道は唯一明るいベッドで一人上体を起こし本を読んでいた。
いつもの黒いシルクのローブ姿で妻はしかし、寝室のドアを開けるなり鋭い一言を放ってきた。
「随分ゆったりしたお帰りだな?」
静かに針で突き刺すような言い方にギクリとする。
「ああ、今日はちょっと遅くなっちまって……」
「今日は? 今日こそ早く帰ってくるべきだろう?」
相手にしないなんてことは不可能だった。鬼道は本を閉じてベッドを下りる。戦闘態勢に入られ、慎重にジャージを脱いだ。
「静かにしろよ、起きちゃうだろ」
子供部屋の方を指して言うと鬼道は黙ったが、それも気に入らなかったらしく腕組みをして立ったままだ。
「誰のせいだと思っている」
「あのな、オレだって色々あんだよ。断れたら真っ先に帰ってるっつーの」
「ただ遅いだけならまだしも、じゃあなんで毎回飲み会の度にポケットに誰かの電話番号が入ってて女物の香水の臭いがプンプンするんだ?」
「はァ? ちょっと待て、いつの話だ。疑ってんのかよ」
これは心外だ。しかし一度ついた火は、消しそびれたどころか煽ってしまい、燃え上がるばかり。
「ちょっと良いプレーをしたからといって巨乳のバカ女に囲まれてキャアキャア言われるのが楽しいか? さぞかし酒もうまいんだろうな」
どうやら鬼道は意図的に煽っているわけではなく、本当に頭に血が上ってしまっているようだ。それだけ待っていてくれたのだと思えば、自然とこちらは落ち着いてくる。不動は何とかなだめようと試みた。
「きょにゅ……ってオイ、いい加減にしろよ。さっきも言っただろ、オレだって早く帰りてぇんだよ。朝帰りよかマシだろ」
そんなつもりで言ったのではなかったのだが、見ようによっては腹立たしいへらへらした苦笑も相まって、鬼道には別の意味に取られてしまったらしい。
「そんなことしたら……っ、何もかも終わりだろう!」
叫んだ彼女の目が俯く寸前にきらきらと光って、血の気が引いた。
「あー……ゴメン。そういう意味じゃねーよ。失言だった」
すぐに抱き寄せようとして、伸ばした手を払い除けられる。めげずに再び同じやり取りをするが、今度は弱い。
「悪かった。なあ、有奈……待っててくれたんだろ」
三度目でやっと捕まえた。さり気なく袖で目元を擦って、鬼道は控えめに胸に寄り添ってくる。すかさず強く抱きしめて、肩に顔を埋めた。
「遅くなって、ゴメン」
不動の胸に顔をうずめ、細い手がぎゅっとTシャツを掴む。それに応え安心させるように、彼女の背をさらに抱き寄せた。
「不安、なんだ……」
腕の中からぽつりとこぼれる声に耳を傾ける。
「明王はどんどん男らしくなっていくのに、私は、相変わらずで。む、胸もそんなに……変わらないし……」
「えっ、何? 有奈チャンがネガティブ発言とか」
「……悪いか」
「悪いってーか……何言ってんの」
お前のせいだと言わんばかりに赤い目が睨んでいた。やや落ち着いてきたのを見計らって、ベッドに並んで腰掛ける。迷った挙句、鬼道は口を開いた。
「大体、最近……あまり、触ってくれないだろう……普段」
少し俯いて、言いづらそうに小さな声を出す鬼道は、悩ましげな表情で膝の上の手を見つめている。
「はい?」
「昔は、ふざけてよく――まあ、あれはほとんどイタズラの類だったが……今はする時と普段の時と、えらく態度が違うじゃないか? ……結局、体だけが目当てなのかと思ってしまうだろう」
「は……」
どこからそういう思考が湧いて出るのか、不動は唖然として、すぐに我に返った。
「んなワケねーだろォ!? 誰が体目当てってだけでこんなめんどくせー女と結婚するかよ!」
ギロリと睨まれ、不動は苦笑して「ちょっと待って落ち着いてクダサイ」と言うように、反撃に遭う前に彼女の肩をぽんぽんと叩いた。
「お前もオレも人前でイチャつくの好きじゃないだろ。それに、まだイマイチ距離感が掴めてねぇんだよ」
「距離感?」
怪訝な顔で尋ねられ、自嘲に投げるように軽く手を振って目を逸らす。
「オレはずっと、一人暮らしだったし。――男ってのは、特にオレは、好きな女に触っただけで興奮しちまうアホな生き物なんだよ」
「やっぱり体目当てじゃ……」
「だから違うっつーの! 色々あんだろホラ、ガキだって何人作るんだよ? それに、オレがここまでやってきたことは誰のためだと思ってんだ?」
迫ると鬼道はぐっと押し黙り、小さく呟いた。
「それは――私の……」
「バーカ、オレは自分のためにしか動かねェよ」
「ば、バカとはなんだ!」
「――心に決めた女に見合う男になりたいっていう、自分のためにしかな」
自嘲気味に笑んで見つめた先には、眉をひそめたままバラ色に染まる少し驚いた鬼道の顔があった。
「分かったならそのまま黙ってろ」
「んぅ! ん……ふ……」
唇を重ねて思いを伝えるのは古風な手段だと、今まで信じていなかった。素直に肩に回される細い腕に煽られ、つい時間を忘れてしまいそうになる。
たっぷりキスをして落ち着いたのか、横から力の抜けた肩を抱き寄せ、少し沈黙を味わった。
「――帰りが遅いのはわざとやってた」
その肩に頬を乗せて、深呼吸する。鬼道は眉をひそめたが、続きを待ちながら、凭れさせてくれた。
「幸せすぎてさ。今が。……どんな形にせよいつか終わるんだ、って思ったら、無意識にブレーキ働いちまってたんだろうな」
呆気にとられた分の間を置いて、鬼道がふっと笑う。
「相変わらずバカだな」
向き合うと、赤い目が優しく微笑んで強く燦めいていた。
「いつ終わるかわからないんだったら、せいぜい今のうちに満喫しておけ」
彼女らしい台詞と表情に笑顔がこぼれ、優しく唇を重ねる。そのまま首筋にキスをして腰を撫でる手に焦り、鬼道は慌てて離れようとした。
「ま、待て! 先にシャワーを」
「あぁ? んじゃあ一緒に、」
「入らなくていい」
「何でだよ。いいだろ、久しぶりに風呂でさぁ――」
「あっ待てっ」
黒いシルクの隙間から差し入れた手で、じっとりと胸から腰のくびれを撫でる。下着の存在が無いのかと期待したが、レースらしき感触はある。
「ここまで来て生理なの~とか言うなよォ」
「ちが……あっ、やだ、待てって言ってるだろう……!」
制止を無視して意気揚々と開いたローブの中から、総レースの深紅の下着姿が現れ、不動は思わず手を止めた。肌の透け具合が実に美しいなんて眺める暇もなく、鬼道は驚きつつ見惚れて固まる不動の手から逃れローブを勢いよく閉じる。閉じる前にひらりと背を向けたので、赤いT字から大きくはみ出す丸くきれいな尻がちらりと見えた。
興奮にぞわりと肌が粟立つ。混乱のさなかで、思わず引きつった笑みを浮かべてしまった。
「あのー……有奈さん」
「しっ新鮮味がないとマンネリするだろう。マンネリは惰性の元であり、惰性は破滅を導く」
「はぁ……」
ムキになって言わなくてもいいと思うのだが、妻は腕組みをして仁王立ち、加えていつもの――真っ赤になっているが――誇らしげなどや顔である。
「フン、体が武器にならないので武器を身に付けた迄だ。どうだ、気に入ったか?」
「武器って……いや、ハイ」
「どっちだ。ちゃんと答えろウスノロ」
「あのなァ……こんなことされたら、オレはいつぞやの野獣に戻るしかないんですよ……」
ハァーと長い溜息をついて、未だベッドに座ったままの不動は顔に両手を当てた。
「何を言っている?」
「マジ……マジやめてくれよ……こんなことしなくても、そもそもがエロいのに……」
「どこがエロいんだ」
「いや、嬉しいぜ? 単純に、すっげー嬉しいけど、けどさぁ? 人間っつーのは限度ってもんがあってさ……」
もはや、熱が集中している股間なんて気にしている場合ではない。がばと顔を上げ、立ち上がった不動はじりじりと鬼道に近付いていく。
「イチゴはイチゴのままで十分ウマイだろ? そこへさらに練乳がかかってる感じ。超高級なヤツな。んで、あっまあまなわけ。わかる?」
「そう言われてもな……」
鬼道は思わず後ずさりするが程なくしてクローゼットに背が当たってしまい、不動は逃げ場を失い俯いたその顎を持ち上げる。
「じゃあ聞くけどさ、こんなに有頂天にさせてどうするつもりだよ?」
「いっ……一生離れられないように、してやる」
不服そうな表情はほとんどが照れ隠しだと分かる。不動は何がどうとはよく分からないが堪らなくなって、とりあえず猫にするみたいに、鬼道の額を両手で包み込むようにして撫でた。
「お前、ほんと可愛すぎ」
呟いて抱き上げると、鬼道は慌てて首に腕を巻き付けしがみつく。
「わっ……おろせ、下ろせっ」
「はい、下ろした」
言うと同時にベッドへ下ろし、不服そうだが抵抗しない彼女を組み敷いて、まずは軽くキスをする。見つめ合うと、時が止まりそうに感じた。だがしかし、止まっている場合ではない。
ちゅ、ちゅ、と何度も重ねてからゆっくりと絡み合うキスは、トゲや固い表皮を容易く溶かす。サボテンの果肉から溢れるシロップのように、熟成された甘い蜜になって染み込んでいく。
「待ったナシだかんな。加減も無理」
囁くとシャツを捲り上げられ、自分で袖と頭を抜いて脱ぎ捨て、その間にベルトのバックルも外された。
「勿論……望むところだ」
「へぇ? こんなもん用意するくらいだもんな?」
ズボンを脱いだ不動は改めて覆い被さりいそいそとローブを剥ごうとするが、細い手が慌てて掴んで止める。
「やっ、やっぱりこんなの、無いほうが……」
「却下。もっかいよく見せろ。イヤ何回でも見せろ」
「どうせ脱がすじゃないか!」
「脱がすからイイんだろうが」
掴まれても何のそのと強行突破しようとしたら、今度は胸の前で手を組まれがっちり防御されてしまった。
「んだよ、オイ。せっかくオレのために用意してくれたんだろ……?」
囁きながら、その手を撫でて下から剥がすように滑り込む。
「こっこういうものは、やはり大きさがないと……っ」
「あ? 大きさとか知らねェよ」
「だって……」
「まーだごちゃごちゃ言ってンのかァ? 他の事には自信満々なくせに」
「あっ、」という間にローブを開き、一気に体が沸騰するのを必死で抑えながら、ゆっくりと手を這わす。
「嫌だ、恥ずかしい……っ」
真っ赤になって慌てても、時既に遅し。彼女のこんな姿も珍しいのでよく記憶しておくことにする。
「大きさが何だァ? ほら、こうやってオレの手にピッタリ収まる。すげぇやわらけーし、ココもかわいい」
「あんっ……」
レースごと突起を摘むと、押さえた手の下から高い媚声を漏らして体が揺れた。
「感度も良いし。これ以上ないくらい最高じゃねぇか……」
下着ごしでも分かる程硬くなっている股間を太腿に押し付けると、甘い吐息を聞くことができた。鬼道は頬を染めて控えめに見つめてくる。
「な。男は正直なんだよ」
苦笑して見つめ返すと、太腿をすり寄せて首に両腕を巻き付けてきた。
「そうやって、いつも正直でいろ」
ぐるりと体勢を入れ替え、鬼道は照れ隠しのように唇を重ねた。それに度が過ぎる程応え、舌を絡め、二人して無意識の泉へ落ちていく。
いつもより素直で、どこか初々しいのに、その恥じらいを含んだ赤い目は上から見下ろしていて、更にはあれだけこだわっていたローブを自ら呆気無く脱ぎ捨てた。
どうしたのかと見ていると、そのまま勢いに乗せてせっかくの下着も外そうとしている。
「おぉ、待てよ。もうちょっと楽しませてくんなきゃ」
手首を掴んで引き寄せると身を捩ってやや抵抗を見せたが、無視して胸に手を伸ばした。
身を起こして不動は滑らかな肌に舌を這わせる。吐息を聴きながら尻を撫でると、鬼道はまだ不機嫌そうに目を細めていた。
「なに」
事情を聞く前に突き飛ばされ、不動は再びベッドへ沈んだ。こらえきれず軽く笑うと、無理やりボクサーパンツを剥がされた。
どうするのかと好きにさせていると鬼道は赤い下着をつけたまま自分の胸を掴んで、不動自身を挟んだ。いや、実際には挟みきれていないのだが、ビジュアルとしては脳天が吹き飛ぶ程刺激的だ。
「ほら。全然使えないだろう」
どこで覚えたのか、コメントをする前に鬼道はさっさと手を離し起き上がってしまった。そこまでしたなら一度この苦行から解放して欲しかった。
「なあ……これ、何の罰ゲーム?」
「何の罰かだと? お前は罪深すぎる」
まだ何か言いたげな彼女を再び押し倒し、キスをして黙らせる。
「おっまえ……ホント、いい加減にしろよ。容赦しねェからな」
「下着のせいだろう」
「ちげーよ。確かにエロいけど。そんなことより、有奈が誘ってる時点で相当やばい」
待てと言う前に足を開かせ、赤い紐を避けて半ば強引に突っ込む。とは言え密園の入り口は愛液であふれ、既に準備万端であるどころか、寧ろ引き寄せて絡めとる食虫植物のようである。
「ひぁあんッ! やっ……待っ、ぁあ、明王……っ」
「うっ、わ……はぁ、たまンねェ……ッ!」
予想通りものの数分で果ててしまったが、すぐに再開するつもりで荒い呼吸のまま抱き合っていた。
「も……もっと、して……」
耳元で彼女の声が麻薬のように脳を刺激する。口付けて囁き返す。
「ぜんぜん、足りねェよな……。オレも」
再び律動し始めた不動の腰に足を絡め、子供部屋に聞こえないように(聞こえないと思うが)歯を食いしばる妻は、いつもとは少し違って見えた。自分が抱える想いの変化を、体を通して知ったのだろうと勝手な解釈をしつつ、唇から胸元まで点々と口付けを落とす。
名残惜しみながら下着を脱がしやわらかい小ぶりな乳房を両手で揉みしだくと、まるで連動しているかのように秘部が蕩け収縮する。
「ハッ、こんな、ギュウギュウ締めやがって……どこがエロくないんだよ? この淫乱」
「んぅうっ……そん、な……ぁっ、ふあぁ……ッ」
切なげに寄せた眉の下で、濡れた瞳に睫毛が震えている。鬼道の答えは現実的な反応で示された。
「あ、やべ……すげぇ気持ちいい……」
加速する運動にベッドが悲鳴をあげていたが、スプリングが壊れるかもしれないなどと考えている余裕は無かった。抑えきれず、密やかに喘ぐ声が全身に響く。
「やぁ、アッ……まっ、はげしっ……い! ひ……あきおッ」
「その、声……。エっロい声、しやがって……煽るんじゃ、ねェよ」
「んんッ……煽って、な……っ、ア……!」
頭が真っ白になっていく中で、お互いの息遣いと卑猥な水音が鼓膜を刺激する。
「全然もたねえ……ッぐ、――ッ!」
「んぁっ……あきお、やら、あ……あァッ――ッ!」
腰を打ち付けた時しがみついた鬼道に肩を甘噛みされ、枕に額を預けて激しい呼吸を繰り返しながらそっと笑った。呼吸が収まらないまま朦朧とした目がさまよう。噛んだ肩を舐め、鬼道は震えながらぐったりと力を抜いた。
「はぁ……ヘン……、何か……変だ……」
「なに?」
終わってもまだ上下する胸や腹に唇を当てる不動の頭を抱き、鬼道は考えながらうわ言のように呟く。
「前より……奥が、……産んだせい……?」
「……へぇ? もっかい、確かめてやるよ」
「え? 待って、まだぁ……はぁア!」
待てと言いながら擦り寄ってくる、冷め切っていない体をうつ伏せにさせ、冷め切っていない熱棒を挿し込む。繋がっている方が完成体だと錯覚するような感覚に身震いした。
「は、すげ……! 有奈っ……」
「んあ! いやぁ……っ、おかし、くなっ……らあっ、あァん……ッ!」
速くはないのに的確に一点を強く突き上げるたび、痺れて震える体を抱いて、吐息に悶える。
何もかもが融け合って、離れかけたかのように見えた心もぴたりと重なる。出会ったばかりでは、こうはいかない。お互いを知り、待ち望み、応え合おうとする度に、シンクロ率は高まり、強い共鳴が起こる。
常日頃から言葉より行動で示せと言う彼女の希望通り何も声に出さず、代わりにありったけの想いを一滴残らず注ぎ込んだ。



幸い、ベッドは耐え切ったらしい。一応様子を見に行ったが、息子も夜に包まれて熟睡しているようだった。
寝室へ戻ると、シャワーを浴び終えた鬼道がベッドの上で背中と腰を伸ばしていた。
「文句、言わなくなったな」
布団をめくり隣に潜り込んで、ニヤける顔を程々にしながら様子を窺う。鬼道はツンとすまして睨みつけてきたが、どこか得意気に言った。
「言ったってお前は加減しないだろう。馬鹿につける薬はないし、死んでも直らない」
「素直に、もっと激しいのが好きなの~って言やぁいいのに」
枕が顔に叩きつけられた。
枕を退けて文句を言う前に、布団に入った鬼道がむすっとしたまま寄り添ってきたので、肩に腕を回して抱き寄せる。これも既に、何度繰り返した動作だろうか。
「オレさ、有奈に会うまで、これがどういう行為(コト)なのか分かってなかったんだと思う」
下半身へ集中していた血液が戻ってきたものの、散々体力を使ってぼんやりとしたままの頭は、眠る前に訳の分からないことを呟く。腕の中から見上げる鬼道のふわふわした髪を撫で、指先に絡めた。
「今は分かったのか?」
「さあなァ。……でも、感想は違う」
意味を読み取った鬼道がくすりと微笑んだ。その赤い目が咲き乱れる歓喜に細められ、やがて閉じるのを見て、その背を強く抱き寄せる。
鬼道の片手が胸板の上に置かれ、何かを探すかのように上下に肌を滑り、真ん中へ落ち着く。彼女の手は、彼女の手の下にある皮膚の内側に満たされているものを確かめたのだと知って、不動はまた口元を緩ませた。
目を閉じて、その手に自分の手を重ね、眠りに落ちた。







もう何も言うことはありません……ご愛読ありがとうございました。

2013/10
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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki