<鬼百合は育む>





鬼道家の長女である有奈の体調管理は、当然の事ながら、常に万全に取り計られている。
毎日出される食事は彼女の好みと体調に合わせて一流シェフを抱えており、空調設備、日光、ばい菌や害虫の駆除に至るまで、全て彼女のために徹底されている。
月に一度の健康診断では、かかりつけの医師が24年間厳重に管理されてきたデータに些細な変化を詳細に書き加えていく。
だがこの日の変化は些細ではなかったらしく、老医師はしわだらけの顔をさらにくしゃくしゃにして言った。

「おめでとうございます、有奈さま」

欠伸を噛み殺した鬼道は目をぱちくりさせて、次の台詞を待った。

「五週目ですな」









「五週目だそうだ」
「へぇ」

タイミングを見計らい、落ち着けと千回言い聞かせてやっとのことで伝えた言葉に、目の前の男はちょっとした驚きの声をあげただけで、鬼道のまだ通常と変わらぬ平らな腹部へ視線をやった。歯を磨き終わった洗面所で、これから寝ようというときに言うべきではなかったのかどうか、一瞬の不安が過ぎった後に態度がカンにさわる。

「……他に何か無いのか! これだからお前という奴は、」

つい頭に血が上ってしまったが、よく見れば不動は妙に嬉しそうだということに辛うじて気が付いた。

「何かって……いつかこうなるだろうなと思ってたし。主導権握ってんのはそっちだろ、任せる」

壁に寄りかかって顔を撫でる仕草は、ニヤけた顔を隠すために誤魔化しているのだと最近わかってきた。本人が言った通り、彼はこの時を待っていたのだと考えが行き着いて、途端に恥ずかしさが戻ってくる。

「それにしたって……普通、もっと何かあるだろう、無責任すぎる」

ぷいと顔を背け、腕を組む。このまま後ろから抱き締めてくれたら許してやらないこともない。

「はぁ?」

だが、後ろから聞こえたのはやや面倒そうに装ったからかい声だった。

「どうすりゃいいんだよ。指輪でも渡せってか?」
「違う」

即座に否定してしまい、しまったと鬼道は思う。

「私が言いたいのは――」

しかし言葉が出て来ない。指輪というキーワードによって、脳の回路がひっくり返ってしまったかのようだ。

「仮にそうだとしても、そんな言い方で――」

見ていて大袈裟にため息を吐いた不動が、首から引っ張り出した細い革紐にぶら下がっているものに気を取られ、鬼道は話すのをやめた。今まで特に気にしていなかった小さなリングは、よく見ればファッションではなさそうだ。

「これがあったから勝てたんだーとか、んなことダッセェから言わねぇけどさ」

後でひとりしげしげと眺めて知ったことだが、革紐から丁寧に外した華奢なリングには、内側にルビーが一粒埋め込まれている。

「約束は守る男だぜ。オレは」

白銀に輝くそれをしかるべき場所に嵌めて、不動は満足げに微笑んだ。珍しく穏やかで心底嬉しそうなその顔を直視できなくて、鬼道は不満げに目を逸らす。赤くなっているだろう頬も見られたくない。

「こんな約束は、した覚えがない」
「えー? イタリア製ホワイトゴールドだぜ? 何がご不満なんだよ」
「だから、今から約束しろ」

俯いたままの鬼道に、込み上げてくる笑顔を抑え、照れ隠しに咳払いをひとつ彼は膝をつく。目が合った、一変して真摯な眼差しに、今度は逸らせなかった。

「オレは知っての通りこんな奴だけど、一つだけ胸を張れることがある。十年間ただ一人だけを愛してるってこと。これからもそれは変わらないって、約束する」
「……それで?」

引き締めた表情を変えないように気をつけながら、鬼道は見下ろす。実際は真っ赤になって今にも泣きそうに見えたが、彼女は鏡を見ていなかった。

「オレと結婚してください」
「――はい」

ゆるむ顔を、抑えきれなかった。膝をついたままの不動に、身を屈めてキスをする。二人して床に座り込み、鬼道は不動に抱え込まれるようにして、上半身をそっと預けた。

「高校を卒業して、もう二度と恋なんかしないと思ったのに、また恋をしてしまった……」

胸元で不服そうに呟くと、驚いた声が返ってくる。

「誰に?」
「世界一の馬鹿に」

わざとらしく寄りかかると不動は耳元でくすくす笑っていて、腹がたったから困らせてやろうと思った。

「あと私はプラチナのほうが好きだ」
「買い替える?」
「いい」

即答して、左の薬指にきらめく冷たい金属を撫でる。

「約束は一つで十分だから……」

その手に不動の手が重なって、小さな金属は温まった。

「有奈」

耳元で囁く声に気を取られ、腰の辺りで硬くなり始めた感触に気付くのが遅れた。首筋に近付いてきた唇を無視して、閉じ込めようとする腕を引き剥がし、乱暴に振り投げる。

「急に素直になりすぎだッ」

慌てて立ち上がり、洗面所を後にする。すぐに追い付かれ、結局ベッドになだれ込んでしまった。
今まで辛い日々を送ってきたところへ急に甘くなると、異常なほど甘く感じられるものである。だがユリ根の調理法なんて、これから二人でゆっくり調べればいい。
もう一度恋をして良かったと微笑んだ、それを見て微笑み返した。夏の爽やかな風に揺られ、太陽に照らされて、鬼百合は美しい花を咲かせることだろう。







いい加減に終われ

2013/05
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