＜鬼百合は滴る＞





夜のそよ風がカーテンを揺らす。メイドが窓を閉め、初夏の夜の涼しい空気は一旦入室を禁じられた。
部屋のなかに閉じ込められた爽やかで艶のある空気に包まれ、ぐっすり眠る赤ん坊を飾り気は無いがしっかりしたベビーベッドに横たえ、鬼道有奈は小さく息を吐く。

「村前、本当に頼んで大丈夫か？」

囁き声で確認すると、メイドは微笑んで頷いた。何かあれば乳母もいるし、数時間の睡眠は確保できるだろう。
そっと部屋を出て、シルクのガウンの裾を揺らしながら自分の部屋へと薄暗い廊下を歩く。
出産から一ヶ月半、やっと色々な面で落ち着いてきたような気がする。想い人が帰ってきたと思えば妊娠、挙式とあっという間に進み、すぐに夫はプレミアリーグの準備と試合のためにイタリアへ行ってしまった。
ドアを開けると風呂上がりだったのだろう、薄いTシャツと下着だけでクイーンベッドにうつ伏せになって倒れ込んでいる姿を見つけ、鬼道は苦笑する。
不動が帰ってきたのは昨日の朝で、ちょうど機嫌の良かった息子に会い目尻を下げていたが、そのまま一度寝たとは言え時差の混乱はまだ解けていないのだろう。
今回はしばらく居られると聞いて安堵したことも、精神的な安定に一役買っている。ゆっくりと隣に寝転んで、顔にかかっている前髪をどけてやった。
妊娠五ヶ月頃から外見のこともあり会社には行かず家で仕事ができるように工夫し、佐久間や寺門、成神など優秀なチームのおかげでだいぶフォローしてもらってはいるが、今まで朝から晩までギッシリ仕事を詰め込んで生きてきたため、家でもいっぱいいっぱいな生活を送っていた。仕事を詰め込む理由は指輪によって解消されたはいいものの、やはり根を詰めすぎていたのだろう、愛しい人の寝顔に肩から力が抜けていくのがわかった。

「……ん？」

いつの間にか目を覚ましたらしい、どうしたと言わんばかりの目が見つめていて、頬をそっと撫でられ動揺する。

「起こしたか」

謝罪の響きを入れて言うと、不動はうつ伏せから横向きに体の位置を直し、妻の肩に片腕を乗せて気持ち良さげに目を閉じた。

「んーもっかい寝る」

デオドラントの残り香と服に染み込んだ洗剤の匂いに混ざって、微かに漂う彼の体臭が鼻腔をくすぐる。
何分経ったか、ひとしきり静寂と戯れてから、鬼道は目を上げた。

「お前、浮気してないだろうな」

起きていることは分かっていたが、またしばらく沈黙が訪れ、目を開けないので、できるだけ甘えたような優しい声を意識してはみたものの、些か心配になった。

「人生でこれ以上考えられないくらい充実してんのに、するわけねーじゃん」

穏やかにくぐもった声でそう言われて、その充実の要因を作っているのが自分だとすると、しっくりと安心感がもたらされる。しかしいくら子宝に恵まれ問題がなさそうな家庭でも、欲望というものは計り知れず、常に影に潜んでいるものだ。

「私は……お前を満足させることができているかどうか疑問だ」

胸に手を当てると、笑い声が聞こえた。

「まーだそんな事気にしてんのか、有奈チャンは」

ぐいぐいと頬を撫でられ、「でも……」と目で訴える。

「大体オレ、浮気なんかしたら今までの努力がパーだぜ？　んな、勿体無いことしねぇよ」

言いながら起き上がり、不動はベッドを降りる。それは冗談めかして笑っているが哀しげな声で、鬼道は素直になれない自分に少し後悔した。

「どこに行くんだ」
「目ぇ覚めちまったから走りにでも行こうかと」
「明王、」

引き留めるように呼ぶと、目を合わせたあと、彼はやれやれといった風にため息をついた。

「何なんだよさっきから？　可愛い声出すんじゃねぇよ、オレだって我慢の限界ってもんがさぁ……」

照れ臭そうに言われた言葉に、先程までの態度に納得がいく。鬼道はベッドの上を横切り、不動が降りた側まで近づいた。

「もう我慢しなくていいと言ったら？」

首を曲げて髪の毛を逆撫でしていた不動が、首に手を当てたままこちらを見る。

「……マジで？」

ゆっくり近づいて、ベッドの脇の絨毯に膝を着くと、ベッドの上にうずくまる鬼道と目線が同じくらいになった。頬を染めて向けた視線が答えになってくれないだろうかと思いながら、鬼道は口ごもった。

「だから、その……」

見つめ返すことも出来なくなって俯いた顎を掬われると、嬉しそうな笑顔が目の前にあって、すぐに見えなくなった。

「ん……っ、ん……ふ……」

ゆっくりと時間をかけて、くちを合わせた。歯列をなぞり現れた舌と絡み合って、自分がどこにいるのか分からなくなる。

「いいんだな？」
「お医者はいいと言っていたし……順調だそうだ……」

ガウンの紐をほどいておきながら開けずにいると、不動の熱い手が輪郭をなぞるように撫でながら剥いでいった。

「あ――そうか、さっきのは誘ってたんだ？」

フライトの疲れはどこへやら、いそいそとシャツを脱いで鍛えられた上半身を晒しながら不動はベッドに乗り上げる。図星をつかれて顔がカッと熱を持った。

「よしわかった。オレもおあずけ食らってた分、一回じゃ絶対ムリ」

何も言えなくなって顔を逸らせば、首筋に胸にキスを落とされ、腰を抱き締められる。熱い体が密着して、相乗的作用をもたらす。

「帰ってきたら、キスくらい、してくれても……」

呟くようにこぼすと、ばつの悪そうな顔が答える。

「ダメなんだよオレ。好きな奴にはキスだけじゃ済まなくなるから――よく知ってンだろ？」
「ああ……」

そういえば中学生の頃から、性欲の塊のような男だったと思い出す。そんな奴が妻の体を気遣って自制するようにまでなったとは、涙も出てくる。

「明王……」

腕を伸ばして彼の首に巻き付け、足を太股に擦り付けると、不動は乳房をそっと掴んで愛撫した。

「……あっ」

だがここで唐突な発見の声に、恍惚とし始めていた意識が呼び戻される。何と問う前に鬼道は自分の乳房が濡れていることに気付いた。次には不動が指を舐め、驚いた顔をしているのが見えた。ツッコミが追い付かない。

「あ、うまい」
「ちょっ……なにをしている！」
「なにって……おっぱい」
「えっ……やだ、ちょっと、明王っ」

制止の声も聞かず、不動は乳房に吸い付く。だが赤ん坊とは違い上手く吸えるはずもなく、「痛い」と言って肩を叩いたらやっと残念そうに離れた。

「だって、揉んだら出たからさ、あっホラ」
「やっ……ホラじゃない！」
「今だけなんだろ？　そういや、ちょっと張っててデカい気がする」

ぴゅっと手にかかった乳を舐めて上機嫌の不動を蹴り飛ばし、鬼道は起き上がる。

「バカっ！」

軽く笑いながら寝転がった不動を振り向くと、見ている方が呆れてしまうほど幸せそうに笑っていて、思わず胸を隠した腕の力も緩んでしまった。
渋々戻って、今度は鬼道が不動の腹の上に跨がる。キスをして、胸板を撫でる動作は官能的だ。カーキ色のボクサーパンツを脱いで現れた、強い力で反り立っている不動の一部は、ごく自然に鬼道の内へ収まった。

「んっ……はぁあ」

内壁が収縮して身体中が刺激に震え、視界がブレて、頭の中に星が飛ぶ。上半身を少し倒して屈み込みキスをした、不動の興奮に張り詰めた額を撫でていると、再び乳房を掴まれる。刺激で漏れる乳を舐める姿に真っ赤になって抗議する前に、不動が呻いた。

「やべ……イキそう」
「えっ、……あ、あんッ」

騎乗位のまま腰を掴んで揺すられ、下から突き上げられて、間もなく中で不動が震えた。

「わり……気持ち良くて」

照れ臭そうに言うのが可愛く思え、鬼道は微笑む。出産後は緩んでしまってというような話を待合室かどこかで小耳に挟んでいて、今また一つ不安が解消されたことを知る。

「また産ませる気か」
「悪くないと思ってるくせに」
「またおあずけになるぞ」
「おっぱいで我慢する」

笑いあうふざけた会話に軽く不動の胸を叩き、もどかしく腰を揺らす。

「馬鹿言ってないで、まだだから……はやく」

照れ隠しに睨みながら不服そうに言った鬼道に、不動はちょっと驚いた後、笑ってキスをした。体勢を入れ替え、激しく求め合う。
落ち着いた頃にはお互い色んなものでびしょ濡れになっていて、一緒にシャワーを浴びた。





「さっきのさぁ」

不動の二の腕を枕に余韻に浸りながら、呟きに耳を傾ける。

「天下の鬼道有奈には誰も勝てないからなぁ。負け知らずじゃ、いつか負けたらっていう不安になるのもしゃーねぇわな、と思った」

知ったような口を利くと思って聞いていたが、ふとサッカーにも同じことが言えるのだろうと気付いた。

「本当、スゲーよ。一人で頑張ってさ」

さっきまで自分がぶつぶつ言っていたのが馬鹿らしく思え、謝ろうかと悩んだその時、より密着するように抱き締め直した不動が耳元で囁くように言った。

「なあ。おれしばらくこっちにいるわ」
「えっ？」
「Ｊリーグのオファー受けたから。オレんち広いから、女一人子供一人なら余裕で住めンぞ」

ぶっきらぼうな言い方に、微笑みと共に涙がこみ上げてきて、鬼道は笑いながらそっと目元を拭った。

「行ってやらんこともない」

気持ちをめいっぱい込めたキスをして、鼻を触れあわせる。何とかなると思わなかったのは、珍しく不安に苛まれていたからで、これ以上考えられない程に満たされた今は、冷静で的確な判断ができるはずだ。
それもこれも結局は愛かと再確認し、鬼道は夫にすり寄ってベッドに身を預けた。
……が、うとうとと心地よいぬくもりに包まれていたのも束の間、すぐ訪れた夜明けと共にメイドがドアを叩き、結局、朝まで眠れなくなってしまった母なのだった。






終わり　または　永遠に続く...

2013/06