<5000ピースのジグソーパズル 12>







3176

休憩のホイッスルが鳴った途端、眉を吊り上げた鬼道が大股で真っ直ぐ向かってきた。
「いくらなんでも、あんなパスのしかたはないだろう! 取れると思っているのか!?」
「お前なら取れたろ」
「おれの話じゃない! なぜお前は他人のことを考えられないんだ? 他人に望むことはまず自分でやってみせろ。自分ができないことを他人に求めるのは無責任だ!」
カチンときたが、彼にしては稀に見る剣幕で喚いてきて、その様子を珍しいなどと冷静に分析している自分もいる。
「自分のことしか考えられない奴は一生ベンチにいろ」
しかし、その言葉はさすがに頭に来た。試すような口調で傲慢に、腕組みをして立ちはだかる彼からトンボメガネをひったくり、木っ端微塵に踏み潰してやりたくなる。
「ハッ、偉そうな態度だけは世界一だな。傲慢選手権のトロフィー貰ってこいよ」
受け流して、さっさと退場しようとする。背を向けた瞬間、鬼道は微動だにせず叫んだ。
「逃げるのか!」
奇妙な状況だが、このやりとりは全て日本語なので、周りの部外者たちは体を休めつつ、ドリンクを片手にフィディオのいい加減な翻訳を聞きながら見物している。
しかし見られていることや、後で笑い話にされることよりも、今は自己を出さなければいけない、相手に屈服してはいけない、そしてそれに半ば無意識的に抗うことができなかった。
数歩分一気に距離を縮め、不動は腕を組み微動だにしないその胸ぐらを掴む。
「何だと? てめえ、オレがいつ逃げた? どんな思いでここに立ってるか知らねぇだろ。こん中で一番近いオレのことすら把握してねぇくせに、よく司令塔が務まるよなぁ!」
覗き込んだレンズ越しに動揺を確認して内心ほくそ笑んだところで、さすがにこれ以上はまずいと思ったのか、フィディオとマルコ率いる数人の仲間たちが仲裁 にやってきた。ここでやめておけばよかったのかもしれないが、不動は彼らが引き剥がす前に、突き飛ばすようにして手を離しとどめを刺した。
「おぼっちゃんにとっては、これも遊びの一環なんだろ。とっとと家に帰ってパパとチェスでもやってろよ」
鬼道を宥め労る裏切り者集団を残し、今度こそ退場する。溜息と共に二時間早い練習の終了を告げるフィディオの声が後ろで聞こえた。
プレスタンテ他、一部リーグがトーナメントに加入するのは来月からだ。かといって、私情で仲間割れしている場合では勿論ない。ロッカールームにいるとそのうち全員が来てしまうので、練習場の廊下を適当に歩いた。
頭も冷めてきた頃、実況放送室へ着いた。狭い部屋の壁一面をくり抜いた大きな窓から、グラウンド全体が見渡せる。一人ベンチに座る鬼道も見えた。
半年経ったが、彼がどういうつもりなのか今ひとつ掴めない。不動は溜息を吐いて、机に片尻を乗せる。
(迷ってるのはオレだけかと思ってたけど……どうすっかね)
フィディオが鬼道を呼びに来るまで、腕組みして宙を睨む彼を複雑な気持ちで眺めていた。







何も言わず鬼道の車が出て行くのを窓から見送り、ロッカールームへ戻ると、ドアの前でロバートが待っていた。
「ハイ、アキオ! 調子は?」
「ああ、いいよ」
英語には英語で、皮肉っぽく答える。
ロバートは笑顔で、オフェンスが得意な二本の長い足を軽々と動かして近づいてきた。
「さっきはすごかったな! あのキドウ・ユウト相手に、悪魔も尻尾を巻いて逃げ出すぞ」
「そうか? あいつはわりと怖くないぜ、ああ見えて」
言ってから少し後悔したが、鬼道がどうなろうと知ったことではない。
ロバートはここのところよく鬼道の側にいる。民族精神、伝統を重んじるイタリア人たちに対して、外国人同士、仲間意識が働くのだろう。それはいいが、ゲイだと公言している人間がウロウロしているのだ、気にならないわけがない。
しかし不動とも妙に気が合うので、よく話し、おかげで少し英語が上手くなった。
「なあ、せっかくだから今から飲みに行こうぜ。奢るよ」
ロバートとなら愚痴の疲労大会ではなく、彼が在籍していたプレミアリーグの話や世界大会の話で盛り上がることができ、気晴らしになるだろう。
「マジで? じゃあ、誰とも鉢合わせしそうにないトコがいいな」
シャワーへ向かいながら言うと、既に私服に着替え終わっているロバートは嬉しそうに「イェーイ!」と叫んだ。景気付けが得意な奴と仲良くなっておいてよかった。







先に帰ったからという理由だけでラザニアを作って待っていたのだが、九時を過ぎても不動は帰ってこない。いくら腹を立てたからといって、足の無い人間を置いて勝手に帰ってきてしまったのはさすがにまずかったかと思い、迎えに行くから連絡してくれという旨をメールしたのだが、かれこれ一時間経っても返事が来ない。
不安になってメールを読み返したが、自分の日本語がどういう印象を与えるかすら分からなくなってしまっている。
あとはオーブンに入れて焼くだけですと言わんばかりのラザニアを眺め、ひたすら時計の針が進む音を聞いていたが、やはり迎えに行こうと立ち上がって冷蔵庫へ入れた。
その時、テーブルの上で携帯電話が鳴った。慌てて掴み、ひと呼吸してから耳に当てる。
「不動――」
『あ、鬼道? オレだけどさ。今日、他んとこ泊まるわ』
「は? 他のとこって、どこだ」
驚いて、ついきつい声になってしまったから、電話の向こうにはまだ怒っていると思われただろう。街中の雑踏に紛れて、少し鼻で笑ったようなのが聞こえた。
『どこだっていいだろ』
「待て、不動――」
『アキオ! 来いよ、席空いてるぜ!』
さっきのことを謝ろうと口を開いた時、電話の向こうで英語が聞こえた。
「ロバートと一緒にいるのか?」
『いたら悪いのかよ?』
一瞬、血の気が引いた。しかしすぐに平静を取り戻した。
「いいや。せいぜい楽しんで来い」
自暴自棄になって、不動の反応を待たずに電話を切る。再び静かになった部屋で、激しい自己嫌悪に陥った。
(何を考えている……うまくいかない方がいいんだ。あいつは誰かとどこかで、楽しくやっていればいい)
こんな精神状態では、チームを勝利へ導けるはずがない。不動のことを気にせずのんびり風呂へ入ろうとしたが、とてもそんな余裕がない自分を叱咤しつつ、熱いシャワーを浴びて深く息を吐いた。
(しっかりしなければ……何のためにここまで来た? あいつは関係ない。本人がそう言っていたじゃないか、同じことだ)
拳を握りしめたその時、あることに気付いてしまった。
(何故こんなことで……、そうか)
七年前に、それは確立した。しかし鬼道は見ないフリ、気付かないフリをしてきた。なんということだろう、逃げていたのは自分の方だ。
(いや、待て。円堂や豪炎寺に向ける気持ちと、何が違う? 確かに、肉体的な……色々違うが……それなら、それだけの為の存在じゃないのか)
こんがらがってきた思考と格闘するのはお湯を無駄使いしない場所にしようと、鬼道はシャワーを止めた。


(あぁ……おれは最低だ)





ロバートの借りているアパートへ向かって酔い覚ましに歩きながら、他愛の無い話を続けていたのだが。彼はどうやら、少し勘違いしていたらしかった。
「それにしてもさ、お前もよくあんな奴の家に住めるよな。今日だって、何言ってるか分からなかったけど、あそこまでやることないんじゃない? しかも皆の前でさ」
鬼道をこき下ろし始めた時、不動の中で何かが引っかかった。
「ああ……まあな。あいつは色々複雑な奴なんだ」
「確かに能力があるのは認めるけど。性格と能力は一致しないよな」
わざとらしく携帯電話を開き、何も見ていないがメールをチェックするふりをして、不動は大通りから横に入った細い路地の真ん中で立ち止まった。
「悪いロブ、やっぱ帰るわ。お前の部屋を更に狭くすんのは気が引ける」
苦笑混じりに告げると、ロバートは一瞬固まって、それから笑顔で言った。街灯が寂しく彼を照らす。
「何言ってんだよ、平気だって。楽しもうぜ!」
「けどさぁ――」
断る理由を探す不動に近づいて、ロバートは肩を軽く叩く。
「なあ、待てって。帰りたくないっつってたじゃん。俺、どっちが上でも構わないし――」
「オレ、好きな奴いるから」
ついさっきまではしゃぎにはしゃいでいたロバートが、スイッチが切れたように急に大人しくなった。自分を落ち着かせようと一周りしてから、青い目が悲しげに見つめる。
「誰? ユウト?」
「中学の同級生」
ドキッとしたが、うまくかわした。
「恋人なのか?」
「るせーな、いいだろ別に。お前の知らない奴だよ」
背を向けて通りへ向かう不動を追って、ロバートは頼りない声を出す。
「あっ……アキオ、」
「あ、それと、お前のことは嫌いじゃないから」
振り向いて、ちょっと微笑んだ。
「お前、いいやつだし。仲間だし友達だろ、割りきって行こうぜ」
「――お、送ってくよ」
泣きそうな声に笑い、不動は手を振った。
「いーって。タクシー拾う。早く寝ろよ。おやすみ」
「……おやすみ」
困ったように、だがやわらかく微笑むロバートを見て、自分がこんなに穏やかに人と真面目な話をしていることが、何だかとても不思議なことに思えた。
(てっきり鬼道狙ってんのかと思ったけど)
他人の動向を読むのは得意だったはずなのに、それすらできなくなっていた自分に今更気付かされ、不動は何度目かの溜息を吐いた。
次は最後の難関が待っている。気が進まないが、何とかトゲを抜いて傷口を塞がなければならない。微笑みも消え、不動は夜の街を静かに歩いた。







玄関のドアが開いて閉まった音がして、ベッドに寝転んでいたおれはハッと起き上がった。外でエンジン音が遠のいていく。気付かないほど自分の世界に入ってしまっていたのだろう。
廊下へ顔を出すと、不動が靴を脱いでいるのが見えた。のろのろ廊下を進んで来るので、まだ起きているぞと言わんばかりに姿を見せる。
「ロバートはどうした」
立ち止まらないので、行手を阻む。不動は迷惑そうに顔をしかめた。
「どけよ」
ひとが心配していたというのに、こいつはただいまさえ言えないのかと不愉快になる。
「ここはおれの家だ」
「だからおれに従え、ってか。あぁハイハイ、その通りですねまったく……」
言う習慣が無いのかもしれないと思い至ったが、遅かった。
「おい。ふざけているなら――」
なおも食い下がるおれを押しのけてリビングへ向かう不動は、歩きながら上着を脱ぐ。
「話をする気が無いのか?」
「無いね」
追いかけると、キッチンで水を汲んでいた。しかし酔っているようには見えない。
「つうか。何の話だよ?」
「だから――」
その先を口にするのを戸惑い、おれは押し黙る。それを鼻の奥で軽く笑われた。
「分かった。確かにここはお前の家だけど、金払って部屋借りてんだから、出入りは自由だろ。イヤならいつでも出てくぜ」
「誰もそんなこと言ってない」
強い口調で部屋へ向かう不動の後を追いかけると、振り向いて怪訝な目で見られた。
「何だよ、ついてくんなよ。何がそんなに気に入らないわけ?」
「気に入らないのは……」
また昼間の怒りが戻ってきた。まずいと思いつつ、一気に言いたいことをぶちまけてすっきりしたいとも思う。
「まず、予定が変わったくせにメール一通くれないことだ。泊まると言っておいて、なぜ急に帰ってくるんだ? 夕飯だって食べるかどうか分からない、いつ帰ってくるかも分からない。確かに置いて行ったのはおれだが、連絡はしただろう。マイペースもいい加減にしろ」
不動はまた部屋へ向かって歩き出していたが、おれの言葉が途切れた途端、反撃に出た。
「はぁ? オレ、置いてかれたんだぜ? マイペースなのはそっちだろ」
「だったらメールくらい返せばいいだろう! その前に昼間の態度が悪いんだ。置いて行かれても仕方ない」
「ちょっと変わったパスしたぐれーで野宿しなきゃなんねぇの? オレは必要なことはちゃんとやってる――」
携帯電話が鳴って、不動がポケットから出したが、画面を見ただけで切ってしまった。
「出なくていいのか?」
嘲笑と共に訊ねるが、不動は深刻そうな表情を一瞬見せた。
「いい」
「誰からだ」
責めるつもりはなかったのだが、最後の一押しをしてしまったらしく、不動は携帯電話を自分のベッドに投げて叫んだ。
「いちいちいちいち、うるせーな! 何なんだよ? さっきから!」
そこではっとして止めた不動を見て、おれは先程から考えていた疑問を口にした。
「ロバートと何があった?」
「――何もねーよ」
「電話もくれないし、メールの返事もない。誰だって、勝手にしろと思うだろう」
不動は部屋に入り、腕時計を外す。
「もう分かったから、寝ようぜ。お前も疲れてんだろ。続きはまた明日」
大人しくここでうんと言っておけばよかったのだろうが、おれはこれ以上引きずりたくなかったし、嘘は嫌いだったし、急に空気を変えようとした不動が心配で、ここで引き下がったら妙な距離が生じ永遠に埋められない溝が出来てしまう気がした。
同時に、墓穴を掘った気もしていた。
「お前はいつもそうやって逃げるんだな?」
ある程度成長してからの喧嘩は、性質がわるい。色々な知識や情報を得て賢くなったばかりに、より深く相手を傷つける方法を思いつくからだ。
「表面上はうまくやっているように見せかけているが、実際は何も成長していない。そんなことでは、すぐに二軍だぞ」
相手の顔が歪むのも、自分が今崖っぷちに立っているのも分かっていたが、いつにも増してお喋りな口は止まらない。不動も負けじと、目の前に立ちはだかった。
「ご丁寧にどーも。さすがの分析力だなぁ。何でもかんでもお見通しってわけか。まったく偉いもんだよ、親を亡くした孤児の天才ゲームメーカー。誰もが羨む鬼道サマってわけだ」
「哀れだな。何故そんな言い方しかできない? お前はもっと変われるはずだ!」
どうしてこうなってしまうのだろう。胸が張り裂けそうになって、腕組みをして押さえた。不動がおれに掴みかかり、その手を引き剥がした。
「お生憎様、これがオレだよ。哀れんで結構だけどさぁ、オレを受け容れて後悔してるんだろ。お情けをかけるからこうなるんだよ」
思考がぐちゃぐちゃになって、発言が追いつかない。
やっと自分の気持ちに気付いたばかりだというのに、もう救いの綱は最後の一本が切れそうになっている。いっそのこと、一思いに切れてしまったほうがいいのかもしれない。
「お前こそ何か隠してんだろ? 言えよ」
「隠してない」
「ポーカーフェイスがお得意らしいが、オレには通用しないぜ」
おれは気付かれないようにしながら必死に酸素を求めた。
「どうせバレるんだ、今言えよ」
「どういう理屈だ。意味が分からん」
「相変わらず頑固だねぇ、鬼道クンは! 一緒に住んでんなら、悩みくらい話せつったのはどこのどいつだよ?」
「お前に言っても、仕方がない事なんだ」
手を振り解いて立ち去ろうとしても、不動は先回りして行く手を阻む。
「そういう問題じゃねえって、お前が言ったんだろうが!」
心臓を揺さぶるその声に体が跳ねたが、不動はそんなことは気にしていないようだった。彼もまた、平静を欠いているのだ。
「おまえこそホンットいい加減にしろよ、もしかしてオレのことまだ恨んでんのか? それで親しげにしておいて崖から突き落とすつもりなんだろ?」
「なっ……どうしてそうなる? そんな訳、無いだろう……!」
「じゃあ何だよ。言いたいことがあるなら言えよ。ハッキリ言えばいいだろ? オレと一緒にやるなんて、やめればよかったって思ってんだろ!」
強く肩を掴む不動の手を振り払い、おれは叫んだ。
「お前と出会ってから、やめればよかったなんて思ったことはない!!」
つい衝動的にだったのだろう、半ば呆然としながら二の腕を掴む不動の手を振り解こうとし、離さないのでそのまま押して廊下の壁に叩きつけてやった。不動は 顔を歪め、おれを見た。おれは倒れそうになりながらも精一杯怒って見えるように睨んでいたが、それを無視して不動は唇を奪った。
「ん――!」
まだ一応抵抗する力はあったが先程までの勢いの残骸だったし、ドラマみたいに舌を噛む勇気は無かった。突き放すなんてできるはずがない。
不動はおれの力が弱まったのを感じるとグイグイ押してきて、今度はおれが反対側の壁に押し付けられてしまう。腹が立ったのでおれは体を反転させ、再び不動を壁に押し付け、骨抜きにしてやると言わんばかりに思いっきり情熱を込めてキスしてやった。
不動が笑ったので、胸の辺りを掴む。
「……何が可笑しい?」
「いや。人間って、面白いなって思ってさ」
何を言い出すんだこいつと思ったが、すぐに何を感じたのか理解することができた。男と男、特におれと不動の場合は、ほとんど対等の存在だ。似ている部分と異なる部分があり、どちらも理解し合える場合が多い。
おれは不動に知られたことを、少し悲しんだ。こんな形で伝えるつもりじゃなかったし、そもそも気付いたばかりで自分の中で整理ができていないのだ。それに、将来性の無い想いなんて伝えるべきではない。
「そうだな。確かに、面白い」
手を離し、自嘲気味に呟く。不動はそんなおれを見つめ、そっと頬を撫でた。
沈黙は少し長かった。考えていると言うより、探していた答えを見つけてしまい、それを眺めて驚き唖然としている分の時間、自分で理解し認めるまでの時間が、流れた。
認めてからは、すぐに動いた。
おれは少し硬めでツヤのあるくせ毛をかき撫で、やわらかい唇を貪るようにしてキスに応えた。熱く濡れた舌が絡みつき、力の込められた両手がおれの腰を抱き寄せる。
さっきまでとは、まるで違う。参考にできる回数もしていないが、今までしてきたどんな口づけとも違う。
「ふどう……、」
何かを言いかけて、不動が先を促すように様子を見たが、何も必要ないと知った。これはまずいと頭のどこかで理性が警笛を慣らしていたが、崩壊を止めてやることはできない。
おれは本能と直感に従いベッドへ転がって、不動が服を脱ぐ間にパジャマのボタンを外した。
あと数ヶ月で二十三歳。おれは生まれて初めて、後悔しても構わないと思った。











"愛する者同士が赤児のように話し合えるわけが、エリーにはわかってきた。自分のなかの幼児的な部分をなにはばかることなく露出できるような関係は、ほかに存在しないのだ。
(中略)
それら潜在意識下の分身の孤独は、愛によって癒やされるのだ。たぶん、愛の深さは、二人の関係のなかで、各自の潜在意識下の分身がどれくらい解放されるかによって計られるのではあるまいか。"
――「コンタクト」(上)P.251 カール・セーガン











3177

目が覚めてすぐに、寝過ぎたと思った。外は静かだが雨が降っている。
客室のベッドはセミダブルだ。起き上がろうとひねった体が隣の背中に当たる。鬼道が小さく呻いて、仰向けになった。
「あ……オハヨ」
「ん……おはよう……」
ぼんやりとした赤い目が携帯電話の画面を見てぱっちり開き、鬼道はがばと起き上がる。
「もうこんな時間じゃないか! なぜ起こさなかった?」
急いで毛布から出ようとするが、自分が下着しか身につけていないことを思い出してまた毛布を体にかけた。不動は笑いを堪えながらジーンズを穿く。
「起こしたぜ。でもお前が、雨だって言うから。二度寝」
明け方の記憶が蘇ったのか、鬼道は少し落ち着いて言う。
「……そうか」
「朝メシ食って出れるじゃん、飛ばせば余裕だよ」
タンスからTシャツを引っ張りだして頭と袖を通しながら言うと、不機嫌そうな声がした。
「飛ばすのが嫌だから、早めに出ているんじゃないか……ちょっとでも遅れると渋滞が始まるんだぞ」
出ていく途中、ベッドの側で立ち止まる。鬼道は顔を上げて不動を見たが、すぐに目をそらした。
「あのさあ。……どこまで覚えてる?」
尋ねると、鬼道は俯いた。記憶を辿っているというよりは、どうやって恥ずかしくない言い方ができるか考えているように見える。
沈黙に寄り添う雨音が心地良い。
「一緒にシャワー入ったろ」
「えっ、シャワーは一人ずつ……」
「しっかり覚えてんじゃねーかよ」
声を出して笑う不動を一瞥し眉間にシワを作った鬼道を残して、リビングへ向かう。
一人になった途端笑みは消え、顔をひと撫でして熱を持っていないかどうか確かめた。
(あー、やばい……)
シャワーを浴びた後、言い訳も持たずに無防備な不動の部屋へ戻ってきた鬼道は、一体何を思ったのだろう。狭いとか暑いとか文句を言いながら、肌を寄せ合った空間が穏やかな眠りをもたらした。
そうだ、昨夜の自分は非常にガードがゆるかったと思う。
ここのところぶつかっていた理由もこれで明らかになった。第三者の介入もところどころあったが、結局は肉体の欲求を認めようとしなかっただけだ。性欲と感情が繋がっているなんて、まったくややこしい話である。
一人キッチンで湯を沸かしながら悶絶していると、服を着た鬼道がゆっくり歩いてきた。
「あのさ。ロバートの件だけど」
「ああ、どうした?」
何か妙な空気になる前に、普段の空気を漂わせておく。
「けじめって言うか、本人にはもうちゃんと言っといたから。チームに迷惑かけるなとか、そういうの、穏便に。だからもう忘れて、気にすんな。オレも忘れる」
「――分かった」
鬼道は何があったのか詳細を聞きたそうだったが、頷いて口を閉じた。
「ああ、腹が減った」
いつものようにテレビをつけ、冷蔵庫から卵を取り出す。毎朝聞くニュースキャスターの声にコーヒーの香りが加わり、やっと馴染んできたいつもの朝のリビングになった。
しかし外は珍しく雨が降っていて、心の皮が一枚はがれたようなこそばゆい感覚が、少し違ったテイストを混ぜる。湯気をたてるマグカップに片手を添え、もう 片方の手でタブレット端末の画面をスクロールする鬼道の素顔を眺めながら、パンをトースターに入れる。己の心境の変化を認めないわけにはいかなかった。






899

理由を聞かれれば色々と答えたと思うがどれも些細なもので、一体どうしてなのか自分でも分からないまま、とにかくおれは奴が気に入らなかった。
一番強い理由としては、嫉妬が当てはまった。だからおれはくだらないと言い聞かせつつ、逆にその嫉妬心を己の向上へ役立てるようにした。
プレッシャーにも慣れてきて、成績もプレーもトップを走り続けており、さらに上へ向かっている。だが、不動明王はおれに無いものを持っていた。
成績は悪くないが、一位になろうとか少しでも上になろうとムキになっている連中とは違い、むしろそういった連中と一緒にされないよう、敢えてやや下に収まっているように見えた。
サッカーでは相変わらず、部活が終わった後一人で練習している。「円堂のサッカーバカが移った」と佐久間が皮肉っぽく言っていたが、円堂とは違って閉鎖的だ。
だが不動は、円堂と会ってから体の周りに突き出していたトゲを引っ込め、独りでいることが少なくなっていた。おれと出会う前の奴のことなんて、詳しくは知らないが。
おれが雷門に居た間に、佐久間や源田を始め帝国サッカー部の面々とは驚くほど親しくなっていたし、相変わらず口を開けばふざけたことばかり抜かしているが、笑うことが多くなったように思う。
それとも、あれが奴の本質なのだろうか。
(おまえ、そんなキャラだったのか? 今まで寂しかった反動か?)
嫌そうに文句を言いながら頼み事を聞いてやる姿、間違ったことをキッパリ指摘して正そうとする姿を見て、おれは違和感を覚えたが、すっかり自分のことを棚に上げていた。
(闘争心はいいが、嫉妬は破滅を導く。あんな奴に固執しても高が知れているさ)
口元をゆるめ余裕を持って、深呼吸する。
整理したはずの心のなかにはまだ、もう一つ感情が置き去りにされていることには気付かず、結局奴のことばかり考えていた。






467

不動はだいぶ見慣れてきた帝国学園の屋内グラウンドに佇み、腕を組んで宙を睨んでいた。
先週行われた雷門との練習試合で、久しぶりに顔を合わせた彼は、FFIの時より格段にレベルアップしていた。今の雷門には、既に伝説となりうる神がかった選手がごろごろいる。鬼道が向こうを選んだのも頷けた。
不動は彼の影、二対の片割れ、切っても切れない対極の存在である。常に逆の方向へ進むには、同じ場所に居ない方が都合が良い。それなのに、追い抜かれ始めていることが許せなかった。
(チクショウ。悔しいのに、嬉しいなんてなぁ……ワケわかんねえ)
口角を上げ、不動はその辺に転がっているボールを蹴った。ゴールネットがたわんで揺れる。
(ぜってー追い越してやる。オレの方が強いってことを証明してやる)
そこで、はたと気がついた。
(くっそ……またかよ)
気付けば彼のことばかり考えている自分が心底腹立たしい。向こうはこちらのことなんて見向きもしないで、最高に恵まれた環境で素晴らしい仲間たちとよろしくやっているというのに。
ムシャクシャしてボールを蹴ると、ゴールポストに当たって跳ね返り、腕を強打した。
「いって」
苛立ちは収まるどころか、かえって激しさを増す。部員たちが入ってきて気が紛れ、少し救われた。






3180

人間は一人で生まれ、一人で死んでいく。魂は一つであり、肉体はその容れ物にすぎないとどこかの賢者が言った。だから人生の中で他人と付き合うことは、ある 一定の線以上は超えないものだと思っていた。どんなに深く繋がろうと努力しても、相手に理解される前に別れが訪れ、短い人生は幕を下ろす。それに、関われ ば関わった分深く傷つき、余計なことを考えさせられる。面倒なことばかりだ。その面倒なことが人生に楽しみと豊かさを与え、魂を救い上へ向かう力を引き出してくれるのだとは、思いもよらなかった。 「どうやら、何かが起こって劇的に変化したようだね。良かったよ。詳しくは聞きたくないけど」
フィディオのあっさりした声に、不動は思考の水面から顔を出した。朝の太陽が地上を暖め始めている。
あの夜から四日、ふと見れば視線の先ではDFからのフォーメーション提案に自慢の脳を働かせている鬼道の姿がある。来るところまで来てしまったのも分かっていたし、後退も回れ右もできないということも分かっていた。腰をひねると、肩を竦めるフィディオが見えた。
「このままでいいの?」
「どういう意味だよ」
「欲しいものは必ず手に入れる。それがフドウアキオだろ?」
何かの雑誌に短いインタビューを受け、言ってないのに勝手に書かれたコピーを口にして、フィディオはにやりと笑ってみせた。日本の雑誌をわざわざ取り寄せている理由は大体見当がつくが、たかだか一ページの駆け出しMFのインタビューまで目を通すなんて、随分と高く買われているようだ。意味を汲み取れなかったふりをして、腕を上げ頭の後ろで手を組む。顔を覗き込んでくるが、目を合わせないようにしていると大きな溜め息を吐かれた。
「僕は短い付き合いだけど、現在の彼を知ってる。相変わらずだよね、FFIの頃から彼らしさは失っていない。でもずっと、誰かを待ってるように見えるんだ。僕らじゃ埋められない穴を埋めてくれる誰かを」
はっとしたが、動揺を呆れ顔に隠す。
「その乙女思考、何とかならねぇのかよ」
「君だとばかり思っていたんだけど、違ったんだ?」
さあなと肩を竦める。フィディオは不機嫌に言った。
「バカにするのはいいけど、損をするのは自分だよ」
そして、「知ーらない」と付け加え行ってしまう。不動はフィディオが聞こえる範囲にいるうちに口を開いた。
「死んだ奴をいくら待ってたって、しょうがねえだろ」
立ち止まったフィディオが、信じられないといった様子で少し戻ってくる。
「君って本当にバカなんだね。天然なの?」
提案者に否定されたことで、その考えはさらに確信を得た。
「るっせーな。みじん切りにして煮んぞ」
「スィ、スィ、きっと美味しいボローニャソースができるよ。それで彼を夕食に誘ったら?」
「はあ?」
やり返されて呆気に取られているうちに、白い流星はまた笑顔に戻った。
「あ、お礼は体で返してくれればいいから!」
決勝で結果を出せという意味だろうが、気に食わない言い方だ。うんざりして肩を落とすと、いつの間にか鬼道が隣に来ていた。
「何の話だ?」
「え?」
内心飛び上がるほど驚いたのをうまく誤魔化して、グラウンドの中心へフィディオを追いかけるようにして歩いて向かう。
「どうせまたフィディオがからかっていたんだろう」
どこまでお見通しなのか、苦笑する口元は楽しそうだ。
「ああ、うん。決勝のことしか頭にねぇんだろ」
決勝まであと四ヶ月。確かにこのまま、どこに着地したらいいのか分からないまま、宙にぶら下がった状態で進むのは嫌だ。
(いや、どうすりゃいいかなんて分かってんだ。とっくに)
イタリアへ来る前から心は決まっていた。なのに未だに恐る恐る様子を伺いながら行きつ戻りつしているのは、まさか脈があるとは思っていなかったからだ。チャンスすら掴めないと思っていたから、余計な行動は控え何も期待せず考えないようにしてきた。
だが、そうじゃないのかもしれないと、いい加減に考えを改めていい頃だ。






920

一人でボールを蹴るには、河川敷の陸橋の下がちょうどいい。土手の斜面にコンクリートのブロックで壁が作られていて、岸までは十分に余裕があり、延々と打ち続けることができるのだ。
(九十八、九十九……)
九十九回目に打ったボールは微妙な角度で大きく跳ね上がり、僅かに爪先を掠めて取り逃した。息を荒く吐き、不動は舌打ちを一つボールを拾いに行く。
(養子とか……聞いてねーぞ)
さっきまでいた位置に戻る前に、強いキックで壁に当てる。陸橋の柱に跳ね返り、ボールは芝生へ転がった。
(だからどうしたってんだ。オレには関係ないね)
火がついた闘争心を鎮める気はないが、何もかも鬼道が鬼道がと言うのは癪に障る。ただの嫌がらせと、己の中での位置付けとでは、まったく意味が違うのだ。
彼の育ちが自分と変わらない庶民だったと知って、仕草や価値観についてどことなく引っ掛かっていた違和感の謎が解けた。合宿中に然り気無く披露していた残り物のおじやの作り方が婆さん臭かったのもそのせいだ。
天は二物を与えずという言葉があるが、あれは大嘘だ。
ある者には二物も三物も与え、ある者には何の取り柄すら与えない。結局神なんて、何も深く考えちゃいないのだ。もし存在するとするならばの話だが。
(自分だけしか信じられない。自分の力で、頂点に立たないと駄目だ。誰にも頼らないでやってやる)
意気込んで再びボールを蹴り始める不動はしかし、この新しく発覚した情報が彼らの関係を深めるきっかけになることにまだ気付いていなかった。






3203

いつものようにランニングから戻りシャワーを浴びてから、軽い朝食を作る。ニュースをつけると、フランスで同性婚が法的に認められたが、記念すべき第一のカップルが慎ましく挙げた式では教会にデモ集団が押し掛け、乱入されたことを報じていた。
鬼道は横で、パンをトースターに入れている。ニュースでは幸いにも負傷者が無かったことの他に、結婚するのとしないのとでは法的に大きな差が生じるということを強く言っていた。
フライパンにベーコンと、卵を割り入れながら考える。同性カップルの場合、結婚して家族にならなければ葬式でも友人扱いとなってしまい親族として認められず、パートナーの親や兄弟と同じ席には座れない。配偶者控除なんて言葉も初めて知った。ただのエゴや夢物語ではなく、現実的な問題として生活を支え合うパートナーになる、それが結婚するということだ。
「鬼道クンは結婚とかすんの? いつか」
何気なく口から滑り出てしまい、後からしくじったと思ったが、鬼道は眉一つ動かさない。
「さぁ、すると思うが」
「ふーん」
くっついた白身を木ベラで切り離し、ベーコンと卵を皿に盛り付ける。スープ鍋の蓋を開けて話を続けるべきか考えていると、鬼道が口を開いた。
「お前は――」
聞くのを迷っているかのように、一瞬の間があった。
「するのか?」
「さぁ、あんま考えたことねぇな。興味ないっつうか、相手もいねぇし」
「おれもだ。目の前のことで手一杯だな」
こぼれた苦笑はどこか安心したようにも見える。
「決勝だもんな」
不動が置いた皿にバターを塗ったトーストを乗せて、彼はそれをテーブルへ運ぶ。熱いうちにバターを塗らなければ溶けて染み込まないからと、いつもそうするのだ。その足で鬼道がカトラリーを出している間に、トマトなしのミネストローネを注ぐ。
一人のほうが都合が慣れているし都合がいいと言おうとして、現在の状況を改めて自覚した。いつの間にか、同居生活が普通になっている。ずっとこのままならいいのにとさえ思う。湯気をたてるスープカップを両手に持ってダイニングテーブルへ向かうと、カトラリーを並べ終えた鬼道と同時に腰を下ろした。
「いただきます」
ニュースは七十歳の誕生日を迎えた現役オペラ歌手の偉大な功績について誉め称えていた。






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同じ方向から電車で行くため、あらかじめ待ち合わせていた弥谷と辺見と三人で図書館へ向かって歩いていた。たまには休日を潰してでも真面目に勉強しないと、本気でまずい。駅から徒歩七分のクーラーの効いた天国には、危機感の薄い源田とガリ勉の佐久間先生、危機感に苛まれ日曜補習会を言い出した成神と渡瀬が待っているはずだ。渡瀬は男のくせに茶道部と書道部を掛け持ちしている陰気くさい黒縁眼鏡で、あれさえなければ顔は良いのにといつも言われているが、不動はあまり親しくしたことがない。
「あちー」
「はやくっクーラーっはやくっとしょかんっ」
「オメーうるせーよ、暑苦しい」
「あちー」
焼けつくような八月下旬のアスファルトには、あちこちにセミの死骸が転がっている。踏まないように気を付けながら、近くを通りすぎたものは蹴って土のある場所へ退かした。
「セミって、七年も眠ってていざ目覚めたら七日しか生きられないとか、酷くね?」
不動が呟くように言ったのを聞いて、弥谷が言った。
「七日の間にちゃんと可愛い子見つけて子孫残せる奴って、何パーくらいいんのかな?」
「式にして求めなさい」
茶化す辺見をよそに、不動はやるせない気持ちになった。人間は二十四時間三百六十五日、百年近く生きるというのに、何と愚かなのだろう。







つづく




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