<5000ピースのジグソーパズル 15>







3873

個室のある料理屋は居心地がよく、周囲の目も気にせずに済む。長年一匹狼をトレードマークにあちこちを転々としてきた不動だったが、彼にも親友と呼べる人物は何人か存在する。
「ぇえっ、フラれたぁ!?」
「おい、声でけぇよ」
「マジでか……」
帝国学園と関わった頃、影山に拾われてから何だかんだで高校まで一緒にいた弥谷と、ずっと雷門にいたがちょくちょく連絡を取り合っていた風丸である。
特に風丸とは芯に近いものを感じ、妙に気が合った。女みたいな顔立ちをしていながら、性的な部分には少しも反応しないのだから不思議だ。
話したり遊んだりしていれば、会話の端々から分かることも多い。不動の心を人より一回り多く知っているのは、イタリアへ行くと聞いた時真っ先にメールを寄越して来た彼らと、もう一人の親友である源田だけではないだろうか。
「別によくあることだろ、いちいち騒ぐんじゃねーよ」
「だって、お前……」
不動は酢漬けらっきょうをポリポリと咀嚼した。
「あいつは最初から高嶺の花だぜ? 家のこととか色々あるみてぇだし」
「何だよそれ……最初から分かってて、遊んでたってのか?」
思ったより強い反応に、チッと舌打ちをひとつ芋焼酎をちびりと飲む。今まで飲んだこともないものを試したくて注文したのだが、全然美味しくない。信じられないといった様子の二人は酒の存在も忘れてしまったらしい。
「放っといてくれよ。もう終わったことだし、お前らには関係ねぇだろ」
「でも――」
「あと、他の誰にも言うなよ。ったく、お前ら相手だとつい口がゆるんじまうぜ」
そもそも弥谷がノー天気すぎるため、腰を落ち着けて注文を終えるなり「鬼道とはどうだった? 行くとこまで行ったんだろ?」なんて聞くからいけない。試合は見ていただろうし、不動の感情も勝手な解釈を挟みつつ理解しているので意味は通じているのだが、ダメだった場合の気まずさを予め想定したりしなかったのだろうか。実際、今まさにその空気に包まれているのだが。
「そっかー、悪かったな、変なこと聞いちゃってさ……元気出せよ、飲め飲め」
作り笑顔も頼りない。こいつは昔からこういう奴だったと思い出して、むしろ哀れになった。
「それにしても不動、おまえスペインで既にすごい評判だったじゃないか? あんなとこ突然道場破りみたいに突っ込んでって一年でレギュラーとか、尋常じゃないぜ」
風丸がうまいこと話題を変えてくれた。
「そお?」
「そうだよ。メディアは大騒ぎだったぜ。闘牛場に一人で飛び込んだようなもんだろ?」
風丸はこういう気の利くタイプである。兄弟がいて苦労の多い家庭に育ったのだろう。
「そうそう、リーガ・エスパニョーラの最終期なんて、どの雑誌も表紙飾ってたぞ」
「ああ、あったね」
「本屋行くとズラーッておまえの顔が並んでてさあ」
雑誌の掲載は把握しているが、日本でどのようにそれらの雑誌が並んでいたのかは見ていない。
「オレ様も人気者だねぇ」
「海外組の中では、割りとって感じじゃないか? 国内はおまえと吹雪だろ」
風丸が苦笑した。
「豪炎寺だろ。俺じゃないよ」
「そうそう! この間のエキシビジョン観たか? 炎のストライカー復帰後、絶好調でさ!」
「いくらFWが良くてもDFがお粗末で頼りきってるチームじゃ、宝の持ち腐れだな」
偉そうに喋る気は毛頭無かったのだが、頷いた二人がいかにもトドメを刺して欲しそうだったのでつい口が滑った。
「チームってのは、本来は全員がスターじゃないとうまく機能しねぇんだ。だからダメなところを徹底的に削いで、良いところをガンガン伸ばす」
「おお、言うねえ。天才司令塔様のお言葉」
「イナズマジャパンはすごかったよなぁ。今はスターが散り散りになっちまったからなぁ」
こんな調子で、酒とつまみが三人の胃袋へ流されていく。
「弥谷、おまえ今、何やってんの?」
「俺? よくぞ聞いてくれました」
帝国学園を出て、ご苦労なことに帝国大学へ進んだ弥谷は、卒業後は大手家電メーカーの営業部へ入った。
「何だよ、勿体ぶってんな」
「ここだけの話だぞ。実はですね、この度……起業することにいたしましてですね」
フロア係の若い女が酒を持って入ってきた。
「なに、後継がねぇの?」
風丸が追加注文する横で、箸を持ったまま話を続ける。
「うん。今どき建設会社なんてやっても高が知れてるし、ネットビジネスの方が楽に稼げる。これからは会社っていうものが無くなるんだぜ。不動も引退したらネットビジネスやればいいよ」
「ネットビジネスってどんな?」
フロア係が退室し、風丸が会話に参加する。
不動が二本しかないネギ間の串を抜いて、皿の上で均一に三等分した。
「色々あるけど、うちはコンサルタントだな。ちょっと金払って、どんな家に住みたいか相談して、最終的に家を建てるとこまで付き合う感じの」
「え、そんなんで儲かんの?」
不動が怪訝そうに驚くと、弥谷は笑った。
「そう思うだろ。でもこれが、意外とすごくてさ……マーケティング力とオリジナリティがあれば結構誰でもやってけると思うよ」
「へえー。俺も引退したら考えてみよっかな」
コップをあおりながら風丸が言った。







弥谷が手洗いに立ったのをきっかけに、時計を見て既に二時間経っていることを知る。携帯電話を操作しながら、風丸が欠伸をこらえたのが見えた。
「おまえさぁ。やっぱすごいよ」
「は? 何だよ、いきなり」
空の小鉢、小皿と飲みかけのコップ、割り箸とおしぼりが散乱するテーブルに頬杖をつき、穏やかな青い目が口元を歪める不動を見つめる。
「すごいよ」
「――んだよ」
一笑に付して、足を組み壁に背を預ける。彼の言いたいことは何となく分かった。彼が知っている痛みと同じ痛みを、不動は抱えている。
泊まっていいか聞こうとして、弥谷が戻ってきた。こういう時だけ無意識に空気を読むのは、普段空気が読めない奴の共通した特徴なのだろうか。
結局さらに一時間後、不動は一人でタクシーに乗っていた。






1527

校門を出て駅まで歩く道にも、頭の中でシュミレーションできるくらい慣れた。
一旦国道へ出てから住宅街の隙間を抜けていくのだが、その細い道へ入る前に今日は呼び止められた。
「鬼道!」
立ち止まって、右、左と見渡す。こちらへ向かってくる不動が見え、目の前で自転車が止まった。
「どうした」
「今日ちょっと、余裕あんだよ。乗れ」
最近の彼はカノジョとやらができたという噂だが、サッカー以外でもこうしてちょくちょく絡んでくる。正直言って関わりたくなかったが、やはりどこか心に隙があるのだろう、怪訝な顔をしつつ鬼道は荷物台に跨って足をスタンドに軽く乗せた。
「一コ先の駅まで送ってやるよ」
黙ったまま風に吹かれて五分が過ぎ、やはり世間話でも何でもいいから言葉を交わすべきかと思った矢先に、住宅街に沈んでいく太陽が見えた。ガードレールの前で、不動は立ち止まる。ここは丘になっていて、目の前は崖だ。眼下に広がる町を赤く染める太陽が、ゴーグルから替えたばかりのサングラスに反射していることだろう。
「お前の目みてぇだな」
呟いて笑う不動の顔も、赤く照らされている。着崩した由緒ある制服も、耳の下まで伸びた髪も、今は見慣れない別の人物に思えた。
「よく見つけたな、こんな所。円堂は鉄塔からこの景色を眺めていたが……やはり皆、考えることは同じか」
「あんなトコいちいち登ンの、面倒くせえじゃん」
自転車から降りて押しながら歩き出す不動に並ぶ。
「富士見台、こっからすぐなんだぜ」
送ると言っていた一コ先の駅名を聞いて、密かに驚く。確かに線路が見えてきた。
「富士見台って、何で富士見台って言うんだろうな。富士山なんか見えないじゃないか?」
「昔は見えたんじゃねーの? 空気が汚染される前」
地平線へ太陽が沈むのはすぐだ。もう空の色が随分違う。
夜に足を踏み入れながら、何とも言えない気持ちに浸った。この何とも言えない気持ちに、不動も浸っているといいと思いながら。
後に、二人乗りは違反だと知った鬼道が交通ルールを守れと口うるさく叱っておいたことは言うまでもない。






3193

フィディオに並ぶ実力を誇り、鍛え上げたボディが自慢のパワー型ストライカーであるファビオがしょぼくれていたので何かあったなと思っていたが案の定で、どうやら浮気がバレて休みの間にひと騒動あったらしい。
ロッカールームはいつになく話し声が多く、不動は輪の中にいたが黙って聞いていた。
「フィオナは稀に見る良い女だったぞ。勿体ねえ」
「何年目だった?」
「あーあ、馬鹿だな」
口々に責め立てられ、両手を広げてファビオは言う。
「ひでぇな! お前らだって自分のこと棚に上げやがって。そこに旨そうな肉があったら迷わず食うだろ?」
再びざわめきが起こる。
「ひでぇのはお前だよ!」
「他人の分は食わないぞ」
「自分の分を食ってから言えよ」
輪の端で、不動も苦笑した。
(そうそう。だったら恋人なんか作るなよ)
くっついたり離れたりを繰り返して、手軽な関係でいればいいのに。そう思って、現在の自分を見た。他人に口出しできる状況じゃない。
いつの間にか求めるようになっている。手に入れることができた以上のものを。







練習を終え夕食を終え、家の中でくつろぐ気にもなれなかったので、少し掃除を始めたのはいいのだが。
「なあ、こんなんあったんだけど」
ほぼ全裸の女が表紙でセクシーポーズを取っている雑誌を見せると、鬼道はちょっと固まっていた。
「何だこれ!? どこにあった?」
慌てて掴むが、すぐに押し返す。見たくないのか何なのか。多分、取り乱した己に動揺し、恥じたのだろう。
「ベッドの下」
鬼道は少し笑って受け取り、よせばいいのにパラパラと中身をめくって、頭を振りながら勢いよく閉じた。好奇心旺盛なのも程々にしておかないと、いつか大怪我をする気がする。その前に、こういうものを今まで見たことがなかったのだろうか。
「掃除したはずだが」
「詳しく言うと、マットレスの下」
「ああ……すまない」
自分が触っていない場所があったことについてひどく落ち込んだらしい。鬼道は顔を覆って呻いた。
「前の住人のものだろう。当然だが。この辺は家族で住むことが多いから、きっと――」
引っ越す時に忘れたのか、持って行けなかったのか知らないが、いたいけな青少年が置いて行ったのだろう。不動は表紙の黒髪ラテン系セクシー美女を眺めながら言った。
「つかこれ、どうするよ?」
どうも外国人の女は、乳房と乳房の間つまり首の下が開きすぎていて、胸が垂れて見えるのが好きじゃない。これはサイズと重量によるものなんだろうか。
「おっ……お前が要らないなら捨ててくれ」
「捨てるってどこに? こういうのって、フツーに捨てたらやばくねえ? どうすんの? 新聞紙か?」
「おれに聞くな!」
鬼道は顔を真っ赤にして喚いたが、自分の責任もあると分かっているので新聞紙を探し始めた。
「燃やした方がいいんじゃないのか……もし新聞紙が取れてしまったらどうする?」
「取れないようにガムテかなんかで巻いときゃいいんじゃね?」
「明らかに怪しいじゃないか!」
「誰も気にしねえよ。必要な奴が持ってったってオレのせいじゃねぇし」
「だが――ああもう、まったく」
なんだってこんなモノが家に、と言わんばかりの溜息をフンと吐いて、鬼道は卑猥な雑誌を新聞紙で包み始める。
「あっ、そうだ」
良い処分方法を思いついた。







練習場のロッカールームには、よく雑誌が散らばっている。ここまでモロなものはさすがに持ち込まないと思うが、男性向け情報誌には往々にして水着美女のグラビアが付き物だし、似たようなものだと踏んだ。
山の中に紛れこませ、鬼道にニヤリと視線を送っておいた。気難しい顔が睨み返してくる。
「オイ、これ誰のだ?」
案の定、見つかってちょっとした騒ぎになった。スペインならお咎め無しだと思ったが、プレスタンテの騎士道精神あふるるメンバーはユーモアも持っている。
「君の?」
「誰のでもねーよ」
フィディオが珍妙な出来事に遭遇して喜んでいる時の目で不動を見た。
「今さらそんなもん買わねーし。たまたま拾ったから持ってきてやっただけ」
「何で?」
皆が大喜びで騒いでいる間に、うっかり墓穴を掘ってしまった不動は思わず後退りする。こそっと出て行こうとする鬼道を視界の端で捉えた。
「アキオくんは、全裸のお姉さんじゃなくて何に興味があるのかな?」
「おまっ……やめろよ、わざわざ気まずくすんじゃねえっ」
鬼道がいなくなったのをいいことに、彼は遊び始める。
「何が気まずいの? 僕、変なこと言ったかなぁ」
不動が何も言えなくなるのを見て、フィディオは満足そうに微笑んだ。
「後が怖いからこのへんにしておくよ。差し入れ、ありがとね」
「覚えてろよ……」
早く逃げた方がいい。そう思い、とっととグラウンドで準備運動を始めようと逃げてくると、当の本人がいた。こんなやり取りの後で会いたくなかったが、仕方ない。
「思ったよりうまくいったな」
「だろ」
鬼道は気まずい空気を吸う前に出ていったので、話したくないオーラが通用しない。ふうと息を吐いて、屈伸運動を始める。
「フィディオもうまくかわせたか?」
ドキッとして変な方向に体をねじりそうになった。
「まあね」
一部始終を理解されていなかったことに安堵しつつ、不動は芝生に寝転がる。隣の奴はどこまで知ってどこまで知らないのか、分からなくなってきた。






3195

卑猥な雑誌そのものには性的興奮を煽られなかったが、その存在の出現によって短い連想ゲームが発生し、結果的に性的興奮を煽ることになった。
驚く程何も感じない自分に再び不安になりかけたが、どうやら相手を選ぶようになっただけらしい。
セックスとは、性欲つまり人間が本来持つ子孫繁栄のための生理的な欲求からするものだと思っていたので、不動は少々混乱した。
「おやすみ」
いつものように、開けっ放しの戸口から部屋の中に向かって、鬼道が言葉をぽんと投げ入れて通りすぎて行く。不動は喉の奥で返事をしたが、電気を消した後、寝転がっていた体を起こした。
「……なんだ?」
鬼道の部屋の戸口に立って、ドア枠に寄りかかる。ベッドに座る紺色のパジャマ姿の鬼道を眺め、腕を組んだ。
「あのさぁ……」
沈黙を誤魔化すための言葉は先が続かない。ここで引き返すこともできた。鬼道は顔を前へ戻しやや俯いた。
「一晩中、そこに立っているつもりか」
少し間を置いて、不動はゆっくりと動いた。真っ直ぐに部屋を横切り、鬼道の顎をとらえて、唇を重ねた。
きちんと並んだ歯列を割って、奥から覗いた舌を絡め取る。鬼道の手が首の下のTシャツを掴んだが、突き飛ばされるかと思いきや吐息と共に舌を絡め返してきた。
下腹部から熱がうねり上がり、不動はベッドに片膝で乗る。パジャマのボタンを外すと、Tシャツを捲られた。腹筋を撫でていく手が気になる。
「あ。ちょっとタイム」
「そこの……上から二段目だ」
ゆっくり呼吸するように意識しているのは、尋ねる前に答えた彼のささやかな強がりだろう。言われた通りナイトテーブルの引き出しを開けて目当ての物を取り出すと、鬼道の両手が巻き付いてきた。
何か言ってやろうとさっきから思っていたが、冗談屋も皮肉屋も今は沈黙してしまって使い物にならない。熱い肌が触れ合って、ひとつに溶けていく。
(オレが欲しいのはお前だ。お前はどうなんだ? オレのために全てを捨ててみせろよ)
鬼道が何か言うまえに去っていれば、鬼道が言った言葉を無視すれば、気付かずに通り過ぎれば、良かったのかもしれない。だがまず彼の部屋へやって来たこと自体が選択ミスだ。いつからこんなに弱くなった?
吐息が耳をくすぐり、背中にしがみつく手のひらが、十本の指が、激情をかきたてる。毛布が床へ落ちる音がした。







抱きしめたまま眠っていたらしい、暗闇の中で目を覚ました不動は腕の中でむき出しの胸に寄り添うドレッドが鼻に触れていて、少し慌てた。
だがこそばゆい感覚も一瞬で、鬼道がうなされていることに気付いて青ざめる。
(こいつ、まだ……)
酷くはないが、寝返りをうって息苦しそうにしている姿をどうにかしたくて、しかしここで起こすのは得策ではないと思った。
そっと肩に唇をあて、ゆっくりと頭を撫でてやる。
「ん……ふぅ……」
少しして呼吸が落ち着いてきた。撫でるのをやめて様子を見ていると、鬼道はまた寝返りをうった。背を向けられてむっとしたが、相手は無意識だ。自分も背を 向け、ぴたりと肌をつけた。誰かと一緒に眠るなんて初めてじゃないのに、背中に感じる体温に生じた思いは初めてのものだった。






3196

毎朝、起きてすぐにトレーニングウェアへ着替え、ミネラルウォーターを持って外へ出る。
昇りかけの太陽が照らす薄暗い郊外の道を並んで走り、テンポ良く四十分、休みつつ全身を動かして戻ってくる。強くなるためには誰よりも先を行けと教えたの は影山で、基礎体力が何よりも大切だと教えてくれたのは響木、速さよりも筋を使って強くすることと均一に力が入るようにすることが大事だと教えてくれたのは久遠だった。
だが、誰も愛については教えてくれなかった。
(なぜお前はおれに応える?)
昨夜の行為は言い訳すら用意していなかった。笑う余裕もなかった。
暗黙のうちに了解しているような、遊びとも思える愛撫を受け入れて、好きな人とする意味が分かってしまった。これは、もし遊びだと言ったとしても、遊びではない。
暗闇の中で、潤んだ目尻を拭ってくれた不動と目が合った。生理的な涙に見えたはずだ。そんな調子できっと嫌な夢を見ると思っていたのに、今朝の目覚めはとても良かったから、現金なものだ。
鬼道は回想をやめ、水を飲んで、玄関の鍵を開けた。
「ギョーザ食いてえ」
「何だと?」
中華料理はこの国では滅多にお目にかかれない。少なくとも鬼道は店を知らなかった。
「餃子だよ。ぎょうざ。食いたくねえ?」
「ラビオリじゃなくてか?」
ランニング用シューズを脱ぎ、廊下を進む間も押し問答は続く。
「いいか、ラビオリはラビオリであって、それ以下でもそれ以上でもない。オレが食いたいのはギョウザ。普通の粉で作った皮に肉と葱と生姜が入ってて八角の香りがするやつ」
キッチンへ着き、やっと鬼道は立ち止まった。
「別に、どうしてもって訳じゃねーから、いーけど」
「よし、分かった。作るぞ」
「マジ?」
緑の目がが驚いて鬼道を見た。
「不可能を可能にするのがおれたちの仕事だろう。ひき肉と葱と生姜と大蒜なら手に入る。五香粉も材料を買ってくれば調合して作れる。帰りに寄ろう」
不動の顔にパッと喜びが広がり、彼は拳を握る。
「よっしゃ」
くるりと背を向けて部屋へ着替えに行く姿を、鬼道はそっと眺めた。キッチンカウンターに寄りかかり、自分も表情が緩んでいると感じる。
彼の笑顔が見れたことで、この道が誤りではなかったと知った。道の先は二手に分かれているが、そこまでは二人一緒に進んで行ける。
どうせ続かないのだからと言って、消極的になる必要はない。束の間のひとときでも快楽に身を委ね、彼の望むものを望むだけ与えてやろう。それは間違いではない。









地球。太陽から三番目に近く、約四十六億年の歴史を持つ。およそ五億平方キロメートルの表面積を持ち、三百六十五日強で太陽の周囲を一周し、二十四時間で一回自転する。Terraと呼ばれ、太陽系の中で唯一、大気が存在する。唯一、生命が呼吸している。
この星に住んでいる全人類の人口は約七十億人。人間が一生のうちに会うだろうとされている人のおおよその数は、平均五万人。毎日誰かとすれ違い、顔を合わせ、沢山の目を見つめる。
ぶつかったり、落とし物を拾ったり、スーパーのレジで微笑みかけたりする。タクシーの運転手は世間話をし、駅員は注意を呼びかけ、お客様相談室は丁寧な対応を心がける。
人は繋がろうとし、絆を求め、誰かのために行動しようとし、特別な存在を求めて彷徨う。
なぜ、おまえなんだ?










3203

またしても朝のニュース。世界的に有名なハリウッド俳優が、四十四歳にして「自分はゲイだ」とカミングアウトしたらしい。彼は演技派で売っているが、例の 雑誌の最もセクシーな男性四位に選ばれたことでより話題になり、ほぼ絶頂期でのこの事件だったようだ。賛否両論の嵐の中、どこか晴々とした端正な顔に好感が湧く。
「ゲイだったんだな……」
ほぼ無意識に口から言葉が滑り出ていた。不動は彼の顔と名前を知っている程度で、主演映画も二本くらい見たことがあるが詳しくは知らない。
「ああ」
鬼道は反応薄くコーヒーを飲んでいる。
「知ってたの?」
「ふむ、そうだろうなとは思っていた」
こいつも、ああいう憂いのある落ち着いた顔が好みなんだろうか。余計な考えはフォカッチャとサラダと共に飲み込む。
「分かるもん? 何か、雰囲気とかで」
「ふむ……いや、何となくだと思うが」
「ふーん……」
皿とマグカップをシンクへ片付けて、コックをひねる。鬼道はテレビを消し、窓を閉めに行った。






3208

マグカップや皿を洗いながら、不動が言った。
「お前さぁ、オレのことどう思ってんの?」
まさか不動が直球を投げてくるとは誰も思わない。鬼道は洗濯物を干す手が職務放棄しようとするのをなんとか持ちこたえようとした。
「どうって……何が聞きたいんだ」
墓穴を掘るわけにはいかない。だが質問を質問で返しても、まだ相手の想定範囲内らしかった。
「だからさ。仲良しこよしって感じじゃねーじゃん、最初っから。なんでオレと協力すること拒否らなかったのかなって思ってさ」
もしかしたら素で聞いているのかもしれないが、だとしたら意外と相当な天然ボケだ。
「おれじゃない、ヒデが提案したんだ。クセのあるMFか、MFでなくとも誰も思い付かないようなことを言う奴が欲しかった。料理で言えばスパイスのようなものだな。まさか、お前がOKするとは思わなかったが」
「へぇ、そんななの?」
洗い物を終えた不動は、手を拭いて鬼道の側へやって来る。
「お前こそ、敵意を剥き出しにしていた奴が、よくのこのこ敵陣にやって来たな」
「そりゃあ、自分より弱い奴には敵意を剥き出しにしませんからねぇ」
不動の得意気な声を聞きながら、靴下の片割れを探す。カゴから引っ張りあげたシャツの下にくっついていたのを、不動が取って渡した。
「例えば、シナモンは熱帯で育つ常緑樹の樹皮を剥がし乾燥させたものが食用として使用されているが、そんな事を一切知らなくてもどのくらいの量を使ってどんな材料と組み合わせたらうまい料理にできるか知っている方が、おれはすごいと思う」
不動は目をぱちくりさせて、ちょっと笑った。
「ああ……ひょっとして今、褒めてくれたの?」
わざとトボけた顔を、鬼道は鋭く一瞥する。
「勘違いするな。お前の臨機応変な思考回路とやたら頑丈な足は多少評価してやってもいいが、人間性は別問題だ」
「人間性ねぇ……」
よほど機嫌が良くなったのだろう、ニヤニヤしたまま不動は窓を閉めに行く。
(自分より弱い奴には敵意を剥き出しにしないだと? 言い方が遠回しすぎるんだ)
心の中で悪態をついて、不動と同じことをしている自分にやっと気づいた。赤くなった顔を見られずに済んだのは幸いだ。気を取り直して、洗濯物の残りを干す。
カゴの中はあとわずかで、蛍光ピンクの生地に黒いゴシック体で「FUCK」とバックプリントが入っているボクサーパンツをつまみ上げ、洗濯バサミに留め た。ベランダの向こうには抜けるような青空が広がり、彼は今、太陽の光を燦々と浴びて立っている。風がそよりと吹いて、洗濯物とカーテンと、彼のドレッドをやさしく揺らした。






つづく






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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki