<5000ピースのジグソーパズル 17>
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帝国学園との練習試合から半月。不動と連絡を取り合うことは殆どない。FFI開催時に全員のメールアドレスと電話番号を登録しなければならず、FFIが終わってからもそのままにしてあるのだが、不動にかけたことは一度も無いし、私情でメールしたことも無い。
おれは昔から、義務的なやり取りばかりを繰り返してきた。授業中に机の下でチャットしたり、放課後に友達同士で待ち合わせ塾やゲームセンターに行ったりする ことは無かった。真面目だからというよりも、そういったやり取りをくだらないことと教えられ、それを妄信的に守ったからだ。
今は円堂や風丸から絵文字入りのメールをもらうし、豪炎寺からも絵文字無しのメールがたまに来るので、くだらないことで頻繁にメールをするようになった。
くだらないと言っても、やり取りそのものには重要な意味がある。だから不動とも連絡を取り合いたかったのだが、一向に何も送って来ない。やはり、あいつは筆不精なのだとおれは決めつけていた。
それならば、こちらから送ってやるべきか。先手を取ったことになればいいが、打っても響かなければ何の意味もない。帰宅途中の電車の中、つり革に掴まって悶々とするおれの前で、他校の中学生男子が三人、無気力に座席に座っていた。
「なあ、塾に可愛い子いた?」
「ウン。こいつは別に可愛くない言ってたけど、俺は可愛いと思う子、いた」
「マジで? いいなぁ。何時から? 毎日?」
「六時から。あ、今日は無い」
「塾って一日だけとかできないの?」
「あー、いいなぁー」
急におれは自分の考えが低俗で浅はかなものに思え、羞恥を感じた。メールが来たからといって、何だというのだ。彼らは下半身の欲求に従って生きているようだ が、おれはそうはなりたくない。それに、今まで送ったことがないものを突然始めても、不審に思うだけだ。冷静な判断力を取り戻し、おれは迷わず真っ直ぐに家路へついた。
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いいと言うのに、父は駅までついてきた。平日の朝、改札の前で、がらんとしたベンチに腰を下ろす。切符の時刻まであと二十分だ。
不動は母を亡くした。地元へ戻って二年、治療によって腫瘍は消えたがその後、肺炎に耐える体力が残っていなかったのだ。葬儀を終えて二週間経ち、わざわざ居 心地の悪い場所に留まる理由も無くなった。彼は重荷から解放されて自由を感じていたが、静かに悲しんだ。母は傲慢で卑屈で湾曲していたが、息子を愛していた。
この世でたったひとり残った血縁の父は、意外と頼もしく立ち回っていて、親としての役割を果たしたと言ってよかった。二人だけと思いきや商店街や近所の住人が葬式に来てくれ、不動の知らない賑やかさが重苦しい空気を和らげていた。
これからどうしたらいいか何も考えていないと呟く父に、料理屋経営を勧めた。その日作ってくれた鯛飯が、自分がどこか曖昧な手順で作る鯛飯より旨かったから だ。聞けば借金はあと僅からしく、返済しても残った金を元手にして、観光客相手に十分やっていける。父は尻込みしたが、周りが後押ししてくれた。悲しみに暮れるより何かしていたほうが、気が紛れると言って。その時不動は、思っていたよりも父は母を愛していたのだと知ったのだった。
《一番線に電車が参ります。黄色い線の内側まで下がってお待ちください》
アナウンスが流れ、不動は立ち上がった。父は穏やかに後を追う。改札を通る前、目線を合わせた。父は安堵させるように少し微笑み、不動も応えるように少し微笑んだ。新幹線がホームに入ってくる。急に、自分が強がっていたことと、何も理解していなかったことを知る。
鬼道は幼い頃に両親を亡くした。その孤独は誰にも、妹にさえ、計り知れない。他人の痛みなんて理解できるはずもないのだが、少しだけ分かったような気がした。
フィフスセクターの件が終わり、影山の十周忌に二人で墓参りに行ったきり連絡を取っていないが、今はどうしているだろう。電話帳に登録してある名前とメールアドレスを眺め、不動は携帯電話と目を閉じた。
2072
イタリアに認められて一年が経った。
ニュースでスペインリーグの話題が出るたびに彼の名前を探してしまうし、フィールドに立っている時は彼ならどうするだろうかと敵に見立てて考えてしまう。
しかしなかなかニュースに出てこないので、鬼道はやきもきした。メールを送るという方法も考えたが、どうも自分と不動が連絡を取ることには違和感があるし、いつもしないくせに突然送るメールに何を書いていいかわからない。
不動は自分を卑下しているし、愛される資格はないと思っていて、安易に他人の愛情を信頼しない。それが鬼道の燗に障る。悲しみ、憤り、他人がどうにかできる はずがないのに、どうにかしたいと思ってしまう。一言で絶対的な安心感をもたらす円堂のようになれたらと何度思ったか知れないが、天性のカリスマを後から 身に付けるのは難しい。
彼と会った時に感じていた。点数社会は何の教育にもならない。鬼道は褒められずに育ったが、その為に普通でない方法で褒めちぎる影山に依存し、しかし義父が認めてくれた為に歪まずにすんだ。今は共に競い合い、高め合う関係を求めている。円堂は大きすぎ、豪炎寺は似すぎていた。
「スパルタの兵士たちが、なぜあれほど強くなれたのか? サッチャーやリンカーンが偉大なトップになれたのはなぜなのか?」
フィディオはボールを足の下で転がした。
「歴史的に重要な役割を果たした人物は、ほとんどが良い奥さんと賢い子供たちに恵まれているんだ。ポジティヴで安定した生活はどうやって作られるかというと、 彼らには守るべきものがあるからなんじゃないかな。スーパーヒーローだって、ガールフレンドがいるだろう? 守るべきものの尊さを知っているから人は強く なれる。両親や兄弟だって大切だけど、自分が孤立しなくちゃ分からない」
彼を囲むように並んだプレスタンテのメンバーたちは、それぞれ頷いた。鬼道は黙って聞いている。
「だ から皆も、できるだけ愛に触れてほしい。友情でも家族でもいいけど、やっぱり一番強い力を与えてくれるのは恋人だ。この世でたったひとりの魂の片割れ、生 命の相棒。一生のうちに出会えるかどうかも分からないけど、前世から繋がりの強い魂は生まれ変わっても近くにいることが多い。科学的な実証はできないけ ど、絆の力がどれだけ試合に影響するかは僕とヒデが実証済みだからね。焦らなくていいから、頭の隅に入れておいて」
肩を竦める者もいれば、笑みを浮かべる者もいたが、鬼道はまだ不確かな自分の相手について考えた。
グラウンドから人気がなくなっても残っている鬼道を、フィディオの声が呼ぶ。振り向くと、こちらへ向かって走ってくるところだった。
「帰らないの?」
「いや、もう帰る。皆は?」
「シャワーだよ。――熱心だねぇ」
鬼道はポンと足元のボールを蹴り、宙に浮かせたそれを両手で挟み取る。イタリアリーグ専用の柄も、やっと見慣れてきた。
「実はずっと、フィディオに嫉妬していたんだ。しかし今こうして一緒にチームを組んで、そんな必要はないとよく分かった」
彼をより深く闇に魅入らせた原因と、彼を救った光。フィディオは静かに微笑んだ。
「うん、そうだよ」
ややあって、鬼道の持っていたボールを膝で突き上げて奪ったあと、地面に落ちる前に足で掬う。
「実は僕も嫉妬してた。あの人のためにすごく頑張ったのに、最後に心を動かしたのは結局、君だったからね。一番弟子なんだから当然なんだろうけど。でも、もうそんなこと関係ないんだ。そういうのって、見返りを求めるべきじゃないだろ」
風が二人の髪を揺らす。フィディオはボールを手で持ち、青からオレンジに変わろうとしている空を仰いだ。
「それに、そう、プレイしてたら、もういいやって思ったんだ。マモルの顔を思い出してさ」
「――そうか。確かにな」
ボールを鬼道に渡し、フィディオは自信に満ち溢れた微笑を浮かべた。プライドよりも崇高な誇りが、その目に輝いていた。
「おれたちはおれたちのサッカーをしよう。プレスタンテであるために」
握手までいかずとも中世のように腕を掴み合って、目を合わせる。胸が躍り、すぐにでも試合を始めたくなるほどだったが、並んで他愛ない話をしながらロッカールームへ行くのも悪くなかった。
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鬼道は一日中、いや実は二週間前から、悩んでいた。不動を明後日のクリスマスパーティーへ呼ぶかどうかである。そもそも奴は顔見知りばかりとは言えクリスマスパーティーになんて来るのか?
人と馴れ合うのを嫌い一匹狼を好んでいるように見えるが、サッカーは一人ではできないし、それをFFIが終わる頃には鬼道と同じ位理解しているように感じ た。しかしあれから半年、練習試合以外で会うことは無かったし、メールの一通も寄越さない。嫌われているとは思っていなかったから雷門中の文化祭に誘った が、呆気なく断られたのが先月のこと。以来、やはり失礼極まりなく、存在するだけで不愉快な奴だという認識が強まった。呼んでも何の得にもならない。
だから円堂と豪炎寺にぶつぶつ愚痴ったりしていたのだが、今ひとつ納得いかない。
(……しかし、呼ばない理由がない)
最後の手段として、毎日のようにやり取りしている佐久間に、「プレゼントは去年みたいに気負いすぎなくていいぞ。それと、不動にも一応声をかけてやってみて くれ。出欠は気にしないが、ビンゴや対戦ゲームは多い方が盛り上がるだろう」とメールしておいた。佐久間は嬉々として役を引き受けてくれたが、彼が来るか どうかはまだ不明のまま。そんなことはもうどうでもいいと、鬼道は準備をするために広間へ戻った。
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塵ひとつない古い木の床に、水色の小さな欠片が落ちていた。拾い上げる前にジグソーパズルのピースだと分かった。廊下を左右に見渡したが、近くに置く場所は無さそうだ。
恐らく鬼道へ返すべきなんだろうと思い手に持ったまま客間へ戻ろうとした時、鬼道の義父が二階から降りてきた。階段の前を「お邪魔してます」と無愛想に言って通り過ぎると、何故か不動は呼び止められた。
「楽しんでいるかね?」
「ああ、――まあ」
体の陰で、片手でパズルのピースを弄ぶ。
「有人の友達か?」
「そうですけど」
「どうだね、君も一緒にサッカーしたりするのかね?」
ムッとして不動は、人の良さそうな微笑を睨み付ける。
「オレ、あんたみたいな大人、嫌いなんですよ。自分たちのことしか考えてなくて、物事を見掛けで判断して、善人ぶってる大人がね」
鬼道の父はやや驚いたあと、苦笑してモヒカン頭の中学生を見た。
「――帝国学園は礼儀の授業も必要になったのか?」
流石は日本経済を牛耳る大財閥の当主、こんな程度の批難には慣れているのだろう。
「知りませんけど。息子が大事なら、サッカーなんかやめさせればいいじゃないですか」
怒らないのをいいことにずけずけと言い放ったが、これは八つ当たりだ。
「ほう、君はなかなか策者のようだな。実力で敵わないから裏工作をして、有人を引きずり下ろそうとしているんだろう」
「はあ? ちげーし……。もういいですよ、元々あんたに用なんか無いんでね」
振り向くと鬼道本人が立っていた。いつから聞いていたのか、筆で描いたような形の整った眉は不愉快そうにひそめられている。
「何をしている……」
「トイレ探してたの。迷路みてーな屋敷だねぇ」
「こっちには入るなと最初に言っただろう。父さんと何の話をしていたんだ?」
「別に、挨拶しただけだよ。つまんねーからもう帰っていい?」
「おい、不動」
「オレがいてもいなくても、大して変わんねーだろ」
無視して元の騒がしい広間へ入ると、春奈と弥谷が気付いた。
「あ、不動さん戻ってきましたよ」
「あーどこにいたんだよ、対戦やろうぜ」
「オレ、パス。帰るわ」
横を通りすぎる不動を、風丸や豪炎寺や源田など数人が不思議そうに見る。
「もう帰るのか?」
大画面のサッカーゲームを目を輝かせて見ていた円堂が、ソファから身を捩って言う。
「お呼びじゃねーみてぇだからなぁ」
佐久間に「これからビンゴやるのに」とほくそ笑みながら言われたが無視し、「またなー不動! 今度サッカーしようぜ!」と言う円堂に目線を送って、玄関へ向かう。招待主はおろか、誰も見送りに来ない。
(何が裏工作だ。そっちこそ然り気無く息子の様子探ってんじゃねーよ)
鬼道が関わると、あちこちで不愉快な思いをする。やはり来るんじゃなかったと冷え込む暗い道を速足で歩きながらポケットに手を突っ込んだ時、パズルのピースを渡しそびれたことを思い出した。
(困るかな……。まぁ、少しくらい困らせてやるのもいいだろ)
失くさないように定期入れの内ポケットの奥へしまい、不動は改札を通った。皮肉にも、思わぬクリスマスプレゼントをもらった気分だった。
"人間は、繋がるようにできている。
化学反応を起こして、引きつけ合うのだ。
愛情ホルモンを出して親密さを増し、神経レベルでも結びつこうとする。
お互いの脳と、心で。
そうやって築いた絆は、壊してはいけない。"
――ドラマ「TOUCH」 2nd seasonより
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なぜ鬼道のマンションにいるのか、理由を突き詰めていくと答えられなくなる。体は鈍っていないのだから早く戻ればいいのだが、どうも気が進まないので未だに日本にいる。どこにも属していないという状態は気楽だが、かれこれ二年も続くと流石に不安が膨らんでいた。
お節介もあり、頼まれてもあり、不動は洗濯物を干し終えてベランダから部屋の中へ戻った。独り暮らしに子供が増えたとは言えまだ充分に広いリビングのソ ファの横で、宗一朗が段ボールで両手に抱えられるくらいの小さな家を作っている。まだ四角く切って窓を開けている段階だが、開閉できるドアも作る気らし い。
「ソー、算数やったか?」
「うん」
「なんだ、できてんじゃねーか」
テーブルの上に閉じて置いてあるノートを開き、赤ペンを持ってきてソファに座り丸をつける。帝国学園初等部の勉強の他に、鬼道が問題を作ってやったりと家庭教師の役割も果たしているのだ。
母親は精神科へ入院し、父親は消息不明になってしまった宗一朗をいつまでも施設に置いてはおけないと判断した鬼道は、帝国学園を見守り会社の揉め事を解決 しながら、一人で六歳の少年を預かった。様子を見るついでにお節介が顔を出し、かれこれ数ヶ月、毎週土曜にはこのマンションを訪れている。
正式に養子にするには手続きや審査が必要だし、本人の意志もあるからなどと鬼道は言うが、本当は義父に説明するのが億劫なのではなかろうかと不動は踏んでいて、しかし実際のところ憶測にすぎない。バーで見た横顔が気になっていた。
「ねぇ、なんでソウじゃなくてソーって言うの?」
「ソーイチローだからソーだろ」
最初は質問の意味が分からなかったが、宗一朗はなおも、違いが分かるようはっきりと一語ずつ発音した。
「ソウイチロウだよ」
鬼道のように滑舌よく喋る癖をつけておらず同じ言葉を繰り返し言っていると、母音が曖昧になるのだ。不動はページいっぱいに花丸を描いて、ノートを閉じる。
「ソーっていう強い男の神さまがいてな、ハンマーで雷を操るんだ」
「本当? どこにいるの?」
「んー、雲の向こうに天界があって、そこの王さまでもあるんだ。ハンマーがあれば雷神ソーは無敵なんだぜ、どこにあってもヒュンッて瞬時に手元に飛んでくるハンマーがな」
ソファに寝そべるようにして宗一朗の手元を見ているうち、ゴミになるであろう段ボールの切れ端が目に留まった。
「これで作ってやるよ」
起き上がって、床に座り直す。
「やったー! かっこよくしてね!」
午後の斜陽が、リビングを暖めている。
当初、食事まで作ってやるとは言ってなかったが、一日の流れからすればごく自然にそうなる。なので鬼道が帰宅する頃には白飯が炊き上がり、玄関先までカレーの匂いが漂っていた。
食後は宗一朗が鬼道と風呂に入っている間に片付けを済ませ、ソファでビールを片手に寛がせてもらう。土曜日にここへ来て家事を代わり六歳の男の子の相手を することに、不思議と疲れていない自分がいる。疲労や怠惰を感じるのはただ、彼に対して友好的な態度をとる自分についてだけだ。
部屋着姿の鬼道とパジャマを着た宗一朗が石鹸の匂いを立ち上らせながら戻ってきて、思考は中断される。宗一朗は唇に人差し指を当てて、小さな家の脇にあっ たハンマーを取りに来た。目論見が分かって口角を上げないようにしながら見ていると、それを持って鬼道に近付き、隙を見て突進していく。
「どぉーん! バリバリバリーッぴしゃーん!」
「なんだなんだ」
水を飲もうと冷蔵庫に手をかけた鬼道は、腰にハンマー攻撃を食らって振り向いた。
「われは、らいじんソー! わるいやつを、さばきのいかずちでやっつける!」
「ほう、かっこいいな。作ったのか?」
段ボールを折って四角くしたところに穴を開けてちょうど廊下の紙ゴミの袋にあったラップの芯を差し、ガムテープでぐるぐる巻きにして固めただけなのだが、よほど気に入ったらしい。
「あきおがくれたの! ソーはね、宇宙一つよい神さまなんだよ!」
「そうか、良かったな」
「悪い役やって!」
驚異が去り水を飲めると判断した鬼道は、冷蔵庫を開けてペットボトルに口を付けていた。ミネラルウォーターを戻し冷蔵庫を閉めたあと、少し間を置いて彼は振り返った。
「ふははは、そこまでだ! おまえなんか、こうしてやる~」
両手で脇をくすぐられて、宗一朗は膝を折って笑い崩れ、大声で叫ぶ。ドタバタとフローリングに響かせながら逃げ出した。傍観する不動の脇にひざまずき、ハンマーを握りしめて言う。
「けんじゃさま、ちからをあたえてください」
「はい、与えました」
不動はその頭をぽんぽんと軽く叩いた。当然、賢者様のやる気のなさに、宗一朗は憤慨する。
「もっと、ちゃんと言って!」
「てかさ、なんでゆうと兄ちゃんが悪役でオレが賢者のじいさんなの? 逆じゃね?」
「だって、へんなメガネかけてるんだもん」
「オレも悪役がいいなー」
「いいよ! じゃあボク、隠れるからね!」
思いっきり遊んでやればそのうち疲れて眠り、不動は我が家とも呼べないような仮住まいのアパートに帰ることができる。
「もういいかーい?」
仕事を待たせて、スーツの隙間かカーテンの裏かに隠れているであろう小さな雷神を探しにゆく鬼道を眺め、不動は音もなく嘆息した。ぬるい湯からはなかなか出られない。だが、とっくの昔に出るべきだった。
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目が覚めてもすっきりしないことはよくある。とりわけ今は、催眠状態から起こされたためだ。本来は目覚めたら改善の方向へ向かい、多少なりともすっきりしていいはずなのだが、そう上手くはいかない。
「今の気分を、感じたまま言ってみてください」
四十代半ばの男性カウンセラー、古田先生の声は落ち着いたバリトンで、安心感をもたらす。
「すこし――疲労感と眠気がありますが、不快ではありません」
彼は銀色の高級そうなボールペンで記録を取る。やや間があって、天井を眺め続ける鬼道に、古田先生は言った。
「だいぶリラックスしてきた感じが見受けられますね。私に慣れて下さったんだと思います」
「そう――ですね。あまり緊張はしていないです」
正直なコメントを添えると、先生は微笑んだ。
「急かす意図ではなく心の準備として、次のステップをお伝えしておきます。少しでいいので、女性と関わりを持つことです」
やはりと思いつつ、ソファから上体を起こして鬼道は頷く。古田先生は先を続けた。
「話しかけてみようかなと思ったりした時で大丈夫です。まずは日常会話を増やし、食事に誘うのがよいでしょう。もっと慣れてきたら映画に行ったり美術館に行ったり、所謂デートを数回してみてください。女性と親しくなることが目的です。女性を理解し、慣れていただき、その後、性交ができるようにもっていきます」
鬼道は理解したと伝えるために頷いた。
(自分の体に、嘘という名の泥を塗っていくかのようだ)
古田先生はカルテをまとめ、書類鞄を持ってドアへ向かい、鬼道はその後について歩いた。
「では、また。今度は二週間後ですね。失礼します」
「ありがとうございました」
重たいオートロックの玄関ドアが閉まり、鬼道はリビングへ戻った。
カウンセラーが訪問するようになって、今日で三ヶ月。義父の友人が酷いトラウマを克服して仕事に復帰したというので紹介してもらったのだが、古田先生が最初に言ったのは「治りません」の一言だった。
だからこそ好感を持ったとも言えるが、ともかく古田先生は「分かりました。治すのではなく、何とか妥協してうまくバランスが取れるようにやっていきましょう」と言った。
鬼道はきびきびと動かない体に嫌気がさし、再びソファへ凭れた。
(どうして自分に嘘をつきながら生きなくてはならないんだ)
今なら分かる。自分は病気などではなく、たまたま愛した人が同性だっただけだと。
鬼道はこのことを、昔の悪事の報いだと感じていた。そう考えでもしなければ、頭がおかしくなりそうだった。
ビジネス界の上にある社交界では、偽りや嘘なんてアクセサリーのようなものだ。誰もが綺麗事を言いながら、汚れた手でシャンパングラスを掲げている。
義父はその中でも仁義に厚く、嘘をつかない紳士として有名だったが、息子のせいで台無しになりそうだった。
鬼道は背を丸め、下着の中へ手を差し入れる。
「く……、うっ……」
手のひらに吐き出した液体を眺め、さらに気が重くなった。恩を返せば、罪は償われる。例えそれが望んだ人生でなくとも、一時でも幸福になれたのなら満たされるとさえ思った。
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吐息を絡め、ベッドの上で交わる。下着すらもどこかへ落ちて、誤魔化しは効かない。不動は、ルームメイト兼チームメイトの微かに汗ばんだ背骨を撫でた。
(こいつ、なんでオレのことを苦しみながら受け入れようとしてんだろ)
それは彼が答えられない問だった。苛立ちを腹の奥に収め、熱源を入り口に押し当てて一息つく。
「あのさあ……ナマってどうなの?」
「は……?」
朦朧とした声、思考回路がショートしかけているらしいことに、心臓が震える。腰を進めると、鬼道は慌てた。
「あ、待て――ぅあっ」
「やべぇ……超きもちいい」
入れてしまえばこっちのものとばかりに、不動は抵抗力の落ちた鬼道の体を密着させて揺らす。
「ホラ、このへんだろ……」
「やっめろ、あ――! きたな……ッ!」
「気にしねぇよ」
鬼道の口から吐息と抑制された喘ぎ声しか出なくなって、不動は口角を上げた。理性が快楽に塗り潰された瞬間だった。
風呂から戻った後もまだ不機嫌は続いていた。
「いいか、もう二度とするなよ」
「へいへい、分かりましたよ」
先にシャワーを浴びて自分のベッドへ戻っていた不動は、戸口から顔と指を出して怒る鬼道に答えた。鬼道はまだ戸口にいる。まだ何かあるのかと思って見ると、そのまま少し沈黙ができた。
「おやすみ」
「あ? 何? 添い寝のオプションもご希望ですか」
自分の部屋へ戻っていく背に声を投げ掛ける。てっきり閉めて寝るのかと思いきやドアはいつものように開いたままで、不動はやれやれと起き上がりゆっくり廊下を渡って真っ暗になっている鬼道の部屋に踏み込んだ。
「頼んでないぞ」
寝たままで足音を聞いた鬼道が言う。
「へいへい」
隣に潜り込むと、背を向けて寝る鬼道の横に仰向けになった。
「勝手に寝るな、狭い」
「じゃあ追い出せば?」
大きな溜め息が聞こえた。
「蹴り落とされても知らんぞ」
「寝相悪いんだっけ」
無視された。代わりに、ものすごく不機嫌そうに仰向けになった。並んだ肩がぶつかる。それ以上は暗黙の了解として、どちらからともなく眠りに就いた。
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深夜、湿って乱れたシーツの体裁を整え寝転がる。気だるい沈黙を少し破り、不動は言った。
「ドイツ行くんだ」
主語のないその言葉は、聞かずとも明らかだった。
「いつからだ」
自分でも驚くほど強張った声が呟いた。
「来週」
「観光じゃないんだろう? 良かったな」
今度は急に明るくしすぎた。穴だらけの袋から水が漏れるのを手で止めようとしても無理がある。
「ウン、まあ。一応、歓迎されてるっぽい」
欠伸をひとつ、不動は起き上がった。その手がランプをつけて、薄闇に包まれていた部屋に影ができる。
「もう、戻らねぇよ」
彼はTシャツと迷彩柄のカーゴパンツを身に付け、ベッドから下りた。鬼道は上体を起こし、口を開きかける。平然を装うのに労力を使い何かを問おうとしたその口が音を発する前に、不動が言った。
「だから、さよならってこと」
なんか女々しいな、と付け加え小さく笑うその顔を凝視する。彼は少しの間立ち止まり、鬼道を見た。そして背を向け、ゆっくりと影の中へ消えていく。引き留めようにも理由が無かった。残ったカードは恐らく何よりも効力があるのに、封印され永遠に使うことができない。
暗闇の向こうで静かにドアが閉まった。急に寒さを感じ、鬼道は毛布を首まで引っ張りあげる。悲しみを通り越して虚しさが占めた胸の中で、もう一人の自分がささやく。こうなることは最初から分かっていただろうと。
酔っ払いと水商売と大学生しか乗っていない深夜のがらんとした地下鉄に乗り、誰もいない列の座席に座って不動は体の力を抜いた。
これでいいんだと何度も言い聞かせたが、納得には至らない。なぜ諦めるんだともがく自分を抑えつけている間に、彼を乗せた地下鉄は鬼道を残した部屋から離れていく。
彼はICカードを入れた定期入れを手に持ったままだった。
「あ……」
免許証は財布だが、定期入れには保険証と選手証を入れている。肌身離さず持っている定期入れは丈夫なものを選ぶが、五年前に選んだ革製の定期入れはもう既に端が擦り切れている。
不動はふと二つ折りになっているそれを開き、内側のポケットの奥に指を突っ込んだ。小さなパズルのピースを取り出し、思わず溜息が溢れた。
(返さねーと……)
少し色褪せた水色のピースをそっと元に戻し、再び溜息を吐いて目を閉じる。十年前と同じ密度の想いを抱えて。
喜怒哀楽を表現するお前の声、呆れた時や腹立たしい時の鼻息、うんざりした時や照れ隠しの溜め息。お前が動かした全ての物の音、機敏だったり怠惰だったりする足音。
朝キッチンに並べる二人分のコーヒー。お前の作る甘くない煮魚。ベランダに干したお前の服や下着。あちこちで見かけるお前の汚い字。
勝利の喜びに力強く抱き合った、それ以上のものを共有した。
隣にあったお前の手の温もり。
おれを呼ぶ声。