<5000ピースのジグソーパズル 6>
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寺久宗一朗に会ったのは、爽やかな風の吹く日だった。資金援助をしている児童養護施設は、鬼道が幼い頃妹と暮らした場所だ。若い女性と年配の女性が一人ずつ面倒を見てくれて、みんな優しかった。影山が訪れるまでは、この監獄のような場所でずっと暮らすのだと思っていたが、彼女たちのおかげで居心地の良い場所だった。
当時の福祉士はもういないが、援助していることもあり時々様子を見に行くべきだと思い、まずは近況を聞くことにしようと決めた。
受付で要望を伝えると、四十代の女性が出てきて挨拶した。
「廣川です。鬼道社長、いつも大変お世話になっております」
「いや、まだ社長では……。施設内を一度見たいのですが」
「はい、ご案内します。どうぞ」
主に十歳以下の子供たちが、思い思いにプラスチックの玩具や絵本で遊んでいる大きな部屋、今の時間は誰もいない食堂や厨房、洗濯室、三段ベッドが並ぶ寝室を見て回り、中庭を通った。
遊戯室にいた子達より少し年齢層が高い少年少女たちが駆け回っているが、隅に一人だけ、集団とは離れて芝に三角座りをしたまま動かない少年が目についた。まだ幼く五歳位だろうか、あどけなさが残っていてもいいはずなのに、丸い顔は深刻で無表情だ。
「あの子は何か問題が?」
「ああ、宗一朗くんですね」
寺久家の長男は両親が離婚した上に薬漬けの母親がヤクザと再婚して育児放棄し、父親は無職の為親権を得られず、ここn引き取られたのだと言う。
「悲しいことに、よくある話ですけどね」
廣川は場を和ませるように控えめに微笑んだ。
「話はできますか?」
「人によって態度が違うんですよ」
苦笑して、鬼道と共に少年の側へ向かった。
「ソウくん、こんにちは。このお兄さんがね、ソウくんとお話したいんだって。どう?」
座ったままの少年は、俯いて叫んだ。
「ちがう! ボクはソウくんじゃない!」
困った顔の廣川に大丈夫ですと頷いて、ゆっくりと、彼の斜め前――手を伸ばせば届く位置にしゃがみ込んだ。廣川は気を使って去っていく。
「おれと遊んでくれないか?」
顔を上げるか逃げるか攻撃されるか、と思いきや宗一朗はわずかに尻を動かして、座り直しただけだった。悪い兆候ではない。
「……遊びたくないか。じゃあ、隣に座ってもいいか?」
了解は無いが、拒絶もない。体半分の隙間を空けて、隣の地面に腰を下ろした。
「おれの名前は、鬼道有人だ。ゆうとって呼んでくれていい」
顔を上げるのが視界の端に見えたが、まだ目は合わせないでおく。しばらく沈黙があり、盗み見ると膝に顎を乗せて地面を見ていた。
「また来るよ」
時間をあけないうちにまた来ようと思い、立ち上がって別れ際に少年を見た。
「……サッカー、してくれるの?」
彼は憧れの選手をその目に焼き付ける為に、顔を上げていた。不安と期待の入り混じった表情に、鬼道は優しい微笑を返した。
「ああ。今度、教えてやろう」
宗一朗はまた何か呟いたが、また俯いてしまったのでよく聞き取れなかった。
「ん?」と再生を促して、屈んで耳を傾ける。宗一朗はまた顔を上げて、鬼道と目を合わせた。
「ボクは、てらひさそういちろうっていうんだ」
鳶色の目が少しだけ、子供特有の輝きにきらめいた。
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三年間バイトして貯めた金で、不動はスペインへ旅立った。
正直に言って羨ましかった。与えられた金を浪費せずただ貯めていたおれとは違い、不動は自分で切り拓いている。誰にも頼らずボールだけを追いかけて海の向こうへ行く事自体が、輝かしい行動だった。スカウトを受けたというのとは違う。
そしてそこまで彼を変えたのは、円堂守のカリスマ性だ。まさしく神のような人間、誰もが認め一目を置いた男。おれは、ああはなれない。生まれつき持っているものの種類が違う。
円堂を皆で称え、背を預けている時はそれでよかった。しかし個々に散らばった今、成長と衰退を前に朋友たちはそれぞれ何のためにこの道を進むのかという問いを抱えている。果たして自分はこの道を進んで行くことができるのだろうかという不安もある。
いち早くその答えを出したのが不動だった。おれも染岡もスカウトを受けたが、不動は誰よりも先に一人で飛び出した。それを知って感心した豪炎寺の、何か面白いものを見つけたような目を見ているうちに、おれは不安に駆られた。
やはり父との遊びの延長でしかないのだろうかという疑問が、心の地下室から顔を出す。道を示してくれる人はもういない。手探りで綱にすがり、恐る恐るしか進めない自分が恥ずかしかった。
藪を掻き分け両腕を傷だらけにしながら、行き止まりにもめげず道なき道を突き進んで行く不動が羨ましかった。
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まさかこんなにうまく事が運ぶとは思っていなかった不動は、あまりの展開の早さに疑問すら抱いた。
(これ、夢じゃねーよな?)
飛び入りで受けた二部リーグの入団テストに何とか合格し、ホテルを引き払ったのが昨日の事だ。早速始まった下積みの仕事量は半端ではなく、クタクタになって宿舎の狭いベッドに倒れ込んだ。
良いようにコキ使われ冷たくあしらわれても、この先に待つ大きな扉の鍵を手に入れるためならどうということはない。
「おい、新入り共。パス練に付き合え」
「ハイッ!」
二部と言えど流石はプロだと思ったのは、遠回しでせせこましいやり方では新人の精神力を試したりしなかったからだ。彼らは能力で全て判断する実力主義、肉体と精神を無駄のないストレートなやり方でテストし、将来性が見込めない人材は容赦なく国へお帰りいただく。
同期が柄の悪い奴らばかりだったことは、不動にとってプラスの要素だった。彼らは育ちが粗悪なだけで、能力を持っているし、付き合い方を心得ていれば悪人ではない。距離感を知っているおかげですぐに馴染み、一ヶ月程でスペイン語も板についてきた。
掃除、洗濯、ボール拾いにボール磨きと雑用ばかりだが、合間にひたすら練習をする。一部リーグへ行くためにここで結果を出すという、大きく明確な目標が彼をしっかりと支えていた。
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校門を出る前に駐輪場で捕まえないと、自転車に乗られてしまってはさすがに追い付けない。短距離を全速力で走ってきたおれを見て、不動は怪訝な顔をした。
「これ……」
できるだけ中身が動かないようにきつく押さえていた通学鞄から包みを取り出して不動の胸に押し付けると、思った通りつい手を出して受け取ってくれた。
「食え」
複雑な顔から間もなく発せられるであろう疑問よりも先に答えを言ってやる。
「言っておくが、お前のことを餌で釣る気はないし、養うつもりもない。完璧な弁当の見本を見せてやるだけだ、その五感にしかと刻み付けておけ」
自分でもよく分かっている。こういうのは女子の役目だ。
「オイ」
立ち去ろうとした背に声がかかる。
そこへ先輩がやって来て、自転車に乗って去って行くまで、そのまま待った。
「こないだも、もらったんだけど」
「あれは、おれのための弁当だった。不動の好みと必要な栄養素を考慮して作っていないから、見本にならないだろう。やり直しというわけだ」
歩き出そうとして、不動が聞き捨てならないことを言ったのでまた立ち止まった。
「いちいちめんどくせェなァ。旨いだけじゃダメなのかよ……あ、もしかして毒入り? 下剤とか」
「そんな訳ないだろう! もらえるものはもらっておけばいいんだ!」
きつく言ったつもりはないのだが、言葉選びを失敗した気がする。今度こそおれは背を向けて歩き出す。遠ざかっていく駐輪場で「なんだよそれ」と笑う声が聞こえ、気に障ってはいないようだと安堵した。
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いつの間に入れたのか、鬼道が教科書とノートを入れるために鞄を開くと、弁当包みが一つ増えていた。
ひょっとして開けてもいないのではないかと思ってしまう程、渡した時と同じようにきれいに大判ハンカチで包み直してあったが、結び目の下にノートをちぎったらしい紙片が挟んであった。読む人間のことを考えていないがさつで幼稚な字で、たった五文字「うまかった」とだけ書かれている。
顔の筋肉が緩みかけて、喜ぶのはまだ早いと抑え込んだ。新手の嫌がらせか、どういう意味なのか、思考回路を総動員して考えようとした時、話し声が聞こえ慌てて鞄の奥に弁当包みを押し込み、メモを手帳に挟んで帰り仕度を進める。
廊下へ出ると、佐久間が追い付いた。
「鬼道! 今日はいつものメニューか?」
並んで廊下を歩き出す。
「何? ……ああ、練習の話だな」
「え、何だと思ったんだ?」
「いや。腹が減っていてな」
「あぁ」と納得した佐久間が、今度は新たに問いかけてきた。
「何か良い事でもあったか?」
部室の前で不動と咲山に追い付かれ内心慌てたが、何とか平静を保った。
「まあな。大したことじゃない」
考えれば考えるほどメモに嘘を書く理由が増え、しかし盗み見た不動を客観的に見ると、どうやら少々照れ臭くておれを避けている風ではあった。
推測が確信に変わっていく中で、どうしようもなく嬉しい。踊らされているという事実が悔しいが、頬がゆるみ目尻が下がるのは止められない。
(おれは男だ。浮かれるんじゃない、しっかりしろ)
ロッカーで深呼吸し頬を叩いてみたが、あまり効果はない。この後何の発展も無く、逆に何らかの形で永遠の別れが訪れたとしても、この瞬間は忘れられない思い出になる。ぶっきらぼうで素直なたった五文字が、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
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多少の味や色形は違えど、イタリアでも純和食を作ろうと思えば、頑張ればできる。夕食のしょうが焼きにした豚肉を箸で摘まみ、不動は言った。
「鬼道クンって左利きだった? 子供の頃」
味噌汁を飲んでいた鬼道は椀を下ろし、こくりと嚥下してから答えた。
「ああ」
ホウレン草のおひたしに箸を伸ばし、少し摘まんでふと動きを止める。
「よく分かったな。どこかに出ていたか?」
肉と米を咀嚼していた不動は、相手を見ずに頷いた。
「布とかの結び目が逆だったからさ」
呟くように言って、味噌汁を啜る。おれは何の事か分からずに、一体いつ癖が出てしまっていたのかを考えていた。
弁当を包んでいた大判ハンカチの結び目だと気付いたのは、茶碗を洗っている時だった。
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何件かあった中でイタリアからのスカウトを選んだのは、思い入れの強い国だったからではない。冷静に客観的に考えて、イタリア一部リーグのチームに入れることが一番良い条件だったからだ。
サッカーの頂点はどこの国のチームかなんて決められない。ある程度は偏見と好き嫌いで判断することになることを、否定はしない。しかし鬼道は五年前の悲劇とはけじめをつけ、そのことが原因で道を誤らぬよう注意し自問自答する癖を身に付けていた。
(それならアイツに拘るのも、影山とのことがあるからだろうか?)
ホイッスルが鳴って、休憩だとコーチが叫ぶ。歩いてベンチへ向かいながら、微かな痺れを思い出す左頬を撫でた。
(おれを救ってくれた人は一人だけじゃない。円堂、豪炎寺、一緒に旅した仲間たち。……不動はどこが違う?)
もしかすると、彼のことが気になるのは競争心からかもしれない。FFIでは散々比較され並べられ、後から読んだブログやニュース記事では必ず一緒にされていたことを思い出す。
(違う。おれはただ、有能な選手とサッカーがしたいだけだ)
FFU-18で自分か不動が雷門側にいたらどうだったのか想像してみたが、敵でも味方でもこの場合の見解は変わらなかった。
(早く会いたい。次に会った時、成長したおれを見せて驚かせてやりたい。成長したお前を見て驚きたい)
ドリンクを渡してくれたチームメイトに礼を言って、肩を叩き労ってくれたチームメイトに微笑を返す。
目標を定めたら、あとはそこへ向かって全力で走るだけだ。
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ガセではないのかと何度も疑った、悪い夢じゃないのかとも思った。落ち着いた鬼道は顔を隠したまま動かない。外したゴーグルを握りしめ、俯いたまま空港のベンチに座っている。
二つ背中合わせに置かれたベンチ、その反対側の端に、不動は腰を下ろしていた。円堂とフィディオの話が終わり、一旦全員がそれぞれの宿舎へ帰った。誰かが鬼道を宿舎へ帰すよう提案し、土門が付き添う形でジャパンエリアへ向かった。佐久間が近付いた時、掠れた声が「お前は行け、おれの代わりに円堂と……」と言うのが聞こえた。
殆どのメンバーは円堂と共に行ったが、不動は宿舎へついてきた。体育の時間に誰もいない教室のような宿舎で、春奈が心配して声をかけるが、当の本人は平気なふりをしているのかどうか、静かで落ち着いていた。大丈夫なのに全員から休めと言われたから仕方なく休むと言うその口にタオルを突っ込んでやりたかった。
見つからないように遅れて宿舎へ入った不動は、鬼道が部屋から出てきたら足音ですぐに分かるよう、階段の下にあるソファーに陣取る。
「不動さんは行かないんですか?」
こんな時にまで笑いかけようとする春奈は兄に似て痛々しい。さすがに何も言い返せず、無意味に腕を組んだ。
「頭痛ェんだよ。それに、あれだけいりゃ十分だろ」
春奈は微笑んで離れていった。失う悲しみは彼女なら理解してやれるのだろうか。
そう、さっきまで、向かい側のベンチに足を組んで座っていたのだ。白いスーツが赤く染まり、サングラスが割れるところを想像してしまって、胃が縮んだ。本当に頭痛が起きそうだった。
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どの雑誌もどの新聞も、ひいては普段スポーツ関係を取り上げないメディアまでもが、同じ話題で持ちきりだった。
“帝国完全復活”の見出しと共に、個性的な外見で目を引く新総帥の姿が大きく載っているのを見て、不動は息を吐く。
(やれやれ、お祭り騒ぎだな)
様々な人物に影響を及ぼした影山零治は、不動にとっては白とも黒とも分けられないが、その存在は彼の中に大きく影を落としていた。
鬼道は純粋に己の師を尊敬しているだけだと頭では理解していた。彼にとっては第二の父親も同然なのだ。依存しているわけでも、ねじ曲がった愛情を捨てられずにいるわけでもない。
だが、その椅子に座ることは影山とは関係ないと彼は言ったが、それについては異議を申し立てたい。
(オレはあいつに何をしてやれる?)
公園のベンチに腰掛け、ミネラルウォーターを飲んだ。午前六時三十五分、サラリーマンが目の前を横切っていく。自分と同じくらいの歳に見えるのに、シルバーのアタッシュケースを持つ左手の薬指にはピカピカの指輪が光っていた。
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車から降りて、後部座席から新品のサッカーボールを取り出す。相変わらず疲れた様子の廣川は、前回よりも自然な笑顔で出迎えてくれた。
「お世話になってます」
「こんにちは。今日は、これを」
「ありがとうございます。ソウくん……宗一朗くん、随分変化がありましたよ。鬼道さんのおかげです」
歩きながら聞いたところによると、五歳の少年は自分を改め始めた。
悪戯をしたり女の子を泣かせたり、皆の食事中にテーブルを揺らしたり奇声を発したりといった迷惑はかけなくなって、陰鬱な空気は薄く、大人しく静かに過ごしているらしい。
「宗一朗くん」
廣川が声をかけると、少年は立ち上がって駆け寄ってきた。一部の少年たちが、鬼道を見て目を輝かせる。
「こんにちは、宗一朗」
「こ……んにちは」
ボールと鬼道の顔を交互に見比べる姿に微笑み、鬼道は小さな手に渡してやる。
「サッカーが好きか?」
とび色の目がはっと鬼道を見て、きらきらとビー玉のように輝いた。
「うん」
こもった声で答え、宗一朗はうつ向く。その明るみのある柔らかい黒髪をそっと撫でた。
「お兄ちゃんもだ」
強くはない動作で鬼道の手を退けると、宗一朗は離れてボールを蹴り始めた。どうやら、爪先でリフティングしたいらしい。転がってきたボールを拾って手本を見せてやると、とび色の目はさらに輝いた。
軽くひと蹴りしてボールを返す。繰り返すうちにコツを掴んだらしく、足に乗せていられる時間が長くなってきたのを見て鬼道は頷く。
「そうそう、その調子だ。お兄ちゃんにパスをしてみろ。分かるか? ボールをこっちへ蹴るんだ」
力が強すぎて鬼道の脇をすり抜けて行ったボールを取りに行き、FWが向いているのか?と考え出す自分が面白くなる。ボールを手に持って戻ると、不安げな顔が目に映った。
「どうした?」
しゃがんで目線を合わせると宗一朗の目は細かく動き、鬼道の表情を読み取ろうとして懸命になっている。
「大丈夫だ。お兄ちゃんは宗一朗の友達だ」
「……また来てくれる?」
上擦った細い声に普段抑えこまれた精一杯の感情が込められていて、思わず涙腺が震えた。
「ああ。また来る」
しばらくボールを蹴る宗一朗を眺めていたが、予定の時間を10分過ぎたところで佐久間から電話が来た。
運転中、彼を取り巻く複雑な環境に思いを馳せた。理解してやることはできないが、知っておくことはできる。捨てられた仔猫を見つけてしまった時のような気持ちをどうにもできず、家に帰って気軽に話せる相手がいればいいのにと思った。
いない理由も分かっていた。