<眠れぬ森のツンデレラ ~engage~>





バレンタインから四ヶ月。寒々しい曇り空は爽やかな風と共に晴れ、明るい初夏が20時ごろまで続く。
あれから特に変化はなく、不動は二部リーグのチームで着実に功績をあげている。フィールドの上にいる彼は生き生きとして、鬼道の心を掴んだまま離さない。
だが、不動はどこか妙な空気をまとっていた。例えるならば、嘘をついている人間のような態度だ。つまり、今目の前で感じている彼は、本来の彼ではないと感じる。鬼道はこの違和感について探り、色々な事を想定して分析を試みたが、どれもよくない結論に達しそうになるので、いつも途中でブレーキを掛けるようにしていた。
何かが、ずれ始めている気がする。成功を目前にした者が陥る罠に、片足を突っ込んでいるのではなかろうか? それとも逆に、重圧にもがき苦しむ姿を隠そうとしているのか? そんなにプレッシャーに弱い男だったろうか。
どちらにせよ、不動が心に何かを隠していることは確かなようだった。そしてそれは、二人がもう一歩近づく時に立ちはだかる壁となっていた。

(私と付き合うこと自体がマイナス要因になるのなら、意味がないじゃないか……それともまた、私の考えすぎか?)

不動は喋らない、己の心の裏側までは。最初の頃より見せてくれるようになったが、まだ素のままの彼自身ではない気がする。生い立ちや過去も大まかにしか知らないし、いつもあと少し距離があるように感じる。服を脱いでも、見えない何かが隔てていて、彼自身に触れることができていない気がするのだ。尤も、その服すら滅多に脱がないが。

(サッカーをしている時は、自由に生きているように見えるのに。私の前では、窮屈にさせてしまっているように思える……もっと楽に、自然に過ごして欲しいのに)

女子寮は毎日朝から晩まで、上品な英語で色恋沙汰の話題ばかり流れている。誰が付き合ってるとか誰が別れたとか、そんな噂話ばかりしていて、自分はあまり動かず傍観しているグループと、その噂話の対象になりながら我が道を行き青春を謳歌しているグループとに大まかに分かれる。
男子寮に忍び込んでパーティーをするなど毎週のようにやっているが、何故か教師には証拠が掴めない。頭が良い人間ほど刺激を求めている。鬼道には、彼女達の感情を理解するのは難しかった。とくべつ真面目というわけでもないつもりだが、次から次へと恋人を換えて毎晩遅くまで踊ったりしている人間の仲間になろうとは思えない。

(自分に自信が無いんだろうな……)

だが鬼道も己を省みてみると、自信があるとは言い切れないのだった。ただでさえ、十歳も年上の男性と付き合うというのは、努力が要る。ともすれば奇特な目で見られたり、不思議がられたりもする。友達には言いふらしていないし、それについて不満はない。
そんなことよりも将来の問題がある。不動はどこまで考えているのか分からないし、己の立場からしても常に先を見据えて生きていかなければならない。父はいつ花婿候補を決めるかなど口に出して言うことはないが、恐らく鬼道が生まれた時から考えていて、十歳も過ぎた頃から、隙あらば意識させたり、話を持ちかけようとしてきた。今まではとても考えられなかったが、不動に会ってから思考が変わり、卒業まで結論を待ってくれと頼んだため、今は静かにしてくれているが、期限が来たら答えを出さなければならない。不動とはこのことについて話したことがないが、大人なのだから、そのくらいは察しているはずだ。それがプレッシャーになっているのだとしたら、話さなければならない。だが、話すには大きな勇気の要ることだ。
さっさと婚約者にしてしまえばいいと言う考えもあるが、それでは意味がないと思っていた。了承されないかもしれず、その場合はひどく傷つくし、了承されたら一生疑心暗鬼で過ごさねばならなくなるのだ。
(こんな風になるのは、私だけなのか……?)

こうして悩めば悩むほど問題が大きくなる気がしたが、会えば会うほど惹かれて、離れがたくなるのだった。
合鍵を使う前に、ベルを一回鳴らしてからドアを開ける。マットの側にルームシューズが置いてあるので、まだ帰っていないのだろう。今日は二週間前から話し合って、不動の家で夕食を食べ、そのまま泊まって翌日は出かける予定を立てていた。
靴を履き替えていると、ベルが鳴った。ドアスコープを覗いて見えたのは、つやのある赤毛の巻き髪が美しい二十代半ばくらいの女性だ。身なりからしても危険は低そうに思えたので、ドアを開けた。彼女は現れたのが想像していた人物とは違ったために、やや動揺したように見えた。

「ぁ……ハイ、私はエミリー。あなたは?」
「ユウナ・キドウ……」

気さくで話しやすいタイプの明るい性格のようだ。フレンドリーとも言う。

「そう。よろしくね。それで……アキオはどこ?」

ぴくりとこめかみが疼いたが無視して平静を装う。モデルのような顔に嵌め込まれているぱっちりしたグリーンの瞳は、純真で無垢に見えた。しかし服装は大人っぽい、ブランドものらしい。少し水商売の雰囲気も漂う。

「今日はまだ、帰っていない」
「ああ、そうなの……」
「何か用があるなら、私が伝えておくが?」

エミリーは少し思案した。

「前にペンダントを忘れて、預かってもらってたのよ。それを取りに来ただけなんだけれど……じゃあ、ちょっとお邪魔して探してもいいかしら?」
「どうかな……すぐ見つかるといいが。私は構わない」

気さくに招き入れながらも怪訝な顔の鬼道を見て、心情を察した彼女は軽く笑った。

「……やぁねぇ、二年以上前の話よ。彼、当分イングランドにいるからいつでも来いって……でも、今日はいないのね」

不動の部屋に入って、彼女が探すのを見守る。つまりほぼ監視だが、敢えてそう言いたくない。ここでも、小さな違和感が生じた。

「あったわ!」
「良かったな……」

鬼道の心情を察したのか、彼女は複雑そうな微笑を浮かべた。

「捨てても良かったんだけど、祖母の形見だから……一応ね。邪魔して悪かったわね」
「いえ……大丈夫です、お気になさらず」

長居されたらどうしようか、何を話せばいいのだろうかなどとハラハラしたが、彼女も弁えているらしく、真っ直ぐに玄関へ向かってくれてホッとした。

「じゃあ、彼によろしく伝えておいて。良い一日を」
「ええ、そちらも」

ディオールの残り香を挟んで、ドアが締まる。鍵をかけ、しばらくそのままその場に立っていた。
胸の奥がざわざわした。苦手な人間に会った時の猫が、対象が去った後もしばらく尻尾を太くして耳を伏せじっとしているのに似ている。

(し、しかも……胸が大きかった……)

違和感に見ないふりをするのはなかなか難しい。



一時間半くらい経ってやっと、玄関の鍵が開けられた音がした。リビングに顔を見せた不動は、いつものように少しひねた笑顔で嬉しそうに歩いてきたが、どこか疲れているように見える。

「よお。ただいま」
「……おかえり」

目をを見て、その手に触れられると、思わず顔の筋肉がゆるみ心がふわりと宙に浮かんでしまう。まるで花開く直前のつぼみのように震えて、不動の胸に飛び込みたくなる。だが抱きつくことはいつもできないまま、肩から離れていく骨張った冷たい手を惜しんだ。

「遅くなっちまった……わりぃな、作ってもらって」

レタスをちぎる鬼道の横で手を洗いながら、不動は何か手伝えることはないかとキッチンを見渡す。

「ああ、大丈夫だ。少し早めに着いてしまったし……」

そこで先程の赤毛のことを思い出す。メアリーだかフェアリーだか知らないが、とりあえず伝えておかなければならないだろう。

「そういえば、五時ごろエミリーとかいう人が来たぞ」
「あ? エミリー?」
「大事なペンダントを預かってもらっているとかで」
「ああ……」
「分からないから、自分で探してもらった」
「はァ? 中に入れたのか!?」

突然、不動の表情が変わった。

「なに考えてんだ。知らない奴を中に入れたりすんなよ、危ねーじゃねぇか!」

珍しく強い剣幕で、鬼道は戸惑いながら冷静であるように意識して、腕を組み半歩後ずさった。

「すまない……知り合いのようだったから。ペンダントはすぐに見つかったし……彼女が来ると分かっていたから、分かりやすく置いてあったんだろう?」

自分で言いながら気分が悪くなってきた。サラダのボウルを持って不動の脇をすり抜け、ダイニングテーブルに置く。不動が追いかけてくる。

「だからって! もっと慎重にしろよなァ……オレがいる時ならまだいいけど、いない時なんか、何があるかわかんねーんだぞ!」

驚いて肩身がすくんだのを見て、不動がハッとした。

「……わりィ。ちょっと言い過ぎた」
「あ……いや……」

手が伸びてきて、暖めるように肩を撫でる。

「食おうぜ、せっかく作ってくれたのに冷めちまう」
「ああ……」

元々あまり無かった食欲もすっかり失せてしまったが、口にすればとりあえず喉を通った。違和感ごと噛み砕いて飲み込もうとしているようで、どうにも不快な感じが残る。不動もそれに気付いているはずだが、いつも通りにしようとしていたから、できるだけそれに合わせた。それによってさらに遠くなった気がした。



***



鬼道の様子が変なのは気付いていたが、その理由までは思い当たらない。特に一昨日は変だった。エミリーのことはよく知らない。バーノンだったかガードンだったか、名字も曖昧だ。鬼道と会う前、今から三年前の数ヵ月間、週に一度くらい夜に会っただけで、特に何の思い入れもない。そこそこ美人だったのは覚えているが、今となっては失礼ながらそれだけの記憶で、二度と会うことはないと思っていた。それが、半年前くらいにメールを寄越し、ペンダントが無いかと言う。探すとベッドの下に見つかったので、平日なら夕方には居ると返したが、もしその流れで「お礼に夕食を」と言われても断る気でいた。
それが運悪く、鬼道と鉢合わせしてしまったらしい。エミリーがどんな魂胆で来たのか分からないが、もしかしたら何か不穏な空気を漂わせて帰っていったのかもしれない。エミリーの方も特に思い入れは無く、日本人がもの珍しいから遊んだ程度だと思っていたが、実はそうではなかったのかもしれない。
女の嫉妬は恐ろしいと言う。彼氏の愚痴を話せて仲が良い場合などもあるらしいが、チームメイトたちの話を聞くでもなく聞いていると、例えば元カノが今カノに、自分より可愛いからと言って悪質ないじめを始めたりすることはほぼ当たり前らしい。
エミリーは元カノですらないのだが、女というのはどこでどう思い込むか分からないものだ。そう考えると鬼道は絶対に何か良からぬ傾向に思い込まされて、悩んでいるように感じる。何とかしなければと思いつつ自慢の頭脳も働かず、頭を抱えていると、優雅に通りかかった紳士からお声が掛かった。

「今日は来ていないのかい? あの可愛いお嬢さん」

静かなる闘将、ネイビーのポロシャツに純白のチノが似合うエドガー・バルチナス。気障な私服も嫌味にならない。大剣のごとく鋭い足さばきは、敵のみならず味方までも息を呑む程だが、女性の扱いだけはどんな時も疎かにしない。

「あ? ……ああ」

素っ気ない返事に、身勝手な返答がかえってくる。

「別れたのか。慰める役が空いているようだね」
「別れてねーっよ!! ……」
「それは残念。ひどい顔をしていたから、てっきり捨てられたのかと」

聞かなかったふりをしてバッグを持ち、通りすぎると、ごく自然な流れで後について来た。
今は一部リーグに所属している英国トップレベルのスターだが、かつて中学時代には敵同士で、試合前に彼の豪華なパーティーに呼ばれたりもしたものだ。実は彼の推薦もあって今ここにいるわけだが、それはほぼ不動が頼み込んだ形と言っていい。借りは結果で返す約束になっていた。
さっさと逃げたいと思って足を速めようとすると、後ろからエドガーの暢気な声が聞こえる。

「君、以前はプレイボーイを気取っていたみたいじゃないか。もう、そういうのはやめたのかと思っていたよ」
「あんたには関係ないでしょう」

エドガーが肩を竦める気配がした。

「ま、確かにそうだ。女性の機嫌を損ねた時に仲直りするための一番効果的な方法……なんて聞かなくても、大丈夫そうだね」

振り向くと、気に障る得意気な顔があった。

「……単純な問題じゃないんで」
「そうだろうとも」
「でも礼はしときます。ま、オレのことは心配いりませんよ、何があっても一部には行くんで」
「そうかい。楽しみに待っているよ」

二週間前、練習場を見たいと言うので、スタジアムに鬼道を連れて来た。休みだから誰もいないと思いきや、監督と用があったらしいエドガーとフィリップに見つかってしまった。
相変わらず社交界に出たばかりのお嬢さんは、持ち前の器量の良さと語彙力で監督のささいな質問に笑って受け答えしていたが、そんな鬼道を二人の紳士の皮を被った悪魔から守ろうと必死になりすぎて、それが顔に出ていたらしく、後で散々いじられた。鬼道にも分かるほどだったかどうか、もし分かるほどだったならこれほど格好の悪いことはない。だが焦る理由もある。
確かに、ここ一年で心境は大きく変化した。自分でも別人かと思うほどだ。煙草はいつの間にか買わなくなった。目標がブレず、
ただ、どうしても道の先を見ようとすると、考えてしまう。鬼道との関係はどこまで続けられるのか、と。



***



一週間後、不動とまた会えることになった。実は少々迷ったが、その次はしばらく練習が増えると聞いて、自分にもレポートの提出期限があり、今回を逃すとかなり間が空いてしまう。モヤモヤを抱えたままでも、会えるうちにできるだけ会っておきたい。違和感は何かの勘違いか、気のせいだったかもしれないのだ。そう思って、明るい(感じに見えるよう)メールを送った。あと一年半くらいは、このままの状態で出来るだけ楽しむといった付き合い方のほうがいいのかもしれない。
そして今週は何の予定もなかったところへ、寮で隣室の子から勉強会と買い物を兼ねて出かけないかと誘われた。不動の住む街に、彼を訪ねる目的以外で来るのは、なんだか不思議な感覚だ。3人の友達はたまに来たことがあるようだったが、鬼道は来ていないという前提だったので、たまに来るとだけ言っておいた。

(う、ウソではないからな……)

大きな図書館でのレポート作成は捗り、ノートに資料のコピーを挟んで、予定した時間きっかりに街へ繰り出す。やることをやってしまえば、後は有意義にリラックスする時間だ。流行のショーウィンドウを眺め、カフェで紅茶とワッフルを楽しみ、買い物袋を増やす友達につられて自分もワンピースを一着買ってしまった。クラシックなデザインの、今まではとても買わなかったようなちょっと大人っぽい服だ。
あまりにも3人が夢中で服やバッグや靴を見ているので、ちょっと空気を吸いたくて、外にいると伝えて店から出た。すぐ戻るつもりで一息つき、先程買ったミネラルウォーターを飲んでいたその時、通りを挟んで反対側の店内に、不動を見つけた。ガラスのショーウィンドウ越しに、女性と何かを選んでいるのが見える。思わず、向こうから見つからないように花屋のワゴンの死角へ入った。

(あれは……この間の、エミリーという人だ)

不動は宝石店でエミリーと一緒に、何かを選んでいた。そもそも不動が宝石店に入るなんて考えられないし、エミリーが偶然そこに居合わせたのなら出来すぎている。
思考は坂道を転がるようにネガティヴな連鎖を起こして落ちていった。確かに、はっきりと気持ちを言ってないし、遊ばれていただけかもしれない。もしくは見間違いで、あれは不動ではないのかもしれない?

(そうだ、見なかったことにしよう。他人の空似と言うじゃないか。今日は不動とは会ってないし、見かけてもいない。私たちはここのモールを見たら、もうすぐ帰るという話だったじゃないか。早く帰ってレポートをもう少し書いて、夕食を食べて寝よう)

ところが、店を出て来た不動らしき男は、通りの反対側を歩き始めた鬼道を見つけたらしい。

「あれ、鬼道ちゃん!」
「……!!」

不動が駆け足で向かってくる。反対側の歩道にちらと視線を走らせるが、オレンジの服のメアリーはもう見えない。メアリーの方が見間違いだったのか。
目の前まで来て不動は微笑んだ。

「どうしたんだよ、買い物?」

うまく言葉が出て来ないので、パニックに拍車がかかった。

「……鬼道ちゃん?」
「そんなことはどうでもいい」

不動の表情が強張る。

「……どうした?」
「……っ」

180度踵を返して駅へ戻ろうとすると、不動が横についてきて、腕を掴んだりせずに何とか引き留めようとした。

「ちょっ……待てよ! 何か誤解してねェか?」

振り向いてやっと目を見た。初めて会った時、とても好きな色だと感じたのを思い出す。次の瞬間視界が滲んで、咄嗟にうつ向いた。不動は少し狼狽えながら、抱き支えてくれる。

「ユーナ?」
「大丈夫?」

買い物を終えたらしいクラスメイトたちが、一見すると大人の男に絡まれている鬼道を助けようと身構えた。

「あ……ハイ」

不動が挨拶するが、今は紹介する気になれない。

「すまない。気分が悪いから……少し休んでから帰る。グレイス寮長に、後で連絡すると伝えておいてくれないか」
「わかった」
「気を付けてね」

何とか納得して、引き下がってもらうことができた。

「すまないな」

彼女たちが離れていき、不動がふぅと息を吐く。

「休むったって……カフェでも入るか?」

首を横に振る。不動の声はやけに優しく聴こえた。

「じゃあ……とりあえず、オレんち行こう。歩ける?」

少しふらつく足で一歩進む。不動に肩を囲われながら、いつもよりゆっくり歩いた。惨めで無様だ。こんな思いをするものなら、恋愛なんて馬鹿馬鹿しいとさえ思った。



アパートに着くまで、かなり長くかかった気がした。とりあえずリビングまで行く。立ち尽くしている鬼道の肩を恐る恐る押して、座るよう促す。ソファに座った彼女の側に、床へ膝をついた。
鬼道は喋らない。これほど恐ろしい時間も他にあるまいと思いながら、焦る自分を何とか落ち着かせる。

「えーと……鬼道ちゃん? まず、よく聞いて欲しいんだけどさ、さっきエミリーと会ったのは、ホントにたまたまだから」

切り出しかたはこれで良かったか? 鬼道は目だけを動かして、不動を見た。無視されるよりマシだ。話し続けるしかない。

「オレは嘘がヘタだし、ついたって鬼道ちゃんくらい頭良ければ見抜けるだろ。……確かにエミリーとは前にも会ったことあるけど、元からそんなに親しくないし、そもそもよく知らねえんだ。どこに住んでるかとか聞いてないしな」
「じゃあ……ったまたまで、なぜ一緒にあんな店にいたんだ?」

やっと喋ってくれたのが嬉しくて、笑わないように唇を噛む。

「あー、オレがあの宝石屋の前でウロウロしてたら、助けてくれたんだよ。なんかこう、入りづらくってさ……」

鬼道の眉間のシワが一本減った。あと少しだ。

「あんなところで、何をしていたんだ?」
「ああ、ウン……それが……これ買ってた」

ここで、自覚していなかったが手が震えていたらしい、あろうことかポケットから引っ張り出した小さな箱を取り落とした。リテイクは利かないので、すぐに拾って、無かったことにするための数十秒で深呼吸する。
そっと差し出すと、鬼道は驚いたようだった。中身の察しはつくだろうが、一応開けて見せる。

「これは……誕生日プレゼントってことで」

小さな細い指輪は、寝ている間に測った薬指のためのもの。

「まだ誕生日じゃないぞ……」
「まあそう言わずに」
「ムーンストーンか……?」
「そ。なんか、普通のじゃないらしいけど……ロイヤルなんとかっつって」

乳白色の石に光を当てて上下に傾けると、ブルーの多いオーロラがゆらゆらときらめく。

「安物でわりぃけど」
「こんな……こんなの、いいのに……」

鬼道はぎゅうっと背を丸めて、俯いた。

「……やっぱ、いらねえ?」

そのまま、床へ降りて抱きついてきたことが、たまらなく嬉しかった。

「鬼道ちゃん、こういうのいっぱい持ってそうだからさぁ……」

ぶんぶんと頭を横に振り肩に顔を埋める様子が愛しくて、抱き締める腕につい力が入ってしまった。慌ててゆるめ、大きく息を吸う。胸に体重が預けられるのを感じた。

「今は難しいと思うけど、鬼道ちゃんの準備が整ったら……オレは、いつでも迎えに行くから」

何とか絞り出した声でそう言うと、鬼道は目元を拭って顔を上げ、不動の肩に両腕を掛けた。

「おまえ……もしかして、これのせいでおかしかったのか?」
「だからただのプレゼントだって」

問われると思ってなくてギクッとしたのが顔に出たのだろう、鬼道が眉をひそめて顔を近付けて来る。

「サプライズを隠しておきたかったから? いや、しかし、おかしかったのはもっと前から……」
「え……オレ、そんなにおかしかった?」
「うん」
「マジか……」

情けなくて顔を覆うと、鬼道が説明してくれた。

「エミリーさんのこと、ちゃんと説明してくれなかったし」
「ウン……それは悪かった……」
「練習場でも、私がエドガーさんたちと話してると何か変だったし」
「それもか……」
「あと、家に勝手に人を入れたからってあんなに怒らなくても、とか思ったり……」
「あれは鬼道ちゃんが無防備すぎるからだろ! 最近は女だからって油断すると、すぐ拉致られたりすっからやばいんだぞ」
「心配性だな、お父様みたいなこと言う……私は護身術も習ってるし、それなりに人を見る目も持っているつもりだ」
「だーからそこがやばいんだっての! ったく……男は誰かを守るのが役目なんだよ、心配性じゃねぇ男のほうが危ないぜ」
「……そうかもしれないな」

やっと納得してくれたことに安心してため息をつくと、ふふっと笑われた。

「明王でも不安になるんだな」

笑い返してやるが、自嘲気味で苦々しい。

「ハッ、オレなんか不安だらけだぜ? 有奈ちゃんがどっか行っちまわないように、どうしたらいいかずっと考えてるし」

鬼道は驚いたようだった。

「私がどこかへ行くわけないだろう。こんなに好きなのに……」

全く、女神というのはとてつもない威力を持っているらしい。たった一言で思考が停止し、ごちゃごちゃと考えていたものを全て放り出して時間を巻き戻そうとする。

「今なんて?」
「明王のばか」

自分の隙と不動の魂胆に気付いた鬼道は、顔を背けてしまった。

「ウソつくなよ」
「くず」
「もっかい言ってよ」
「くずぅ……」
「それじゃなくてさ」
「何のことだ、明王が言え……」

見つめ合って、やはり耐えられず、言葉より先にキスをする。何を言っても、この胸の内にある激流のような想いを伝えられそうにない。鬼道は目を細め、だがふてくされたようになって、体を預けてきた。

「外泊する許可を取るためには、単位を落とさないようにしなければならないんだ」
「マジで?」
「マジだ。それほど楽しみにしていたんだ……それなのに、ずっと、明王は明王でないような感じだった。まるで、嘘をつかれているような」
「えっ、嘘なんかついてねぇよ!」
「分かっている。でも、薄い壁みたいなものがここにずっとあって……もしかしたら私は、明王に釣り合わないのかと」

ここ、と言う時に、鬼道は不動と自分との間に手をかざした。

「は? それっ……それ言うなら、オレの方だってば。オレなんか、有奈ちゃんに釣り合わないどころじゃねーよ? 優しくしてくれるから、何とか側に居られるだけで」

鬼道が少し目を丸くして、ぱちくりと瞬いた。

「……もしかして、同じことで悩んでいたのか?」
「は……?」

少しの間、考える沈黙が訪れ、やがてどうしようもなく恥ずかしくなって、吹き出した。

「なんだよ……」
「ばかだな、お互いに」

猫のように首を反らせて擦り寄る鬼道を、ぎゅっと抱き締める。

「ん」

鬼道が左手を差し出す。少し戸惑って、やっと理解し、小さな指輪を華奢な指に嵌めて、そっと撫でた。
鬼道は満足そうに微笑み、その表情が見たかったもの以上の輝きで、不動は圧倒されるしかなかった。
抱き締めると、擦り寄ってくる。存在が愛おしくて堪らないなんて、今まで考えたこともなかった。

「……はっきり言って、言いたくないことの方が多いんだけど……エミリーとか……聞かれたら、全部正直に話す」

ふと、自然に話し始めていた。

「だけど、これから先は、嘘をつかない。隠し事もしない。絶対って言うとそれがまた嘘になるかもしれねぇから……もし嘘をついたり隠し事したり、また有奈ちゃんを傷つけたりしたら、有奈ちゃんがオレを罰してくれればいい」
「罰するなんて……だから。私はお前のそういうところがイヤなんだ」

ドキッとした。

「そういうところ……?」
「もっと自然に、楽しくしててほしい……私といるのが負担や重荷になるなら、早くやめた方がいい」
「はァ? 何言ってんだよ!」

思わず腕に力がこもる。驚いた顔もまた可愛いが、今は早く誤解をとかなければ。

「十分楽しいぜ。オレがおかしいとすれば、それは鬼道ちゃんと会えてテンパってるのを知られたくないからで、余裕ぶってカッコつけたいからじゃねーかな」

不味そうに言うと、赤い目がきょとんとしたあと、けらけらと笑いだした。

「あはは……そうか、そんなことか」
「そんなことだよ」

鬼道がひとしきり笑っている間、その肩に顎を乗せる。すれ違いや勘違いで疲れたが、さらに距離が縮まったのは良かった。
鬼道が、少し体重を預けてくる。

「店員に、何て言ったんだ?」
「え? いや最初、エンゲージリングですかって言うから、違う、妹の誕生日だって言ったら、パールかムーンストーンどっちがいいかって聞かれて、何となく石の方がいいって言った」

ばつが悪そうに話すと、笑みがこぼれる。

「なるほどな」
「宝石のことなんかよくわかんねーから、店員に選んでもらって、変じゃないかどうかエミリーに確認してもらってさ……」

まるで、留守中の出来事を母親に話す子供のようだ。鬼道はくすくす笑って、肩に頬を預けてきた。

「ぴったりだ……測ったのか?」
「先週……」
「知らなかった」
「良かった」

顔を見られたくないので前を向くが、鬼道の肩をしっかり抱き寄せる。
それから二人で協力して、短い時間で美味しい夕食を作り、他愛ない話を挟みながらゆっくり食べた。友達と寮長に連絡することも忘れなかった。





何かの花の精油のような、微かな香りを辿って行く。確か彼女が使う石鹸はローズオイル配合だったような気がする。汗ときついデオドラントに慣れた鼻を、やけにふわふわとくすぐるので少々むず痒い。開けたままのドアから寝室へ入ると、鬼道はベッドの上に座って、湿った毛先にドライヤーを当てていた。

「もう寝ちゃう?」
「なんだ?」
「まだ、話してないことがあったからさ……」

鬼道は場所を空けることで座れと示したが、彼女の腿の横に肘を乗せて、床に座った。さっきと同様、向かい合わせになるにはこうするしか思い浮かばなくて。
鬼道が「そんなところに座るな」と言い出す前に、口を開く。

「エドガーたちと話してる時に変だったって言ったけど、あの時はオレ多分、嫉妬で気が狂いそうになってんのを必死で抑えてたから。だと思う」
「……そうなのか」

もうやめたくて顔を撫でるが、決意したと言うのに、ここでやめるのも男として自分が許せない。自分で決めた通り、鬼道に洗いざらい全て話そうと、ゆっくり息を吐いた。

「男ってさ……オレは特にだけど……単純で、バカなんだよ。そのくせ、そういうのカッコ悪ィから本心は言わなかったりするし。でも、一つだけしっかり理解して覚えてて欲しいんだけど、こういうの、オレ、生まれて初めてなんだ」
「こういうの、って?」
「……ホラ、嫉妬で気が狂いそうになったり、メール一通で飛び跳ねたり、そういうことだよ」

やはり立ち上がり、隣に並んで腰掛ける。黙っているので不安になって顔を見ると、鬼道は理解できないといった様子で眉根を寄せ、考え込んでいた。

「その……そういうのって大人の男がやるもんじゃねぇしさ……不安とか心配性とか、心が狭い奴みてーでカッコ悪いだろ……」

赤い目がきらりと光る。鬼道が憤りを込めて腕を掴んだのを、最初は苦々しい思いで受け取っていた。

「だから、言ってるじゃないか! お前は私のものなんだから、不安になったり心配したりする必要は皆無なんだっ!!」

所有物扱いをされても喜ばない野良犬のつもりだったが、その言葉は不動の心に大きな衝撃を与えた。

「それに、どこがカッコ悪いんだ。私からすればお前はとても……」
「……ん?」
「カッコいいぞ……」

堪らなくなって、顔を近付けた。至近距離で見つめ合うが、鬼道が目を逸らす。そのまま閉じたのを合図に、そっとキスをした。心臓がおかしくなりそうだ。

「有奈ちゃん……」

大きく息を吸い込むと、さっぱりした風呂上がりとバラの香りにくらくらした。腰を抱き寄せて、もう一度長いキスをする。少し離れ、できるだけ急かさないように、三度目はゆっくりと舌を差し入れた。ピクンと肩が揺れる。
ちゅっと音を立てて離れ、そのまま頬、顎、首筋へと、唇を当てる。鬼道が少し慌てた声を出した。

「あ、きょっ今日は……っ」
「なに……やめとく?」
「いやっ……」

視線に期待を込めて答えを促すと、鬼道は心底恥ずかしそうに呟いた。

「その……下着がバラバラで……!」

柄とか色がちぐはぐだという意味なのだろう。そんなことで慌てるなんてと思わず吹き出しそうになって、怒られないうちに抑える。

「じゃあ、とっとと脱いじまおうぜ?」

抵抗する鬼道の肩や頬に口付けて、一旦止める。

「イヤならやめるけど……」

向き直って、鬼道の赤い瞳が揺れているのをじっと見つめた。

「イヤな訳、ないだろう……」

鬼道からキスをしてくれるなんて、思ってもみなかった。沸騰しそうな頭で何とか全身を支え、彼女の好きにさせる。腹の上に跨って唇を押し付ける鬼道の太腿を撫で上げ、スカートの下へ手を滑らせた。やわらかい太腿をさすり、足が浮くのを待ってから尻を掴む。
戯れるだけのキスを中断して、起き上がり押し倒した。もう我慢ならない。

「んっむぅ、ぅ……」

強い口付けにも必死に応えようとしているのが分かって、下半身はすっかり熱を持つ。できるだけ冷静でいられるよう、息を長めに吐きながら、鬼道の胸を撫でて、そっと掴んだ。柔らかい肌を、潰さないように撫で揉む。

「ぁ……ふぁ……」

頭がおかしくなりそうだ。ひときわ温かい場所へ下りていき、そっと撫でると、ビクンと震えた体が少しずつ開いていく。這わせた指をくっと曲げて湿らせた瞬間、切なげな吐息がこぼれた。

「はぁ……ふどう……」

ルビーがとろけて濡れている。

「やっ……ん、ふぅ……っ」

思ったより準備万端らしい。愛撫を中断して、服を脱がせる。

「……有奈ちゃんとこゆことすんの、すげぇ良くないことだって思ってた」

あり得ない、といった顔で鬼道が目を見開く。

「な……何でだ」
「だって年齢だけ考えたら、妹みてぇだろ。好きなら関係ないっつー意見もあるけど……」
「関係ない」

ブラウスと共にバッサリ投げ捨てられた。

「血はつながってないし、ちゃんと分別もついている。それに、私はもう16歳だ。結婚だってできる」
「親の承諾があれば、だろ」
「すぐに取れる」
「ぇえ? すぐに、って……」

ぱちんっとブルーチェックのブラジャーが浮いて、鬼道の上半身が露になりかけた。

「なら、18歳になればいい」

気高い恥じらいの下にはらりと肩ひもが落ちて、思考も砕ける。

「はー、もームリ……やばかったら殴ってくれよ、やめろって言われても止める自信ねェ」
「えっ……、ひゃぁ……!」

シックな花柄のショーツを脱がせて太腿を撫で、太腿に差し入れた指先で秘部が濡れそぼっているのを確認してから、コンドームを着けた自身を宛がう。白い太腿を押し広げ、そそり立つ欲望の塊のような男根を。

「ま、まって……ふぁああっ」

ひときわ上ずった甘い声が耳を刺激し、熱い襞に包まれて、今すぐ駈け出して天国へも昇れそうな気がした。

「ぁ……、あぁ、ふど……! んぁ……っ!」

顔の横へついた手の首をすがるようにゆるく掴まれ、その片手はベッドに着いて支えにし、重心を左にかけて右手を繋ぐ。嬌声を聴くほど、徐々に律動のスピードが上がっていく。抑えきれずに息を荒げ、乱暴にならないようにと思いながら強く腰を穿つ。

「や、や……ッ、ぃゃあ……っ」

しがみついてくる腕に、体中が騒ぐ。耐えてみせるはずだったのに、思いの丈を吐き出してしまった。

「ン、く……ッ!!」

引き抜いて、急に不器用になった手でコンドームを着け替えると、起き上がった鬼道が寄り添ってきた。唇で応え、抱き寄せる。華奢な手が不動の後頭部を梳いた拍子に、髪留めのゴムが外れた。一つに括っていた髪が広がり、鬼道はそれを軽く撫でる。

「ふどう……、もっと……」

恥ずかしそうな呟きに、箍が外れたのを自覚して、ああこれはやばいなと思った。獣のように襲いかかって、あちこちにキスを降らせる。
心を解放することで、これほどまでに快感が増すなんて知らなかった。触れれば触れるほどつながって、吐息が絡まり、一本の糸になっていく。鬼道が少しずつ積極的になっているのを感じて、くらくらしながら、倒れないように大きく呼吸した。



それから記憶が曖昧になった。まるで夢のようで、触れた感覚だけ鮮明に体が覚えていて、意識は朦朧としていた。現実感を取り戻し、意識がはっきりと醒めてきた時、何かやらかしたのではないかという恐怖に襲われて飛び起きたが、同じくぼんやりとしていた鬼道がきょとんとしただけだった。

「……どうかしたか?」

改めて見ると、恍惚とした表情でシーツにくるまり横たわる鬼道は、もういたいけな少女ではなく、一人の成人女性としてそこに在った。やはり胸の内に浮かんだものを表す適当な言葉が見つからず、長いキスを一度交わす。

「ちょっと反省した」

そう言うと、ふふっと鬼道が笑う。

「すきなだけ反省していろ。……だが、一つ言っておく」

赤い瞳が、夕焼けに浮かぶ星のようにきらめく。

「お前は私のものだし、私はお前のものだ。これから先ずっとな」

自信に満ちた微笑に頬を撫でられ、不動は笑った。

「仰せの通りに、我が女王」

顔をずらして親指に唇を付けると、睨まれた。

「その呼び方は、やめろ……」

魔法の靴は、少女が大人の階段を登るためのもの。落としたり壊れたりしないよう、その手を取らせてくれたならどこまでも共に行く覚悟と忠誠心を胸に、永遠の誓いを立てる。どんな宝石も霞んでしまう、甘いきらめきを放つ瞳に魅せられながら。





END
& happiness forever!



2015/06

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