<眠れぬ森のツンデレラ 第ニ話>
不動が帝国学園に転入したのは、十四歳の時だった。母が、自分が働いて工面した金を使い、何と しても偉くなって他人を見返せと、送り出した。都心部にある日本最高峰の私立学校で、苦もなく試験を通れた頭脳を持っているとは言え、その他大勢と同じように真面目に努力することが大嫌いな不動は、適度に気を抜けるきっかけを探していた。それは子供の頃から友達だったボールや、一人でぶらつく古本屋街であったりしたが、心躍るようなものはどこにも無かった。
母校は六年ぶり、中等部の校舎は九年ぶり。月日が経つのは早いものだと、校舎を見上げて息を吐く。初めてここへ来た時のことを思い出す。影山零治は能力を見込んで、勝つための全てを教えてくれた。しかし、それによって失ったものがあることに、この歳になって気が付いた。そしてそれは、不動が当たった壁を越え向上するために必要な、最後の一欠片だった。
「つっても、それが分かりゃア苦労しねェよ……」
サッカーそのものは楽しかった。ただ何かが足りなかった。恐ろしいほど退屈していたのは、表面的な現象だ。監督にスランプを見破られ、休暇という名目で情けなく帰国して、面白いものを探していた。そんな時にちょうど、出会った。
「影山サンの教え子っつったら、気になるよなァ……」
ブラブラとだだっ広い廊下を歩いていると、角を曲がった先に、きれいに巻かれた、くすんだゴールドの髪が見えた。
「お、有奈ちゃん」
相手は呼ばれて驚いたらしく――学校内で馴れ馴れしく呼ばれることなど無いだろう――勢いよく振り向き、大きな紅い目で不動を見上げた。隙ができているうちにからかってやろうと、不動は屈んで顔を覗き込む。
「会いたかったァ?」
紅い目が瞬いてから、睨みつけた。頭にきているが意味の無い言葉しか浮かばず、きゅっと唇を引き締めただけで黙っているらしい。中等部の女子制服を完璧に着こなしたその姿は、見た目にも立場としても、彼女がこの荘厳な学園のシンボルとも言える存在であることを表していた。
「……何でここにいるんですか」
「ヒマだから母校でも見学にと思ってさ。新校舎、案内してくれよ。生徒会長サン?」
不動は上機嫌で、正門で手続きを済ませた証であるバッジを見せた。鬼道はさらに眉をひそめてバッジを見たが、ふんと不機嫌そうに可愛く鼻を鳴らして顔を背けた。
「……こちらです」
自分に頼まれたことはできるだけ引き受けるし、自分が一番この学校を知っているのだと普段口に出さない部分を煽られて、不愉快ながらも従う。むしろこの機会に、自分の能力を見せつけて見返してやろうとさえ企んでいる。
不動は口角を上げて、のんびりとした足取りでついていった。
この学園は、中等部だけでもかなりの広さがある。各部専用練習室があり、ロッカールームがあり、資料室がいくつもある。大きな体育館もあるのだが、改装され、記憶の中よりも無機質な雰囲気が増していた。
「体育館もキレイになったなぁ」
「一度、天井の鉄骨が崩れたそうで」
「へぇ。ボロくなったもんだねェ」
隣にあるグラウンドは相変わらず完璧に整備されており、ちょうど練習しているところが見れた。ボールのやり取りは的確で無駄がない。しかし、プロの世界を見てきた目には、まだ遊びの域を出ていないように映る。
「サッカー選手なんでしょう? なぜこんなところでふらふらしているんですか」
鬼道が呆れたように尋ねた。遊んでいる方がまだ楽しく感じていたことを思い出していた不動は、得意気に笑うこともできずに低い声でつぶやく。
「オレにしかできないことを探してンのさ」
鬼道は黙ったまま少しの間、隣に立って鋭い視線をどこか遠くへ向けている男を眺めていたが、ふと歩き出した。
「次、行きますよ」
すたすたと小さな歩幅で胸を張って歩く少女は、可憐かつ聡明ときている。やれやれと思いながら、不動は後を追った。
一通り回った母校は、改装と新築など外見の変化以外は何一つ変わっていなかった。それもそのはず、統治する人間が同じなのだから当たり前のことである。
「これで以上です」
「サンキュー」
しかし今日は鬼道を捕まえることができて、大収穫だった。彼女の淡々とした説明やきびきびした動作、上品な物腰を間近で見て、会話らしい会話もしていないが話すこともでき、不動は上機嫌だった。それがまた鬼道の癪に障っていることも知りつつ、屈んで視線を落とす。
「有奈ちゃん、オレのこと調べてくれたんだ?」
紅い目は不機嫌そうなまま、さらにすがめられた。
「知らないことはできるだけ知っておきたいので。私は授業がありますので失礼します」
顎に力をこめて言い放ち、鬼道はくるりと踵を返した。細い足にまとわりついて、ふわりと翻る、まだ膝を隠す丈のスカート。彼女の後ろ姿を見送って、不動はぶらりと正門へ向かった。
***
廊下のソファで寝ていたのは、あの日飛行機で帰国したばかりだったから。パーティーに来たのは、父と影山に恩義があり、挨拶したかったため。人の態度の背景を考えろと常日頃から教えられているのに、できなかった自分を鬼道は恥じた。だから校内の案内など、誰でもできるような仕事を引き受けてしまったのだ。
鬼道は勉強机に向かいながら、手に持ったままのシャープペンシルのノック部を唇に当て、考えていた。開いた参考書とノートはかれこれ二十分は放置されている。何をそんなに考えているのか自分でも不思議なほど、不動明王という男の存在が気になっていた。
女の気を引くという意味では、その術に長けているのだろう。しかしそれだけではないような気が、何となくしていた。それが何なのか分からない。鬼道は、この"分からないこと"が大嫌いだった。幼い頃から、友達が「もう分かんないや」と放り投げた問題を、拾って答えが出るまで眺めているのだ。
一番気になることは何だろうかと考えた。それは、肩を触られた時の違和感と、今日は触られなかったことだ。触られなかったことというより、"触られなかった"と自分が意識したこと。それに何の意味があるのかと考えて、それが分からずに困惑している。
いい加減に勉強に戻らねばと姿勢を正したとき、妹の春奈が廊下から部屋のドアを開けた。
「お風呂空いたよ」
「ああ」
しばらくドアが閉まらないので、まだ何かあるのかと顔を向ける。
「なんだ?」
「お姉ちゃん、どうかしたの?」
「へ?」
聞いたことを聞き返され、鬼道は面食らった。自分はどこかおかしかったのだろうか? 春奈は部屋の中に入ってきて、まじまじと姉の顔を覗き込む。
「だって、こないだからなんか変だよ……」
それは鬼道も感じていたことだったが、まだ自分の中で答えが見つからずにいた。それを春奈も無意識のうちに感じ取り、ここ数日の姉の様子に微細な変化をもたらした存在を突き止めようと乗り込んできたのである。
「いや、どうもしないぞ」
「そう? 熱でもあるんじゃない?」
「大丈夫だ」
顔を覗き込まれると困るのだが、敢えて隠さずに何でもない風を装いながら見られるままにする。春奈は探偵がよくするように顎に曲げた人差し指を当て、「うーん」と唸った。
「もしかして……」
「な、なんだ?」
「好きな人ができた!?」
「はあっ?」
思わず鼻を抜けるような素っ頓狂な声が出て、椅子から落ちそうになってしまった。
「そんなわけないだろう」
自分でも驚くほどすぐに、冷静を取り戻す。だが否定しているのに、春奈はずいずいと迫ってくる。
「なになに? どんな人? 私でよければ相談に乗るよっ」
妹の千里眼には敵わない。鬼道は素直に認め、大きくゆっくりと息を吐いた。
「……よく分からないんだ」
悩ましげな眉は、妹の目には歓喜の材料になったらしい。春奈は目をきらきらとさせて、飛びついた。
「お姉ちゃんはいつもなんか張り詰めてるから、もっと可愛くしたほうがいいよ! わたしと違って、顔もスタイルも良いんだから~」
「うわっ、やめろ! くすぐったいっ」
くすぐられくすぐり返し笑い声をあげながら、鬼道は春奈に言われたことを反芻していた。人を好きになるというのは、一体どのような感じなのだろうか?
春奈のことは大好きだと思う。一歳しか違わないこともあって、親友のような仲の良い姉妹だ。それとは、違うものなのだろうか?
鬼道はそれを理解し、確かめるために、自慢の頭脳を働かせ始めた。
つづく
2014/09
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki