<眠れぬ森のツンデレラ 第三話>
サッカー部専用グラウンドへの扉が開いた直後に、叫び声がした。
「鬼道ぉ!」
幼馴染の佐久間次郎は、鬼道が入ってくると通常の十倍の速度と強度で反応する。鬼道も周囲もそれに慣れてしまっていたが、全員が彼の片想いを知っているわけではなかった。
「佐久間、調子はどうだ?」
「見ての通り、絶ッ好ッ調だぞ~ッ!」
膝を曲げ左足を上げて右腕を激しく振り回し、大げさなリアクションで笑顔を見せる佐久間の相手をしばらくしたあと、キャプテンである源田が近付いてきて、鬼道は少しだけ声を大きくした。
「そう言えば、不動選手が帰国しているのを知っているか?」
「え、不動ってあの不動明王か!?」
「マジで!?」
思った通り、サッカー大好きな部員たちは食らいついてきた。彼らの反応を見て、そこそこ名が売れているらしいことを確認する。鬼道は声を平静に出そうと努めながら、同時に口元も引き締めた。
「総帥に頼めば、友達の他の選手なども連れて、来てくれるんじゃないか?」
「やったー!」
まだ話が決まった訳じゃないのにはしゃぎだす部員たちに混じって、佐久間はこの話に何かウラがあることと、鬼道の様子がいつもと違うことに勘で気付いたが、周りの騒ぎを鎮めようとする間に鬼道は行ってしまったし、自分もプロ選手には会ってみたいと思っていたので、疑問はとりあえず胸の中へしまっておいた。
***
サッカー部たっての願いを影山総帥は聞き入れ、鬼道の父がマネージャーへ電話をかけ、不動は風丸一郎太選手と壁山塀吾郎選手を連れて練習を見に来てくれた。
鬼道がいつになく沸いている練習場へ来たのは別に、不動に会いたいからなどというわけではなく、生徒会長としてサッカー部のレベルアップを確認しなければならないからだ。もちろん、各選手の方々にご挨拶とお礼もしなければならないし。鬼道の娘としての責任もあるし。
不動はといえば、淡々としていた。中学生たちに混じってドリブルを披露する姿は、キレのある動きと真剣な中に楽しみを持っている表情で、端正な顔立ちがより引き立っていたし、軽口を叩きながら気さくに応じてくれ、頭にぽんと手を置いたり、肩を抱いたりと、堅苦しく重いと言われていたサッカー部の面々がきちんと中学生男子に見えたほどだった。
しかし、鬼道には気付いているはずだが、生真面目な挨拶以外、接していない。ベンチに座ってずっと見ていたが、グラウンドへ出てみることにした。
「それじゃ、オレたちはそろそろ帰るぜ。いいかお前ら、今日のこと忘れンなよ」
「はい! ありがとうございました!」
元気の良いメンバーたちの返事を受けて、背を向ける。
「挨拶も無しにお帰りですか」
不機嫌な声をかけて追いかけると、不動は少し歩をゆるめた。隣を、風丸と壁山が仲良く話しながら、先に出口へ向かって通り過ぎる。
「おー、生徒会長さんじゃねぇか」
話しかけたはいいが、何か印象に残る一言を突き刺してやりたいと思っていたのに、何も浮かばない。自分が不動について歩く様は不自然ではないだろうかと後ろを気にしてみたが、帝国イレブンはたった今習得したばかりのプロのコツに盛り上がっていて、生徒会長の行き先は気にしていないようだ。ほっと息をついたのも束の間、手に持っていた携帯電話を奪われる。
「さすが、お嬢さまは最新型かぁ。これ、使いづらくね?」
「返せ! ぷ、プライバシーの侵害です!」
「大丈夫だよ、何もしねーって。えーっと……これオレのケータイね」
ちょいちょいと操作して返してきた携帯電話の画面には、11桁の数字が並んでいる。このまま画面を消せば無くなってしまうが、登録すれば残る。鬼道が困惑していると、不動はさらに言った。
「あ、メアドも要る? フドウアキオアットマークイナズマドットジェーピーだから、簡単だぜ。フドーじゃなくてフドウな」
要らないとも聞いていないとも言えず、鬼道は開きかけた口を閉じた。
「じゃあな~、鬼道ちゃん」
ひらひらと振った片手をズボンのポケットに突っ込み、不動は帰っていく。携帯電話の画面を点けると、まだ11桁の番号は残っていた。鬼道は数年前に生まれて初めて携帯電話を使った時よりも恐る恐る操作して、登録ボタンを押す。ほっと胸を撫で下ろしたと同時に、手の中の発熱する小さな端末からじわじわと喜びがこみ上げてきて、慌てて携帯電話をポケットにしまった。
***
風呂から上がり、髪を乾かして、あとは寝るだけ。鬼道はアイボリーのチェック模様が透かし織りになっているパジャマを着て、ベッドにうつ伏せに身を投げ出した。携帯電話を操作して、メールボックスを開く。逡巡してから、不動にメールを打った。
[本日はご足労いただきありがとうございました。サッカー部にとって、とても良い刺激になり、彼らはたくさんのことを学ぶことができたと思います。大したものではありませんが、後日謝礼が届くと思います。お納めくだされば幸いです。今後のご活躍をお祈りしております。鬼道有奈]
さらりと読み返して誤字脱字がないか確認し、しれっと送信ボタンを押す。彼女にしては珍しく、やってしまった直後に、決壊したダムみたいに色々な後悔が襲ってきた。
迂闊にメールを送ってしまった! 文面がおかしい気がしても、もう直せない。しかも今は二十三時を過ぎたところだ、失礼ではないだろうか。もしかして健康的なサッカー選手はもう寝ているかもしれない。そうしたらこのメールの着信音で起こしてしまうかもしれない。いいや大人はまだ起きているはずだという根拠の無い自信で防ごうにも、別の方向から、普通に見てくれたとしても返信が来なかったらどうする?とまた攻撃が始まる。そもそも、口でぺらぺらと言えるようなメールアドレスにしている時点で、何度同じ手を使ったか知れないと言うのに。
鬼道は携帯電話を持ったまま数分うろうろし、水を飲みに行こうか迷い、最終的にベッドの上へ携帯電話を放って、自分は隣に突っ伏した。
直後に携帯電話が鳴り、鬼道はがばと顔を上げた。
[メールありがとう。オレと話してる時くらい、肩の力抜いたら?(笑)聞かれたことには何でも答えるってわけじゃないけど、またいつでもメールしてくれよ。オヤスミ]
とりあえず十回読んだ。くだけた文章が見下しているようでとても頭に来るが、帰り際に携帯電話を奪ってまで番号を教えてくれたことと言い、彼の性格に助けられているなと感じた。まさか鬼道の心情を見抜いた訳ではあるまい、向こうも可愛い子がいるからとちょっとからかってやる気になったのだろう。
携帯電話を枕元に置いて、何とも言えない心地にひたる。いつもは布団に入って目を閉じればすぐ眠りに落ちるのに、この時は三十分くらいかかった。
***
朝から、中途半端で憂鬱になる小雨が降っていた。
影山はゆっくりとソファに腰掛ける。いつもの、彼の為に鬼道の部屋に置いたままの一人掛けソファだ。
「人を動かすには力があればいい」
「はい」
「その為には、まず己が強くなることだ……」
「はい」
シャープペンシルが軋みながら紙の上を走る音が続いた。鬼道は影山の独り言のような助言を聴きながら、経済の仕組みと反比例グラフの応用に集中していた。それ故に、影山がソファから立ち上がってすぐ後ろに立っていることに気が付くのが遅れた。
「鬼道」
ビク、と肩が動いたのを、影山は気付いただろう。集中していたからという言い訳が通用しないのは、既に分かりきっている。どんな状況でも冷静さを失わぬようにと教えられた、それなのに。そんな鬼道の心中を見透かすかのように、影山は低い声で囁くように尋ねた。
「何も異常は無いか?」
鬼道は後ろの影山を見ようとしたことを示すため、横を向く。エントランスの柱時計が、遠くで響き始めた。
「はい」
自然に答えて、付け足す。
「なぜですか?」
肩が動いてしまったことで、鬼道はより注意を払うようになっていた。そのため、影山がその肩に手を掛けても、それほど驚きはしなかった。
「何も無いならそれで良い……だが、最近のお前は、どこか上の空に見えることがある」
肩に掛けられた手がゆっくりと撫でるように背中を滑り、腰に辿り着く前に止まって、鬼道はぞわりと血液が逆流するような感覚に襲われた。こんなのは初めてだ。
「杞憂だったな」
大きくて冷たい手は離れ、影山は部屋を出ていく。
「ありがとうございました」
慌てて立ち上がり、後を追う。階段を下りながら、広い背中が何を考えているのか分からず混迷に包まれた。
部屋に戻って、携帯電話を開く。メールが来ていたが、佐久間からだった。週末のことなんて、今は考えたくない。ふうーっと大きく息を吐き、その下にある、昨夜のメールを開いた。返信ボタンの上を、整えられた爪のつやめく親指が迷い、鬼道はしばらくその小さな画面を眺めていたが、勢い良く閉じて再び机に向かった。雨は強くなってきたようだった。
つづく
2014/09
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki