<眠れぬ森のツンデレラ 第四話>



久しぶりに胸の奥が疼いた。中学の時、同級生とその場のノリで付き合い始め、初体験を済ませて何故か自然消滅した後は、虚しくなってサッカーに打ち込んだ。プロリーグで名前が売れるようになり、黙っていても女が寄ってくる状況が楽しかったが、しばらく遊んでやはり虚しくなった。
幼い頃、職を失ったというだけで父を蟻以下に罵倒した母のことなど思い出さないが、きっと心の底に残っているのだろう。好きで始めたサッカーを極めたくて上京したはずなのに、ここへ来て行き詰まっていることも負担になっている。男という生き物は意外と重圧に弱い。自分だけじゃないはずだ、成功者と呼ばれる人間は皆、どん底まで落ちて這い上がっているじゃないか。そう言い聞かせても、体は言うことを聞かない。
そんな時、彼女の強い瞳に見惚れてしまった。華奢で小さいのに凛として、山頂の岩場に咲いている希少な美しい花のようで、誰しもが惹かれるのだろうと思いながら手を伸ばす。実に愚かで滑稽だ。
不動はソファにどさりと腰を下ろす。日課のランニングと筋トレを済ませ、掃除も洗濯もして、昼を食べ、することがなくなってしまった。何か映画でも観ようかと思ったが、外出した方が良い気もする。何となく、テーブルに放置されていた携帯電話を取り、メールを打った。
[今何してる?]
今なら昼休みだろう。5分くらい経って返事がきた。
[こんにちは。私はこれから生徒会です。不動さんは何をされているんですか?]
きちんと返事をくれ、尚且次の会話へ繋げてくれていることが嬉しくて、口元がゆるむ。
[オレ?今日は洗濯してシーツ替えたよ。]
どうでもいいことを返して笑いを取る。
[暇なんですか?練習でお忙しいものだと思っていましたが。]
笑ってくれたかどうかは分からないが、皮肉が返ってきたということは冗談が通じるのだろう。同じ皮肉でも可愛くない後輩とは大違いだ。
[一流になると、ちょっとの練習で事足りるんだよ。]
昼休みは終わってしまったので、もう返事は来ないだろう。不動は携帯電話をテーブルに置き、大きく体を伸ばしてソファに背を預けた。
「高校生ならまだしも……やべェだろ」
自分の弱さに笑えてくる。目を閉じて、長い息をゆっくり吐いた。



***



一週間が経った。あれ以上親しくするつもりはなかったのに、不動からメールが来るとつい返信してしまい、今ではすっかりメル友とやらになっていたが、鬼道は自分がどういう状況に置かれているか今一つ理解できていなかった。
あの若い男がプロのサッカー選手とは言え、自分の立場と容姿(これについては意見があるが、実際に容姿で得をしたことが多いのでここは素直に両親に感謝しておく)を見てすり寄ってくる数多の賢しい大人の一人なのだと思いながら、もうひとりの自分が密かな期待を抱くのを何とか食い止めようとしていた。だけど毎日、昼休みに携帯電話を開くのが楽しみになってきている。
[有奈ちゃん、ヒマなんだけど]
また来た。ストレートな書き方につい笑ってしまう。
[私にそう言われても……サッカーの練習をすればいいじゃないか?]
[もうした。やること全部やっちまってさ、手が空いてるっつーか]
[何かしたいことはないのか?]
考えていたのだろう、少しだけ間があいた。
[んー、どっか行きたいな]
[どっかって、どこだ]
[有奈ちゃんはどこ行きたい?]
ここでしばらく鬼道は、どこへ行きたいか真剣に悩んだ。
[思い付かないが……強いて言えば、海が見たいかな]
これに対する返信も、少し遅かった。
[海は臭いし寒いので。水族館でどうでしょう?]
[どういう意味だ?]
意味を知りたくて急いで送信してしまった。期待していると思われるかもしれないと、ひとり慌てるがもう遅い。だが返事も早かった。
[土日に出てくるの大変そうだから、金曜日の夕方ならいいか? 改札で待ってるぜ]
期待通りの内容に、思わず胸元で携帯電話を握り締める。だいぶ考えてから、とりあえず[わかった]とだけ返した。詳しいことはまたメールをやり取りすればいい。それより、もう一度会える……そのことが嬉しくてたまらない。携帯電話とワルツを踊りたいほどだった。以前授業のために読んだ歴史小説では、こうした胸の高鳴りを恋と呼んだ。これが恋というものなのだろうか?
「ふん、……くだらんな」
かわいらしく鼻を鳴らして、鬼道は呟く。これも人生経験の一環、少し年上の男またはプロのスポーツ選手として、色々と教えてもらうことがあるだろう。鬼道財閥の令嬢たるもの、人脈と人付き合いは何よりも大切にしろと教わっていた。そんなことを考えながら、幼い頃行ったきりの水族館へ思いを馳せる。彼女は気付いていなかったが、既に鼻歌を歌い出したくなるほど顔がゆるみ始めていた。



***



金曜日は朝から曇っていた。しかし適度な気温と風量で、雨も降らない様だ。「用事があるから」と友達を置いて先に帰るのは造作のないことだった。家とは反対方向に向かう電車に乗り、指定された駅で降りる。改札には既に、待ち人の姿があった。
相変わらずのくせ毛を首の後ろで結っていて、アンカーの描かれたアメリカンネイビーなグレーのTシャツに薄い紺色のパーカーを羽織り、長い袖を肘まで捲っている。涼しげな目元は鬼道を見るなり、半月型に細められた。
「よっ。なに、制服で来たの」
「まずいのか? ……あ」
「まずいだろ」
うっかりしていた。と言うか、早く行かなければと気持ちが逸ってしまい、服装まで気がまわらなかった。制服ならとりあえず大丈夫だろうと思っていたこともあるのだが、誰かに見つかると面倒だし、見た目も怪しく捉えられかねない。そういうわけで、まずは目についた駅ビルに向かった。
「これとかどう?」
「は……派手すぎるだろう」
「あれは?」
「スカートが短い」
「だよなァ」
目移りしながらフロアを回り、不動が選んだものを尽く無視して、とても9,800円には見えない落ち着いた色合いとデザインのチェックのワンピースを見ていたら、不動が買ってくれた。深いグリーン基調の色合いと、丸い白襟が可愛かったのだ。自分のものは自分で買うと言って食い下がったが、彼は「お小遣いの使い道とか、聞かれたら面倒だろ?」と余計な心配をしていた。試着してタグを切ってもらい、そのまま店を出る。やっと周囲に溶け込んだ鬼道は、庶民の買い物ができて内心喜んでいた。
「似合ってんじゃん」
「……当たり前だ」
それから他愛ない話をしながら歩いた。会う前は何を話せばいいのだろうと悩んでいたことなどすっかり忘れて、気付けば笑っている。お喋りというタイプではなく放っておくと口数の少ない鬼道だが、不動がうまく話の流れを作ってくれている。今までの女性との付き合いの中で得たスキルなのだろうと思いつつ、純粋に楽しかった。



水族館は空いていた。不動がチケットを買って、渡してくれる。まだ幼稚園を出たばかりの頃、父と母に連れられて、春奈と4人で来た記憶がおぼろげに残っているが、改めて見ると思っていたより狭く、天井が低くて、カラフルな魚たちと珍しい水棲生物が沢山いた。
「こいつ、マヌケな顔してんなァ。ひょっとこみてェ」
不動のくだらないコメントに苦笑しながらひと通り見て回った時、水槽フロアから外に出ると、柵の向こうに繊維強化プラスチックでできた小さな岩山とプール付きのエリアが見えた。
「あ……ペンギン」
「ペンギン?」
思わず呟いた小さな声に、不動が反応する。決して広いとは言えない柵の中で暮らすツートンカラーのケープペンギンたちは、大都会の真ん中だとも知らず気ままに暮らしているようだ。
「おお、すげーいっぱいいるなぁ」
不動も三十羽以上いるペンギンたちに驚いているようだ。こんなところ何度も来たことのあるお決まりのデートコースなんじゃないかと勘ぐっていた鬼道は、やや思考に混乱が生じた。
小さなペンギンたちは泳いだり、歩いたり、立ったままだったりと思い思いに行動していて、その中の数羽が鬼道を見て寄ってくる。彼らのつぶらな瞳にどうしようもなくなって、鬼道は不動に自分の携帯電話を差し出して頼んだ。
「あの、写真を撮ってもらえないだろうか? 私を入れて……」
プールの中がよく見える仕切りの前にしゃがむ鬼道から携帯電話を受け取って、不動は面白そうに微笑んだ。
「なに、初デート記念?」
「でっデート?」
さっき自分でもうっすらと考えていた単語が出てきて、思わず声が大きくなってしまった。動揺が怒りに映ればいいが、どちらにせよ不動は楽しそうにしている。
「これってデートじゃん?」
頭脳明晰で通っている鬼道が、珍しく狼狽し、返答に困った。辛うじて声を絞り出す。子供だからって、からかうのはやめてほしい。
「お前は恋人じゃないだろう……」
「まー、そうだな」
不動は肩を竦めてしゃがみ、携帯電話を構えた。
「ハイ、撮るよ。一足す一は?」
カメラ用の笑顔なんてお手の物だったはずなのに、鬼道はこの時だけは、どうしても笑うことができなかった。
「二……」
機嫌が悪いと思ったのか、不動は猫なで声で携帯電話を差し出す。
「さぁどうぞ、ツンデレおひめさま」
それを聞いて、鬼道は恥ずかしい反面、少しがっかりした。
「その言い方はやめろ」
「何で? ツンツンだから? オレにもデレてよ」
「そうじゃなくて」
特別扱いなんて望んでいないのだ。素のままの自分とコミュニケーションをとってほしい。そう思いながら鬼道は、どうせ彼も他の人間と同じように立場や容姿で見るのだろうと、期待を捨てた。
「私はお姫様でもお嬢様でもない……」
立ち上がって、ペンギンたちを眺める。窮屈な檻の中で、彼らは決まった時間に餌を与えられ、大勢の人間の目に晒される。急に切なくなって、鬼道はペンギンたちから離れた。
「そろそろ帰らないと」
時計を見て歩き出すと、不動が追いつく。あらかじめ、門限より余裕に帰れるタイムリミットを伝えてあった。
「何だよ、メシくらい……って、無理か」
不動は苦笑したあと、水族館を出て改札に着くまで、行きとは違って黙ったままだった。
「じゃ、またな」
「あ、ああ……」
また会えるのだろうか。不動は困っているような笑みを浮かべていた。その背は帰宅ラッシュに呑まれ、すぐに見えなくなってしまう。デートだか何だか知らないが、こんなんことは二度とできないと思いつつ、今日の密会はなかなかスリルがあって面白かったと喜ぶ自分がいる。
駅のトイレで再び制服に着替え、買ったばかりのワンピースを参考書の脇に詰め込んで、知り合いがいないかどうか見回してから電車に乗った。スパイ活動のようで、不謹慎だと思いながらドキドキした。
メイドも父も普段通りで、誰からも何も言われず、ほっと胸を撫で下ろす。家に帰ってから、不動のツッコミどころ満載のメールが来た。
[今日はオレのわがままに付き合ってくれてありがとう。洋服は分かるけどペンギンはわかんねぇわ。今度ペンギンの可愛さについて教えてよ。オレはこれから独り寂しく飲んで帰る予定]
さっきペンギンのプールの前で言われた言葉を思い出した。撮ってもらった写真を改めて見ると、恥ずかしいのを必死に耐えていて、カメラを睨んでいる自分が映っていた。なんと返事を書こうか考えながら、ベッドに火照った顔を埋める。不動がこちらにかける負担を減らし、できるだけ後で面倒にならないようにしているのが言葉の端々から汲み取れたし、またこういった刺激が自分にとって良くないことも、重々分かっているつもりだった。



***



ずっと違和感があった。ただならぬ女子中学生、ただならぬ財閥令嬢ではないとは分かっていたが、何か自分と似たような部分がどこかにあるような気がしていたのだ。それはきれいに整えられていて、矯正された仕草や言葉のなかに、凡人は気付かないほどほんのすこし混じっていて、不動の潜在意識が反応したのだった。
先ほどの、彼女の台詞が頭に引っかかっていた。
――私はお姫様でもお嬢さまでもない……。
何故か妙に気になって、ズルだとは思いながらも本人に聞くわけにはいかず、パソコンを開く。名前で検索をかけると、当然のように彼女にまつわる中で一番注目度のある話題がずらりと並んだ。
鬼道家の諸事情は情報好きたちの手によってあちこちに書かれていた。五歳で妹と共に鬼道家に引き取られる前は、両親が事故で亡くなり身寄りがなくなったために施設で暮らしていたことまで、誰かが調べている。普段なら、まだ十四歳の少女の華奢な双肩に掛けられた重圧をやたらと悲劇的に煽った記事など反吐が出るのだが、不動は今まで感じていた疑問が解けて腑に落ちたと共に、湧き上がったある考えに侵されてその他のことはどうでもよくなった。
そもそも本気になってはいけない相手だと知りつつも、惹かれていると自覚していた矢先に、可憐な少女は姫と言うより一般家庭で普通に暮らしていた娘だったと知って、親近感が湧かないはずがない。ただでさえ屈強な精神を必要とする立場であるのに、その心にかかる負担はどれほどのものだろう。自分がそれを減らしてやれたらと、できることは何か考えながら眠りについた。


つづく







2014/09

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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki