<眠れぬ森のツンデレラ 第六話>
都心からちょっと離れた住宅街にある、寂れたマンションは五階建てで、辛うじてエレベーターがついている。廊下の壁はペンキがはがれ、蛍光灯は一つ切れており、蜘蛛の巣が張っていた。不動は五階の一番端にあるドアの鍵を開け、鬼道を先に通した。
「今、なんか飲み物持ってくる。こっち来て適当に座ってな」
鍵を玄関脇の下駄箱の上へ放り、鬼道の横を通ってさっさと奥へ行く。冷蔵庫のキンキンに冷えたスポーツドリンクはやめて、箱から常温のミネラルウォーターを取り出して蓋を開けた。
「鬼道ちゃん?」
なかなか来ないので、玄関まで戻る。鬼道は靴を履いたまま立っていた。鞄や足はともかく、制服から水が滴っているような状態で、上がるのを遠慮しているらしい。
「その……」
「ああ……拭くものが先だな」
洗面所のハンドタオルを持って戻ると、鬼道がくしゃみをした。
「ほれ」
「すまなぃ――っくしゅん」
「いいから早くこっち来いよ。靴下も脱いじまってさ」
言われた通りにして、水気を拭いた足でぺたぺたとフローリングを歩いてくる。居間のソファに座らせ、ジャージの上着を脱いで小さな肩にかけてやった。
「すまない、これから楽しく飲み会だったんだろう」
「いーって別に。いつでも飲んでる連中だし。どうせまたやるだろ」
「だが……」
「で? お嬢様は突然の家出? いや、別に理由とかオレに言う必要ないけど」
鬼道は困っているようだった。妙な空気にしたくなくて、からかってみる。
「悪いコやってみたかった、とか?」
鼻先で笑うと、睨みつけられた。
「うるさ――っくしゅん!」
湿った制服が体温を奪っているのだ。不動は気付かれないよう静かに深呼吸して、一番冷静な考えを手繰り寄せた。
「しょうがねェな……それじゃ風邪ひいちまうから、ちょっと風呂入って温まってこいよ。着替えは……オレのしかねーけど、いいか?」
「あ、ああ……すまない」
口数が少ない気のする鬼道は、風呂場へ向かう不動の後からおずおずとついてくる。そこで待たせ、タンスをひっくり返してほとんど着ていないYシャツと買ったばかりであまり着ていないジャージの上下を持って戻り、洗いたてのバスタオルと共に渡した。
「これ。全部キレイだからさ。風呂溜めてねぇけど、シャワー熱めにして浴びれば温まるだろ」
「すまないな……」
不動はすぐに居間へ戻ろうとしたが、鬼道がドアを閉める前に振り返った。
「あ、それとさ。オレには謝ったって意味ないぜ。何かしてもらったら、違う言い方があンだろ?」
「あ……」
鬼道は一瞬きょとんとしてまばたきしたが、ふわりと、花が陽光に照らされた瞬間のように微笑んだ。
「そうだな。……ありがとう」
ドアが閉まって、しかし不動は立ち尽くしていた。
「……いやいやいや。ねーよ」
頭を振り振り、居間へ戻る。学校から「家に帰りたくない」と電話が来て、あの様子では何も食べていないのだろう。自分も昼から何も食べていないので、二人分の夕食を作ることにした。料理に集中すれば、余計なことを考えなくて済むかとも思ったが、それは見当違いだった。
服を脱ぐ時はさすがに緊張が強くなったが、何も起こらなかった。不動に借りたシャツとジャージは、知らない人の匂いがした。洗剤と、タンスの中にしまってあった服の匂いに紛れて、微かに漂うその人の匂い。知らないのに、 洗剤の臭いも強くなく、なぜかあたたかくて安心できた。
脱衣所兼洗面所のドアを開けると、廊下に良い匂いが漂っていた。空腹感を思い出しながら居間へ行く と、キッチンに立っている不動の後ろ姿が見えた。
「良い匂いだな」
「おう、もうすぐできるから待ってな」
人 間が乗ったら壊れそうなほど簡素な白くて小さいテーブルとセットの椅子が、この家のダイニングなのだろう。鞄を探すと、ソファの上に置いたままにしてあっ た。中身を取り出して床に並べ、鞄を逆さまにして乾かす。走っている時は濡れないように抱き締めていたから、それほど被害はない。携帯電話を見ると、春奈から三件のメールと一件の着信履歴があった。とりあえず全部開いてみたが、返信はためらう。帰りの遅い姉を心配する内容で、妹には悪いと思ったが、それによって事態がややこしくなるのはもう少し後にしたかった。
「おーし、できたぜー」
狭いテーブルに皿を二つ置いて、金属のぶつかる音がする。携帯電話を置いて戻り、椅子に座ると、不動がスプーンを置いた。湯気をたてる薄黄色の楕円には、真っ赤なケチャップが網目状にかけてあった。不動が反応を見守りながら、口元を歪めているのが視界の端に見える。
「もしや……」
あまりきれいな見た目ではない卵をスプーンで切り崩すと、中にはケチャップ味のチキンライスが盛ってあり、卵は硬めの半熟で、切ったところから崩れていった。既に一口目を咀嚼した不動が言う。
「見た目はアレだけどうまいぜ」
「いただきます」
「どーぞ召し上がれ」
確かに絶品のオムライスを口へ運びながら鬼道は、一人で暮らしていると「いただきます」も言わないのかと、目の前の男をちらちらと探った。部屋はそこそこ片付いているし、掃除もされているようだ。こんなに美味しい料理が作れるのなら、彼女がいてもおかしくない。そんなことを考えていたら、あっという間に食べ終わってしまった。
「ごちそうさま」
「ハイ、お粗末さま。……キレイに食べたな」
「パセリがあると良かったな」
「生憎、そんなシャレたもんはございませんので」
彼独特の皮肉っぽい口調が面白くて、つい笑ってしまう。甘えてばかりでは悪いので、洗い物をした。いつ割れてもいいような、安物の簡素な食器や調理道具。そういえばこの家は、あまり生活感が無い。家具も簡素だし、置物や変なカレンダーも掛かっていない。誰かが住んでいるが、誰だか見当がつかないといった風で、まるで個性が無いのだ。彼が日本にいる間しか使っていないのだから、仕方ないのだろう。そう考えると、彼の本来帰る家があるとしたらどこなのだろうと気になった。
不動はドライヤーを貸してくれた。ソファに座って髪を乾かすと、温風が気持ち良い。不動はテレビをつけて、ニュースなら無難だろうと思ったのか小さめの音で流した。
「……さっきからなんか、随分雰囲気違うと思ったら、髪の毛か」
「うん? ……ああ、」
髪は洗ったわけじゃないが、乾かすためにさっきから下ろしていることを言ったのだろう。しかし不動はそれ以上、何も言わなかった。
髪が乾いた後、不動は制服にもドライヤーを当てて乾かした。
「服が乾いたら着替えて帰れよ」
「なぜだ? 私が居ては迷惑なのか」
「別に迷惑じゃねェけど……帰った方がいいだろ。それとも何、マジで帰れない理由でもあんの?」
「そういう訳では……」
答えてしまった後で、嘘をつけば良かったのかもしれないと思った。乾いた制服を簡単に畳んでまとめる不動の横顔を見つめて、精一杯低く出る。
「もう少し……居てはダメか?」
「ダメ」
即答されて、カチンときた。リモコンで耳障りなテレビを消し、床に座っている不動の視界に入るように、体を縮めて目線を下げる。
「なぜだ」
不動はドライヤーをローテーブルに置いて、立ち上がった。はぁと溜息をひとつ、怪訝な顔の鬼道を見下ろして、何とも言えない表情を浮かべている。
「なぜだって? 後悔するからさ」
そう言って不動は、ソファに膝を乗せ、鬼道に覆い被さるようにして体を倒した。強い力で手首をソファに縫い留め、首筋に鼻息がかかって、太腿の辺りの布地が引っ張られる感覚に危険信号が点滅する。
「ゃ……!」
ぎゅっと目を瞑った一瞬で、猛獣の檻が閉じた。不動はゆっくりと上体を起こし、長い吐息をはく。
「ふ……ふどう……?」
「……なんてな。結構ビビっただろ? 男ってのはエロい事しか考えてない、野蛮な生き物なんだよ。分かったら帰ンな。そろそろ、遊ぶ時間じゃなくなってきたぜ」
そのことを教えるためにわざとやったかのような軽さで、不動は笑う。鬼道は何か言いたかったが、うまく言葉が出て来ない。心臓が異常なくらいドキドキしてい るが、何が原因なのだろうか。不動は立ち上がってキッチンへ水を飲みに行った。つられるように、ゆっくりと起き上がる。
「電話すりゃ、誰か迎えに来てくれんだろ?」
黙ったままの鬼道に、遠くから話しかけてくる。気まずくならないように飲んだ水の味は、どんなものだろうか。
「鬼道ちゃん? なんなら、オレが電話してやろうか」
「……いい、自分でする」
楽しい気分でもないが、かといって泣きたいわけでもない、奇妙な空気に包まれて、鬼道は携帯電話を握りしめた。男女の営みについては、保健体育で学んだこと以外はほとんど何も知らないと言っていい。引き取られてから箱に入れられて育った上に、今まで恋愛などしたことがなく、考えたこともなかった。小説は歴史ものしか読まないし、漫画やアニメは興味が無い。友達と恋愛の話なんて、したことがない。どうやって子供が出来るかは知識として知っているが、なぜコウノトリが必要ないかについては敢えて考えたことがなかったし、考える必要もなかったのだ。
わからないことだらけで混乱が混乱を呼んでいたが、ごちゃごちゃした思考に埋もれて、ひとつだけはっきりしていることがある。しかし今の鬼道は、それを整理して考えられるほど冷静ではなかった。
つづく
2014/10
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki