<眠れぬ森のツンデレラ 第八話>



日曜の朝。パンケーキと搾りたてのオレンジジュースが美味しくなくて、思いきって電話をかけた。コール音が4回続き、二つの空間がつながる。
『ハイ』
「ぁ……、私だ。いま、大丈夫か?」
久しぶりに聞く声に、どうしようもなく胸の奥が疼く。
『んぁ、ああ。大丈夫だけど……どうかしたの』
どこかうわの空のような声が応える。鬼道は不安になって、思わず胸元に寄せた空いている片手をぎゅっと握った。
「その……最近、連絡が無いから」
『ああ……いろいろ、忙しくてね。まぁ、ぼちぼちやってるよ』
「そうか……なら、いいんだが」
電話の向こうからは、何の音も聞こえない。部屋にいるのだろうか。何をしていたのだろう。
『んで? なんか用?』
「いや……この間のお礼がまだだから、食事でもどうかと、思ったんだが……」
鬼道の明晰な頭脳がフル回転していることなどつゆ知らず、不動は面白そうに軽く笑う。
『いーよ、そんな気を遣わなくて』
「だが……」
残念ながら、会う口実が今は他に思い付かない。困っている様子が伝わったのか、不動は言った。
『そうだなァ、じゃあ予定見てまた連絡するよ』
「ああ、そうしてくれ。私は大体いつでも、大丈夫だから……」
『そうなの? 鬼道ちゃんの方が忙しそうなカンジ』
軽く笑う声が心地好く耳を撫でる。
「そうでもない」
誤解をされているなら、解きたい。思い違いがあるなら無くしたい。だがもう時間が足りなかった。
『んじゃ、またな』
「ああ……それじゃ」
終話ボタンを押す前に声は聴こえなくなってしまった。鬼道は携帯電話を閉じ、ベッドに突っ伏した。不動はずいぶんと素っ気なかった気がする。結局、大人なんてこんなものなのか。
思春期の少女が成人を過ぎた男に憧憬を抱くのは、よくある現象なのだろう。色々なことに興味を持ち始めたのに行動範囲は不自由な学生の身からすれば、自由に歩きまわり人生を謳歌しているように見える大人は羨ましく、憧れの対象となる。
鬼道は急に腹立たしくなってきた。憧れ?憧れが何だというのだ。あんな男のどこに憧れるような要素があるのか。ただの落ちこぼれたサッカー選手じゃないか。同じサッカー選手なら、円堂選手や豪炎寺選手の方が何千倍も格好良いと思う。
確かに自由ではある。が、せっかくの自由も、泡沫の幻では意味が無い。いっときの幻影にうつつを抜かしていた自分が馬鹿だった。そう思ってはみたものの、どうも違う気がして納得できない自分がいる。そんな単純な理論に当てはまらないものではないのか。



***



鬼道はいつも、しっかり体を洗ってからゆっくり湯船に浸かる。一日の疲れが熱すぎずぬるすぎないたっぷりの湯に溶けていき、血液循環がよくなるのを感じて、彼女はやっと力を抜くことができるのだ。
静かな密室に小さな水音が響くのを聴きながら、一日を思い返していた。一日経ったが、メールはまだ来ない。月曜日の学校はいつもと変わらず淡々と時間が過ぎ、佐久間は新しい必殺技を編み出そうと躍起になっていた。ひとつ違ったことは、影山が手を肩に置いたとき、今日はそれほど不安や抵抗感が無かったことだ。きっと勝手な思い込みだったのだと安心したはいいが、今度は別の問題が浮上する。
顎を引いて見下ろすと、膨らみ始めた胸があった。こんな体に誰が魅力を感じるというのか。両側から思いきり寄せてやっと、谷間ができるような胸に。もしかして、最初から相手にもされていなかったんじゃないか。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「ん?」
また、長く入りすぎてしまっていたようだ。いつものように、洋服を着たままの春奈が来て、濡れていない壁に寄りかかった。妹はたまにこうして入浴中に遊びに来る。
「あんまり長いから、お風呂で寝ちゃったかと思った」
「すまない……」
「もう。誰のことでそんなに悩んでるの?」
「え? な、なぜ分かるんだ……」
「あ。カマかけたら当たっちゃった」
いたずらっぽい笑顔に、許してしまう。妹は皆から愛され、誰の間を立ち回るのも上手い。鬼道は小さなため息を吐いた。
「誰のこと、と言うか……自分の気持ちが分からなくて悩んでいる、気がするな」
春奈は湯船の側にしゃがんで、膝に頬杖をついた。
「気持ちって? 好きなら好きって言えばいいじゃない。結果はともかく」
「なっ……! そういう、問題では……」
あからさまに顔を赤くして動揺を見せてしまい、鬼道は観念した。春奈はにこにこしているが、姿勢が疲れたのか立ち上がった。
「私ね、思うんだ。いつ会えなくなるか分からないから、伝えられるうちに伝えておこうって」
「春奈……」
「やだ、湿っぽい感じになっちゃった? はやくお風呂出てよ、ふやけちゃうよ」
「お前もはやく出ろ」
ぱしゃっと軽く手で湯を跳ねさすと、春奈はキャーと大げさに、楽しそうな声を上げて出て行った。



***



何十年も変わらない商店街を歩きながら、自分に当てはめて考えてみる。確かにあまり変化は見られない。銀行の看板が新しくなり、交差点の角にあった布団屋が、安さが売りのメガネショップに変わったくらいだ。
自分はと言えば、摺り足で歩くのを止めた程度。先日の会談ではイタリアに戻ることは叶わず、新しい移籍先を選ばなくてはいけなくなった。
中学生の頃、河川敷へ練習に行って、皆で帰りにラーメンを食べた。そこの店主である響木は元名プレイヤーで、栄光へ気張る中学生たちの世界大会に付き合ってくれ、数々の助言をくれたものだ。擦り切れたのれんをくぐって引き戸を開けると、まだ誰もいない店内に「らっしゃい」と低いしゃがれ声が響き、驚いた顔が目に入った。
「不動じゃねぇか。具合が悪いって聞いたが」
「ああ、腹減って死にそう」
円堂たち仲間はいつものように飲みに行っている。誘われたが具合が良くないと返した。響木は全てを理解し、困ったような苦笑を浮かべる。
「こいつ」
カウンター席に座り、黙々としょっぱい麺を啜った。ここへは滅多に来なくなったが、来れば何か、行き詰まっている状態からリセットできるような気がしていた。
空になったどんぶりを置き、一息ついて尋ねる。
「いくら?」
響木は振り返って、腰に片手を当てた。
「要らねぇよ。とっとと帰って寝ろ」
「はぁ? ……潰れンぞ」
「お前よりは稼いでる」
不動は思わず微笑んだ。
「あ、そ。ごっそさん」
ようやく立ち上がった肩に声が掛かる。
「不動」
「ん?」
海賊みたいな小さなサングラスの奥から、優しい目が見ていた。
「良い目になったな」
褒められるといつもなら、さぁどうだかなどと皮肉を言うところだが、今は礼をするつもりで、頭を下げるのと肩を竦めるのとが混ざった。
国内でやっていくのは、ある意味では楽だ。だが失うものもないし、定住する場所もない。不動はラーメン屋の外に出て、空を仰いだ。紺色から淡い赤へグラデーションが見事に広がっている。あとは、行くだけだ。執着を捨て、迷いを捨て、持って行くのはたった一つだけ。



***



鬼道は父の書斎が好きだった。歴史を駆け抜けてきた各著名人の自伝、ニーチェの全集、各辞典、経済学の本、一部の信頼のおける成功法則などがずらりと並んでいて、それらに囲まれているだけでも落ち着くことができる。
側へ近付くと、遠い昔の戦争を生き抜いた将校の話から顔を上げてくれる。その顔色を窺いながら、鬼道はおずおずと口を開いた。
「今度、夕食を外でとって来てもいいですか?」
娘が珍しい質問をしてきたので、父は老眼鏡を外して、少し考えた。
「座りなさい」
ソファに座らされ、父は隣に腰を下ろす。
「どうしたんだね? 改めて聞くなんて。なにかあったのか」
答えない訳にはいかず、鬼道は開きにくい口から何とか言葉を絞り出した。
「許されないと、思ったから……」
肩に乗せられた大きな手が温もりを伝える。父は無言で先を促した。
「私は、父様に返すご恩があります。何度もやめようと思いました……でも、これだけは、どうしても変えられないようなんです」
父は真剣に聞きながら、頭のどこかで、低次元のかわいい話であると希望を抱いているような微かな笑みを滲ませ、同時に深刻な事態へ備えての緊張を含んだ声で尋ねた。
「何の話だね?」
俯いたまま、ぎゅっとスカートの端を握り締めて、出てきたのはか細い声だった。
「お付き合いしたいひとがいるんです……っ」
鬼道はできるだけいつものやわらかい表情を保とうとしながら、そんなことはできるはずがないと知り、父が何か言うのを待つ。だが意外にも父は考える素振りを見せ、できるだけ冷静になろうと努めながらこう言った。
「ム……そ、そうか……」
ごくりと唾液を嚥下した音が、静かな部屋で自分にだけだがやたらと大きく聴こえる。父は少し間を置いてから、ふーっと安堵の溜め息をゆっくりと吐いた。
「まぁ……おまえも年頃のむすめだ、そういうこともそろそろ……あるだろう」
歯切れの悪い父は、義理の娘を見て気まずそうに何とか微笑んだ。
「夕食を誰かと食べてきてもいいが……帰りは遅くならないようにしなさい」
「は、はい」
父はどこかぎこちない動きになりつつ、「風呂でも入るかな」などとわざとらしい独り言と共に、鬼道を残してゆっくりと去っていった。
嬉しくてたまらない。自分が無敵になった気がして、父に認められていることを実感できて、喜びで満たされていた。



***



サッカー部に所属していなくても、男子の話題はサッカー関連が多い。教室でサッカー部員を囲んだ数人の男子が、熱い声で話しているのが聞こえた。
「なあ、聞いたか? 不動の移籍!」
「え?」
鬼道は何も言わないでいたが、その名前を聞いて、今まで帰り仕度をしていた手が止まった。
「イギリスだってよ! すげーよなぁ」
「言っただろ、故障はデマだって!」
「何言ってんだよ、一部から二部へ格下げじゃねーか。何でJリーグに入らねんだろ」
「国内の二部よりイギリスの二部の方がいいじゃん」
意識が奪われていると知りながら、彼らの会話に耳を澄ませる。机の上に置かれたままのペンケースが怪訝な顔をした。だが帰り仕度など、今は手に付かない。
「んでまた、一箇所に留まらない理由がすげーよな。"勝利の女神に手は届かないけど、いつか届くつもりでやれるだけやる"とか」
不安と後悔でいっぱいになっていた鬼道の心に、一筋の希望が差した。
「うおおカッコイイー!」
「はぁ? そういうのを、負け犬の遠吠えって言うんだよ」
確かめなければ。もう盗み聞きしている場合ではない。鞄の底に埋もれていた携帯電話を引っ張り出す。やはり何の着信もない。鬼道はメールボックスを開き、新しくメールを打とうとして、ふと手を止めた。携帯電話は再び鞄の底へ落ちていく。傍から見れば、騒がしい教室の中で彼女はただ茫然としているだけのように見えたが、その脳内では目まぐるしく思考が回転していた。数十秒、彼女は荷物をまとめて風のように教室を出て行く。推測ばかりの現実が、足下でぐらついている。だから、急がねば。鬼道はわずかな可能性と、信じる真実へ向かって走り出した。




つづく




2014/10

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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki