<眠れぬ森のツンデレラ 第九話>



金曜の朝、少し早く着いた学校で真っ先に向かったのは総帥室だった。ちょうどやってきた影山が、中に入って鞄を置くのを見守る。
「おはようございます、総帥」
「おはよう」
「土曜日ですが、用事ができたのでお休みさせてください」
土曜日はいつも、総帥自ら家まで来てくれる日だ。無表情な面長の中で彼は、片方の眉をよく見なければ気付かない程ほんの僅かに上げ、すぐに戻してから言った。
「一日休んだところで、どうということはないだろう」
これが彼の返事の仕方だ。安堵した鬼道は、少し微笑する。
「総帥も、たまにはゆっくりお休みください」
「心配ない。休みなら十分取っている」
鋭い答えも、無駄のない彼ならでは。思考の詰まりをひとつ解消して退室しようと向けた背に、ゆったりとした低い声が掛かる。
「だがしかし……お前の用事とやらが些か、気になるな」
足を止め、鬼道はやや動揺しているのを自覚したが、もう迷いはなかった。
「その……もう二度と会えなくなるかもしれない人に、一言だけお別れを言いに行きたいんです。またいつか、会えるように」
「ほう」
振り返ると影山は、サングラス越しに本棚を眺めていた。ポケットに片手を入れ、いつものように。
「くだらん理由だな。お前は特別だと思っていたが……、私を失望させるのか?」
今までの自分ならきっと、激しく動揺し、優等生でいるための答えを探して迷路を駆け抜けただろう。だが、もう心は決まっていた。
「低俗な感情はくだらないでしょう。――でも、そうじゃないものもあると思います。何よりも大切な、手離してはいけないものが」
ただの浮ついた感情なのか、低俗な関係なのか、確実な保証はないが、鬼道は希望を持っていた。きっと自分の求める答えを不動が持っていると、無意識に信じていた。
「失礼します」
自然に微笑んで、ドアを開ける。影山は微かに鼻を鳴らしたが、それは土曜日の予定が狂ったことと、一番手をかけている教え子が特別授業を休むという二つの些細な不満から来ていると同時に、どこか少し満足そうでもあった。

与えられるばかりでなく、自分で見極め選択していくことで幸せを掴む。そのことに気付かせてくれた、それだけでも大切な存在だというのに。まだ若いから、経験が無いから、判断を見誤ることもあるだろう。だがそれを踏まえても、今抱えている想いは特別なものだと感じた。
不動のそばにいると安心できた。彼は眠れる森の住人ではなく、共通する価値観を持っていて、話しやすくて。そして何より、心から笑わせてくれた。今まで春奈しか入れさせなかった場所に、簡単に足を踏み入れた彼は、陳腐な言葉で表現できるような存在ではない。だが急がなければ、取り返しのつかないことになってしまう。鬼道は冷静を保とうと大きく息を吸い込みながら、歩を速めた。



***



荷造りは来た時と同様、簡単に終わった。残しておいた家具や服、雑貨、持っていけないものは全て廃棄手続きをしたからだ。数年間、住んでもいないのに主人を待っていてくれた部屋には、愛着があるのかどうかも分からない。
最後に、携帯電話を手に取る。風丸から応援のメールが来ていた。几帳面で真面目な親友は、日本へ帰ると聞いてから兄弟のように心配してくれている。有り難いと思いつつ、自分でもどうしようもないところまで来ているので、放っておいて欲しいと思うこともあった。
簡単に返事をして、電話帳を開き、名前を探す。通話ボタンを押すかどうか迷う前に、携帯電話を閉じた。
何をしたって、彼女の為にはならない。ならば静かに煙となろう。一時の夢を見させてくれただけで十分だ。少しは親しみを感じてくれたのかもしれないが、これからの数多の出会いを通して、きっとすぐに忘れてしまうだろう。
不動は廊下へ出て、ドアの鍵を閉めた。



荷物検査を通ってトイレに行き、ベンチで20分待ち、やっとゲートが開く。空港はいつも混んでいるが、エコノミーはまばらな客入りだ。これがもう数カ月後なら冬休みが絡み、大混雑していることだろう。席を見つけ座ろうとすると、後ろから声を掛けられた。
「不動様でいらっしゃいますか?」
「……は?」
「恐れ入りますが、不動様のお席は変更させていただきます。こちらへどうぞ」
こんなに空いているのに、ダブルブッキングは考えられない。
「えっ、どういうことですか? あの……」
「さあ、どうぞ」
まさかと思いながら有無を言わさず案内されたファーストクラスの大きな椅子に、小さな姫君が腕組みをして座っていた。
どこかで見たことがあると思ったら、水族館へ行った時に買った緑のチェックのワンピースだ。その上に紺色のカーディガンを羽織り、編み上げの茶色いショートブーツを履いている。
「いいから座れ」
斜めに向かい合うようになっている隣の席に腰掛けると、キャビンアテンダントが屈み込んだ。
「お飲み物はいかがですか?」
「今はいいです」
「間もなく離陸しますので、シートベルトをお掛けください」
キャビンアテンダントが去って、飛行機が動き出す。離陸する際の重力の変化による動揺が収まってから、狐につままれたような心持ちのまま呟くように言った。
「随分と、大げさな見送りだな」
だが、彼女は黙りこくっている。
「よく飛行機分かったね」
ふざけたつもりはないのだが、心当たりならある。
「もしかして……怒ってんの?」
返答が無いので、膝に肘をついて目線を下げた。
「オレに用があるからこんなことしたんだろ。何か言ってくれよ」
ひそめた声で話し掛けると、赤い瞳がやっとこちらを向いた。しかし開いたかわいらしい口から発せられる声には、まだ棘がある。
「私はたまたまイギリスに用事があるだけだ。用があるのは不動の方じゃないのか」
不動はやっぱりそうかとでも言うように困ったような苦笑を浮かべて、長い息を吐いた。それから少しして、ぽつりぽつりと話し始めたのは、くだらない身の上話。
「オレさ、ガキの頃はひどかったんだ。中学辺りでやっとちったぁ認められるようになって、そんなら真面目にやろうかなって気になった。けど、今まで十年間ずっと、周りを蹴落として勝つことしか考えてなかった」
やけに饒舌になっていると自分でも驚きながら、彼女の信頼を取り戻したくて静かな声を出した。鬼道は先ほどよりやや柔らかい表情で、不動の話しぶりや指先を観察しながら聞いている。
「でもある時からかな、限界を感じてた。このままじゃ行けるとこまでしか行けねえってわかってたけど、どうしていいか分かんなかったんだよな。周りの奴らはどんどん先へ行ってるってのに、オレは……」
肩を竦め、呆れたようにため息をつく。
「で、鬼道ちゃんに会って、まぁイロイロあって……自分がどんだけ弱くて惨めか、思い知ったんだよ。知ったら、なぜか知らねぇけど、やけに気が軽くなってさ。タバコもいつの間にかやらなくなってた」
やけに気が軽くなったというのは間違いではないが、彼女のことばかり考えていたという事実を覆い隠している。鬼道はきょとんとしてしばらく考え、呟くように言った。
「私は何もしていないが」
思わず笑って、不動は答える。
「メール。くれたじゃん。毎日さ」
鬼道は怪訝そうな顔をした。
「あんなことで……まるで、そこら辺の恋愛映画にすがる若者みたいじゃないか」
「そんなようなもんだよ」
肘掛けに頬杖をついて傾けた目で真っ直ぐ見つめると、鬼道は居心地が悪そうにわずかに俯いた。だがすぐに、不満の色が差す。
「ならどうして、何も言わないで、こんな……」
言いにくそうにする鬼道に、不動はさらに口ごもった。
「あー……それは、だから……」
きらめいた赤い瞳がさっと視線を寄越す。
「つりあわねえから、名残惜しくなる前に離れた方がいいかと思ってさ……」
鬼道は顔を上げ、不可解だとでも言いたげにやや首を傾げて眉をひそめた。
「誰がそんなことを」
「オレが」
「勝手に?」
「ウン、まあ……」
雲の上の密室では、正直に答えるしかない。鬼道は唇をほんのわずかに尖らせた。
「つりあわないかどうかなんて、まだ分からないじゃないか」
「そうかァ? 十も歳が離れてて、育ちも立場も違う。価値観も違うだろ」
反論は優しい声で。鬼道は少しの間考え、さも自分は関係ないかのように小さな声で言った。
「……きっとそういう馬鹿らしいことにとらわれて、多くの恋人たちが悲しい結末を迎えるんだ。結ばれるはずだった人たちが」
それは意見でもあり、彼女の答えでもあった。不動は少し笑って、頷く。鬼道は見ていなかったが、それは意味があった。
「こんなワガママしていいんだ?」
空気を変えようとして尋ねると、鬼道はさらに居心地が悪そうにした。
「お父様のマイルが一ヶ月どこへでも行けるくらい貯まっているから、大したことはない」
「なるほど」
「……私はまだ、鬼道家の人間としての自覚が足りないと言われるからな……良い予行演習だ」
キャビンアテンダントを呼んで生搾りオレンジジュースを丁寧に頼む彼女は、民の声を聞き均衡を保とうとする聡明で立派な姫だった。



***



こんなに長時間のフライトなのだ、寝てしまおうと思っていたのに、ずっと話をしていた。不動は自分のことを話すのは苦手なようだったが、今まで見てきたものや、家族のことや、友達のことを、得意の皮肉たっぷりに、面白可笑しく話してくれた。
似たような体験や正反対の体験をしたことを思い出した時は、合間に口を挟んだ。帝国学園のことは共通の話題となり、不動も知っている古参の教員の笑い話など、くだらないことまで話題が尽きず、クラスの他の女子たちのような止めどないお喋りではないが、途切れることはなかった。


空港へ着いて、お互いの行き先を確認する。誰もいない待ち合い所で、ベンチには座らずに立ち止まった。微妙な空気をもて余して、鬼道は何でもないことのように口を開く。
「それで……いつ、帰るんだ?」
「なに、待っててくれんの?」
ポケットに手を突っ込んで格好をつけ、右側の口角だけくいと上げてみせるその顔を思い切りつねってやりたい。
「……誰が何を待つと言うんだ。私はこれからイギリスの高校へ留学して、大学へ行く。暇人の相手などしていられない」
不動は嬉しそうに笑った。おそらく、ある程度のことは予測していて、それが当たっていたのだろう。そんな笑い方だった。
「すげーな、さすが鬼道財閥のお嬢」
「精一杯勉強して、父様に恩返しをしなければならないからな。後を継ぐには、経歴だけでは足りない」
「へぇ。頑張れよ」
鬼道は背を向けて、二歩だけ離れる。目の前の窓の向こうには、真夜中の異国が広がっている。
「……だがもし、どうしてもと言うのなら、待っててやらないこともないぞ」
思った以上にぼそぼそとした言い方になってしまったが、辺りが静かなおかげで後ろにはちゃんと聞こえていたらしい。
「へえ?」
不動が二歩近づくのが足音で分かる。
「本当に待っててくれんのかな」
鬼道は振り向いて、唇をきゅっと引き結んだ。
「そこへ膝をつけ」
「なんで?」
「いいからつけ」
サプライズの内容もタイミングも知っているがわざと何も分かっていないような表情でわずかに肩を竦め、不動は言われた通りにひざまずく。その顔を包んで、口付けを落とした。
「っ……せいぜい私の気が変わらないうちに頑張るんだな!」
不動はそのまま動かずに、神妙な顔で言った。
「一つだけお願いがあります、お嬢様」
「何だ」
「もう一回」
返事をする前に、不動はもう一回唇を重ねた。今度はさっきよりも少し長く、この一瞬を味わい、深く刻み付けるように。
「……外だぞ!」
慌てて顔を離し小声で抗議すると、「今さら」と不動は笑った。
「してきたの、そっちじゃん」
誰もいねーよと、調子に乗る年上の男を野放しにはしておけない。ぺしっと弱い力で突き飛ばすように腕を叩くと、不動は珍しいものを見るような、面白そうな顔をした。その後、二人でちいさく笑った。



イギリス留学は本当だが、もちろん今すぐ見学するために来たわけではない。今度はちゃんと見送りを受けたが、飛行機に乗ったのは鬼道の方で、別れは言わなかった。代わりに、空の上からメールを送った。
[ひとつだけ頼みがある。二度と勝手に行くな]
返信はすぐに。
[かしこまりました、お嬢様]

直後に、もう一通。

[で、こっちへはいつ来んの?]



おわり




2014/10

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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki