<鬼道有人の欲情>
おかしい。鬼道有人ともあろう自分が、すっかり調子を狂わされている。
今朝の練習では、豪炎寺からの完全に的確で慣れ親しんだパスを受け損ねた。とんでもない失態に、しばらく専用ドリンクの味が分からなくなったほどだ。不動に毒でも盛られたかと疑った。
しかし不動が毒を入れるようなタイミングは無かったはずであるし、練習風景を見るとヤツはヤツでそれどころじゃなさそうだ。元々誰とも馴れ合わないが、さり気なく鬼道を避けているし、目を合わせず、ミスも増え、さらに孤立している。目を合わせないのはこちらとしても助かったが、毒を盛られてもおかしくない。こんな状態では、自分では無いと思っている隙がどこで生まれているか分からないのだ。やはり毒見役を雇うべきだろうか。いや待て、ヤツに毒を盛るような余裕はないという結論に達したんじゃないか。そもそもまだ毒入りドリンクを飲んだ訳ではない。
「鬼道! どうかしたのか?」
呼ばれて、はっと我に返る。
見れば豪炎寺が心配そうに顔を覗きこんでいる。そう、魅力的とは、こういう男のことを言うんだ。すっと通った鼻筋、強さと優しさを秘めた涼しげな眼、端正な眉、惚れ惚れする。ああ、彼の最高のパスを、一度でも受け損ねるとは。
「どうもしない」
「そうか? さっきはオレのボールをスルーするし、具合でも悪いのかと思ったが」
傷口に塩を塗られた気分とは、こういう感じを言うのだろう。鬼道はひきつる唇を無理にねじ曲げた。
「いいや、体調は良好だ」
「そうか? それならいいが」
ペットボトルを逆さにして水を頭から被った豪炎寺は、濡れた顔を上げ手で拭う。その動作がスローモーションで保管しておきたいほど格好良く決まっていて、思わず見惚れた。
風呂に入った後と起きた直後の、彼がワックスを付ける前の姿もお気に入りだ。前髪が額から頬にかかって、その陰からあたたかい黒曜石が覗く。豪炎寺なら、このモヤモヤした心を晴らしてくれるかもしれない。
「実は、お前に相談したいことがあるんだが……」
豪炎寺はやっと出番かとでも言うように口元をゆるめた。
「珍しいな。オレで良ければ聞こう」
「夕食後、オレの部屋へ来い」
「ああ、わかった」
期待に胸が躍る。豪炎寺が悪く思っていないのは確実だ。それどころか、もっと強く思ってくれているだろう。万が一拒否されても、よき友人に戻ることができる。そう安心感を持たせてくれる男だった。
★
ノックの音がして開けたドアの向こうに、招いた客が立っていた。
「まあ、入れ」
いざ、と思うと急に気分が落ち込んでいくのが分かった。来る前から迷いを感じていたが、こうして面と向かっているとなおさら強く感じる。
なかなか口を開かず動きもしない鬼道を不審に思って、さすがに豪炎寺は怪訝そうな声を出した。
「……鬼道? 話があるんじゃなかったのか」
「ああ、そのことなんだが……」
何と言えばいいか、少しの間考える。しかし他に言うことがない。
「オレの勘違いだったようだ」
「何? ……本当に大丈夫なのか?」
苛立ちを抑えて聞いた豪炎寺を見て、さすがに申し訳なくなった。鬼道は、じっと凝視していれば気付いたかもしれないほどわずかに眉を下げ、ため息を吐く。
「ああ。……お前は大事な、仲間だ」
豪炎寺のきりとした銀の眉が、そっと和らぐ。
「オレもそう思っている。……何か迷いがあるならいっそ考えずに、ボールでも蹴ったらどうだ。付き合うぞ」
黒曜石がきらきらと期待と輝きに満ちた。円堂と同じで、彼もまたサッカーさえ極めれば良いと思っている。
「成程……試してみる価値はありそうだ」
だが、生憎オレの考えは少し違う。サッカーはオレの全てだ、そう断言していい。しかし今必要なのは別の要素だ。ボールでは解決できない。これが本当に人生にとって重要なことなのかどうかはまだ決めかねているが、少なくとも試合や、周りの人間に迷惑を掛けないようにしなければならない。
親友の背を見送りながら、鬼道は次の手を考えていた。
★
目が合った瞬間、手応えを感じた。今まで何もないと思っていた暗闇の中で、形のあるものを掴んだかのような。皮肉なものだ。これぞまさしく求めていたものに感じる、だが何故だろう、最初のような高揚感は薄れている。
「なんの用だ?」
夕食後のだんらん中、すれ違いざまにさり気なく腕を突付き、ついて来いと目線を送っておびき出した。倉庫の前で待っていると、追いついた不動が、不機嫌そうな顔をして立っている。
「オレがお前を呼び出すなんて、理由は一つしかないだろう。クズ」
管理人室から拝借した鍵を取り出して、倉庫を開ける。
「てめえの都合の良いオモチャになった覚えはねェぞ……」
中に入ると、不動のジャージを引っ張り、音を立てぬようドアを閉めた。そのまま、ストレッチ用のマットが積み重ねられた上に突き飛ばす。床でも良かったが、ちょうどいい。
「だまれ、このクズ」
腹の上に跨がると、不動は状況を理解して面白そうに笑った。
「なに? 逆レイプってやつか」
「黙れと言っているだろうが」
ゴーグルを外しガンをつけて、それから、フッっと笑った。バカバカしくなったのだ。こいつはもう既に、誘惑に負けている。
そんな鬼道を見て歪んだ円を描く唇に、思いきりキスをしてやる。この男は欲望の捌け口に丁度良い。貪欲で、常に餓え、萎むことを知らない。
「貴様、どういうつもりだ? 練習が、てんでなっていないじゃないか。ただでさえクズのくせに、それ以下になってどうする」
「アンタに虐められたくてやってんじゃねェよ」
「誰が虐めるか。貴様などに割り当てる時間すらも惜しい」
不動は自分と鬼道との間に人差し指を行き来させながら言う。
「んじゃあ、コレは何だよ?」
「別に相手は誰でもいい。貴様が一番誘いやすいから選んだ」
体を離してユニフォームパンツと下着を脱ぐと、不動も起き上がって真似をした。隣にどさりと腰掛け、両足を開いてヤツの視線を捉える。
不動が苦笑混じりに怪訝そうな顔をする。当然読んでいるから、用意しておいた台詞を口にする。
「丁寧に舐めて、しゃぶれ。オレがイクまでな」
首をもたげ始めている性器を見て顔をしかめるのを涼しい顔で眺める。
「はァ? 冗談じゃねえ」
「何を躊躇する。クズの意見を聞いている時間はない」
つり上げた眉を徐々に戻した不動は、考えを変えたらしい、次第に表情に変化が表れる。
「大体てめえが欲しいのは……まあいい。オレに良いようにされて、クッタクタの骨抜きになりたいんだろ? いいぜ。お望み通り、ヤってやるよ」
「キサマ、そういうことではな……ッ」
温かい舌に包まれ、全身が反応した。今すぐにでも絶頂まで駆け昇れそうだが、奥歯を噛んで堪える。
「どうだ? もっと欲しくなってきただろ」
ああ、そうだ、こんな快感では足りない。
「黙って言われた通りにしろ」
そうしない奴だということは分かっている。
「アンタはもう、こんな快感じゃ満足しねえはずだ」
舌なめずりをする不動の手が、ゆっくりと鬼道の股間をしごき上げる。抑えずに熱いため息を漏らし、鬼道は相手を煽る。ビリビリと空気が震え、体温が上がっていく。
「オレが欲しいって言ってみなァ」
「ふざけるな」
即座に低い声で打ち消したが、下腹部の奥が猛烈な批難を浴びせてくるのを無視するのはなかなか辛い。
「じゃあ、言わせてやるよ」
不動は再び、今度は自ら頭を下げて、愛撫を始めた。熱い口内に迎えられ、吸い付かれて、先程より強く射精感を促される。
こいつを完全に、完膚なきまでに叩きのめして、爪先から頭の毛一本まで支配したい。
「ああ、いいぞ……イキそうだ……っ」
確かに、まだ余裕を持ったまま絶頂を迎えることができている。不動は口を放し、最後は手でしごいた。
「ンンッ……!!」
射精後の恍惚に浸り、思考能力が低下してきているのを感じながら胸を上下させていると、沈黙を無抵抗と受け止めたらしい不動は組み敷くようにのし掛かってきた。
「まずほぐす、だったよなァ」
冷えた精液を塗って、指先が埋め込まれる。背筋がざわめきながら、脳の中心から痺れていく。
「くっ……」
ヒクヒクと肉壁が不動の指に絡み付くのが自分でもわかる。浅ましく愚かに思えるが、違うものも感じている気がした。だが不動も、あれほど横柄な態度で人を煽っておきながら、先程まで口の端に浮かんでいた憎たらしい笑みすら忘れたのか、早々に指を抜いてしまった。何かがおかしいと思いながら、まだ気付けない。情報も知識も、経験も足りない。
「もうイイよな?」
勢いで挿入される前に、膝で不動の体を押し止める。温かいペニスがペニスの横に当たって、ドキッとした。
「待てクズ。これを着けろ」
「あ?」
「後始末が面倒だ」
まだ着たままのジャージの上着のポケットから取り出したコンドームを不動は渋々といった様子で受け取り、小さなビニールを裂いて開けた。
いよいよ、待ち焦がれた快感が得られると期待したとき、不意にひっくり返されて、さすがの鬼道も慌てた。
「待てっ……どうする気だ?」
うつ伏せになった背中を、不動の指がするりと撫でる。
「こんなタマが一筋縄でいくわきゃねェ、そのくらい分かってるぜ。だから、じっくり気持ちよくしてやるよ」
「く……っ」
抵抗しようと思ったが、既に入り口に宛がわれた熱が欲求を募らせ、声が消えていく。奥歯を噛んで堪えながら、鬼道は悶えた。
「ハァ……アンタって、ステンレスみてぇだよな。でもどんな鉱物も、煮えたぎったマグマには熔けちまう……」
妙なことを言い出す奴だと眉間にシワを作りながら聞いていると、いつの間にか根元までみっちり埋め込まれていた。熱と脈動が、肉壁を通して伝わってくる。
「くッ……ふゥ……ッ」
「キツくてイイぜェ……ハッ、たまンねェなァ? 鬼道有人サンのこんな姿が見れるなんてよ……」
「キサマ、そのッ、減らず口を……」
振り向いて肩越しに睨み付けようとしたが、ゆるゆると腰を揺らしていただけの不動が突然グッと挿入を深め、例の敏感な部分を抉り上げた。
「ココだろォ! てめえの弱点はよォ!!」
「ゥぁあぐっ……!!!」
周囲を汚すまいと、咄嗟に覆ったジャージに白濁が零れる。呼吸なんてどうでもよくなるくらい、体がおかしくなって、全身が心臓に変わったかのようだ。
ビクビクと収縮する筋肉に身を委ねていると、不動にも刺激が相当与えられたらしく、ピストンの速度が上がった。
「くッ……そ、オレもイくぜ……ッ!!」
「……っ!!」
不動の体が小刻みに震え、前屈みに縮むのを、ぼんやりとした意識の中で感じる。未だ絶頂の恍惚に溶けているが、何故かわずかに物足りない。
「早く退け、クズ……」
肘を後ろへ動かして、ゆっくりと起き上がる。不動は「ハッ」と笑って体を引いたきり、何も言わなかった。
突如やって来たこの異常な空気に包まれ、静かに外へ出る。射精によって体は軽くなったし、頭もすっきりクリアーになったが、どうも胸のあたりがモヤモヤとする。
「……フン」
ちらと目を合わせ、鬼道はゴーグルを掛けて、何も言わず歩き出す。言葉もなく、一度も振り返らずに部屋へ戻った。
チームメイトたちの恐れを含んだ不思議そうな視線をちらちらと受けながらひとり風呂へ入り直し、汚れたジャージを洗い干して、ある程度満たされた心地でベッドへ横になり天井を眺める。だが、モヤモヤが一段と広がるのを感じた。なぜ終わった後にキスをしなかったのだろう。なぜ前回より満足感が少ないのだろう。相手が反抗的だからか、薄いゴム一枚であんなにも違うものなのか。ゴムだけが原因ではないのか。
ひとつだけ思い当たることがあった。今までの情報と統計による判断だが、まさか、世俗的でくだらない、恋愛感情などというものに縛られ始めているというのだろうか? ……いや、ありえない。
鬼道は嘲笑を浮かべて目を閉じた。
つづく
2014/12
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki