<鬼道有人の艶情>
絶対におかしい。認めたら楽になると思っていたのだが、むしろ逆効果になったようだった。
最初は無自覚過ぎたのが原因で、混乱を招いていると思った。フィールド上の状況を把握していなければ、戦術が組み立てられないのは当然だ。実際、自分は恋愛感情を持っていると自覚した時点でそれは解消され、何に混乱していたのかは分かって良かった。
しかし恋愛感情を認めたら今度は恥ずかしさが倍増し、さらによく分からない感情が増え、混乱が混乱を呼び、鬼道は早くも絶望していた。フィールドとは違い、見えない部分が多く、複雑で変化が早い。
だが一体なぜ、これほど恥ずかしく苦しい思いをしなければならないのだろうか。よりにもよってあんな、傲慢でひねくれた同級生の男を相手に。
しかも、さらに嫌な予感がした。初デートから一週間後、前回の反省を活かし、やるべきことを全て終えた上で学生寮の不動の狭い部屋に二人で引きこもり、またしても淫行に耽っていた時のことだ。
「もう挿れていいよな?」
「……いちいち聞く暇があるなら、早くしろ」
フンと鼻で笑ったのを見て、鬼道に余裕が無いことを見抜いているのだろうか、どこか満足げな不動が一気にとろけたアナルへ突き挿す。
継続的に与えられる刺激に内壁が小刻みに震え、その震動が逐一全身を揺るがす。全体的な自分の感覚が、前回よりも明らかに過敏になっていると鬼道は思った。
「んぐッ……ふぅゔ……っ……」
枕に顔を埋めて、突き出した下半身を不動に預ける。枕からは綿と不動の匂いがするし、やや屈辱的な息苦しい体勢だが、この狭い寮で隣人に喘ぎ声が筒抜けになるよりはよほどマシだ。そう判断するほど――声を抑えきれない場合がありそうだと思うほど、以前より自分の体の感度が上がっているのが分かった。もちろん状況と体調や気分などで多少変わるが、昂ぶっているときは乳首を撫でられても勃起しかけるほど。
(くッ……男の体は、感情に関係なく反応するはずだ……なのに、何故だ!)
初めてした時はこんなに感度が上がるなんて思っていなかったし、それならこの先は一体どうなってしまうのか、想像しようとしただけで羞恥に目眩がする。これ以上、最悪な状況には陥りたくない。
部屋に響くのは、グチュッグチュッと粘液が混じったローションが音をたてるのと、肌と肌がぶつかり合うパンッパンッという音、それからハアハアと二人分の荒い呼吸。端的に言ってしまえば、性欲処理をしているだけに過ぎないが、これは事務的な処理などではない。ただの処理なら、感度は上がらないはずだ。
「っ、ふ、ゥんンンンッ……!!!」
ビクッビクンッ……と、体をふるわせて絶頂へ達した鬼道は、心地良い真っ白な世界を浮遊する。ラストスパートをかけていた不動が、激しいピストンを止めて小刻みに腰を打ち付けた。体内にドロッとした温かい精液を流し込まれて、不愉快さにやっと意識が現実に戻る。感触はもう慣れたのだが、言いつけを守らない不動に、このくらい守らなくても許してくれると思われていることに甚だしく不愉快さを感じる。
「あー……サイコー……」
「キサマ、また中に出したな……早く退け、早漏のクズめ……」
四つん這いの体勢では、背後に覆い被さっている相手を押し退けたくても力が入りにくい。不動はちぇっと、つまらなそうにしながら腰を引き、鬼道の上から体を退いた。
前回より息が上がっていることに気付かれないよう、何とか呼吸をコントロールしなければ……などと考える余裕はまだあった。だがそれも、いつまでのことやら。
そもそも本来、ペニスへの刺激によってのみ射精するのだと思っていたのだが、ペニスには指一本触れずに絶頂へ達するし、射精すらしない時もまま有る。ありえないように思えるが、ありえるのだ。しかも抜群に気持ちいい。
ある日、病気かと思ってネットで調べたが、わりとよくあることらしい。そのついでに詳しく見ると、同じページに恐ろしいことがたくさん書いてあった。
鬼道は片手でマウスを握り締め片手でこめかみを押さえながら、感度はどんどん上がっていくもので、しかも感情に助長されることを確信した。最近は便利なものだ、少しのキーワードで膨大な情報が得られ、その履歴を簡単に消すことができる……。
鬼道はノートパソコンを閉じ、自室の窓から雲を眺めた。もうすぐ冬を迎える、彩度の薄い青空が広がっている。始めは遠い目をしていたが、徐々に、許せない気持ちが大きくなってきた。
感情を抑える術は学んでいるはずなのに、そして実際、日常生活において、あらゆる場面で活用できていると実感しているのに、不動についてはそれが適用できない。これが一番おかしい。何故なのかと考え、鬼道はとても不本意な結論へ辿り着いた。
自分が望んでいるからだ。
不動が自分に何を感じようが感じまいが知ったことではないが、鬼道は彼に対して好意を持って接し、サッカーだけでなく刺激的な付き合いを続けていきたいと思っているのだ。その上、あのつるりとした寒そうな丸い後頭部を見ると、胸の奥がくすぐったいような気さえしてくるのだから、自分はイカれたのだと思ったこともある。
もしこれが正しければ、絶望しかない。この世でサッカーの次に自分が望むことを、理性で抑えられるわけがないのだから。三番目のものならまだ少し余裕が持てるかもしれないが、二番目は難しい。はっきり言って、物理的に離れたとしても完全に消すのは無理だろう。それくらい、誤魔化しようのない事実だった。
このままだと、いつか最悪の状況になって失態を晒してしまいそうだ。それだけは絶対に避けたい。こんな奴とこんな事をしていたせいで、自分のプライドが傷つくなんてことは。
そう思った鬼道は、策を講じた。
そう。いっそのこと、嫌われてしまえばいいのだ。理性で抑えられないなどと言っている前に、『恋愛』が成就しなければいい。……いつどうやって思い付いたのか、明らかに混乱のさなかにある鬼道は、強くそれを願った。
(このままでは堕落する。今は何とか勉強もサッカーもプライベートも崩さずに同時進行しているが……歯止めが効かなくなって醜態を晒す前に終わらせておくべきだ。ヤツにとってもその方がいいだろう。フッ……オレの気遣いに感謝するんだな、クズ)
どこか哀愁漂う笑みを口元に浮かべた鬼道の横顔は、とても十四歳には見えなかった。
さて、好意を持っている相手に意図的に嫌われることへ頭を使うのは少し根気が要ったが、不動の性格はよく知っているつもりだ。
まずは完全無視から始めた。
「鬼道」
聞こえないふり。
「オイ鬼道」
本を読むふり。
「聞こえてねーの?」
返事をせず、別の人間へ話しかける。
「ゴーグルの他に耳栓も始めたんかァ」
速足で歩き去る。
「なァーーーきどーくゥーーーン」
相手が視界から動かなくなっても、頑なに返事はしないし、チラと見ることもしない。
普段は筆不精なくせをして、嫌がらせのように何通もメールが来たが、一度も返信しなかった。
「え? マジ? どうしちゃったの鬼道様? ぽんぽんでも痛いんでちゅか~?」
どんなにイラついても、眉一つ動かさない。感情を出さないための良い練習になる。
「オイオイまじかよ、どういうプレイ? オレMじゃねーし。萎えるぜ~」
不動は目を細め、一週間無視され続けてやっと諦め始めた――ように、見えた。
「別にいいけど。でもなァ、オレとオマエで成り立ってるテイコクサッカー部じゃん?(ここで不動は自分と鬼道の間に人差し指を立てて数回行き来させた。) 今度の合宿プランとか気になるんだけど。あ、もちろん途中で抜け出すよな? ソッチのプランも超気になるぜ。……なァ、ゴム何枚持ってく?」
「っこの、プランプランうるさいぞ!!! さっさと用件を言えクズが!!!」
思わず掴みかかってしまった。階段を上がってきた下級生が怯えた顔で隠れて様子を伺っているのに気付き、不動を尻餅をつかせない程度に突き飛ばして、勢い良く踵を返し速足で去る。無視する作戦は一週間で失敗に終わった。
スタスタと大股で、肩を怒らせながら、鬼道は頭の中で叫んでいた。
完全に奴が悪い。いつ誰が来るか分からない学校の廊下で、最後は耳元ではあったがゴムは何枚だなどと。用件はそのことか。それしか頭に無いのか。あまりにもクズすぎる。
鬼道は奥歯を、削れそうなほど強くギリリと噛んだ。
無視が駄目なら、物理的に引き離すしかない。部室のトイレ掃除を毎日させることにした。キャプテンの命令だと言うと、意外に奴は素直に従った。せっかく苦労して、成績もキープしつつ品行にも気をつけて在籍しているのだから、退部だけは嫌なはずだ。
しかし、さすがにちょっと心苦しくなった。トイレ掃除など一年生の仕事だ。それに、不動にばかり雑用をさせていたら、一年生の仕事が無くなってしまう。
ならば、と今度はボール拾いをさせることにした。だがそれはそれで、確かに話しかける場所には居ないものの、常に視界に入って目障りだ。下級生と補欠をボーッとベンチへ座らせておくのも不本意で、イライラが増したため、これもやめた。
次はどうしようかとあれこれ策を巡らせるのにいい加減疲れたので、久しぶりに雷門中へ行くことにした。手厚い歓迎を受け、挨拶を交わすと、いつの間にかサッカー部だけでなく、天才ゲームメーカーを見学したいという者達も集まってきて、グラウンドはとても賑やかになった。
円堂は相変わらずだ。
「豪炎寺のヤツ、すっげーんだぜ! こないだなんかさぁ――」
「おい円堂、敵に手の内を全部話す気か?」
「あ、そっか」
風丸が苦笑しながら、テンション最大といったキャプテンの饒舌を止める。
「鬼道とサッカーするの楽しみだな!」
「雷門サッカー部は手強いですよ……!」
「負けないでヤンス!」
話題が帝国学園との練習試合に移り、多摩野五郎と栗松が騒ぎ出す。その輪から一歩引いて黙ったまま立っている豪炎寺が、鬼道が会話の輪から外れたのを見計らって聞いてきた。
「それより鬼道、不動とはどうだ?」
「別に……どうもしないが」
咄嗟に素っ気なく答えてしまったが、豪炎寺はニヤリと笑う。不動とは違って、高貴さの漂う余裕のイケメンスマイルだ。信頼感がある。
「なぜ不動限定で訊ねるんだ」
「フッ、てっきり……な」
豪炎寺の、全て知っているような漆黒の瞳を一瞥して、鬼道は眉間に青筋が浮かぶのを自覚した。だが仕方ない、豪炎寺にはFFIで宿福にいた時、誘惑しようとしてやめたことや、怪しい素振りを見せてしまった上、不動と密接に関わっていることを感づかれている。今は同じ学校だから、仲が良くて当たり前と思われているのは仕方ない。だが鬼道としては、不動は帝国サッカー部における配下の一人という認識で広まっていてほしいのだ。名コンビとか、一番の親友とか、寒気がする。
「みんな仲良くやってるか?」
「貴様らのような、仲良し友達ごっこではないがな」
フンと鼻を鳴らし、鬼道はマントを翻す。機嫌を損ねて帰ったと思われないようにするため、腕時計をチラッと確認する姿を見せてから歩き出した。
「邪魔したな、楽しきクズ共」
「おう! またなー!!」
豪炎寺と円堂、雷門サッカー部の面々に見送られ、鬼道は校門を出て行く。
ここの空気は少しむず痒いながら、居心地が良い。そのせいか、円堂と豪炎寺の前ではつい気が緩んでいるのだろう。帝国学園でも同じように仲良く平和にしていると思われているらしい。
だがおかげで、少しコツが分かった。無視もせず、踏み込んで話しもしなければいいのだ。重要なことは話さず、意味深な目配せもしない。そうだ、これでいこう。
★
数日後、抜き打ちテストが行われた。不動はテストの度に順位を上げている。サッカーの練習も鬼道が認めるレベルで行っているというのに、どこにそんなに勉強する時間があるのだろうか。
答えは簡単だ。それほど勉強しなくても、既に身につけてきた基礎を応用して、必要最低限の予習復習でこなしてしまう頭脳を持っているのだ。あまり認めたくなかったが、事実が示している。
残念ながら、テストだからといってパニックになって答案用紙に名前を書き忘れたり、答えを全てズレた回答欄に記入してしまったり、急に謎の腹痛に襲われたりといったキャラでもない。
「あ、オレ部屋変わったから。イイだろォ~」
放課後、教室から部室へ続く通路で、不動はおどけてみせた。黙ったまま、ゴーグルの内側からニヤけた顔を睨む。今ではもう、彼が鬼道に絡むのを止めたり、咎めるような目で見る者はいない。皆、不動も悪い奴ではないと知ったためもあるが、止めても無駄だと諦めているからだ。それより鬼道に対処を委ねる方が話が簡単だということもある。鬼道はそうしたことを当然だと思っていたが、今は周囲の誰かに助けを借りたい気分だった。
「聞いてンのかよッ」
また鬼道に無視されたと思って頭にきたらしい不動が、鬼道の肩を掴んで立ち止まった。遠くには校門へ向かう生徒たちが数人見えるが、声が届く範囲には誰もいない。不動は黙ったままの鬼道の上着を握り締めるようにして、耳元で早口にまくしたてる。
「おいおい、最近オイタが過ぎるんじゃねェの? やっぱそーゆープレイでもしたいの? それなら付き合ってやるぜ、女王様」
上着が皺になるので、不動の手首を掴み、腹に力を入れて出した低いささやき声で応えてやる。
「黙れこの粗チン」
「ぁあ~ん? その粗チンにヨガってたのはどこのどいつだよ?」
「黙れと言っている。校内だぞ、卑劣で野蛮なクズ」
「んなことよりてめぇ、散々八つ当たりしやがってどういう了見だって訊いてンだよ。ごちゃごちゃ悩んでんのはそのツラに似合わねえぜ?」
ささやき声で早口のやりとりを交わし、渾身の力で握り締められている手首が痛くなってきたのか、やっと不動が手を離した。
悩んでいるのは知っていたのか、と少し意外だった。そして鬼道はこの時初めて、自分は悩んでいたのだと自覚した。
言葉を見つけられず、無視してマントを翻し歩き出そうとすると、相当頭にきているらしい不動がサッと回り込み、進行方向に立ちはだかった。
「話がしてえなら付き合ってやるっつってんだよ、イソギンチャクゆらゆら野郎」
「フン……練習に遅れるぞ」
なおも相手にせず迂回し、置いていくと、背後でチッ…と小さな舌打ちが聞こえた。
鬼道は少し期待した。このままこうして、すれ違いを積み重ね、嫌われていけばいい。私情を挟まず、ボールのことだけを考えていればいいのだ。グダグダと悩むなんて性に合わない。
グラウンドでボールを蹴っている時だけが、無心になれる。雑念を取り払い、ゲームメイクに集中できるからだ。
ボールを奪ってはパスを回し、その速さと精度を上げていく。チームワークとして動いている時は、目障りなモヒカンも気にならない。
「き、鬼道……!」
「もう、今日はこのくらいにしておかないと……」
つい夢中になっていた鬼道は、源田と佐久間の声で我に返って立ち止まった。周囲を見渡すと、つらそうに荒い呼吸を繰り返し、座り込んだり倒れ込んだりしている者だらけで、明らかにオーバーワークを表していた。
「ああ……そうだな。今日はここまでだ」
気付けば、自分も汗だくだ。集中しすぎて周りが見えなくなるなんて、自分はやはりどうかしているとこめかみを押さえる。
もし、お前なんか大嫌いだと言ったとしても、奴は動じないだろう。約一週間あらゆる嫌がらせに耐え抜いた男だ、そう簡単に引き下がらない。
なので、がっかりさせて自分から意識を逸らすことにした。肉体的欲求にも応じなければ、いい加減諦めるだろう。
練習を終え、皆が帰ったロッカールームで少し遅れて着替えに入ると、予測通り不動が一人残って待っていた。既に制服に着替え、暇そうに携帯電話をいじっている。
この状況を作り出したのは鬼道だが、何がどう来るかまでは予測できない。
「今日はどうしたァ? キレッキレだったな」
皮肉を通り越して嫌味に聞こえる台詞を無視しながら、鬼道はロッカーを開けバッグから着替えを取り出す。これからシャワーを浴びて、速やかに帰宅し、勉強をし、食事と入浴をして、いつも通り平和に就寝するのだ。
不動は相当頭にきているらしい、立ち上がりツカツカと近付いて、鬼道の隣のロッカーに乱暴に寄りかかった。
「へぇ~? 欲求不満かと思ったぜ」
いい加減に返事をしてやらないと、もっとひどいことになりそうなので、ハア……とこれみよがしにため息をついてから鬼道は答える。
「貴様とは関係のない、家のことで考え事をしていただけだ。人の心配をする余裕があるなら、自分の単位を落とさない心配をするんだな」
「あー、そーだなー」
やはりそうだ。せっかく答えてやったのに全く聞いていない様子の不動を見ていて、じわじわと怒りが湧き上がってきた。一体なぜ自分はこんなクズと会話していなければならないのだろうか。
「貴様、人の話を聞いているのか」
「あーハイハイ、聞いてる。聞いてまーす」
「話を聞くと言ったのは貴様の方だ。騙したのか?」
「騙したわけじゃねーけど。オマエ話す気あんの?」
なぜかユニフォームを脱がしにかかる不動の手を捕まえようとして、触れた手のひらから激流のように熱が拡がっていくのが分かる。不動の手は特に温かいわけでもないのに。
「もういい。疲れた。とっとと帰れ」
「はあ? 何言ってンだよ」
シャワールームへ行って、さっさとユニフォームを脱ぐ。とにかく不動を帰したい一心だったが、裏目に出た。ゴーグルを外して開けた視界に、目の前で制服を脱ぎ始めた不動の姿が飛び込んでくる。彼はさっき皆と一緒にシャワーを済ませたはずだ。
「何故キサマも脱いでるんだ!」
「一緒に入るからだけど?」
「いつそんな話になった!?」
「イロイロ出しても洗い流せていーじゃん」
「そういう問題じゃないぞクズ!」
ここから逃げたい気分だが、ここまで来て、それは鬼道の選択肢に無い。自力で追い返してみせる。
サッカー部ロッカールームの隣に付属している一軍メンバー専用シャワールームは、壁に沿って二十二のブースに区切られている。そのうちの一つに鬼道が入るのと、不動も完全に裸になるのがほぼ同時だった。先に入ってもシャワールームには鍵が無いので、不動が追ってくる。止めようとしたが無理だった。
構わずシャワーのコックをひねり、体に湯を浴び始めたとき、後ろから不動が抱きしめてきた。無視して体を洗おうとするが、不動の手が絡んでくる。胸を撫で、突起に指を引っ掛けられて、ぞわりと腰に甘い痺れが走った。
「くっ……、貴様、」
振り返ると、待ってましたとばかりに唇を塞がれた。文句を言って追い出すつもりだったのに。シャワーの湯が口に入らないようにしながら冷たいタイルの壁に押し付けられ、貪ろうとする唇を受け止める。
様子を見ていただけなのに、抵抗しないと見て調子に乗った不動が股間に手を伸ばす。
迂闊だった。こんな心境で触れられたら、本当にどうにかなってしまう。いくら鬼道でも今は耐えられる自信が無い。部員は皆、疲れ果てて帰ったとはいえ、いつ誰が来るか分からないこんなところで――。
「やめろ……っ!」
抵抗しようとしたが、滑りにくく加工されているとはいえ、この硬い床で、お互いに怪我をしたらまずいと思うと強く押せなかった。しかしこのままでは絶対に、過去最悪の羞恥に襲われる。なにしろシャワールームというのは、やたらに声が響くのだ。
「なんだよ、もうこんなにしてるクセに……」
「やめろと言ってるだろう。条件反射と感情的昂揚の区別もつかないクズめ。ここで思い切り突き飛ばされたいか?」
本当は、言いたくない台詞だった。卑怯だからだ。不動の顔色がさっと変わる。
「チッ……何だよ」
不動が出て行って、鬼道は温かいシャワーを浴びながら青ざめ、立ち尽くした。激しく鼓動する心臓は、期待にではなく焦っているのが分かる。
気を取り直して、大きく息を吐き、顔を洗った。温かい湯が緊張をほぐしてくれる。
話すことなんて、何も無いと思っていた。もしあるとしたら、どんなことだろうか。
鬼道は真っ先に胸に浮かんできた疑問を言葉にしようとした。
――もしオレが、お前のことなど虫唾が走るほど大嫌いだと言ったら、どうする?
そう思った瞬間、ハッと気付いた。
あの時の不動と同じだ。いや、厳密には同じじゃないかもしれないが、同じだと感じた。
――オレがてめぇに本気で惚れてたら、どうすんだよって聞いてンの
あの台詞を口にした時の不動が何を考えていたか、手に取るように分かる気がした。
細部は違えど、心境は似ているはず。あの時、鬼道は本心を伝えず、素っ気無い態度で誤魔化したのを覚えている。返答を得られず解消されないままの不安を、不動はどう処理したのだろう。どこか誤解されているのかもしれないが、いずれにしろ、彼はまだ諦めていなかった。――さっきまでは。
なんという失態だろうか。自分勝手にも程がある。プライドを尊重するのと、単に自分勝手なのとは、全く意味が違うことだ。
追いかけなければ、という直感がうるさかった。だからシャワーを止め、タオルを掴んだ。
ロッカールームへ戻ると、不動の姿はもう無かった。さっさと制服に袖を通し、鬼道を待たず行ってしまったのだろう。
鬼道はドレッドが少し萎れたのを感じながら、急いで乾いた下着と午後まで着ていた制服を身に纏い、上着と荷物を持って駆け出した。走ればまだ、追いつけるはずだ。
★
不動は天邪鬼で好戦的な態度によってせっかくの長所を台無しにしていたが、どちらかというと几帳面で整頓好きだった。
だからトイレ掃除を命じられた時も、大して苦にはならなかった。そもそも使うのはマナーの良い帝国学園生だし、用務員たちが毎晩掃除してくれているので、デパートのトイレのようにいつも綺麗なのだが。そもそも不動は元から、トイレ掃除なんてオレはやらねェと格好をつけるのではなく、くだらねーと言いながら心の中では、トイレ掃除だって何だってやってやろうじゃねェの……完璧になァ!!と闘志を燃やすタイプだった。
鬼道にどれだけ冷たくされようと、彼は全く気にしなかった。鬼道は元々そんなもん、冷たいくらいでデフォルトだと思っていたし、鬼道にどう思われていようが構わないと考えていた。嫌われようが、好かれようが、自分の気持ちは変わらない。
鬼道を超えるために鍛錬を続け、彼より強くなって、いつか参ったと言わせてやる。鬼道の心を、まるでチョコレートのようにトロトロに甘く溶かし、誰にも味わわせず自分だけのものにしてやる。そういう、確固たる決意があった。
だが、この頃の鬼道は明らかにおかしい。以前のステンレスでできた刃物のような冷たさはあまり感じられなくなり、本人は何かに行き詰まってモヤモヤしたものを抱えているように見える。まったくもって解せない。あの泣く子も黙る天才ゲームメーカーが、何かに悩んでいるだなんて。
財閥のことや家族のことはプライベートな話題なので、不動が聞いたところで何の役にも立てないと分かっているが、それでも、たとえただの愚痴になってもいいから話してくれればいいのに、話すのが嫌ならせめてストレス発散に付き合ってやるから自分を使えばいいのに、と思っていた。
不動は鬼道を利用しているのだから、鬼道も不動を利用してwin-winの関係にすればいい。だから魅力的な人間でいるために、トイレ掃除もボール拾いも、何だって出来た。望むなら一切触れないようにして、部活以外では一秒も会わないようにすることもできるだろうが、鬼道は一度も別れろとは言わなかった。そもそもいつから始まったのかも分からない関係だが。
――もしかして、それが原因で悩んでいるのだろうか。
(まさかな……、とにかくオレは今まで通りだぜ。鬼道がオレのことを嫌おうが、軽蔑しようが、そんなこと知らねえ。オレはオレだ。ベタベタいちゃつく性格じゃねえし、このくらいサッパリしてるほうがかえってお互いイイんじゃねえか?)
そう思い考えるのをやめた時、後ろから呼ぶ声がした。
「不動!」
「あん……?」
鬼道が自分に向かって走ってくる。目の前で止まり、呼吸が落ち着くまで五秒ほど待った。彼が息を切らすほど急いで追って来たなんて、よほどの用事だ――と思ったが、玩具の機嫌を損ねるのは悪手だと思い直したのかもしれない。
「なんだよ?」
呼吸が収まってもまだ、鬼道は黙っている。辺りはすっかり暗く夜に包まれ、顔も覚えていない帝国学園の生徒や、家へ向かう会社員が時々二人の横を通り過ぎていく。
「貴様はヤりたいだけだろう。試練を耐え抜いた褒美に、三十分だけ付き合ってやる」
通行人が遠くなったのを横目で確認してから、鬼道が胸元の制服を掴んで引き寄せ、耳元で囁いた。やはりそうだ。鬼道は自分のことを、便利だがちょっと扱いにくい道具程度にしか思っていないのだろう。
「へぇ……ご褒美がもらえるなんて聞いてないぜ」
その場で唇を奪おうとするとひらりと躱され、鬼道は先に学生寮へ向かって歩き出す。不動は気晴らしに本屋へ行ってサッカー雑誌でも見ようと思っていたが、状況が変わったのですぐに鬼道の後をついて行った。
不動が引っ越した先は以前の部屋の一階上で、シャワーとユニットバス付き。ワンルームの小さいアパートのようなものだ。少し壁も厚くなったのか、隣の物音はあまりしない。
無言のまま静かに廊下を進み、ドアを開けて電気をつける。部屋に入るとすぐに、先に通した鬼道の背中に襲いかかった。抵抗する鬼道と揉み合いながら靴を脱ぎ、ベッドまで非効率的な行き方をする。どたどたと、足音は隣に響いただろうか。
ベッドに引き倒され、肩を押さえつけられた不動は、起き上がろうとしたができず、睨もうとして鬼道の目を見た。ゴーグルがゆっくりと首へ下ろされ、現れた赤い目が、陰になった顔の中で濡れた宝石のように輝いていた。
「……っ」
自分がどう思われていようと構わないとは思ったが、やはりこのとっておきの宝は、他人に見せる気がしない。誰にも渡さない、オレだけのもの――。不動は浅ましい欲望が溢れ、体中を這い回り暴れ出すのを感じて、身震いした。
鬼道の胸元を掴んで引き寄せようとするが、腕を掴まれて拒否される。幸い腕はすぐに振りほどけたので、それならと今度は白いシャツ越しに腰の脇を撫でた。これは効果があったようで、鬼道の体が微かにぞくりと上へ動いたのが手に感じられた。
すかさず両手を滑らせ、腰から尻へ撫で回す。小さな吐息が聞こえ、不動はほくそ笑んだ。
「あと二十七分しかないぞ」
「はぁ? 今から三十分だろ」
不機嫌そうに見下ろしてくる鬼道の、ズボンのボタンを外しチャックを下ろす。不動と同じく、ベルトはしていない。急いで出て来たからか、それとも――。
手を捩じ込み、指先で下着の上から温かい棒の輪郭をなぞった。無意識なのか挑発なのか、期待に腰が揺れるのが分かる。それを感じ取っただけで、既に暴れ始めている自分の股間もさらに熱く膨らむ。
「乗っかられてたんじゃ、オレ、脱がせられねえ」
そう言うと、鬼道は眉間にシワを増やして睨み付けてきた。……そしてふと、ニヤリと笑みを浮かべた。どこまでも堂々たる態度の中に妖艶さを滲ませ、且つ男らしい色香が漂うその顔に、思わず視線を奪われる。そのままズボンと下着を脱いで放り、鬼道は白いシャツと靴下だけという格好になった。
「貴様が動く必要はない」
鬼道は不動のズボンのボタンとチャックを開け、下着ごと太ももまで下げていく。突然外気に晒されたペニスは身震いして、しかしすぐしっかりと完全に勃起する。
少し期待したが、触っては来ない。しかも鬼道は隠しているローションを取り出したらしい、それを使って自分でアナルを解そうとしている。ベッドの下の靴箱から取り出すのを、以前に何度も見ているから知っているのだ。それは構わないし、腹の上でアナニーを見せつけてくれるのも全く構わないどころか非常に良い眺めだが、頑なな態度にいい加減頭にきた。
不動は彼の太ももをわざとらしく撫でながら、片手を支えに上体を起こす。制止しようと開きかけた口に、かぶりつくようにしてキスをした。舌を絡め取り、優しく吸って、唾液が混ざる。次第に強めながら続けるうち、鬼道の呼吸も乱れてきた。無言で胸を軽くど突かれ、不動はベッドに沈む。
だがまだ手はある。腰を浮かせ、待ちきれないペニスの先端を鬼道の尻に当てた。実際当たったのは自ら解している最中の鬼道の手だが、効果はてき面だ。三回目で手が退き、四回目には尻の柔らかい肉をぐいぐい押すことができた。
鬼道はムッとしながら、不動のペニスを掴む。動きを止めさせるのが目的で掴んだはずのそれを、持て余しているうちに、また尻にゆっくりと押し当ててやった。
「待て」
熱い吐息と共に鬼道がうんざりした声で制止をかけ、ほくそ笑みながら大人しく待つ。ベッドから床へ上体を伸ばし、いつから用意していたのか自分のズボンのポケットから個包装のコンドームを一つ取り出すと、器用に体勢を戻した。恐らく先程、歩きながら鞄から出してポケットへ移しておいたのだろう。
素早く不動のペニスに装着されたが、焦ったのかたまたま手元が狂ったのか、指が滑って軽く弾かれた。幸い爪も当たらず痛みは無かったが、鬼道のしなやかで器用な指がうっかり滑るなんてことは珍しい。彼はさっと視線を走らせ、不動の表情から問題が無いことを読み取ると、腹立たしげに鼻から息を吐いて、おもむろに腰を浮かせた。
やっと、膨張し熱く脈打つ不動のペニスが、とろとろに解された鬼道のアナルへ呑み込まれていく。鬼道は挑発に屈したのではなく、あくまでも彼が今この状況で快感を得たいがために、行為が続けられている。
「っは……っはぁ、はぁ……っ」
このとき――結合するため体の力を抜く努力をしなければならず、受け入れた質量に予想以上の快感を得るとき、いつもいかめしく凛々しい位置で優美に跳ね上がっている眉が、切なげに歪む。それを薄目で眺めながら不動は、自分でなければ今この瞬間に果てて昇天しているなと、快感に翻弄されながらぼんやり思う。不動はこの先の展開を期待し、それを渇望しているため、この始めの強烈な快感を耐えられる。ここを耐え抜けば、何倍ものさらなる快感が待っているのだ。耐え抜けたからこその、とっておきの快感とも言えるだろう。それを味わうまでは、何があっても果てるわけにはいかない。
「ハハ……ぜんぶ、入ったな」
「動くな、クズ。……んッ、はァ……ッ」
鬼道が自ら、腰を上下させる。動きがまだ緩慢でもどかしい。完全に勃起した形の良い鬼道のペニスが、彼が動く度にぺちんぺちんと不動の下腹部を叩く。今日は、触ったら怒られそうだ。
案の定、何を見ているんだと言いたげな赤い目を見つめながら、不動は、彼はこうして自由を奪うことで自分の怒りを買おうとしているんだろうと思った。だが見当違いだ。不動は煽られれば煽られるほど燃える性質を持っている。しかも燃え尽きることはない。
両手が空いているので、鬼道の腰をそっと支えるように触れた。阻止されるまでゆっくりと撫で上げる。白いシャツを捲りながら辿り着いた乳首を指先で弄ると、刺激を与える度に鬼道の体がピクピクッと小刻みに揺れた。同時に、鬼道の内壁も連動して収縮し、締め付けられる感覚がある。
アルゼンチン街の小さなホテルで初めて、半ば無理矢理行為に及んだ時とは全く違う。不動は脳が痺れるような気がした。こんなに敏感で淫乱な体になっているのに、鬼道は相変わらず不機嫌そうな顔で、眼光は鋭いまま。やはり、自分は彼の遊び道具の一つに過ぎないのだろうか。
――それでもいい。不動は結合が浅くなった時を見計らって、彼の腰を抱え、横に引き倒した。ペニスが自然に抜けると同時に、自分は体勢を入れ替え、鬼道を組み敷く格好になる。
「キサマ……ッ」
「うるせェよ」
どこか慌てた様子にも見える鬼道のアナルに、再び、今度は不動が勢い良く挿入する。自分で貫くことの満足感を得て、一旦中断したところへさっきまで昂ぶっていた分が押し寄せ、一気に上り詰めていく。
てっきり抵抗されるかと思ったが、鬼道はむしろ不動の肩を掴み、はっはっと小刻みに強い息を吐いていた。まるで、快感をより強く得る度に解放されていく、その感覚に陶酔し、無上の歓びを味わうかのように。
怒りを買おうとしたり、身勝手な行動に抵抗しなかったり。むしろもっと深い快感を得ようとしたり。一体、鬼道は何を考えているのだろうか。不動は困惑に溢れたクエスチョンマークをどうにもできず、ただひたすら、腰を曲げて鬼道に覆い被さる格好で、必死に腰を振った。
「くっ……ううっ、ふッ……」
頭上で、鬼道が苦悶の声を漏らす。次第に意識が遠くなっていく。思考は手放され、あとはただ、二人の人間が一つになろうとして、もがき、悶えながら、貪り合い与え合う鮮烈な快感だけが残る。
「く、あっ……鬼道ぉ……ッ!」
「うッ……ぁ、クッ……ぁああッ!!」
「ぅぁ――ッッ!!」
ラストスパートをかけ、鬼道が喉を露わに仰け反って絶頂へ達し、直後に不動もコンドームの中にありったけの欲望を吐き出した。撒き散らされた鬼道の精液が二人の腹部を濡らす。夢中で動いていたためあまりきちんと意識していなかったが、責めようとしなくてもしっかり敏感なツボを突いていたようだ。
胸が苦しくて、水中で酸素を求めるかのように唇を重ねる。鬼道の舌がとろりと絡んできて、時間を忘れてキスをした。
鬼道がもういいと言う代わりに二の腕の辺りを弱く押し退けるようにしたので、不動はゆっくり起き上がり、コンドームを外して捨てる。それから狭いシングルベッドに並んで、しばらく余韻に浸っていた。
動く気配の無い鬼道が隣に寝そべっていることがだんだん照れくさくなってきて、不動はぼんやりと天井を眺めながら呟くように言う。
「もう三十分以上経ったんじゃねえ?」
「……それくらい分かっている」
不機嫌を吐き捨てるように言い、鬼道は起き上がった。フゥー……と一度、長く息を吐き出して、まずシャツの裾にこぼれた精液を洗面台で洗い落とす。乱れた髪を直し、下着とズボンを素早く身に着ける。その間に、不動も自分の着衣を整えた。
スポーツバッグからベルトを取り出して腰に締め、湿ったままのシャツの裾をきちんと入れ、上着を着れば、ついさっきまであられもない姿で喘いでいたとは思えない、普段の格好の鬼道に戻っていた。
「明日も朝練だ。一番に来い」
低い声でそれだけ言って、鬼道は出て行ってしまった。
後に残された不動はしばらくベッドに寝転がっていたが、腹が減っているのを思い出し、食堂へ向かうことにした。
鬼道が自分を利用するなら、それでもいい。十分な特権だろう。だが、鬼道の全てが欲しい――いつからか、強くそう願うようになっていた。
★
この一週間ずっと不動に嫌われようとしてきたはずなのに、何故いつも通りセックスして帰ってきてしまったのかが全く理解できない。作戦ミスなのだろうか。最悪だ。鬼道は最寄り駅から家へ向かって歩きながら、ドレッドをすっかり萎びらせるほど重く伸し掛かる気持ちに呻いた。
主導権を握り好き勝手させないことで支配欲を煽り嫌悪感を促すと同時に、自身への刺激もコントロールできると思ったのだが、不動はそれすらも楽しんでいるように見え、さらには体位を変えるとき抵抗せず、結果的に好き勝手させてしまった。
気持ち良かったことは良かったのだが、自分が求めているのは多分、あんな行為じゃない。もっと何かあるはずだ、そう思えてならないのだ。
しかも嫌われる作戦は、ヤツには通用しないらしい。ここまでしても諦めないとは、いっそ賞賛に値する。
そう考えて、なぜこんなにも“墓穴を掘った感”が強いのか分かった。諦めずにとことん向かってくる姿勢、成功への執念こそが、不動明王の美徳の一つなのだ。
「そうか。だからオレは、あいつを――」
思い至った瞬間、顔から火が出そうになった。当然、嫌われる作戦が通用しないわけだ。嫌われようと冷たくすればするほど、不動に強く意識させることになる。むしろ気を引いていたも同然、完全に逆効果だったのだ。彼が鬼道に夢中になっている以上、鬼道にはその想いをコントロールすることなどできるはずがない。
鬼道は顔を片手で覆い、深いため息を吐く。
そういえば――逆効果といえば、自分もだ。たった今なぜ不動のことが気になるのか自分で解明してしまったことによって、他人から言われるよりも強く、不動への気持ちを自覚する羽目になった。ドツボにはまったとは、このことか。
どうやら、恋愛には勝敗がない。セックスを始めると、与える喜びと求められる喜びでごちゃまぜになって、快感が全てを覆い隠し、その他のことが何も考えられなくなってしまうのだが、いま考えてみるとよく分かる。
衝動を効率的に解消するため、悦楽と脳の爽快感を得るためだけの、体の関係なのだろうと思っていたが、実際体験してみてよく考えるとそうではない。これは紛れもない、自分の奥底から湧き出る真実の感情だ。
誤魔化しようのない己の心を抱え、鬼道は呆然とした。日が照ればすぐに乾く水溜まりだと思っていたのに、いつの間にか深い湖に溺れている。息もできない、どうしようもないほどに。
ならば、泳ぐしかないじゃないか。
つづく
2017/06