<夜明けの王と紅月の鬼 二十五>
昼下がり、読み終わった書を置いて不動は体を伸ばした。寝転がって肘を着いていたせいで、首や肩が凝ったのをほぐす。
鬼道は先程から手を伸ばせば届く距離に座している。ふと見れば、何を思案しているのか、どこを見るでもなく肖像画のように、胡座を組んで背筋を伸ばし腕組みをしている。
「なあ、体……変わらねえ?」
「ん? ああ……大丈夫だ」
普通の食事をして彼がどうなのか全く分からない不動は、こうして尋ねるしかなかったが、鬼道も嘘か真か微笑で返すしかないだろうということも分かっていた。とりあえず信用することにして小さく息を吐くと、鬼道が言った。
「鍋、また作ってくれ」
「ああ。……無理することねぇよ」
「無理はしていない。……お前と同じように暮らしたいだけさ」
どこか寂しそうな、言葉の意味を考える。
鳶(とび)の鳴き声がして、起き上がり屋根の向こうを見上げると、空高く大きな弧を描く姿が見えた。
「なぜ、一番欲しいものは手に入らないのだろうな」
同じように空を見上げた鬼道が、独り言のように言う。
「価値のあるものより、手に入らないものの方が魅力的に見える、ってな」
不動は片膝を立てて座り、立てた膝に顎を乗せて自嘲気味な笑みを浮かべる。皮肉も過ぎれば怒って反論するかもしれない、と思いきや鬼道は苦笑して、静かに首を横に振った。
「ああ、おれもそう思ってずっと考えていた。……だがな、やはり分からない」
真紅の瞳が、悩ましげな眉の下で伏せられる。風が吹いて雲が流れていく。
「本当に必要なものは、一度手に入ったらもっと欲しくなるものだ」
不動が怪訝に眉を寄せて見つめたが、鬼道は目を伏せたまま続ける。
「おれはすべてを手に入れた――いや、もうほとんど失ってしまったが。それでも永久に、お前にだけ、この手は届かない」
空の手を眺める鬼道を見て胸が押し潰されそうになり、同じ空を見上げて必死に堪えた。しばらく沈黙の中で、時たま鳶の鳴き声だけを遠くに聞く。秋の風は日増しに温度が下がってきている。鬼道が袖に手を入れるのを目の端で捉え、苦虫を噛み潰す。腕の中に抱き寄せることができれば格好もつくのだが、不動の肩幅からしてまだ小僧の域を出ないでいる。
結局、そっと立ち上がって羽織を持ち、鬼道の肩に落とした。無造作に被せられた羽織を直しながら、鬼道は不機嫌に呟く。
「だからどうして最初からちゃんと掛けてくれないんだ、まったく……お前が一番に学ぶべきものは素直さだな」
「へいへい。師匠にはくしゃみの回数も報告すんだろ」
欠伸をしながら立ち去ろうとした不動は、着物の裾を強く引っ張られよろめいた。
「座れ」
静かだが強い口調で言われ、大人しく隣に腰を下ろす。まだ何か小言を聞かされるのかと思ったが、どうやら怒っている訳ではないらしい。
「なあ、旦那」
先に続く言葉を特に持たず呼ぶと、少し間を置いて鬼道がこちらを見た。
「思ったんだが……旦那、というのは変じゃないか?」
「じゃあ何だよ。お屋形様? それとも、殿かねぇ」
からかい半分でわざと楽しげに言うと、不機嫌な目線が返ってきた。それに対して、呼び方なんてどうでもいいと反抗的な目線で訴えてみせる。小さなため息と共に、鬼道は目を空へ移した。
「お前の好きに呼べ」
しばらく黙ったまま、自由に飛び回る鳶を眺めた。彼は鬼道が待っていることを知りながら、自分が隣に居ることに疑問を抱いていた。否、疑問ではなくひとつの恐怖である。
何も取り柄を持たない無愛想な少年、不正直で無神経な、歓喜や情熱とは無縁に生きてきた若い魂は、卑下と矜持の前に胡座をかき、愚かなばかりだった。
翌日は快晴、主人が散歩に出掛けると言い出した。所要時間を聞いた佐久間が付いてくると言って聞かなかったが、鬼道は容易く彼を宥め、不動を連れて屋敷を出た。
ヒロトとリュウジは留守番と聞いて文句を言いかけたが、源田が稽古をつけてやると言ったので不動に恨めしそうな視線を送るのみに留めた。
「オレを何処へ連れてくんだ?」
「お前を連れて来たのは、おれのためさ」
「へぇ? 一人で歩けないとでも言うのかい」
挑発的な物言いをいつも無視する筈の鬼道が頷いたので、不動は少々目を丸くした。
「そうだ。これから行く場所は訳ありでな。正直、一人では行く気がしなかった」
「旦那にも弱点があったとはね」
「お前に言われたくない」
苦笑には仏頂面で返し、細い土の道を踏みしめて行く。徐々に道は無くなり、緩やかな登りになった。穏やかに、木枯らしが頬を撫でていく。
「なんでオレなんだ。大して役に立たねぇだろ」
ただ純粋な疑問で、自分でも声の調子は平素と変わらないと思った、それは相手にも伝わったはずだが、先刻のやり取りの所為か、鬼道はいつになく優しい声で答えた。
「お前は大丈夫さ。時が満ちれば、おれより強くなる。心配するな」
自分はそんなに露骨だっただろうかと、不動は眉をひそめる。今ではもう己の葛藤は、十分理解して整理したつもりだった。心の隅を探っていると、鬼道が呟くように言うのが聞こえた。
「それに、もう十分、役に立ってくれたとおれは思うぞ」
「どこが?」
「まあ、これはおれの一方的な感想だが。……お前に水を飲ませた時のこと、覚えているか?」
記憶を辿って思い返そうとするが、あり得そうな状況に心当たりはあってもそんな場面は残っていない。
「……いいや」
「高熱に魘されていたから、意識はほとんど無かったかもしれないな」
「あぁ……それがどうしたんだよ」
鬼道は歩調を変えずに空を仰ぐ。
「あの時、心に決めたんだ。お前を一人では逝かせないと」
不動は思わず咄嗟に振り向いて口を開いたが、あまりの驚愕に言葉を失ってしまった。混乱しかけた頭で、耳に届いた台詞を繰り返し、その意味を確認する。手放しで喜ぶには、彼は子供の持つ独特の純粋な感情に左右されすぎて、戯言と一蹴するには、鬼道の言葉は重みがありすぎた。
意識の薄い病人に水を飲ませるには、口移しが手っ取り早い。痛みを物ともしない深い愛情の証明は大きすぎる程で、しかもその理由に理解が及ばず半ば困惑しつつ表情を窺うと、鬼道は自嘲気味に微笑んで視線を捉え、立ち止まった。
「おれの中に光を感じる。とうに失い、二度と見ることはないと思っていた光だ」
風が吹いて、銅の糸束が一瞬揺れた。木漏れ日に輝く髪や、角や、その瞳に見惚れて、ただ彼の声を浴びることしかできないでいる。
「お前が宿してくれた」
――この光を失うのなら、他のもの全てが意味を失くすだろう。
閃く雷電のような強く勇ましい光、それは鬼道の魂を地獄のような深淵から引き上げた。精霊は見えず癒しの力を失ったままでも、本当に大切なものを知り、進むべき道に戻れた。それだけで十分だった。
我にかえった不動は深く息を吐き出して、ちらりと赤い瞳を射る。
「元からのやつが、まだどっかに眠ってたんだろ」
少々唖然とした後の鬼道の忍び笑いがむず痒く、不動は再び、今度は大げさに息を吐き出した。
「まったく、お前という奴は」
後から後から、春のような浮わついた心地が広がり、俯いて赤くなった顔を隠す。不意に額が痒くなる。そんな不動に微笑み、しかしどこか寂しそうな鬼道は、さくさくと足を進める。不動は彼の斜め後ろについて、触れそうで触れない着物の袖を追った。
歩きながら思考に没頭していた瞳子は突然、後ろから部下に肩を掴まれ、引っ張られて木の幹に体を寄せた。もう一人の部下も同じく別の木に身を隠し、ある方向を見ている。
彼らに視線だけで示された方向を見ると、人影が二つ、遠く木々の隙間に認められた。顔の判別が難しい程の距離でも、木漏れ日に輝く銀色の角はよく見える。瞳子は頷いて、音を立てずに移動した。
続く
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki