<夜明けの王と紅月の鬼 二十九>
不動明王はコオロギやクビキリギスと共に、秋の夜長を怠惰に過ごしていた。貧困きわまる環境に産まれ落ちた者には常であるように日時は定かでなく、本人も知らなかったが、彼がこの世界に呼吸を始めてからちょうど二十四年の月日が満ちようとしていた。肩まで伸ばした栗色の癖毛を低い位置で一つに結い、鍛練に引き締まった長身を佐久間が仕立てた濃灰色の紬に包み、切れ長の碧い眼を携え、彼はひとりの青年に成っていた。
事件の起こったあの日から約九年の月日が経ち、周りのものは様々に変化したが、彼を生かし支えてきた唯一の思いだけは、少しも変わることなく胸の奥に在った。
畳に仰向けに寝転がって、月がゆっくりと移動するのを眺め、黄金を帯びた白く丸い形に赤い瞳を重ねる。
陰鬱に浸るのは彼の性分に無かったため、自ら命を絶つという夢想家や詩人の好みそうな選択肢は始めから存在しなかった。粟粒のような希望を胸に、待ち続けるのも性に合わないと自嘲した、その顔を満月が照らし出す。
昼間は村にいて子供たちが騒がしく、彼らの成長に気を配っているおかげで、それほど苦しくはない。人々と関わることも増え、得意ではないがそんな生活にもだいぶ慣れた。だがこうして夜にひとり横たわっていると、隣に感じた温もりが蘇り、それをきっかけにして堰を切ったように思い出が溢れ、今にも幻影すら見えてくるようで、溜め息を吐いて目を閉じる。孤独には慣れていた筈なのに、いつの間にか鬼道の傍にいる事が日常になっていて、時間が経ったにも関わらず記憶はいつも鮮明に彼を震動させた。
鬼道が過ごしてきた想像もできないほど永い時間に比べれば、こんな苦痛は針で刺した程度の些細な苦痛でしかない。そう思って、浅い眠りをかき集めるようにして夜を越してきた。見上げた空には十六夜の月が輝いている。その向こう、彼方の暗黒の端を明々と照らしながら、静寂の中でいま穏やかに黎明が訪れようとしていた。
「は……っ!」
突如として強い鼓動を感じ、不動は再び目を開けた。体は熱くなり、全身が心臓になったかのように脈打っている。今までぶつかり続けてきた扉が壊れ、奥から新しい力が次々と沸き上がってくるのを感じた。目には見えない強い光が、頭から爪先まで満ち溢れていく。
「さあ、今です」
朗らかで強い声がした。振り返ると明け方の薄闇に、淡く色づいた梅の花の振袖をまとった少女が、縁側の向こうに立っていた。口元に微笑みを湛えた強い眼差し、揺れては消えてしまいそうな儚い姿に、彼女がすぐそばの梅の精霊だと分かる。春を迎えられるようになった森のおかげでやっと現せるようになった姿なのだろう、肩で揃えた紺の髪を揺らして、少女は頷いた。
「はやく、行ってください。今の貴方なら大丈夫だから」
梅の精の言葉に、思考の回路が繋がって一本の道になる。はっとして、不動は縁側から庭へ飛び降り、微笑む少女をひと目見て走りだした。
確証の無い希望を抱えて辿り着いた桜の木は、相変わらず黒々と虚無をまとい、緑あふれる原の中で孤立している。結構な距離を走り続けた疲労も気にせずに駆け寄って、慎重に手を伸ばす。両手の指先はかつて弾かれた見えない壁をいとも簡単に突き抜け、醜悪な枝に触れた。ありったけの力で引っ張ったが、朽ちて脆い筈の枝は、強い呪力によってか、最期の力をもって頑丈に抵抗する。
「旦那!」
黒い枝はびくともしない。一旦肩の力を抜いて手を休め、枝の隙間から鬼道の頬に触れた。その冷たさに青ざめ、不動は胸へ這い上がってくる焦燥に自らも青ざめた。
「旦那、有人の旦那。聞こえるか」
まるで氷の中で眠っているかのような青白い頬だが、どうやら息はあるようで、耳を澄まして聞こえた微かな鼓動に安堵の息を吐く。だがその顔を見ていると、いまにも消えてしまいそうに思えた。胸を貫通している太い枝が視界に入り、必死にどうすべきか考えながらも手が震える。
何度呼びかけても鬼道は眠ったままで、枝はびくともしない。絶望が肩を叩くのを感じたが、まだ振り返るわけにはいかなかった。
「頼む。オレには旦那しかいねぇんだよ!」
枝を掴むとやっと手応えがあったが、内部から吹き出した黒い霧が不動を弾き飛ばし、取り囲んだ。漂う霧のせいで、辺りは夜のように暗くなった。
「タチサレ」
「じ……冗談じゃねえっ!」
尻餅をついた不動は立ち上がり、再び枝へ手を伸ばす。もう少しでひびが入る。届かせまいとする圧迫と拒絶に耐えながら、折れそうな両手に意識を集中させた。
「まだ、言ってねぇことが山ほどあんだよ! おい、旦那! 目ぇ覚ませ!」
辺り一面に煙の如く広がった濃い闇は、一人の痩せた男の姿になって現れた。立派な二本の角を持つその男は、鬼道の傍らでその肩に触れる。
「返せ!」
「オマエノモノデハナイ」
「アンタのもんでもねぇだろ!」
影山の怨念とでもいうべき亡霊が、不動を見た。影山について知らずとも、鬼道にとって彼は特別な縁があったのだと、不動は無意識に感じ取っていた。しかし鬼道が目覚めるまで、一歩も引き下がるつもりはない。
「旦那はオレを信じて、手ぇかけて、守ってくれた。オレは何も返してねぇんだ! ……ほんとに旦那はもうこれでいいって言ったのか?」
亡霊は黙って揺れた。動揺であったのだろうか、一瞬、拮抗していた力が弱まり、その隙を感じて不動は全身全霊の力を両手に込める。
「死ぬまで一緒に居られるなら、他に何も要らねぇんだ!」
太陽が燦然と山上から現れ、絶望の中で、辺りは黎明から朝へと変化を始める。押し返そうとする黒い霧を突き抜けて、とうとう不動の手が桜の根元を掴んだ。
今まで自分の内に巡っていた勇壮で強大な力が抜けていき、光り輝いて闇の内に溢れ、胸を貫いた枝を通して鬼道の内へ流れ込んでいく。彼の内に在ったものが共になって倍になり、その時どこか遠くから眺める者があったとすれば、さながら深い森の奥にもうひとつ太陽が現れたかの如く見えただろう。光が収まり一瞬の目眩から覚めて、不動は自分の力が成したことに驚いた。朝陽の中で朽ちるばかりだった木は生命力を取り戻し、活き活きとしならせて伸ばした枝いっぱいに白い花を咲かせた。
その桜の前に、影山が立っていた。つい身構えてしまったが、先ほどよりも、肉体が在った頃に近い姿の彼は口元をゆるめて言った。
「今度は――鬼道、お前が私に教える番だな」
風が吹いて、鬼道を撫でて行った。静まり返った原で不動は半ば茫然としつつ、季節はずれの花びらと共に枝から解放された鬼道を受け止め、大地へ腰を下ろす。夜露に濡れた芝の上で、上体を起こして肩を抱きかかえる。よく見ればその額に角は無く、先程より顔色も良くなったように見える。
あらゆる超常的な力は邪悪を打ちのめし、神聖さをもって昇華し、自然の中にかき消された。神もオニもその役目を終え、陰陽は中和されたのだ。後にはただ、二つの肉体と魂とが在るのみだった。
「なあ、おい、しっかりしろ。旦那――」
今度開いたのは、朝陽と同じ赤い瞳だった。みずみずしい芝が辺り一面を覆い、その上に落ちたばかりの赤や黄の鮮やかな葉が散らばっていて、空は淡い朝焼けに様々な色に染まっている。そういう中に、狂おしいほど求め続けた存在があった。その匂いを、体温を感じ、鬼道の肩口に顔を埋めて目を閉じた。背中をつよく、求めるようにして抱き返され、体の奥から震動が起こる。
「明王」
呼ばれて腕を緩めると、目線が繋がった。ようやく腕のなかに得たその表情は、今までの何もかもを懐かしい思い出に変えてしまうほどの光輝に満ちていて、不動は見栄や我を捨てて心底から微笑む。
「会いたかった」
半ば無意識にごく自然な響きで口をついて出た台詞に、相変わらず端正で優美な顔がくしゃりと歪んだ。鬼道は預けていた上半身を自力で起こし、不動の頬をそっと撫でる。
「お前を、ずっと待っていた」
長い間、抱えていた後悔や自責の念を手放し、そっと撫でて記憶の彼方へ流してやる。視界がぼやけて、喜びに涙をこぼすことがあると今まで信じていなかった少年は、初めて見る自分の姿をうち眺め、その姿にもまた知らぬうちに感動していた。
鬼道の手が不動の後頭部を引き寄せ、不動は少し身を乗り出しつつ鬼道の背を支え、二つの乾いた唇は両方向から穏やかに、だがしっかりと合わさった。
幾千の夜を越えた無数の小さな光が、全身の血管を駆け巡って心臓へ集結する。囚われの鳥たちは夜明けの果てに浮かぶ燦然たる太陽へ向かい、一斉に飛び立った。もう苦痛は二人を引き裂かず、時は二人を隔てない。
世界は均衡を取り戻し、つよく正確に刻みだした新しい鼓動によって、今やっと始まりを告げた。
(<三十 初夜>はウラへ)
2013/07
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki