<夜明けの王と紅月の鬼 七>




 鬼道は佐久間に対して、居なくなるのは不本意だが、引き留めることの方が迷惑だろうと思っていた。
 このところ、自分の様子がおかしいのは重々承知している。だが、それこそどうにもできないのだ。ひと昔前に戻って、豪炎寺の側に居られれば気分が落ち着くかと思ったが、結局それも失敗した。
 『お前に必要なのは、俺じゃない』
 頬を撫でられ優しい声音で、諭されるように言われた言葉を思い出す。しっかり反論することができず、すまないと呟いたら、変わったなと彼は言った。その意味がよく分からなくて訊こうとしたのだが、言葉が見つかる前に行ってしまった。もう戻れないと、嫌でも確信した。




 腹を空かせた不動が台所に行くと、なぜか鬼道が居た。
「……あいつは?」
「出て行った」
「は? なんで」
 かまどの鍋がグツグツと音をたてる。
「もう、戻って来ないだろう」
 不揃いに切られた大根がまな板に転がっているのを見て、不動はため息をついた。
「よく分かんねーけど……自分のメシくらい自分でやる」
 慎重に包丁を取り、手で控えめにあっちへ行けと示す。
「……すまない」
 あのオニが、自分に謝るのも、不思議な気持ちだった。何についての謝罪なのかもはっきり分からないうちに、鬼道は部屋へ戻っていく。
 食べ物の事なんて良く知らないくせに、と不動は無惨な姿の大根を見つめる。
 誰、とは言わなかった。自分が居なくなっても、やはり何も言わず縁側で見ているだけなのだろうか。鬼道のことも、鬼道の周りのことも、何も知らない。部屋へ戻っていく彼の寂しそうな背中を見て、オニも涙を流すことがあるのだろうかと気になった。




 佐久間が出て行ってから、必然的に屋敷の中のことはすべて不動がするようになった。掃除、洗濯、風呂焚き、炊事。とは言えほぼ自分一人の分で済むため、元々手慣れていたこともあり、特に労力が要る訳ではなかった。
 結界の仕組みがどうなっているのか、不動には分からない。ここに来てすぐの頃、庭をうろうろしていたらいつの間にか森へ入ってしまったことがある。だが、次第に濃くなる霞の中をしばらく歩いただけで、進んだのとは逆方向の筈である屋敷の庭へ戻ってしまった。それきり不便もなかったので特に気にもせず、屋敷の中と庭だけの世界で暮らし続けた。環境が広く温和になり、抑圧と軽蔑と虐待とが無いだけで、その他の立ち位置としては今までと大して変わらない。
 しかしある朝、鬼道は何を考えたのか、起きたばかりの不動に道具を持たせて屋敷を離れ、結界の外へ出た。朝靄のなか久しぶりの外の景色を眺める間もなく、川へ着いたと思えば、魚を獲ると言う。
 岸から手を伸ばしただけでいとも簡単に掴み獲り、爪から魚を引き抜く姿を見て、不動はため息をついた。
「なんか、つまんねえなぁ」
「お前もやってみろ」
 川の浅い方へ移動して、持ってきた釣竿に、近くで見つけた蚯蚓(みみず)を括りつけ、深い方へ放り投げる。鬼道は辺りに転がっている大きな岩の一つに腰を下ろした。
「まったく手間がかかるな。手で獲れば速いのに」
 やってみろと言っておいて、文句を付けないでもらいたい。と不動は苦笑する。
「手で獲るのは旦那だけだろ。まぁ見てなって、……お、来た」
 ピンと張った糸を手繰り寄せて一気に引っ張ると、手頃な大きさの魚が水面から飛び出した。針を外して獲物を籠に入れると、不動は「ほらな」と腰に手をあてて鬼道を見る。
「……やはり、時間がかかるな」
 がく、と不動の腰から手が落ちる。悠久の時を過ごすオニが、時間や手間のことを気にするのは何だか滑稽に思えた。
「なんだよ。そんなに急ぐことは無いだろ、旦那には永遠の時間があんだからさ」
 責めるような言い方のせいなのか、鬼道は驚いた様子で不動を見た。何を驚くことがあるのだろう。もしや言い過ぎたのか、と不動は思う。流れがゆるやかな浅瀬に立ったまま、冷たい水が気持ち良い。
 久しぶりに太陽を感じた。涼しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、目を閉じる。川の水音、遠くの鳥の鳴き声、それらと調和する蝉の声。
 鬼道は黙ったままだ。彼は何を考えているのだろう。藍染の薄い着物の裾から出ている足は、彫刻のような形をしていて硬そうな爪が伸びていたが、さらさらと音をたてる川の流れに触れることは決して無かった。
「……帰るぞ」
 立ち上がった鬼道を、見上げると彼は顔を逸らした。一瞬見えた眉は悲哀にやや歪んでいるように見えたが、気のせいだろうか。
 こんなにも気持ちの良い日なのに。また来れるだろうか、そう思いながら周りを見渡しつつ帰路につくと、対岸の森の奥に藁葺き屋根がいくつか見えた。
「あっち、村があるのか?」
「……ああ」
 もしかしたら近いうちに行けるかもしれない、と思案する反面、所詮は彼の狩り場に過ぎないと思い当たり、不動はゆっくりと息を吐いた。
 未だに、彼が何を考えているのか掴みきれない。ただ寂しいだけで、いつまでも自分のような大して面白味もない人間を側に置いておくだろうか? 前を歩く後ろ姿は、どこか疲れているようにも見える。
 もう一度振り返ると、対岸の浅瀬に村人らしき女が立っていた。歳は若い。洗濯に来たのだろうか。鬼道の頭の角までは遠くてよく見えないだろうと確信していたが、不動は歩を速めた。




 翌朝も、早く起きた。あの女は村の住民だろうか。次は場所を変える必要がある。しかし何をしても結局は同じ事かもしれない。そんなことを考えながら着替えを済ませると、鬼道が廊下を通った。襖から顔を出して呼び止める。
「あ、のさ。今日も釣り、行くのか?」
 鬼道は振り返ることなく、静かに「ああ」とだけ答えて行ってしまった。元々性格は明るい傾向ではなさそうだが、昨日帰った後からずっと、いつもより沈んでいるように見える。何を悩んでいるのだろう、と考えかけて、自分がこの生活に馴染み始めていることを自覚した。
「ったく」
 自分は、どうなるのだろう。布団を畳み、台所へ向かう。外は快晴だった。




 不動が食事をする間、鬼道はいない。居ても、ただ縁側に座っているか、夜は酒を飲んでいる。
「旦那は、食わないの」
「何をだ」
 酒を注ぎながら問い返された時点で、答えは明白だった。不動はため息をつき、今朝釣りあげた焼き魚をつつく。
「飯だよ」
「……食っても問題は無いが、意味もない」
 へぇ、と箸を使う不動を、ちらりと見た視線には痛みが混じっていた。
「ごちそうさま」
 鬼道は縁側から畳に片手をついて、膳を片付けようと立ち上がった不動に振り向いた。
「片付けが終わったら、戻って来い」
 いつもは食後は台所で雑用をしたあと自室に引き上げてしまうので、呼ばれるのは初めてのことだった。言われた通り、茶碗を洗って戻ると、隣に座れと示された。従うと、鬼道は自分の猪口を持たせ、徳利を傾ける。透明な液体で満たされた小さな猪口を眺めていると、鬼道は不動の様子を見ながら言った。
「飲んでみろ」
 怪訝な表情を返しつつ、興味があったことは否定しない。不動は水を飲むようにして、酒を一口流し入れた。
「ぇ……げほっ、にっげぇ」
 喉が焼けるような感覚に、噎せ返る。
「一気に飲むからだ」
「うへぇ……そういうの、普通先に言うだろ?」
「はは、すまないな」
 涙目になっているのも構わず睨み付けると、鬼道は笑っていた。些細な怒りなどちっぽけに思えてしまうほど、微笑は月光に仄白く輝き、見つめていたら幻術にかかりそうな気がして、不動は慌てて立ち上がった。
「酒なんかロクなもんじゃねえよ」
 口をついて出た言葉が、悪態のようになってしまった。
今まで見てきた酔っ払いの悪行が脳裏を掠めたが、鬼道はいつもそんな気配すら見せない。鬼道の微笑に陰が差し、「そうだな」とだけ呟いてまた酒を注ぐ。先刻のは幻だったのだろうか、と思ってしまうほどに、月が冷たい光を庭に投げていた。




続く







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