<初夜>
夢のようだ、と思う。夜になってもまだ、鬼道が傍に居ることに慣れていなかった。
しかも、角も牙も無い、ただの人間の鬼道だ。
相も変わらず忠実な佐久間と源田に迎えられ、住み慣れた屋敷に戻った二人はあまり言葉も交わさず、多くの時間をただ寄り添って過ごした。
長年封じられていた想いが解禁される時には、その想いが強ければ強いほど、触れるより先に恍惚の内に茫然とうち眺めることしかできなくなる。
行灯に蝋燭を点し、布団を敷く段階になって改めて、不動は元々鬼道が寝室として使っていた部屋を眺めた。共に寝るようになりそのまま定着してしまって、布団を移すことが無かったため、いつからか眠るのはこの部屋と決まっていた。
だが一人で寝るようになったこれまでの習慣から、布団を一枚多く敷くことに妙な、強いて言えば恥じらいのような違和感が生じる。そもそもここで一緒に寝て良いのかという疑問まで浮上してくる始末である。大の男が布団を抱えて部屋をうろつく様子は滑稽だが、不動は至って真剣に悩んでいた。
「何をしているんだ」
振り向いて見れば、風呂から戻った浴衣姿の鬼道が、怪訝な顔で襖を開けたところだった。
「空いたぞ」
「……、ああ」
敷いたままにしておけばまだ良かったものの、布団を抱えて右往左往していたところを呆然と眺められてしまっては、最早どうにもできない。不動はそのまま、己の愚かさも抱えて足早に出て行った。
馬鹿げた思考も洗い流し、溜め息を吐きつつかつての自分の部屋へ向かう途中、鬼道の部屋の襖が顔の幅ほど開いているのが見えた。
動揺を無愛想の下に隠しながら覗くと、敷き布団の上に座して腕組みしている鬼道と目が合った。掛け布団は、当分出番が無いかのごとく足元に畳まれて呆れ顔をしている。やはり、と不動は顔をしかめた。
「冷えてきたからちゃんと閉めとけよ」
中に入り溜め息を吐きつつ行灯の照らす枕元に座ると、しかめ面に睨まれた。襖を閉めていない理由など分かりきっている。
「なぜ布団を片づけた」
「いや……」
答えあぐねていると、先に叩き切られてしまった。
「小心者め」
挑発には誠意をもって応えるべき、というのが不動の信条の一部であったが、彼は戸惑った。長きにわたり非常な禁欲を強いられ、不動はどこか僧のごとき忍耐を身に付けていた。しかし今はそれも、ちっぽけな見栄でしかない。増し続ける緊張に小さく息を吐き、不動は今まで叶いようのなかった一歩を踏み出した。
つんと閉じた唇を包み込むように口付け、肩を抱き寄せる。鬼道はそれを優しく迎え、不動の胸元をそっと掴んだ。唇が灯した火に魂が溶けて、一つに合わさっていく。その純粋で高貴な炎の中から生まれたものが、新たに己を形作っていくのを感じた。
「……一枚でいい」
鬼道がゆっくりと力を抜いて後ろへ倒れると、不動も引っ張られまるで組み敷いた格好になり、そうして束の間見つめ合った。心臓が心臓でないような気がするほど激しく鳴っている。
「狭ぇよ。昔のようにはいかないぜ?」
「知ったことか」
誘われるようにした二度目の口付けはさらに甘い。不動が意を決して舌を伸ばすと、牙の無い歯列よりも先に柔らかい舌が出迎えて、燃え盛る胸の奥に新しく薪を投げ込まれたかのように感じた。
「ん……ふっ……」
舌先が触れ合った途端、微量の電流が走ったように痺れ、全身の毛が逆立った。鬼道の腕は肩に回され、その手は不動の頭を抱き寄せ、太股を太股が擦り上げる。
煽られて呼吸を忘れるほどの口付けに酔いしれ、目眩を堪えながらやっと離れた時には、すっかり息が上がっていた。口付けをしたまま永遠に過ごせそうな気がした。
「流石に、憎まれ口も減るな」
「あ……当たり前だ! オレが、どんだけ――」
「お前だけじゃ、ないんだぞ」
ふっと笑んだ鬼道に帯を解かれ、焦燥と歓喜が狂乱を引き起こす。曝された胸板を撫でながら恍惚とした表情で眺めてくる彼を見下ろすのは、なにか異常な状況のような気がしてくる。腹や腰を滑る手に意識を奪われつつ、不動も浮わついた手で鬼道の浴衣を締めている帯を解いた。
「別人のようだ」
帯を解いておきながら浴衣を開くのに躊躇していると、鬼道が小さく呟いた。にわかに子供の成長を見守る父親のような寂しさすら覗くその顔は、いとおしげに微笑を浮かべる。
「そうか。アンタの中では、オレは昨日までガキだったんだもんな」
思ったことを言ったはいいが、中身のないうわ言のように聞こえた。
生唾を呑み、ゆっくりと鬼道の肩から、撫でるように布を剥いでいく。何度も思い描いた陶磁器のような白い肌が露になり、鼓動が高まるのを必死で抑えようとしたが無駄だった。
「旦那こそ、うん百歳の爺さんとは思えねぇよ」
なんとか口を開きながら、震える指で温かい血管をなぞる。鬼道は少し笑って、膝で不動の脇腹を小突いた。見つめ合い、わずかに揺れる腰を撫で、まるで幻惑されているような感覚に陥る。まさに、夢の中にいるようだ。だが、極上の快楽と迸る緊張が胸の奥を痺れさせ、五感の全てが現実を証明していた。
滑らかな肌に触れ、胸の小さな果実を撫でると、鬼道は艶のある吐息を漏らす。恐る恐る、舌を出して鎖骨の下を少し舐めると、小さく鬼道の体がふるえた。
「なあ……平気か?」
尋ねたことに鬼道は一瞬呆然として、しかしすぐに微笑が戻る。それだけで心の底から安堵を感じた。
「さっきあれだけ舌を使っておいて、今更だな……それより、」
無防備な姿で、すがるような目線で、鬼道は言う。
「もっと、おれを確かめてくれ」
掴まれた手が滑るようにして下腹部に引き込まれ、不動は息を呑んだ。
「後悔、すんなよ」
言ってから、もはや意味のない台詞を呟くほど混乱して、半ば狂喜に我を忘れているのだと気付く。
「とっくにしているさ――お前を拾った時にな」
鬼道の濡れた唇が弧を描く。
黙って笑みを返した不動は、気付かれぬよう静かに張り詰めた息を吐いて、手を伸ばす。既に首をもたげているらしいそこは温かく、そっと触れると燃え上がり、甘い吐息が聞こえた。掌で包み込み、壊れ物を扱うようにしてゆっくりと手を動かす。反応が良いのかすぐに膨張し、熱い脈動を伴ってつよく勃ちあがる。
「んっ……。お前こそ……無理は、するな」
「は? なんのことだよ」
尋ねられた意味を考えようにも、底無しの愉悦にはまってしまった脳では思考がまとまらない。そんな自分を内心で罵りながら、鬼道の表情を伺う。彼はゆっくりと胸を上下していて、瞳は潤み頬は紅潮し、形の良い眉を寄せて切なげに呻いていた。
「その。こういうことが……気色悪いなら、」
「ああ……? そっちこそ、今更なに言ってんだよ?」
「なにも、無いならいい……」
その言葉を聞いてやっと鬼道の言わんとすることに思い至り、不動は再び己を罵倒した。先程からの挙動不審はどこか引き気味に見えたことだろう、不安にさせてしまったのも仕方ない。
額に掌を宛てて息を吐き、不動は口を開いた。
「怖いんだよ。触るのが。もう大丈夫だって分かってても――またアンタを苦しめるのは、嫌だ」
鬼道は上体を起こして、その赤い瞳で射抜くように見つめた。
「馬鹿者。……こうしたいと、どれだけ願ったか知っているか? 独りでいた長い日々よりも、お前の傍で過ごした僅かな時間の方が辛かったんだぞ」
浴衣から抜け出た鬼道に押し倒され、不動は眩惑した。陰になった顔に、豊かな銅色の髪がはらりと流れ落ちかかる。
頭の中を隅の隅まで探して辛うじて残っていた理性を見つけ、不動はようやく微笑んだが、多分ひきつったように見えただろう。
「へぇ……そりゃ、初耳だね」
それ以上気の利いた台詞も言えず、黙って腰を撫でると、鬼道は力なく膝を着いてわずかに震えた。体を起こして向かい合わせになり、再び密着したままの下腹部に手を伸ばすと、鬼道も手を伸ばしてくる。触れられて初めて、自身がすっかり張り詰めていることに気付く。その様子を包み込んで、嬉しそうに笑うのを恍惚と眺めた。
「ふ……、く……っ」
照れ隠しもあって本格的にしごいてやると、息が荒ぎ腰がふるえた。程なくして、白濁が手にこぼれる。舐めようとしたその手首を鬼道は掴み、引き留めた。潤んだ赤い瞳が行灯の明かりに照らされ、揺れているのが見える。
「ここだ……」
掴んだ手を、鬼道は自ら秘壺へ誘う。不動は父に手を引かれる幼児のような、行先を知らない戸惑いの内に、その未知なる穴へ濡れた指を挿し入れた。
「はぁ……っ!」
吐息を漏らし身もだえる鬼道は、再び不動の股間に手を伸ばす。長い指に絡め取られ動揺しているうちに、鬼道は挿入を許したまま背を丸めて、不動の物を口に含んだ。
「ぅあッ旦那、ま……っ!」
制止しようとする前に激しく愛撫され、不動は抵抗する術を失う。憧れの光景を前に吐露した濁液を飲み干し、鬼道はうっすらと笑みを浮かべた。不動はそれを不服そうな表情で見つめたが言葉が紡げず、代わりにひたすら愛撫を返した。
歓喜にわななく体が、解放の為のより強い刺激を求めて激しく震える。鬼道は内から洪水のように溢れ出す激情を感じて、そしてそれに抗えないのを知って、今まで抑えていた門から手を離そうとしていた。
足を絡め、熱に浮かされた唇を寄せて啄むように口づける。おそらく初めて見せるであろう情熱的な仕草に、不動は狂気を帯びた目の眩むような興奮を覚えているように見えたが、鬼道とて故意に動いているのではない。むしろ鬼道も不動と等しく、新しい道を歩みだした体を歓喜にふるわせていた。長きにわたり抑制され封印されてきた扉を開け放ち、現れた偉大な光輝の前に、彼はかしずき、身を委ねた。
「明王」
ねだるように見上げると不動は熱い溜息を吐き、肩に所在なげに引っ掛かっていた浴衣を取り去った。相変わらず薄く傷痕の残る痩せた体は、しかし適度な筋肉が引き締め少年の細さは無くなり、力強さと艶を感じさせる。これは本当にあの小僧なのだろうか、まるで神が最期の罪滅ぼしのために一時だけ見せている幻のような気がして不安になりかけた。絡み合う肉体は意識を無視して求め合い、残りかすのようななけなしの理性の前に、待ち望んだ愛しい肉体を見せつけられて、鬼道は完全に余裕を失う。常に一方的に他者から求められるばかりで、どちらかと言えば行為も言葉もできるだけ避けてきたが、いま初めて自分の中に淫猥な部分を見いだし、それをさらけ出しているのを知った。その羞恥がさらに扇情的に作用する。
「行く、ぜ」
「ああ」
脚を掴んで開かれ、中心に宛がわれた楔からつよい鼓動が伝わって、胸が震える。ゆっくりと慎重すぎるほど腰を押し進めながら、不動は荒く息を吐いた。不動の一部が、対になるべく自分の内へ入って来る。
「はっ……大丈夫だ。もっと、奥に……強くしていい」
両腕を伸ばして抱き寄せると、不動は返事の代わりに唇を重ねた。
初めてのように固く狭い秘部をほぐしていく様は、喪失のようで贈与であり、破壊のようで創造であった。そうして全てが繋がった瞬間に、鬼道は痛みや苦しみからでなく思わず涙していた。
「……っ、ふ……」
心配そうに、口を開きかけた不動を引き寄せて唇で塞ぎ、さらに足を上げて腰を押し付ける。貫かれた全身が震えた。
「お前の全てを、今までのを……全部、吐き出せ」
不動は鬼道の目尻を指でそっと拭い、掬い取ったしょっぱい雫を舐める。
「ああ、――旦那もな」
行灯の仄明かりに照らされた青緑の瞳を見つめ、返事の代わりになんとか口元をゆるませる。直後に不動が遠慮がちに律動を始めてからは、それほど強くはないのに脳天まで揺さぶられ、解けるように思考が砕けていった。
「ふ……ぁ、んんッ……明王……ッ」
首筋に、耳に、口付ける不動の背にしがみついて、荒い呼吸を繰り返す。
「んっ……旦那、ッは……!」
耳元にかかる熱い吐息や切ない苦悶の声が、鬼道の中心をまるで春が芽吹く瞬間のように温かく激しく揺り動かした。
平常心や理性やその他くだらないものを全て平伏させる神聖な快楽が降臨し、成すすべもなく翻弄される。かつて気が遠くなるような激しい絡み合いも経験したというのに、下準備も空しく、あっという間に絶頂を迎えた。
「くぅ……!」
迫り来る強大な瞬間を前に、鬼道は咄嗟に横を向いて、肩の下敷きになっていた浴衣をくわえた。歯を食い縛り、何かくわえていないと、屋敷中に響くような声が出てしまいそうだった。
「――ッ!」
張り詰めた全身が収縮し、溜め込んだものを一気に解放する。氾濫した大河のように溢れ、全てを巻き込んで遠く海へ運び去り、繋がれたふたりの境界は白く溶け合った。
「は……っ、明王……」
小刻みに震える不動の背にしがみついていた手や足を少しゆるめ、大きく熱い息を吐く。まだ熱は引く気配すら見えない。
「はぁ……狂っちまいそう……」
不動の自嘲気味に微笑む眼を見つめ、気の遠くなるような歳月を過ごしてきたのは全てこの瞬間の為だったと悟った。誰もがこの体を、あわよくば魂までもを求めたが、この体とこの魂が求めたのはやはりただ一人だけだったのだ。出会った頃は誤りだとばかり思い込んでいたが、運命は再び太陽のもとに彼らを繋ぎ合わした。
口付けを交わすうち再び高鳴る中心部に苦笑して見つめあう。快感の奥にある熱源をあらわにして、何度もその輪郭を確かめ合った。
やっと息を整えて、布団から追い出された枕を探し、心地好い脱力感の中で横たわる。いつの間にか蝋燭は燃え尽き、薄明るい静けさの中で微睡んだ。
「お前、ずっと独りで寝ていたのか?」
激しい渇きも溢れ満ちた愛情のなかに多少は落ち着いて、未だぼんやりとしつつも理性を取り戻した鬼道の唐突な問いに、不動は疑問符を浮かべる。
「どういう意味?」
「……いや、いい」
途中で投げ出されると、余計に気になるものだ。しかし不動は少し考えたのち、答に思い当たったらしく「ああ」と納得に呟いて言った。
「旦那のことしか考えてなかった」
「……そうか」
平然と口にされ、返す言葉も無くなる。狭い布団の中で腰や肩の筋を少し伸ばし、照れ隠しもあって不動の首元へ顔を埋める。
「それ、もう止せ。おれはもうお前の主人じゃない」
曖昧な言い方で、伝わったかどうか不安があって顔を上げると、碧い眼には優しい微笑が浮かんでいた。
「オレにとってはアンタはいつまでも……まあ、いいや。有人って、呼んで欲しいんだろ?」
頬を撫でる手の向こうに、翡翠が二つ輝いている。これこそがずっと探していた宝物だった。
「ああ」
微笑みを返すと、今度は不動が照れ隠しに不味そうな顔をした。
「有人。か……慣れねぇな」
目を閉じて、鬼道はゆっくりと満足に息を吐く。
「じきに、慣れるさ」
森の中で独り彷徨う少年の心を、与えられる限りの幸福と愛情で満たしてやりたいとずっと願っていた。これからは毎日叶えられる。そう考えて、本当は自分が満たされたかったのかもしれないと思い至り、わざと少し自嘲する。
抱き寄せられて、難しくなりがちな思考を手放し、しっかりと愛しい背に腕を回した。これからもずっと、共に生きていく。それは平和の夜明けが煌々と照らし出した永久の誓いであり、二人の心に既に深く刻まれていた。
完
2013/05
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki