<楽園の幻>






 国際大会に向けて雷門中サッカー部をゴッドエデン島で特訓させると言う円堂の計画に、またもやOBも付き合って欲しいと頼まれ、おれは帝国学園を佐久間に任せて飛行機へ乗り込んだ。空港からタクシーに乗り換え港へ着くと、雷門所有の専用小型船の前には、揃えば懐かしさが込み上げる面々が並んでいて、自然に口元がゆるむ。
 その中に、不動の姿もあった。

「よォ。一年ぶり? ご活躍は聞いてるぜェ、天才ゲームメーカーさん」
「ああ、相変わらずだな。お前こそ行く先々で賑わせているじゃないか」
「へェ、見てくれてんだ? 嬉しいね」

 話しかけてくるわりには、彼との間には距離がある。まるで、見えない壁が邪魔しているかのように感じた。

 おれは十四歳の時、不動と出会った。最初はこんな気違いがボールを蹴っていること自体信じられなかったが、FFIで再会した彼は別人のようで、芯こそ変わってはいないものの、ボールを通じて感情をぶつけ合ううち、いつしか不動明王という男を理解するようになっていった。
 闇に呑まれそうになっていたおれを円堂のいる光の方へ叩き戻したのは不動だったし、師を亡くしたおれの心が折れないよう見張っていたのも不動だった。今にして思えば、彼と体を繋げたのは、若気の至りだったとはいえ、ごく自然な流れだったのだ。おれ達は浅はかで幼く、無知で、刺激と理解を求めていた。誰よりもおれのことを知っているのは不動だった。

 同じ帝国の高等部へ通っていた時は好き勝手できたが、成人になるとそうもいかない。この社会でおれの負担になることを見越していたのか、卒業と同時に不動はさっさと簡単な別れを告げて欧州へ行ってしまった。
 おれはと言えば、帝王学を習得するために奮闘しながら、スカウトを受けてイタリアへ渡り、色恋沙汰とは無縁に、世界を駆け抜けてきた。ボールはどこへ行っても変わらない、良い友達だった。不動と戦うことも勿論あったが、彼はいつもの調子で、おれが閉ざした心の奥で感じているようなむず痒さや痛みは知らないかのように振る舞っていた。
 試合以外でも顔を合わせる機会は度々あったが、おれは自分から動かないでいた。不動も敢えて接触しようとはしてこない。こうしてほろ苦くどこか甘い、焦がしたキャラメルのような痛みを引きずりながら、日々を過ごして行くのかと思っていた。




 *



 水平線に沈む太陽の赤々とした光を受け特訓に勤しむ少年達に、終了と夕飯の準備ができたことを伝える。

「まずはシャワーを浴びて汗を流してこい」
「はいっ!」

 休憩を何度も挟んでいるとは言え、朝早くから特訓し続けていたというのにやたらと元気な返事を聞いて、思わず苦笑する。

「昔の俺たちみたいだな!」
「今もだろ」

 円堂と、その発言にすかさず突っ込む風丸と皆で笑いが起こった。不動は口角を片側だけ上げて、目を細めただけだ。そういえば、およそ笑顔という笑顔を見たことがないと気がついて、少し胸が締め付けられた。彼の表情は豊かだと記憶しているが、ごく一時見せた深い憤りと監督の容態を案じていた時の他は、挑発や嘲笑、得意げなしたり顔ばかりだ。笑ってはいるが、どこか陰があるというか、何かが違う。

「なんだよ? どうかしたか」

 考え込んでいるように見えたのだろう、固く腕組みをしたままのおれに不動が言った。夕陽はもう沈みきってしまって、空は徐々に濃い色へ移っている。サングラスを指先で押し上げ、おれは答えた。

「明日の練習メニューを調整しようかと思っていた」
「ふぅん? 何、不動さんのドリブル講座でもやる?」

 得意気で悪戯っぽい笑み。これはおれの思っているのと少し違う。

「そうだな。どうも円堂がいると、ボールを奪われても取り返せばいいという感じになりがちだ。それもそうだが、その前に奪われないようにする工夫もしなければならない」

 不動は自分が言った冗談に真面目な答えが返ってきたのでやや呆然としていたが、すぐにフッと鼻を鳴らした。

「とりあえずメシにしようぜ。大人も腹減ってんだからさ」

 そう言って先にテントエリアへ向かう後ろ姿は、おれがどこか妙だということを既に感じ取っているようだった。別れてから何年も経っているのに、未だに、顔を合わせただけでこの様だ。おれは一人になりたくて、テントエリアに背を向け歩き出した。数分歩いて気持ちが落ち着いたら、すぐに戻るつもりだった。




 *



 気がつくと、暗闇の中に立っていた。森の奥深くまで迷い込んでしまったのかと思ったが、手探りしても何も当たらず、目を開けているはずなのに何も見えない。じわりと恐怖が生まれた時、声が聞こえた。

「安心しろ、心配ない」

 振り向くと、十四歳の自分がゴーグルと青いユニフォームに赤いマントを着けて、しゃんと背筋を伸ばして立っていた。

「誰だ……?」
「おれは、おれだ。誰でもない」

 奇妙な感覚の中に安堵が生じ、何故か信じることができた。時空移動、歴史改変、宇宙戦争ときて、今さら驚くこともあるまい。

「どういうことだ……おれはゴッドエデンの森にいたはず」
「そうだ。しかし、いかんせん、ちょっと悩みすぎだな」
「悩み――不動のこと、か」

 自分に自分の落ち度を指摘される日が来るとは夢にも思っていなかったが、やはり的確なのだから認めるしかない。昔のおれは、おれの周りをゆっくりと歩き始めた。

「なぜ苦しいか、分かるか?」

 昔のおれは自分の足元を見ていたが、おれは黙って首を横に振った。他の人物なら何かしら返答をひねり出したかもしれないが、自分が相手では素直にならざるを得ない。自然に従っている己に恐怖感があったが、昔のおれを型どった彼はやけに落ち着いていたし、何でも知っているらしかった。

「見せたいものがある」

 昔のおれは立ち止まり、ゆっくりと片手を空中で真横に、カーテンを開くかのように動かした。撫でた空間に淡い光が生じ、やがて四角い画面のように形成され、そこには映像が映っていた。
 おれが――色々な場所、様々な年代のおれが、短編映画を何本も流しているように次々と現れては消えていく。昔のおれはゆっくり歩きながら右手で空間を撫で、いくつも光を描いて、おれの周囲を縁なしの画面で埋め尽くした。

「これは……」
「おれの人生だ」

 ある画面では、おれは高校へ行かず海外へ留学し、エリートサッカー選手への道を歩んでいる。またある画面では、おれは帝国大学を首席で卒業し、鬼道家の後継者としてビジネスを学び、知らない女性と腕を組んで歩いている。雷門高校に行くおれもいれば、帝国学園高等部にいるおれもいた。

「これは……例の、パラレルワールドか?」
「少し違うな。こんなにパラレルワールドがあったら、時空がとんでもないことになってしまう。まあ、概念としては近いものがあるだろう」

 昔のおれは画面を消し、ひとつだけ残した。

「気付いたか?」

 そこには不動とおれが、同じユニフォームを着て肩を組んでいた。不動は一点の曇りのない笑顔を浮かべている。無邪気な子供が浮かべるようなそれは、彼がしがらみから全て解き放たれ、この世の恩恵に包まれて心の底から満たされていることを表していた。

「あいつが、笑っている……」

 それ以上の説明は必要なかった。昔のおれは微笑んだ。それはいつもおれがするのと同じ、自分のしていることに完璧な自信を持っているときの微笑み。

「絶対的に圧倒的に容易く支配してみせる。それが鬼道有人の信条だ。そうだろう?」

 皮肉めいた口調で言うと、昔のおれは背を向けた。視界が、ひるがえった赤いマントに遮られ、おれは目を細めた。
 暗闇の中で、おれを呼ぶ声がする。

「――鬼道!」

 目が覚めると、やわらかい苔の絨毯の上に俯せに倒れていた。
 覗き込んでいたらしい不動は、安堵に大きく息を吐いて屈んでいた体を起こす。その顔を、木の枝の隙間から差し込む月光が照らした。

「おい、大丈夫か?」
「ああ――何ともない、大丈夫だ」

 体を起こして、周りに誰もいないことを知る。森の奥で、二人きりということだ。

「びっくりさせんなよ……まさか、寝てたとか言うなよ」
「すまない、大丈夫だ」

 不動は立ち上がって手に付いた土を払い、やれやれと言うようにため息を吐いた。

「お仕事しすぎじゃねェの? みんな待ってンぞ」
「ああ。すまない……」

 おれも立ち上がり、体に異常がないことを確認しながら、不動の後について歩き出した。気温はだいぶ下がり、都会の夜と違って時折爽やかな風が木々の間を通り抜けていく。

「ここは、さっき通ったところじゃないか?」

 おれは完全に不動に道案内を頼っていて、既視感のある独特に枝分かれして蔦の絡まった木を見るまで、迷ったことに気付かなかった。もう少し進んでも、また同じような場所に出た。途方に暮れて携帯電話を取り出すが、この島へ着いたときから圏外だったことを思い出す。

「んだよ、ったく……誰かさんのおかげで、オレまで迷子になっちまったじゃねェか」

 何気なく呟いた不動の言葉の裏に、おれはさっきから感じていた喜びの原因を突き止めた。

「探しに、来てくれたのか」

 未成年ならまだしも、大人が一時間帰って来ない程度のことでは、動く連中ではない。そこには信頼があるし、良い意味で放置してくれているのだ。だがこの男は、いつまで経ってもおれを信じない。それは悪い意味ではなく、おれが怪我をしても周囲に黙っていたり、多少ならと無理をする性格なのを、過剰に気にしているからだ。それも、一度別れたというのに未だに、ずっと同じ強さで。
 おれはそれが嬉しくてつい、とりあえず歩きながらさりげない調子で言ったつもりだったが、どう思われただろうか。気付いたか気付いていないか、不動はいつもの調子を見せた。

「わざわざ聞くことかァ?」

 その声が心をふるわせる。人のことを考えすぎるくらい考えているくせに、怒りを煽りはぐらかして、本心を隠している時の自信過剰な声。おれはたまらなくなって、立ち止まった。不動もおれを気にして立ち止まった。天才と言われ国語の成績だって良かったのに、何から言えば伝わるのか見当もつかない。やっと顔を上げ、おれは口を開いた。

「不動――おれはもう、お前と離れたくない」

 碧色の目が見開かれたあと、不動はいつもの、自嘲気味の苦笑を浮かべた。それをもう、やめさせたい。

「なに、いきなり――」
「おれは、ずっとお前のことが忘れられないんだ」

 咄嗟に、不動の手を握るようにして掴んでいた。十年分の思い出、一緒に過ごした欠片のような日々。このままアルバムに閉じて押し入れに封印なんてしたくない。

「お前がどこへ行こうと勝手だが、おれは動かないと決めた。嫌だと言うのならこの手を離してかまわない」

 不動は繋いだ手をほどこうと弱く揺らした。

「なにワケ分かんねえ事言ってんだよ」

 おれはふっと手を離したが、意思表明のため、差し出したままにした。

「これからどうなるかなんて、誰にも分からない。お前は結婚するかもしれないし、おれはサッカーを辞めてしまうかもしれない、それでも」

 不動が何か言おうとしたが、先に言わせてもらいたい。これはおれの我儘だ。だが、彼がおれのことを少しでも想ってくれるのなら、否定することなどできない。

「――それでも、おれは不動に、そばにいてほしい」

 不動は、驚きと困惑に挟まれて黙ったままおれを見ていた。見つめ続けられなくなって、おれは視線を斜め下へ外す。

「いや、どんな形でもいい。不動がどうするかは関係ないんだ……我儘で自分勝手すぎるとは自負している。だがおれはずっと――」

 言葉が続かなくなってしまい、おれはやっとのことで唾を呑み込んだ。

「一度ちゃんと、この気持ちを伝えておきたかった、ただ……それだけだ」

 一拍置いて小さな声がした。

「なんだよそれ……」

 顔を上げると、不動は見たことのない表情をしていた。

「世界は甘くないって、お前が一番よく知ってんだろ? だからオレは……ああ、クソッ」

 嬉しいような悲しいような、それでも微笑みと言える、たくさんの想いからなる微妙な顔。ともすると泣き出しそうにも見えた。

「不動……」
「ホント、バカだな」

 そっと、差し出したままの手に体温が重ねられた。手に気を取られていて、唇に柔らかい感触が当たってから自覚した。熱は触れただけですぐに離れたが、言葉も見つからず、このまま永遠に時が止まってしまえばいいと思ったとき、不動のくぐもった笑い声で我に返った。

「ったく……知らねえぞ、どうなっても」

 髪をかきあげて、不動は笑う。自嘲の混じった、嬉しそうな表情で。おれは、つられて笑っていた。

「望むところだ」

 並んで、道なき道を進んでいく。しばらく、無言で歩いていた。二人の間に流れる空気は、安定していて、少しこそばゆい。だが今まで積もり積もったものがありすぎて、それが報われたというだけで、今は満足してしまっていた。
 そろそろ何か話をするべきかと思った時、遠くで声が聞こえた。どうやら、捜索隊が来てくれたらしい。もう少しこのままでいたいとも、この今さら青春へ戻ったかのようなこっぱずかしい空気を一旦終わりにしてくれて助かったとも、思った。
 道は自分で切り拓くもの。仲間と協力すれば、もっと素晴らしい場所へ行ける。いつか、愛する人が最高の笑顔を見せてくれるところへ。

 おれは誇るべきパートナーの冷たい手をもう一度握ろうとして、避けられ、何とか三度目で捕まえて、今度こそしっかりと繋いだ。きっとみんな分かってくれるだろう。おれが今こんなにも満たされているのだから。






fin




2014/08



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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki