<死者の日>





 イタリアに来て半年が経とうとしていた。
 十九歳の誕生日は、チームの皆と、監督の家でパーティーを開いてくれた。こんなにもてなしてくれなくていいのにと本気で伝えたら、フィディオに「皆、タダ飲みしたいだけなのさ」と茶を濁されてしまった。その笑顔が言葉を必要としていなくて、ただ微笑を返す。
 暑さや乾いた大気も大分肌に馴染み、頬へのキスも慣れた。こうして少しずつ、気付かないうちに刻は経っていく。

 小さな白い羽根をゴムひもで背中に固定した双子の天使を見かけて、「変わったなぁ」と隣からつぶやきが漏れた。どこにでも売っているような茶色の丸い樹脂フレームがついたサングラスをかけ、ジーンズにシャツにゆったりした薄手のカーディガンといったラフな服装で、二の腕あたりまで伸ばしたドレッドを右肩の上で一つに括っている。デモーニオ・ストラーダは手に持っていた紙製カップから、温かいカフェ・ラッテを啜った。

「"アロウィン"にはあまり馴染みが無かったんだけど、最近は仮装したり、お菓子を配ったりする人も増えたらしいよ。楽しめれば何でもいいという考えには、基本的に賛成だからかなぁ」

 訛った発音でのんびりと言うデモーニオに、鬼道は軽く笑って応じた。我々は快楽を求め続ける。些細なことでも、偉大なことでも。
 市場通りに入り、通行人が増えたので、デモーニオと距離を詰めて歩く。

「知っているか? 某合衆国では、ホラー・コンテストなどというものがあるらしいぞ。西海岸の家は庭やポーチや家の中まで使って大層な飾りつけをして、家族全員でコスチュームを着るんだ」
「へぇえ! すごいね」
「毎年よくそんなことに金をかけられるよな。まあ我々日本人も、企業戦略に乗せられまくっているが、さすがにコンテストまではしない」

 あはは、と楽しそうにデモーニオが笑った。

「イタリアではね、カボチャのお祭りは無いんだ。あ、お祭りというより魔除けの儀式かな? こっちでは、アロウィンよりも1日がたくさんの聖人たちを讃えるための祭日で、次の2日は墓参りをするんだ。"Festa dei Morti"って言うんだよ。ホラ、」

 デモーニオがさした指の先を見ると、菓子店のショー・ウィンドウに、骨の形をしたクッキー、松の実とワインを入れたパン、ソラマメの形のビスコッティなどが、その他小さな人形やモチーフ、造花などと一緒に、奇妙な雰囲気でディスプレイされていた。

「ガイコツとか棺桶に見立てたお菓子や料理を食べて、亡くなった人のことを語らったりするんだ。面白いだろ」
「ソラマメは死者の日に食べる、というのは聞いたことがあるな」

 奇妙な雰囲気を感じた要因はきっと、死というテーマを装飾しているのが、カラフルで時にパステル調の色合いであったり、モチーフであるオバケやコウモリやガイコツの表情が、皮肉に彩られた愛嬌のあるものだからだろう。子供向けにデフォルメされているものでも、どこかシュールさが漂っている。それは心地よい奇妙さで、おどろおどろしい恐怖に対して安堵をもたらすのだった。
ポケットの携帯が振動で着信を知らせる。開けてみればショートメールだった。

「それ、フドー?」
「ああ。空港に着いたらしい」

 ふぅん、と楽しげなデモーニオがカフェ・ラッテを飲み干す間に、親指で不動に合鍵の場所を伝える短いメッセージを送った。携帯をポケットに戻し、再び歩き出す。住宅の間の細い道を通って、アルノ川に沿った道に出る。大通りとは違い、人気がなくて静かだ。

「今日は、お菓子かイタズラか、って言うんでしょ」
「うん? ……ああ、ハロウィンか」

 西日にきらめく川を行くボートの積み荷が何であるか想像を膨らませていた鬼道の反応が少し鈍かったのを見て、デモーニオはなぜか、さらに上機嫌になったようだった。

「ね、イタリア語だとなんて言うか分かる?」

 振り向いた先には、悪戯っぽい微笑みがあった。気を取られた間、答えが遅れる。

「dolcetto o scherzetto? って、言うんだよ……」

 耳に馴染んだやや高めの中低音が紡ぐ美しい響きに聴き惚れ、相手の動作を認知して、えっ、と思った次の瞬間。久しぶりに、奪われたという感覚がした。
 デモーニオはやわらかい唇で子供のように無邪気に愛撫する。絡みつこうとする腕を制止に掴むが、やめる気配がない。ここは誰が見るか分からない都会の川のほとりなのに、すぐにでも組み敷かれそうな熱を感じ、困惑したまま、息継ぎの隙に思い切って顔を横へ向けた。その熱に、胸の奥が恐れざわめき、違和感が拡がって目眩がしてくる。

「……ざんねーん」
「デモーニオ……!」

 戻した顔をしかめるが、無邪気ないたずらっ子のように心から楽しげな微笑みを見て、叱る気が失せてしまう。自分では見えないが、青ざめた顔に血の気が徐々に戻っていく気がした。

「ゴメンね」

 言葉を探して困った顔をしていたら、デモーニオは鬼道の肩にかかるドレッドの房を手にとって囁いた。仕方ないと言いたげな溜息で応えた後、申し訳なさが募ってきた。

「いや……おれの方こそ、すまない」

 その先を続けられず、言葉選びを迷う。気まずい空気にならないのは、彼が振りまく天性の朗らかさのおかげだろうか。

「いいよ。ユートとこうしてると、あまりにも楽しくて、ついイタズラしたくなっちゃってさ」

 ニコッと笑ったその顔に、微かに浮かぶ羨望、それも古くからのものを見て、胸の奥がつままれたようになる。

「きもちわるかった?」
「いや! 違うんだ、そんなことない」

 だが、やけに冷静でもある。
 鬼道は、今しがたの唇への愛撫を思い返した。包み込み、全てを受け入れようとする、その体は同じ痛みを知っている。もしも重ねていたら、繋げていたら、どうなっていただろうかと、思わずにはいられない。だが今ごろになって、体は拒否反応を示す。心が真実を知ってしまったからだ。そのことを、たったいま自覚した。

「もう少し早く、イタリアへ来ていれば良かったな……」

 例えば二年前くらいの自分なら、誘いを断らずに自ら引き受けただろう。運命の僅差を暗に示して自嘲に浮かべたうす暗い笑みと共に言うと、デモーニオは嬉しそうに口の端を上げた。

「そうかな?」

 のほほんと聴こえたそれがやけに冷淡にも聴こえ、鬼道は少し焦る。

「お前は、……」

 しかしやはり、聞くのも野暮な気がしてまた口を閉じた。デモーニオは言いかけた内容を推測して、気遣いからではなく勝手に答える。

「オレはいいんだー、……ユートとは、双子の兄弟みたいに感じてるから」

 それは鬼道が言いかけた内容からさらに飛躍していたが、当たらずとも遠からずであったし、向けられた笑顔の純真無垢さに、思わず自然と優しい微笑みを返した。

「……おれも、そんなふうに感じることがある」

 陽の光に照らされた花のように、ぱあっと目の前の顔が輝く。

「ユートってば!」

 熱烈に抱きつかれて、肩を軽く叩いておいた。
 あの人が作ってくれた、人形の兄弟。それも、悪くはないのかもしれない。




 ・*・*・*・


 日本にいる間不動は、サッカー以外で一緒に何かするということを極力してこなかった。特に墓参りなんて以ての他だと言って、鬼道を嘲笑った。影山の名を口にすれば目を眇め、普段の鬼道を愛していたが、命日や記念日と一年に何度も墓参りに行く鬼道のことは嫌っていた。彼のそんな態度が我慢ならず、冷静さを失いかけたこともある。しかし鬼道はすぐに思った。もう戻れないほど深く沈まぬように、命綱を握ってくれているのだと。

 不動はもう家に着いていた。しばらくイタリアに滞在するというので、どうせなら泊まっていけと言った、というか言わされた。元からそのつもりだったのだろうし、鬼道もそれを望んでいた。時々理由をつけてこうして甘えてくるくせに、肝心な時はするりと交わして逃げていく。見張っていてくれるくせに、それ以上近付こうとしない。

「遅くなってすまない」
「よお」

 借りているアパートのドアを開けると、ジャケットを脱いでリビングのソファにもたれ、寛いでいる姿が目に入った。不動は持っていたスマホをソファの背にかけていたカジュアルジャケットのポケットにしまい、それを着る。

「何か食った? オレまだなんだけど」
「ああ……おれも、まだだ。外へ行くか」

 早く伝えておかなければと思って、すぐに切り出したのは賢明だった。

「来て早々ですまないが、明後日は墓参りに行く」
「誰の?」
「……総帥の」

 不動を取り巻く空気が、一変した。伝えた場所によっては、周囲に何事かと思われる事態になりかねない。
「墓? あんの? こっちに?」
「ああ。……フィディオが作った、"ミスターKの墓"だ」

 ほとほと呆れたといった様子で、不動は大袈裟だがやる気なさげにその場でくるりと回り、鬼道から数歩離れた。

「2日は死者の日といって、日本でいう御盆みたいなものなんだ。ほら、メキシコにもあるだろう、あっちは結構派手な祭りだが」
「フーン。で、オレにも付き合えってか」

 言葉にあからさまなトゲがあるが、全面否定はしない辺り、彼も甘いと思う。

「……さっき、誰かと会ってた?」

 弱味を握るつもりなのか、交換条件を作るつもりなのか、不動の顔に侮るような色が滲む。

「ああ。デモーニオの買い物に付き合った」
「はァ~、デモーニオ、ね……まあいいや」

 相手を聞いて、それ以上の詮索を中止した理由を、図りかねて鬼道は自ら言う。

「……聞かないのか」

 不動はうんざりしたように片手を振る。昔から直感が鋭いことが、彼の強みであるはずなのに。

「聞いたってしょうがねェだろ、――」

 玄関へ行こうとするその背に、無理矢理告げる。これから伝えたいことのために、言っておかなければならない情報だった。

「キス、されただけだ。一方的に」

 くすんだ青緑色の眼が鋭く光る。それを隠そうと、不動はすぐに顔を背けた。

「聞きたくねえっつってんだろォ……」

 男同士、特に真剣に付き合っているわけでもなく、云わば腐れ縁のようなもので、体裁としては"なんだかんだ不動が鬼道の面倒を見ている"。鬼道が誰とキスをしようが、誰のことを想おうが、不動に口出しはできない。
 そんな今までの関係を、いま壊そうとしている。鬼道は口を大きめに開けて、はっきりとした発音で話し始めた。

「だが違和感があったんだ。今までおれは誰かと誰かを比べたりするのは卑怯だと思っていたから、できるだけしてこなかった。だが、デモーニオがデモーニオじゃない、別の人のように思えて、……怖かった。線を越えていい人物と、そうでない人物がいるということに、今更になって気が付いた」

 黙っていられなかったのは、真実の心地好さを知ってしまったからだ。一抹の不安がむくむくと膨れ上がるが、どこかで、わけもなく不動を信じている自分がいた。
 彼はちらと鬼道を見た。

「へー、あっそ。よくわかんねーけど良かったな。じゃ、もう行こうぜ。オレ腹ペッコペコ」

 軽く早口で喋る不動の体越しに手をついて体重をかけ、鬼道はドアが開くのを押し止めた。開きかけたドアが再び沈黙する。

「不動、待ってくれ」
「なんだよ?」
「おれの心はもう、決まっていたんだ」

 不動の目が怒りに燃え上がるのを見た。

「あー、ったくもう。だから、何が言いてえんだよっ!」

 叫び怒鳴りたいのを抑えながら不動は数歩、リビングへ戻った。

「……お前がいい」

 その足がぴたりと止まる。ほんの少しの間、やけに長く感じた沈黙があり、不動は立ち尽くしていた。

「……ハ、誰かといちゃついた口でなんか、何言っても信用度低すぎだって分かるよな? 天才さんよォ」

 一瞬、いつかのペイント頭が脳裏に蘇ったが、鬼道は動じなかった。言いたいことを伝えたせいか、驚くほど心が穏やかだ。一歩ずつ近付いて、手を伸ばす。

「ああ、分かっている……」

 その首を抱き寄せて、すがるように力を込める。不動は待っていたが、その体が、何でもないように見せようとしていながら強張ったのがわかった。

「もういやだ。たくさんだ」

 もう失いたくないから、もう迷いたくない。"言いたいこと"は、5年前からずっと"言いたいこと"だったのだと分かって、それが言えて落ち着いたのだと分かって、鬼道は小さく息を吐いた。だが彼はまだ、その先に待ち受けるものの大きさを知らなかった。

「甘くなくていい、優しくしてくれなくていい」

 こんな風に、受け入れの態勢をとると逆上するのを知っている。思った通り勢いよく壁に叩きつけられ、背中が鈍い音を響かせた。

「んじゃ、お望み通り、イタズラしてやるよ! 痛いのが、苦しいのが大好きなんだろ……!」

 シャツを掴んで引っ張られ、濃厚なキスが強引に始まる。吐息を漏らし、彼の肩につかまって、煽るように喘いだ。空気を求める唇を乱暴に塞がれ、苦しむ手首に痛いほど力を籠められる。苦痛に耐え、身構えながら、鬼道は待つことにした。
 だが、いつもと違って、不動はそれ以上動かなかった。ふっと押し付けられていたものがゆるんで、鬼道は驚く。
 束の間見つめ合ったその目が、南の海のように光っている。見惚れたそれにフイと視線を外され、我に返った。

「なっ……、なぜ、」

 不動は小さく舌打ちを一つ、鬼道の服を握っていた手を突き放すようにした。力が抜けて、ズルズルと壁伝いにその場へ座り込む鬼道は、不動を見上げた。
 遅れて込み上がってきた感情が、彼の顔を塗りつぶしていく。唇を噛み、頭痛がするのか額を撫で、鼻の付け根を軽く押さえた。大きな溜め息を吐いたあと、不動が言う。

「……分かったよ。一緒に行きゃいいんだろ……」
「不動……」

 廊下に、並んで隣に座る肩へ額をそっと押し付ける。それは祈りのようで、謝罪のようで、許しのようでもあった。抱き寄せるのではなく、単に置場所にしただけという感じで肩に乗せられた腕の重みが、やけに心を震わせた。

「まだまだ問題は山積みなんだよ、覚悟しとけよ」
「ああ……分かっている」

 声が震えそうになって、思わず自分で自分を自嘲に笑った。

「まずは、はらへり問題だな。どっか行こうぜ? 食ってねーからこうやってイガイガすんだよ」

 無理やり呆れたようなわざとらしい嘆息に笑って、言う。

「お前の好きなものを作ってやるから、手伝え」
「アハ……何だよ、それ」

 やっと、笑い声を聴けた。それがどんなにか、嬉しいことだろう。
 同時に立ち上がって、自然な流れで寄り添っていた。機嫌を損ねても構わないほどキスがしたかった、だから不動に唇を押し付けた。
 不動は応えた。さっきの中途半端なキスではなく、いつもより幼稚さが抜けたキス。

 そう、この感覚だ。全身が細胞レベルで歓喜し、熱く痺れを感じて、脳が快感に染まっていく。
 小さな悪意なき悪戯によって引き起こされたのは、ビッグバンのような小さな変化。二日後に集まる顔ぶれと、これからの未来を思い描いて、しっかりと手を握った。甘さはまだ、要らない。




Happy Halloween!



2015/10

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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki