<わけの分からないピロートーク>






 高校二年生の初夏。授業終了後の教室で進路の話題になり、オレはぼんやり横で聞いてないフリをしながらノートをまとめていた。鬼道とは別のクラスだから、早く迎えに行って一緒に部活棟へ行きたいからだ。だから会話には参加しないで、彼らの横を通り過ぎて行く。
 進路なんて、もう決まっているのだ。
 問題は、目標を達成する過程において、一時的に鬼道と離れなければならないということ。体温が恋しいわけではないと強がってみても、到底不可能に思えた。

「お待たせ」

 いつもより三分ほど遅れて、既に廊下に立っていた肩に軽く触れ、気付いた鬼道と一緒に歩き出す。

「……今日は、あとで時間あるか?」

 周囲に誰もいないところを歩いているとき、鬼道が言った。小さな声でも、耳の近くで喋られるとよく聞こえる。
 鬼道から誘ってくるなんて珍しく、にやけないようにするのが精一杯だ。

「もちろん」

 間を置かずに、嬉しさを隠さず答えると、鬼道は立ち止まって少しはにかんだ笑みを口元に浮かべ、また歩き出した。

 そろそろ二時だろうか。真っ暗な静寂の中で、互いの体温に包まれて横たわっている。
 こんなふうに、手を握るでもなく触れ合って、指先でじゃれあい、ゆったりと時間が過ぎることに喜びを感じるようになるとは。オレはどこか感慨深く、微睡んでいた。
 肌に触れるたびに、指先に微細な電流が走って心臓をわずかに痺れさせる。それを恍惚の中で繰り返しながら、鬼道は呟くように言った。

「おれたち人間は、原子で出来ているだろう。目に見えないほど細かい粒子が集合体となって目に見えるようになっているだけで、実際、様々な種類の原子が細胞を形作り、おれたちは一つの宇宙を構成している同じ原子で創られている」

 何の講義が始まったのかと思い、茫然と聞いていた。鬼道は時々こうして、わけの分からないことを勝手に語りだす。今日のテーマは特に変わっている。

「だがこうして物体を認識し、触れることができるのは、おれたちが鈍感だからなんだ」

 まるでひとつひとつの文字を撫でるように紡ぐその声を聴きながら、オレは彼が何を言いたいのか考えようとした。

「オレたちが鈍感だから」
「そうだ」

 声に出して反芻すると、仰向けになっていた鬼道はオレの方へ体ごと向いた。しゅるるり、とシーツが擦れる音が闇に響く。

「それを読んで、おれは、完璧を求めることがばかばかしくなった」

 途端に、何を言いたいのかが見えてきて、その"わけの分からないこと"をもう少し聞いてやろうという気になり、オレも鬼道の方へ体ごと向けて、片腕を枕にする。
 オレの目を覗き込みながら、あどけない子供のようにきらきらとかがやき、恍惚とした赤い目。こんな暗闇で、何が光源になっているのか分からないまま、魅入られたかのようにじっと見つめ返した。

「求めれば求めるほど、きりがない。なぜなら、自分自身は既に完全な存在だからなんだ」
「……十七歳にして、えらい悟っちゃったんだ?」
「そういうわけではないが……」

 鬼道は困惑し、より詳細に説明するための語彙を探して、視線を彷徨わせた。

「鈍感だから、逐一確かめなくてはならない。不安だから失敗する。だが、そうして作っていくものなんだろう、人生は」

 オレが黙っているのは別に疑ったり否定したいわけじゃない、ただ静かにお前の声を聞いてるだけだということを伝えるため、鬼道の手をそっと掴み、その滑らかな甲を親指で撫でた。
 するすると肌を滑る音。
 言葉を探すのは、ボールを狙った場所へ蹴り込むのより何倍もむずかしい。

「失敗から学んで、起こったこと全て身の肥やしにするような帝王サマが言うなら、説得力ありそう」
「……どういう意味だ」

 やわらかい声のままの鬼道が手を握り返そうとしたので、指を開くと、その隙間にゆっくりと絡ませてきた。いわゆる恋人つなぎに落ち着いて、オレの手を下にしたり、鬼道の手を下にしたり、遊びながら考える。

「んー、"おまえの言葉しか信じない"、とか?」
「なるほどな……」

 鬼道がふっと笑う。
 そっと頭を持ち上げて、俺の方へ。ゆっくりと時間を忘れるような、穏やかなキスを交わした。
 鬼道も不安なのだ。漠然とそう思った。だが、それを一生懸命、克服して、前へ進もうとしている。
 心配することはない。心はいつも、繋がっているのだから。オレはオレの道を信じるだけだ。
 論理的でない思考はしないようにしていたが、オレはじわりと心がふるえるのを感じて、鬼道の体をかき抱いた。

 人類が初めて温泉に触れた時は、どのような感覚だったのだろう。
 熱い湯に触れ、驚き、だがもう一度手を入れて、もしかして全身浸かることが出来るんじゃないかと、いつ分かったのだろうか。
 全てを薙ぎ倒し、痛いほどの、大いなる何かに圧倒され、オレは目を閉じた。
 骨まで焦がすような太陽。
 指先の小さな細胞の一つ一つまで満ちている。








2017/06


戻る
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki