<予約は一生分でお願いします。>

 この人はいつも、人が居ない時に予約を入れたがる。メディアに名の知れたプロサッカー選手なのだから仕方ない。オレもわざと前後を開けて、絶対に被らないように気を遣った。気づけば、普通は休みのはずの火曜日に、彼のために店へ行くようになっていた。それもこれも、 日本人離れしたあのふわふわの髪に触りたくて。
 いつも緑のサングラスを掛けていて表情が読みづらい相手だが、意外と気さくに話をしてくれる。子供の頃からというドレッドを丁寧に巻いている間、オレは適当な世間話をしながら、鏡に映った端整な顔を盗み見る。鏡の前には、雑誌やテレビの撮影でも絶対に外さない、派手なサングラスが畳んであり、束の間の休息を与えられている。
 同じ歳で独身、しがない美容師とは違って金持ち。都心のど真ん中で、わざわざうちの店を選んだ理由は何なのだろうか、いつも気になっているが聞けない。他の客なんて女が9割のこの界隈には、美容室なんて腐るほどある。あわよくばオレの印象が良かったからなんて理由であれば嬉しいなと夢を抱きつつ、今日も彼のドレッドを美しく完璧に仕上げてみせた。

 

 *** 

 おれが一件の美容室に足繁く通うわけを話そう。
 例え雑誌やTVの取材などが無くとも、帝国学園の新総帥というだけで、生徒たちだけでなく全国民が注目している。ドレッドはおれのアイデンティティーであり、ゴーグルと同様にとても重要だったから、常に完璧にしていたかった。
 今までは何件かの美容室を回っていた。その都度変わる混み具合や、美容師の腕に差があったりと、色々な理由からだ。
 ある時偶々ネットで見つけて予約した店に、天才的な美容師がいた。整った顔立ちをしているのに愛想の良くない男は、この難儀な髪型を美しく完璧に仕上げてみせた。見かけは重要でないとしても、おれはすっかり奴の腕に惚れ込んでしまった。
 他のお客に会いたくないと金にものを言わせる我儘で手間のかかる髪型が毎週のように通うので、そのうち休みだと言うのにおれのためだけに店を開けてくれるようになった。繁昌している分、他のお客に迷惑がかからないように配慮しているのだろう。他に二人の美容師と三人のスタッフがいたが、店長はどうやら、おれの担当のようだった。
 そんな彼に申し訳なく感じ、専属美容師にならないかと話を持ちかけてみた。どうせ働くなら同じ事、給料と寝床さえあればいいと思った。こちらはいつでも気楽にセットしてもらえる。しかし奴は断った。

「だってもう既に専属みたいなもんじゃないすか」
「いや、うちに住み込みでだ。そうすれば毎日完璧にセットしてもらえるだろう。不自由しない給料を払おう」
「……御免ですね」
「何?」
「雇われるようなタチじゃないんで。それに、オレがいないと、この店ダメだし」

 プライドがわずかに傷ついたが、それよりも感心のほうが大きかった。さらに、それを上回る興味が湧いたことも認めなければなるまい。芯のある人間はどのような場合も魅力的なものだ。しかも奴は、やや慌てて付け加えた。

「あっ、別にアンタのことが嫌いとかってんじゃないですよ。すげぇ良い話だし有り難いと思うし、光栄です。確かに、忙しいのに毎週毎週、わざわざ来るってのも大変ですよね」

 嫌いの対義語が勝手に浮かんで、一人で有頂天になる。此処のところ久しく感じていなかった胸のときめきを、必死で隠そうとしていた。

「いや、車だから大したことはない。おれのためにわざわざ休日を潰すのが申し訳なくて言ってみただけだ」
「ああ、大丈夫ですよ。オレだけ特別に、他の日に休みもらってるんで」

 じゃないと身が持ちませんよと笑う姿を見て、さらに心が乱される。
 計算高いおれの頭にある考えが浮かぶ。

「それなら良かった。ではこれから飯でも食いに行かないか? いつもの礼だ」
「えっ……ええと、あいにく予定があるんで」

 あっさりフラれてしまいぐうの音も出ない。何を自信満々に構えていたのだろう、突然すぎて引いたにせよ恐縮したにせよ、断る方が自然だ。

「そうか」

 言ってみただけとばかりに微笑んで格好をつけ、早々に退散しようとしたところへ、奴は言った。

「来週なら空いてますけど?」

 レジで処理の終わったクレジットカードを返しながら見せた、少し照れてもいるような微笑に、おれはすっかり舞い上がってしまった。意識しているのかいないのか、なかなかの策士である。もしMFだったなら、敵を翻弄し作戦の裏をかくことが得意なのではあるまいか。

「来るなら、ですけど。店も開いてます」
「そうか。ではまた来るとしよう」
「……待ってますよ」

 こちらもまた、新たな戦略を練る必要がありそうだ。ドアのベルも心地よく、夜の街に輝く街灯やネオンサインの光が、祝福と応援に瞬いているようで、おれはひどく上機嫌で車へ乗り込んだ。
 ヘアスタイルは今日も完璧である。

 

 *** 

 毎日毎日、色々な客が来る。殆どが定期的に来る常連客で、二十代から四十代の女性。中にはモデルや女優もいるが、どちらかと言えば技術で売っている店だし裏路地とは言え激戦区だから家賃も高いため、カットとシャンプーだけでもそれなりに取るので客層が限定されている。
 そして、そういう金に余裕のある上品な既婚女性ほど、欲望が強い。

「彼、イケメンよね~」

 俳優や映画の情報を専門にしている月刊雑誌を捲り、三十半ばと思われる彼女は言った。ちらりと見た先には、例のドレッドとサングラス。私服姿で、どこかのブランドの宣伝を兼ねたインタビューらしい。ついでに、彼女の薬指には退屈そうな顔の小さなダイヤがひとつ。

「へー、ファンなんですか?」

 この奥ゆかしいミセスは答える代わりにウフフと笑った。

「男性にも人気があるんでしょ?」

 ええまあ、オレはサッカー観ませんが。人気ですよね。そんな風に無難に答えておく。

「素顔は公開しないらしいですね」
「そうそう、ミステリアスなところがまた、たまらないのよね~」

 顔が半分隠れていてもいいのか。女はよく分からない。いや、もしかしたら自分は素顔を知ってしまっているからそう思うだけで、素顔を知らないままでも魅力的に思えたのかもしれない。

「彼女はどんな人なんでしょうねぇ」

 興味があるんだか無いんだか分からないイントネーションで話を繋いで行くが彼女にとっては何でもいいらしい。オレが喋らなくても一人で延々と語っていそうだ。

「財閥の跡取り息子だから、それはもう素敵なご令嬢とか女優さんとか……選び放題よね。跡取りって言っても、今はお父様の許しを頂いて、当分プロで活躍していくそうでね。まさに今を駆け抜けるスター選手って感じよね。あちこちからオファーが耐えないんですって。私、彼のせいでサッカーに詳しくなっちゃったのよ」
「そうなんですか、すごいですね」

 笑いながら、熱っぽく語る彼女の夫はどんな男なのだろうと推測してみる。きっと大して取り柄のない、平凡な商社マンか銀行員などだろう。

「でも、実はあっちの方っていう噂もあってね、私ずっと目を光らせてるのよ」

 爛々と輝いていたであろう彼女の目を見ないで良かった。もう少しで吹き出すところだった。

「はい、できましたよ~。いかがですか?」

 思いっきり笑顔になれた理由は、どうか聞かないで欲しい。

 

 *** 

 源田と二人で移動している時だった。他愛ない会話というのは、思いがけない方向へ傾くことがある。

「最近、髪が傷んでる気がしてさ。シャンプーが悪いのかな」
「そうは見えないぞ?」

 携帯電話を操作しながら唸る源田は画面を傾けて、どこかのサイトの紹介ページを見せてきた。

「いつもと違う美容室で見てもらおうかと思うんだ。鬼道、ここ知ってるか? 評判が良いんだけど、他にお薦めがあったら教えてくれないか?」

 見覚えのありすぎる店名を見て、動揺してしまった。ああ、こんなことでは、一流司令塔は務まらない。

「……そこはお薦めしない。ダメだった。そうだな、ちょっと貸してくれ――こっちの方がお前の髪をちゃんと見てくれると思うぞ」

 以前行ったことのある、技術力のある店を表示して携帯電話を返す。
 源田は何の疑問も抱いていないようだった。

「さすが鬼道だな、ありがとう」
「あとは佐久間に聞け」
「それが、佐久間が最近ヘンなんだ。どこか上の空というか、心ここにあらずというか」

 それでおれに聞いたのかと納得した。髪型ならともかく、髪質については佐久間の方が詳しいはずなのにおかしいと思った。

「なにかあったのか?」

 気分の起伏が激しい佐久間の話は尽きない。話題が変わったことに安堵しつつ、おれは少しでも動揺したことと、源田に紹介しなかったことを恥じた。

 

 *** 

 不動は同僚と飲みに来ていた。明日は定休日で、その定休日にすら予約を入れてくる難儀な常連客は、三ヶ月前からイタリアへ行っている。

「ところでさ。例えばの話、こーゆう居酒屋でさ、可愛い女の子がいたとする」
「おお? なんだよ急に?」
「まあ聞けって。そんで、なんとかして付き合いてぇなーつって、まずは気を引くために通いつめるだろ?」
「ああー、うん」

 オープンしてから五年、やっと軌道に乗ってきた感があるのは、開店当初から一緒に頑張って来てくれた彼のおかげでもある。

「それで、どうする?」
「どうするって?」
「お前ならどうするかって聞いてんだよ」
「何それ、自分の話?」
「オレじゃねーよ」
「怪しー」
「っせーな。で、どうする? 通いつめて、いつもありがとうございまーすとか、言ってもらえるようになったら」

 カウンターの向こうで、三十五くらいの筋骨隆々とした男が、黙々と皿を拭いている。

「そうだなー、やっぱデートに誘うだろー、んで距離感つかんだらジワジワ様子見て、良さそうなら三回目くらいでお泊まりかな」
「マジで。早くねぇ?」
「何言ってんだよ、妥当だと思うけど?」
「つうか、それじゃヤりたいだけじゃん?」
「何お前、紳士発言? 意外ー」
「うっせーな、女はよく分かんねーんだよ」
「ああ、男の方が気ィ使わなくて済むよな」
「そうそう……考えてることも大抵同じだしな。ねみーとか、腹へったーとか」

 そこまで言って、はっとした。

「どうした?」

 こんなこといちいち考えるまでもないのかもしれない。同じ年齢の男なのだ、育った環境も価値観も違うだろうが、考えていることは多少は被るはずだ。

「あ……いやー、やっぱ女はこの世に必要だわ。俺たちに変化を与えるという点に於いて」
「はあ? なんだよ不動。今日なんか変だぞ」
「わり、そろそろ帰るわ」
「おう」

 勘定を済ませた不動に、後ろから声がかかった。

「カノジョできたら紹介しろよー」

 ひらりと手を振り店を出て、歩きながら電話をかける。時刻は夜の2時過ぎ、人によっては迷惑だが、またある人には逆効果の場合もある。

『はい』
「オレだよ」
『どちら様でしょうか』

 気取った言い方がわざとらしすぎて吹き出しそうになるのを堪えた。

「独り夜の街を歩くしがない美容師」
『おれは今から家へ帰って食事をするところだ』

 急に普段の調子に戻るなよ、と思わず顔が緩む。電話を取って早々ふざけたりするような性格ではないのに、自分と遊んでくれるのが嬉しい。

「髪はどお?」
『問題ない』
「そっちにもプロがいるんだろ」
『当然だ』

 オレより優秀なのかと聞きたかったが、あまりにも子供じみているので思い留まった。

『用も無いのにかけてくるとはな』

 電話ごしなのに、からかうように笑う声がくすぐったい。

「営業だよ、営業。もうすぐ帰ってくるんだろ? 早く予約してくれないと、埋まっちまいますよ」
『ふむ、それは困るな』

 まただ。心底困っている声が電話越しに息を吐く。火曜に他の予約が入るはずがないと知っているのに。

『帰ってから、予定を見てまた電話する。たぶんお前の時間で、午後だろうな』

 いつ帰るのか知りたいだけで電話したことも、恐らく気付いているのだろう。

「待ってるぜ」

 こんなに上機嫌で家路についたことはない。月がやけに綺麗に見え、一週間分の疲れなんて忘れてしまった。

 

 *** 

 帰国後、月曜日の夜。
 チェックの終わった選手のデータなど、いつものように書類の束を渡すと佐久間が何か言いたげに見たので、どうしたと言わんばかりに話を聞く姿勢を取った。

「最近、楽しそうだな」

 おずおずと口を開いた佐久間からは、何だか負のオーラを感じる。

「そうか?」
「特に月曜から火曜にかけて」

 もっと深刻な話かと身構えていた鬼道は、鼻の奥で相槌を打ちながら鞄に筆記用具や持ち帰る分の書類を入れて帰り支度を始める。

「カノジョが出来たなら教えてくれよ」
「そんなんじゃない」

 思わず即答してしまった。確かに彼女ではないが、楽しそうな理由は同じようなものだ。
 寂しげな佐久間に別れを告げて、外へ出る。源田が言っていたのはこういうことかと、やれやれとため息をついて、夜の空を見上げた。こんなに誰かを好きになったのは久しぶり、いや、もしかしたらこの感情は、生まれて初めてかもしれない。
 車に乗り込み、自問自答しながら遠回りをして家へ帰った。

 

 *** 

 いつものようにセットが終わった髪を眺め、完璧な仕上がりに自己満足に浸る。

「五分マッサージしますよ」

 上着を脱いでいるのを良いことに、肩に手を置く。Yシャツ一枚の布越しにほのかな体温を感じた。

「すまないな。頼む」

 両手の煩悩を捨て去って、無心で肩を揉みほぐす。

「うわ、凝ってるじゃないすか。かってぇー」

 軽い笑い声がした。

「そうか? ……上手いな」
「毎日やってて上手くならなかったら困りますよ」

 両手を組んで、手の甲で軽く叩くようにする。くぐもったパンパンという小気味良い音が、静かな店内に響いた。

「そういや、サッカー、こないだ試合観に行ったんですけど、あれ面白いすね」
「観に行った? スタジアムに行ったのか?」
「ハイ、友達と一緒に」

 しまった余計なことを言った。そう思ったのと同時に、鬼道がフッと自嘲気味に感じる笑みを浮かべた。

「彼女か」
「居ませんよそんなん」

 即答にしても速すぎた気がして、更にまずいなと思う。

「ハイ、お疲れ様でした」

 鬼道は首を回して礼を言った。
 気にしていないのだろうか、顔色一つ変えない鬼道に、預かっていた上着を渡す。受け取ろうとした鬼道と手が触れあって、驚いてお互いに同じタイミングで僅かに手を引いてしまった。

「す、すまない……」
「イエ、こちらこそ……」

 なぜか顔が火照る。頭の中をクエスチョンマークが埋めつくした。なんだ今の?

「また、電話する」

 上着を羽織ってきりっと居ずまいを正し、鬼道は足早に出ていった。
 不動は店の床に腰を下ろしてうずくまり、頭を抱える。

「やべー。なんだこれ……」

 相手は同性、しかも良いとこのお坊っちゃんで、世界中に認められたスター選手だ。たかが一回食事に誘われたくらいで、一体何を期待しているというのか。
 これからどうしたらいいか、真剣に考えなければと思えば思うほど、思考は思春期のようにふわふわしていく。
 でもやっぱり、さっきの感覚では明らかに可能性があると見た。不動はゆっくり立ち上がった。

 

 *** 

 休み前の夜、オレは部屋で一人悶々としていた。あまりくよくよ悩むのは慣れてない。結局、面倒くさくなって、ダメ元で携帯電話を操作した。
 あ、掛けてしまった。電話に出なくていいから、仕事しててくれ、留守電だったらソッコー切る、と頭の中でぐるぐるしていると、通話が開始された音がして一気に心臓が跳ね上がった。もう、ただのアホだ。

『不動か』
「よく分かりましたね」

 落ち着いた声ってどんなだっけ?

『こんな時間にかけてくる奴はおれの知り合いに居ないしな』

 上機嫌らしい声を聞いているだけで、もう気が済んでしまいそうだった。しかし、それでは電話を掛けた意味がない。

「今、何してました?」
『仕事だが』
「あ、かけ直します」
『いや、大丈夫だ。何の用だ?』

 いっそ忙しいからと言って切ってくれればよかったのに。こうなったら強気に出てやる、とオレの闘争心に勝手に火が点く。足の重心を左から右へ移した。

「酒、強いほう?」
『まあまあだな』

 察しの良い天才司令塔はオレの言いたいことをそれだけで理解してくれた。

『――今から出て来いと?』

 そう、その通り。

「まさか。もう日付変わりますよ。明日の夜は?」
『生憎、都合が悪い。次の日はどうだ』
「朝なら空いてますけどね」
『――では来週になってしまうな』
「良いけど?」

 脇を車が通って行った。

『今どこにいるんだ?』

 オレはぶっきらぼうに、あと数分で着く駅の名前を告げた。ちょっとだけ、何か考えているらしい空白を置いてから、鬼道は言った。

『通りから見えるように立ってろ』
「は?」

 まさかと思った時には電話は切れていて、期待に胸が疼く。まさかここまで食いついてくるとは思ってなかったオレは、最悪の事態まで想定して一人悶えた。考えすぎだ。
 数分後、深紅のランボルギーニがしびれるように唸って目の前で止まった。助手席のドアが開いたので覗き込むと、鬼道がちょっと悪い男風な微笑を浮かべていた。俗に言うどや顔とかいうのが、あんなのか。イタリアに住んでいてこうなったのか、生来こうだったのかは疑問だ。たぶん後者。

「なんだ、店から近いんだな、アンタの家」

 シートベルトをしつつ、そう言って隣の横顔を盗み見る。夜の街は車から眺めるのが一番良い。

「そうだな。歩くと二十分以上かかるが」

 走り出した車は、輝く夜の街を走り抜けていく。

「歩いてみたんだ?」
「毎朝ランニングするんだが、いつもと違う回り道をしたら、偶然あの通りに出たんだ」

 嘘だね、場所はしっかり知ってるくせに。にやけそうになる顔を必死で堪える。
 ハンドルを握る筋張った手の上を、色とりどりのネオンの光が滑っていく。どこへ行くのか聞けないオレは、推測の中で期待に胸が破裂しそうだった。緊張していたし、運転を邪魔してはいけないと思ってそれきり黙っていた。もしも話しかけられたら答える気満々でいたのに、車内は適度な緊張感と心地よい静けさに満たされていた。

 

 *** 

 高級車ばかりが並ぶ駐車場に愛車を泊め、ピカピカのエレベーターで上へ向かう。頭上の数字が押したボタンと同じになるまで、やはり無言でいたのは話題が無かったからではない。おれは緊張していたが、それは不動が黙っている理由を何となくだが知っていたからだ。
 鍵を開け、先に中へ入って電気を点けたが、「どうぞ」とか「ここがおれの家だ」とか何か言う間も無く後から入ってきた不動に捕らえられ、ドアが完全に閉まるまでの数秒も惜しんで最高に甘ったるいキスをした。
 胸の奥がざわついて、心臓が激しく本能を叩く。腰が蕩けそうになって、閉じたドアに凭れ何とか耐えた。全く、中学生じゃあるまいし、何をがっついているんだと自己反省する。

「飲みに来たんじゃないのか?」

 こんなキスでおれは陥落しないという強い意思表示を声音に込めようとしたが、どうだろうか、掠れた気がする。何とか、理性を保ちたい。おれは天才司令塔で、どんな作戦を仕掛けてこられても、柔軟に対応できる……息を吸って吐きながら、後ろ手に鍵をかける。不動は何を今更と言わんばかりに挑発的な笑みを浮かべた。ああ、その表情。

「そっちこそ」

 お互いに一瞬呆然として、確認し、再びもう話す必要の無くなった唇を激しく吸い合った。
 おれは頭のどこかで「諦めるな」と自分に言い聞かせていたが、もはやそんなレベルの問題ではないと悟った。サッカーのルールなんか当てはまらない。何もかもが彼方に追いやられ、愛しさだけが募っていく。
 ここがどこだかも忘れて、絡み合う舌に呼吸も忘れかけた。不動の手がおれの腰を強く抱いているし、その目は余裕が無く、真っ直ぐおれを見つめ、求めてくる。
 もう、駄目だ。

 

 *** 

 朝起きると、鬼道はまだ隣で寝息をたてていた。
 肌を寄せ合っていることが妙に恥ずかしくなって、内心慌てながらそっと起き上がる。しかしすぐに目が覚める性質なのか、鬼道は小さく唸って赤い目をしばたいた。

「おはよ」

 不動はベッドに座ったまま、鬼道を見てぎこちなく笑う。

「おはよう……」

 ゆっくりと、とろけるような微笑が現れて、不動にも移った。

「アンタの今日の予定、聞いてないけど。朝メシ作ってやろうか」

 それを見つめ合うのはあまりにも陳腐で恥ずかしくて、同時に顔を逸らす。不動は下着を床から拾った。

「今日は一日空いているんだ……お前はどうなんだ?」

 起き上がった鬼道は、ジーンズを穿く不動を眺める。

「オレ? 晩メシも作れるくらいヒマ」

 そう言って「Tシャツねぇんだけど」と笑いながら玄関の方へ行った不動に声をかけるか迷った。
 結局「好きなだけ居てくれ」とは言えず、黙って自分も着替えた。

「なぁ有人クン」

 Tシャツを見つけたらしい不動が、一晩床に放置された鬼道のシャツとネクタイ、スラックスを拾って来てベッドに置いた。

「目玉焼きとスクランブル、どっち?」
「ゆで卵。半熟で」

 挑戦的に即答した鬼道に、不動はへぇとからかうような顔をして、二人に笑顔がこぼれた。それを、一番好きな表情だと思った。

 

 *** 

 朝食の後はまったりしながら、他愛ない話に織り混ぜつつお互いのことを喋った。開いた箱の中の宝をひとつひとつ手にとって眺め、専門家に説明を受けるみたいに。
 いつまでもこんな時を過ごしたい、まだまだ話し足りないと思っているうちに、時は過ぎた。夜は仕事の関係で会食があるので必然的に別れの時は訪れたが、不動を駅まで送ると言って聞かず、少し早めに出て湾が目の前にある公園を歩いた。
 芝生を横切って、薄暗い遊歩道をゆっくり進んで行く。まだ余韻に浸っていたい。

「今度、サッカー教えてくれよ」
「いいだろう。覚悟しておけ」

 サングラスの下で、鬼道は得意気に笑んだ。不動が二番目に好きな表情だ。

「お前が羨ましい」

 太陽が沈んですぐ、夕方とも夜とも言える淡いブルーの空を眺め、鬼道が呟くように言った。

「どこらへんが?」

 遠くに、大きな客船が停泊しているのが見える。既にもう客室の電気が点いていて、星の塊のように見えた。

「何も後悔してなくて、自由奔放に生きている気がする」
「オレが? 世界を飛び回ってるアンタの方が、自由に見えるけどね」

 鬼道は手すりに腕を預けた。隣に、ポケットに手を突っ込んだまま不動は立つ。目の前は湾の入り口で、波が無いせいで海に見えない海が広がっている。

「オレなんか、毎日後悔ばっかだぜ。たった一つを除いては、大したことねーもんばっかだけど」

 わざとらしい言い方をすると、鬼道が少し笑って食いついてきた。

「たった一つ? よほど悔やんでいるんだな」

 知っているのか全く予測がつかないのか、鬼道は尋ねる。

「知りたい?」
「教えてくれるなら」

 わざとらしすぎただろうか、不動は一拍間を置いてから、どうでもいいことのようなニュアンスで言った。

「アンタの話断ったこと」

 また一拍、間を置いて鬼道が言う。

「なんだ、そんなことか」
「そんなことって」
「あれはもう終わった話だ」

 言うんじゃなかったと後悔していると、鬼道が小さく咳払いをした。

「別の話なら無いこともない」

 落としてから上げてくるとは、完全に鬼道の戦略勝ちである。見れば、またチャプチャプと風に揺れる水面を眺めていた。

「本当はこっちがおれの理想だったんだが、あの時は――早まっておかしなことを言ってしまったんだ。だからあれは忘れてくれ」
「わかった」

 そして待ったが、なかなか続きを言わないので、何だよと笑って促す。

「言えよ」
「お前が承諾してくれるかどうか不安だから、言いたくない」

 不貞腐れたような言い方には、同じように返してやる。

「……そうだな。なんかの契約みてーな関係は真っ平だ」

 ひとつ息を吐いて、鬼道はすっかり暗い水面を眺めたまま口を開いた。

「おれは……知っての通り、不器用で疑り深いんだ。でも、明王が好きだ。どうしようもなく」

 言い終えて、目を合わせる。その赤に宿るのは本物の光だ。

「昨日のことは関係ない。お前が有能な美容師でなくても惚れていただろうし、お前がおれを受け入れてくれなくても構わないと思っている」

 手すりに凭れていた体を起こして、二人は向かい合う。思わず焦って人目を気にしてしまったが、平日の夜が始まった頃でこんな公園というよりはデートスポットと言った方が良いような場所だ、あと一、二時間すればカップルだらけになるかもしれないが、今現在は周りに誰もいない。

「す、すまない。変なことを言ってしまった――」

 慌てて逃げようとしたその唇を捕まえて、そっとキスをした。

「すっかりアンタの虜なんだ、責任取ってくれよ」

 胸元のシャツを掴んで、じっと目を覗き込むが、恥ずかしくなってきて俯いた。

「世界を相手に戦略を練るスター選手じゃなかったとしても。おれは有人に惚れてたと思う」

 口をあんぐりと開けて、目を逸らして閉じた顔は心なしか赤くなっている。

「――なぜそう言いきれる?」

 それに答えるこの台詞は、随分前から用意していた。

「初めて店に来た時、サッカー選手だって気付かなかったから」

 別れの挨拶も次に会う日も告げずに、二人は別々の方向へ歩き出した。何も言わず、振り返らなかったのは、またすぐに会えると確信していたからである。

 

 *** 

 オフシーズンに入り慌ただしく日本に帰ってきて、おれは意味なくどこか憂鬱になっていた。三日前まで、四年に一度の欧州選手権で優勝するために気張っていた上、日本代表に選出されて、意識している以上に精神的負担が大きかったのかもしれない。
 誰もいない部屋の電気を点けると、静まり返った家具たちがにわかに形を浮かび上がらせる。だがおれは荷物を置き、電気を消して、真っ暗な部屋を横切った。
 不動にメールしたが、お互い忙しくてなかなか会えそうにない……おかしい、おれはこんなに弱い人間じゃなかったはずだ。支えてもらいたいなどと、甘えたことを抜かしている暇はない、大人の男だ。
 ああ、この憂鬱には理由があるのだ。半年分冷たくなっていたベッドに全身を預け、何もかも押し出すように深く息を吐いた。

 

 *** 

 ミセスたちの退屈しのぎに用意する最新の雑誌を買いに行かせた従業員が戻ってきた。オレはもう少しでタオルを補充し終わるところだ。もう一人は奥で掃除中。

「戻りましたぁー」
「お帰りー」
「あー、いいなー。帰ってきて誰かがいる生活って」
「何だよ急に」

 オレは相手にせず、レジ台に向かう。レジスターはパソコンソフトを使っていて、顧客リストと予約システムと連動するようにしてある。

「今日の予約三人だっけ?」
「四人」
「ああ、昨日増えたんだっけか」

 言いながらレジ台に置かれた雑誌の山から半分取って、ラックに並べに行くのを横目で見送る。
 その山の下から出てきた週刊誌を見て、表紙に驚いた。見覚えのある人物が女と写っているゴシップ写真の見出しには、デカデカと「日本代表鬼道選手(24)深夜の密会デート」とある。
 帰って来たのは知っていたけど、なんだかんだで会えないまま二週間が過ぎた。日本代表選出祝いを電話で言っただけ。早く予約を入れろと言ったが色々と忙しいらしい、ご苦労なことだ。その一つが、これか。
 写真は暗くて女の顔は分からないが、身なりの良い美人そうなシルエットだ。いかにも良いとこのお嬢様って感じ、どこかの社長令嬢かもしれない。
 同じ男だから考えることも同じだというのは当たっている。こんな関係はいつまでも続くわけがない。だとしたら、せめて専属の美容師でずっと居たい。
 だがオレだけが一番美しくあいつの好みに添うように完璧なスタイリングができるということを、崩さないように保つのは難しい。いくら器用な手を持っていて、類稀な技術を身につけていたとしても、だ。

「店長? どしたん」
「ん? 何でもねぇよ」

 どんな形でもいい、どうしたらいつまでもずっと傍に居られるだろうか?
 こんな風に思う時点で、後戻りできないところまで来てしまったと悟った。

 

 *** 

 雷門イレブンは日に日に成長が見られ、練習に励んでいる姿を眺めていると清々しい気分になる。
 中学生時代を思い出し、郷愁に浸っていると、横でデータを取っていた春奈に言われてしまった。

「兄さん、顔色よくないわね。大丈夫?」
「そうか? 昨日、寝るのが遅かったからかもしれないな。今日は早く寝る」

 心配をありがとうと気持ちを込めて微笑みかけると、春奈は困ったように微笑み返した。

「兄さんの面倒をちゃんと見てくれる人が必要ね。私みたいな」

 おれはそんなに手間がかかるのか?
 思ったことは言わずに置いて、苦笑する。

「自分の面倒くらい自分で見れる」

 春奈は困ったように、だが得意気に教えてくれた。

「気がついてない? 兄さんってすぐ我慢しちゃうでしょ」
「我慢?」
「そう。一人で抱え込んじゃうっていうか。それって一緒に住んでるくらいのレベルじゃないと、分かってあげられないから。誰か好い人いないの?」

 冗談のように言ったのは、おれにプレッシャーをかけないように気を使ってくれているからだ。
 好い人、か。昔ながらの言い方だなと思いながら、妹にまで心配される自分が情けなくなる。

「他人の心配より自分の心配をしろ」
「もう」

 春奈は肩を竦め、また困ったように微笑んだ。
 だが一向にうまい作戦を思いつかない。こういう時はシンプルに正面突破か……駆け引きなんて考えている時点で、逃げていたのかもしれない。
 目の前のグラウンドでは、青春真っ盛りの中学生たちがふとしたことでじゃれ合って笑っていた。
 何でもいいから、とりあえず彼に会おう。まずはそれからだ。

 

 *** 

 月曜の夜遅く、オレは特別に遅い時間で引き受けた常連客を相手に、他の従業員を帰して一人で頑張っていた。やっと今週最後の客が帰り、オレも帰ろうと体を伸ばした矢先、珍しいことがあった。

「あれ、どうしたの」

 ドアを閉めた鬼道は、何だかぎこちない微笑を浮かべている。珍しいと言ったのは、彼はいつも事前に予約を入れてから来たし、それはいつも火曜だったからで。こんなサプライズがあるなら、毎週残業したって悪くない。

「通りすがりだ。明かりが見えたからな」

 嘘だ、わざと寄ったに違いない……なんてのは自意識過剰だろうか?

「珍しいねェ」

 鬼道がオレの言葉を理解しようと、微かに首を傾ける。

「電話してから来るじゃん、いつも」
「――すまない」

 しまった。誤解を解こうとする前に、鬼道がまた口を開いたので機を逸した。

「明日は……どうだ? いつもと同じ、四時頃に。それから夕飯でもと、思うんだが」

 客が座る椅子の背もたれを軽く撫でる。そんな彼にお構いなしに全体の電気を落とし、店の明かりはレジの上にある照明一個だけになった。こんなことはしょっちゅうやってるし、オレがそういう性格だってことも分かってくれてると、この時は思っていた。

「本当は今から家に来いって言いたいんだろ」

 チラと様子を窺うと、鬼道は黙って腕を組んだ。図星の合図。
 さっきのオレの台詞といい、これじゃまるでどっかの間男みたいじゃねぇか。

「最初から素直にそう言えばいいじゃん」

 パソコンの電源を落とす間、沈黙が支配する。空気が不味いんだが、どうすれば。
 だけどこっちだって色々と悩んでたんだ。この二週間、オレから電話をしなかったのには意味がある。

「やはり電話すればよかったな」

 背を向けて、別に彼は少し距離を取ろうと歩いただけなんだろうが、行って欲しくなくて慌てて声をかける。

「お前さぁ、」

 探り合いも出来なくなって、オレは半ば混乱していた。

「何がしたいの?」
「どういう意味だ」

 鬼道はまだ冷静を装っているが、お互いに、会えなかった数ヶ月の鬱憤が溜まりに溜まって、パンク寸前になっているのが分かっていた。いっそ爆発させてやれと思い、オレは攻撃モードに切り替える。

「別にオレは……心配とかはしてない、」

 恋人だから、とハッキリ言い切れなかった自分を殴りたくなった。

「でもさぁ、別に何でもかんでも言えとは言わないけど、なんか言ってくれたっていいと思うんだけど」
「さっきから変だぞ? どうかしたのか」
「変なのはそっちだろ」

 鬼道の芸術的な形の眉がひそめられる。こんなこと言いたいわけじゃなかったのに。

「言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ!」
「だから。こんな……遊んでていいのかよ? あの女はたまたまパパラッチされただけでも、どうせいつか結婚して家を継ぐんだろ」

 訳知り顔で自嘲的な笑みを浮かべて、オレは殴られてもおかしくないと思った。しかし怒りで眉を吊り上げた鬼道は、別の爆弾を落とした。

「何を言っている? おれが結婚するのはお前だ!」

 オレの全ての思考が停止した。

「は?」
「いや違う! 今のは忘れろ」

 鬼道もすぐに些細な言い間違いに気付いたらしく訂正の仕方を考えているようだが、どっちにしろパニクっている。

「は……? イヤちょっと待てよ。何を言ってるはこっちの台詞だよ。どういう……」

 鬼道は開いた両手を空中で止めてやや頭を下げ、「待った」のポーズを強調している。何か色々とツッコむべきところがあるはずだが、何も言葉が出てこない。
 パッと顔を上げた鬼道は、わざとらしい咳払いをした。

「あれだ、雑誌の写真で混乱したんだろう? あれはこの間友達の妹と三人で食事に行ったのを撮られて、すぐ横に豪炎寺がいるのに、訳のわからない記事をでっち上げられたんだ。まったくゴシップ誌というのは捏造で生きているようなもので、とっくに苦情を言ったし圧力もかけた。それにもしもだぞ、おれが結婚するとか、まあまず無いが、もしそうなった場合は、おれは真っ先に明王に言う」

 真剣さと誠実さは十分伝わったが、何かから意識を逸らそうとして慌てているニュアンスが消えないのは気のせいだろうか。一息に言ったせいで乱れた呼吸を整える鬼道を見ながら、オレは間の抜けた声を出した。

「はぁ……そうすか」
「なんだその反応は。十分説明しただろう」
「いや、さっきのがキョウレツで」
「さっきの? ……あぁ」

 鬼道は忘れようとしていたものを再び持ち出され、唸りながら額を押さえた。

「あれは、言葉の綾というか、とにかく忘れて――」

 オレは一歩近付いた。毎回毎回ドキドキさせやがって、本当に飽きないぜ。

「本気で言っちゃった?」

 ほら。分かりやすい。
 口を閉じた鬼道の表情が一気に切羽詰まったようになる。口ごもって目を逸らしたので、右手で左頬をそっと捕らえた。

「本気、と言うか……」

 震える唇を見てしまったオレには、にやりと笑う余裕も無い。

「無理だと思ってた」
「家のことか? 心配ない。お前こそ、何をそんなにこだわるんだ?」

 上手くかわされてしまったが、きっと後でゆっくり聞かせてくれるだろう。嵐の去ったベッドの上とかで。

「だって気になるだろ? フツー。どこまで考えてんのかな~とかさぁ」
「全てをさらけ出せと言うのか?」
「全て? さらけ出す必要なんかねーよ」

 睨んでくる顔にかかっているサングラスを外すと、鬼道は顔に出さないが少し慌てたらしかった。
 至近距離で見つめると、顔を逸らす。いつもならそのままだが、今日はオレに寄り添ってきた。
 心臓がうるさいこととか、腰を抱き寄せた手が震えてるとか、一切どうでもよくなってオレはにやりと笑う。

「店じゃ何もしないぜ?」

 鬼道の表情が些細だが一気に変わった。分かってはいたがどこかで期待していたことを見破られて、期待まではしていなくともそのことを考えていたことを見破られて、動揺を隠そうと必死に表情筋を引き締めている感じ。

「通りに車を停めてある」

 眩暈がしている人のようにゆっくりと、グラサンにドレッドの男は店を出て行った。
 ドアが閉まった直後、超高速で残った閉店作業を片付け、ドアの鍵をかける。もう少しで電気を消し忘れたまま出るところだったが、後はちゃんと確認した。これでミスがあったら、誰かオレをクビにしてくれ。
 派手な車は目の前に停めてあった。助手席を開けると、なぜか怒鳴られた。

「来るな!」

 はい? オレはドアを閉めるか閉めまいか思案する。

「いや、乗ってくれていいんだが! ちょっと待ってくれないか……」

 何をやっているのかと思えば、鬼道はエンジンもかけずに、ハンドルに突っ伏している。
 やれやれと思いながら助手席に座り、ドアを閉めた。

「何やってんの」

 笑いをこらえながら肩を突っつく。返答に困っているようだった。

「勃っちゃった?」
「な……そんな訳ないだろう!」

 ガバッと起き上がった鬼道はケラケラ笑うオレにノせられたことに気付き、多分ちょっとムカついたはずだ。むくれた顔を捕まえて、への字を優しくなぞって開かせる。
 一瞬、時間を忘れた。久しぶりのキスに呼吸も覚束なくなってからやっと離れ、二人とも少し落ち着いた。
 もし歩道から誰かに見られてたとしても、全然気付かなかった。

「家に着いたら、こてんぱんにしてやるからな。覚悟しておけ」
「こてんぱん、って」

 車ン中でも悪くないと思ったが、どうやらそれを察知し、もう何もするな何も言うなと釘を刺したいらしい。
 クスクス笑うオレに腹立たしげに強く息を吐いて、鬼道はアクセルを踏んだ。

 

 *** 

 まただ。
 但し、今度はエレベーターに乗る前から始まっていた。
 誰も見てないからと言って理性を壊そうとちょっかいをかけるオレに怒りつつ、鬼道は何とか力を振り絞って最後の防衛ラインを越えさせまいとしていた。
 エレベーターの中ではキスに応えてくれたものの、すぐに突き放してカメラがどうのと言い出す。そんなことより、がっついている自分を認めたくないだけだ。自慢じゃないが、オレはもう吹っ切れてる。やけにドタバタして、エレベーターも驚いていることだろうが、かまやしない。
 仕方なく手を繋いだが、これも離される。このくらいはいいだろと言わんばかりに反対側の手を捕まえようとして、逃げられた。素早く逃げた腕を掴み、また振り払われる。

「やめろっ。鍵を出す」

 ドアの前で無言で格闘する若い男二人、傍から見ればリア充がじゃれ合っているだけにしか見えない。実際、その通りだが。
 何をそんなに緊張する必要があるのか、鍵を持つ手が微かに震えていて、顔がニヤける。
 さて中へ入るとオレは、固く腕組みをしてツンと口を引き結んだ。やっと人目を気にしなくていいエリアに入って防衛ラインを解除した鬼道は、呆気にとられている。

「どうした」

 自分がおふざけに付き合わなかったので気を悪くしたのかと焦る姿もまた可愛い。オレは壁に凭れて「別に」と言う代わりに肩を竦め、知らんぷりを決め込んだ。あと少しだけ意地悪を続ける。
 鬼道は小さく溜息をついて、同じくらいの身長であるオレの肩に頬を寄せ、すがるように囁いた。

「明王、愛してるんだ……」

 おっと、それは反則だ。ちょっと意地悪して気を引くだけのつもりが、まさかの切り札を突きつけられ、オレは融けそうになって、慌てて自分を構成する色々なものをかき集めた。

「どうしようもなく、だろ?」

 腕組みを解いて抱きしめると、蕩けそうな顔が見えるかと思ったが、なぜか眉間にシワが表れる。

「――許さないぞ、ぜったい許さない」
「なんだよ?」

 赤い目が詰め寄る。

「今、逃げただろう。フェアじゃない」

 バレたか。でも誰が、あんなベタベタのシチュエーションで「オレもだよ」なんて言うかよ?

「そういうのって、言えって言われて言うモンじゃねーだろ」
「言えなんて言ってない」

 ムスッとした鬼道を前に、沈黙が訪れた。オレはにやりと笑う。

「あっ……待て、おれは誤魔化されないぞ――」

 キスの寸前にそんなことを言われたが、抵抗する手も無視して思いっきり激しくしてやった。
 まだ服も脱いでないというのに、自分が耐えられなくなってきた。



 ***  

 おれは終わった後の余韻に浸るようなロマンチストではなかったはずだが、今はすっかり気が緩んで、まだ温かいベッドの中で微睡んでいた。今が何時だかも気にしていないが、明日はちゃんと時間通り起きないとまずい。
 ここでやっと、おれは目覚まし時計のスイッチより大事なことを思い出した。伝えるべきことを伝えなければ。
 シャワーから戻った不動が、髪を拭きながらこちらへ向かって歩いてくる。
 おれより軽く細い体に見えるがスポーツをやらないくせに鍛えているらしく、意外と力強く押さえつけてくるから堪ったものじゃない。気持ちの問題だろうか。
 カーキ色のボクサーパンツだけの姿で欠伸を一つ、視線に気付いた不動がにやりと笑ってゆっくりとベッドを回りこんだ。おれの寝ている脇に立って、おれの上に屈みこんで、髪から滴が落ちておれの首を濡らした。

「愛してる」

 ああ、やっぱりこいつは卑怯だ。
 ゆるむ顔をそのままにしていると、優しい短いキスが降ってきた。
 喩えようもなく幸せな気分になって、おれは分かった。やはりこいつを手放してはいけない、どんなことがあっても。

「日本に、しばらくいることにした」

 さっきまでいた、ベッドの向こう側へ戻りながら、「へぇ」といつもの返事がタオルの中から聞こえる。
 見てないのをいいことに、胸に手を当てて静かに深呼吸した。

「とりあえずここに住まないか」

 とても気持ち良く過ごしていたが寝転がったままでは格好がつかないので、肘をついて上体を起こす。気障な格好だ。

「専属美容師として?」

 一世一代の台詞に対する返答にしては素っ気なく響いた声の裏には、おれへの責問とからかいがある。
 不動はまだ、わしゃわしゃと飛び散る水がおれにかからないように、そっぽを向いて髪を拭いている。
 おれはやはり起き上がってベッドの上に座り、背筋を伸ばす。
 なあ、もう駆け引きなんか要らないんだ。晴れやかな気持ちでおれは言った。

「パートナーとして」

 栗色の癖毛の隙間から、緑の目がおれを見る。目線を外すと同時に不動は嬉しそうに笑って、顔にかかった髪を一気に片手でかき上げた。

「いいぜ」

 片膝を乗せて近付いた彼に唇を差し出す前に、両腕で抱きしめられる。
 抱き返して、ゆっくり息を吸って、吐く。大切な瞬間を噛みしめるように。

「離れろ、暑苦しい」
「やだね」

 重心を背中に傾け力を抜くと、不動と一緒に倒れ込む形になった。理由もなく笑い合って、唇を重ねる。人一倍器用な手が、おれの髪をそっと撫でた。

ゴールイン!



2013/08

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