ある朝、目を覚ますと、カーテンの隙間から射す陽光の中でビー玉のようにきらきらした赤い目がふたつ、無表情にこちらをじっと見ていた。
 思わずオレは一気に上体を起こして、状況を把握しようと周囲を見渡す。欧州から帰国して一時的に借りている、マンションの寝室だ。ここはベッドの上。いつもと変わらないはずなのに、目の前の存在はイレギュラーにも程がある。

「……おまえ……」
「……おまえじゃない、ゆうとだ!」

 生きているし、目の前に存在しているし、おまけに自分の意志で喋っている。
 推定年齢六歳程度の“鬼道有人” が、ベッドの脇に立っていた。少し距離をとっているのは、今来たばかりだからだろうか、警戒しているからだろうか。
 それにしても、どこから?

「あぁ……わりぃ。ゆうと、な。オレは明王、ヨロシク」

 つい下の名前で自己紹介してしまった。有人の怪訝そうな表情は少しも崩れないので、どうやら警戒心は解いてもらえず、全くの初対面であることが伺える。
 オレはベッドから、有人の立っている反対側へゆっくりと下りて、軽く体のスジを伸ばした後、振り向いた。
 やはり、幼児期を脱しようという頃の少年がそこに立っている――気の抜けた部屋着姿のオレを見つめて。

「……あきお」

 反芻するその顔は六歳児にしては落ち着きすぎていて、ぼんやりとだが影が覆っている。

「どうした? 腹減ったか」

 いつもはサングラスや、ゴーグルで隠され続けていた赤い目が、不安そうな光を湛えてこちらを見ていた。くりくりと丸く、ぱっちり開いたつり目。鮮やかな赤は金魚や林檎を連想させる。

「あの……よろしくお願いします」

 そう言って、有人はぺこりと頭を下げた。オレは驚いて動きを止める。まさかこんな小さい子にお辞儀されるとは思わなかったし、何をそんなに畏まってお願いされたのか不明だったからだ。よりにもよって、鬼道有人の分身とも言える存在に。

「ああ……ウン。とりあえず、もうちょっと肩の力抜いていいんじゃね?」

 居間へ案内する。有人はダッフルコートを着ていたので、暖房を入れてコートは脱がせた。上等そうなコーデュロイのズボンと無地のネルシャツに、ニットのベストを着ている。寒がりなのだろうか。お坊ちゃんらしい衣装ではなく、どちらかというと自然で素朴な雰囲気が漂う。
 ソファに連れて行き、座るように促すと、音も立てずに腰を下ろし、行儀よく足を揃えて背筋を伸ばす。オレはとりあえず床に腰を下ろし、普段の癖でソファの前にあるローテーブルに肩肘を乗せた。

「えーと、おま……じゃなくて、ゆうと」

 名前を呼ぶと、きょろきょろと部屋を見回していた赤い目が、ぱっとこちらを向く。見慣れないその目はいつもゴーグルをかけている姿と繋がらないので、別人のように認識しやすい気がした。

「なんでここに居るんだ?」
「……?」

 有人は首をちょっとだけ傾げた。

「じゃあ……誰か、知ってる人は? そうだ、おまえ妹はどうしたよ」
「……はるなは、べつのいえに行ったんです」

 そこはこの世界の同一人物から以前に聞いたのと同じで、音無家に引き取られたのだろう。

「そっか……また会えるから大丈夫だぜ、な」

 手を伸ばして頭をぽんぽんと軽く撫でると、有人の顔にいくらか明るさが戻ったように見えた。

「そうすると……ゆうとは、影山サンとこに行くんじゃなかったのか。どうやってここに来たかとか、何か覚えてねーか?」

 有人は少し考えてから、ふるふると首を横に振った。
 オレは困り果てて、思わず溜息を吐きそうになる。すんでのところでこらえたが、残念度は顔に出てしまっただろう。オレは多少、大人に気を遣いすぎる子供の気持ちが理解できる。だからすぐに微笑を浮かべて、話しかけた。

「あー、わかった。つまり、ゆうとは今、どうしていいか分からなくて困ってると。行くとこも、帰るとこも分かんないわけだな?」

 有人はハッとしてから、強く一度だけ頷いた。

「行くトコ見つかるまで、ここ……オレの家なら、こんなんだけど好きなだけ居ていいぜ。おもちゃとか絵本とか、なんもねーから、つまんねートコだけどさ」
「ううん。ここがいい……」

 そう言ってうつむく有人に、オレはどうにもできなくなって、柔らかいドレッド頭をそっと、ぽんぽんとするしかなかった。
 オレは以前に聞いた鬼道の生い立ちを思い出し、恐らく両親を亡くして施設に入れられた後、大事な妹と離ればなれになってしまい、その後鬼道家に引き取られるはずが、間違って時空の歪みかなんかに迷い込んでしまい、未来のオレのところへ来てしまったのではないかと推理した。
 有人の様子を見ているとそれは合っているように思えるが、なぜ、どうやってかは、全く分からない。
 今考えても仕方ないので、一旦、思考を切り替えることにする。

「腹減ったよな。何か食べるか?」
「……はい」

 まるで、別人のようだ。見た目は子供なのに、あまり子供のように見えないのは、成長した彼しか知らないのと、態度がやけに静かで落ち着いているからだろう。
 その原因は、思い当たる。どうせ会うならもっと前に会いたかったと超次元現象に不満を抱きつつ、困惑を顔に出さないよう気をつけた。

「オレはけっこう料理得意なんだけど……生憎、今は冷蔵庫が寂しくてさ。卵と、パンならあるけど。ホントはホットケーキとかが良いよなぁ?」

 話しながら、キッチンへ向かう。

「だいじょぶです。なんでも」

 顔も上げないで硬く答える有人に苦笑を浮かべ、オレは冷蔵庫から残り二つの卵を取り出した。

「よーし、じゃあちょっと待ってろな」

 料理している間、有人は背が足りなくて見えなかったが手元を見たそうにしていて、危ないからソファで待ってろと言ったが、できることは手伝ってもらうべきなのかもしれないと思った。

★  終始無言で少しずつ食べる有人の様子をさり気なく観察しながら、トーストとスクランブルエッグとコンソメスープで簡単な朝食を済ませた。野菜が無いことを気にするくらいは常識人のつもりだが、中学生以下の子供の面倒なんて見たことがない。
 しかし、まず心を通わせるやり方なら、分かる。

「公園、行くか?」

 ぱっと顔を上げ、一瞬の間を置きコクリと頷いたのを見て、ソファに掛けてあったダッフルコートを取り上げる。有人は何か、自分が迷惑をかけるかどうか一瞬考えてしまったのだろう。

「よーし、じゃあこれ着て」

 自分でもどこか違和感があるが、無理して子供対応に合わせているわけじゃない。
 有人はコートを取り上げた時点で、ソファから立ち上がっていた。歳不相応に察しが良いのは、大人に気を遣わせまいと神経を張り巡らせているからだろう。昔、小学校のクラスメイトに幼くして片親を失くした奴がいたが、あいつもそんな風に神経を張り巡らせ、誰かに心配されないように大体何でも自分で出来るようにしていた。
 小さな体にコートを着せ、シューズやタオルやボールなど常に一式入れて用意してあるスポーツバッグを担いで、オレは玄関へ向かった。
 有人の小さな焦げ茶のローファーが、きちんと揃えて置いてある。しかし鍵のかかった玄関から入れるわけがない。念のため確認したが、鍵はかかっている。鍵を開けて中に入り、有人が閉めてくれたなら納得はできるが。きっと、時空の歪みからタイムジャンプして辿り着いたのが、この玄関だったのだろう。それなら自然だ。とりあえず理解できる。
 スニーカーを履いたオレは追いついた有人が靴を履くのを見守り、一緒に外へ出て鍵を閉めた。

「あの……しごと、いいんですか?」
「ウン? ああ……オレの仕事? 大丈夫、今日はたまたま休みだから」

 そこまで言って、ハッとする。帝国学園に、鬼道有人は居るのだろうか。
 今は帝国学園がFFIに出るまでという契約で、週に五回ほど臨時コーチとして部活の指導をしている。夏には合宿も計画しているし、土日は特別メニューでのトレーニングだ。そんなこんなでなかなか欧州へ戻れないまま日々が過ぎて行き、実戦で活躍したいというフラストレーションとの折り合いをどうつけようか考えながら、ホイッスルを吹いていた。
 この世界はまた、小さな存在によって変わってしまったらしい。

★  平日の午前中だ、公園は散歩する老人が一人と、犬を連れた主婦くらいしかいない。
 オレは木の下にスポーツバッグを置き、使い込んだマイボールを取り出す。見ると、有人が口を少し開けて目を輝かせていた。自己表現が控えめなのは子供の頃からなのか。

「サッカー、やるだろ?」
「やる……!」

 ぎゅっと握った拳が溢れんばかりのやる気に満ちていて、思わず顔がほころぶ。サッカーが大好きなのも、子供の頃からなのだ。
 早速ボールを蹴り始めて、一人で遊ぶのかと思いきやオレに向かって打ってくる。その顔はハツラツと輝いていて、心から楽しいことに集中している純粋さに満ちていた。
 当然、センスも良かった。
 しかし影山が教え込む前の有人を知ってしまったことで、じわじわとオレの心にモヤがかかり始める。
 深入りするな、と本能的にストッパーをかけようとした。これは亡霊みたいなもので、どうせすぐにいなくなるのだからと。
 だが、本当にそうだろうか?

 §★★★

 気付けば昼を過ぎている。三時間ぶっ通しで走り回り続けていても、有人は疲れる兆候すら見せない。
 いつの間にかオレも、有人と一緒になって笑いながらボールを蹴っていた。

「腹減ったな〜。なぁゆうと、昼メシどうすっか。オレんちに戻って何か作るか、ラーメン屋行くか、スパゲティか……」
「らーめん……?」
「ラーメン食ったことある? ねえのか」

 有人は小さく首をふるふると振った。

「よし、じゃあ行くか」

 昼には少し遅い時間だが、閉まっていてもきっと店主は入れてくれるだろう。

★  歩いて十五分ほど、閑静な住宅街を通って駅前商店街へ着く。
 最近新調したばかりのきれいな赤い看板とのれんを見つけ、有人にあれがラーメン屋だと教えてやった。

「よっ、まだやってる?」
「よお。あれ、珍しいな……、不動が子供を連れてるなんて」
「こんにちは」
「こんにちは。……まぁ座れよ」
「こいつはとびたか、サッカーもなかなかだぜ」

 紹介してやると、有人は尊敬の眼差しで飛鷹を見た。

「なかなか、は余計だ……」

 飛鷹はこの子供が鬼道にそっくりだとか、そういったことは一切言ってこない。もしくは聞いてはいけないと勝手に思い込んで黙っている、ということも考えられるが。

「オレとんこつ」
「おれも」
「ぉお、生意気だな〜。ここのとんこつはウマイぜ」
「全部ウマイって……」

 ぼそりと言ってぎこちなく微笑む飛鷹に、怖がるんじゃないかと思ったが、有人は平然としていた。かく言う自分も、目付きは良い方じゃないが。
 オレは手際よく麺を茹でる旧友に話し掛ける。

「最近、鬼道を見たか?」
「何? ……ぁあ、先週キャプテンたちと来たけど……何で聞く?」

 鬼道有人は今までと変わりなく存在するらしい。

「あぁいや、来たならいいんだ」
「なんかあるのか?」
「ねーよ。ちょっとオレとあいつが揉めて。気になってるだけ」
「ふぅん、そうか。まぁお前らにとっちゃ、いつものことだな……」

 オレとの関わり方も、変わりなく。
 多分、今までオレが居た世界に、この有人が突然、超次元的な方法で今朝現れたということだ。

「トイレ」
「あ。えっと……こっちだ」

 小さな声で訴えてくる有人を連れて、店の奥にある薄暗いトイレへ案内する。いい加減に照明設備を変えた方がいい。

「一人で大丈夫か?」
「うん」

 ドアを閉めて、先に席へ戻る。
 どんぶりを片手に、飛鷹がカウンターから顔を出してきた。

「あの子供と、関係あんのか?」
「ねーよ。あいつは鬼道の親戚の子で、ちょっとオレが預かってるだけ。……オレが誘拐したみたいな目で見ンな!」
「やりかねないよな……」
「なんでだよ!」

 旧友ならではの馬鹿げたやりとりに笑っていると、有人が戻って来た。おしぼりで手を拭くやり方を教える。
 ちょうどラーメンも出来上がり、熱々のどんぶりが二つ並ぶ。飛鷹が気を利かせて小椀を出してくれたので、有人の麺をすくい取って盛り付けてやる。

「ホラ、こうやって、これに取ったら食べやすいだろ」
「うん。ありがと」

 具と麺を混ぜてスープに絡める。食べ方を見せてやると、有人も真似していた。汁が熱いので、時々レンゲも使って小椀に取り分けるのを手伝ってやった。
 休憩直前の静かな店内に、しばらく麺を啜る音が続いた。

★  雷雷軒を出ると、昼を過ぎていた。今から電車で向かえば、部活の前に鬼道に会えるだろう。
 辺りを観察する有人に、声をかける。

「疲れたか?」
「ううん」
「んじゃあ、ちょっとオレの友達のとこ、遊びに行くか」
「うん」

 とても気が進まないが……勇気を出して、帝国学園へ向かうことにした。

 §★★★

 駅を下り、数年前は通学で、今は通勤で毎日のように通る道を進んでいく。当然、行く手にそびえる重々しい要塞が見えてくる。

「うわぁ……あれ何?」
「帝国学園って言って、オレも通ってたことがある中学校だよ」
「がっこう!? おれ、ここにかよう!」
「ああ……そうだな、良いと思うぜ」

 やっぱりかと思いながら、オレは苦笑する。小学校もあるはずだ。この世界で有人は入学できるのだろうか。

★  何がどうなっているのか今ひとつ把握しきらず、やはり鬼道がいるかどうかが第一の問題だと思い、有人の手を引いて部活棟へ向かう。この時間なら佐久間と共に生徒抜きで部活の準備やミーティングをしているはずだと分かっていた。
 扉を開けると、本人がいつもと変わらず立っていた。言いようのない安堵に包まれ、オレは少し肩の力を抜く。

「なんだ、不動か。今日は休みじゃないのか」
「なんだってなんだよ。……佐久間は?」
「手洗いじゃないか。すぐ来るだろう……その子は?」

 来た。お決まりの質問だ。

「えーと……お前の親戚の子だろ?」
「……そうか、そうだったな」

 納得すんなよ! と思わずツッコミそうになったが、何とかこらえた。
 鬼道は丁寧にしゃがみ、目線を合わせてサングラス越しに微笑む。

「こんにちは」
「ああ、こんにちは。俺は鬼道有人」
「おれもゆうと。同じだ!」

 ちょっと楽しくなってきて、大きい鬼道の頭もぽんぽんと軽く叩くようにする。うんざりした様子で鬼道はオレの手を押し退けた。

「すごーくお金持ちで、サッカーが上手なんだぜ」
「なんだその雑な説明は……。いいかゆうと、俺の家は日本の経済を牛耳る鬼道財閥だ。それから俺は中学生で天才ゲームメーカーと呼ばれ、仲間たちと共に日本一、世界一のトロフィーを何度も獲り、高校を出てからは欧州で……」
「ハイハイ、そのくらいにしとけよ」
「す、すごい……そんけいします……!!」
「ここ帝国学園は俺が育った場所でもある、じっくり見ていくといい」
「うん!」

 鬼道はその辺にいる他人の子供への対応と同じだった。まさか自分の過去の姿だと思わないわけはないだろうから、オレ以外の人間には有人のことはあまりよく視えていないのかもしれない。
 怪訝な顔で考え事をしていると、有人がひそひそ声で言った。

「あのサングラスかっこいい」
「そぉか?」

 まるで有名なプロサッカー選手にでも会ったかのような雰囲気……それは合っているが、本人だ。
 苦笑を返すと、トイレに行っていたという佐久間が戻ってきてしまった。走り寄って来るなり、はぁぁぁっ……と息を吸い込む。

「なんだこの子! カンワァウゥイィィィィィィィ」
「おい、おい。……おい。落ち着けよ……怖がってるだろ」
「ぇえ~? 怖くないよ~! コワクナイヨ~、お兄サンおともだち!」
「ふどう……」
「近付かないでおこうな」

 オレのズボンを握り怯える有人を見て、ちょっと佐久間が可哀想になりながら、オレはさっさと帰ろうとした。
 佐久間が慌てて、ポケットから老舗メーカーのミルクキャンディを二~三個取り出す。

「待って!! 待ってほら、あの……これ、飴食べる? 美味しいぞ?」
「知らない人から食べ物をもらっちゃダメだって、おかあさんが……」
「良い子だなぁ~!」

 やっぱり、鬼道の幼少期とは結びつかないようだ。いずれにしても危ない奴だし、有人も本能からか珍しく怖がっているので、鬼道に片手を上げて挨拶し、さっさとグラウンドを出た。

「さて、帰るか」

 家に帰る、というのは、どうにも慣れない。オレの家は仮住まいで、ホームという感じがしないからだ。生まれた場所だから、帰国すればそこはかとない安心感がある。でも、オレにとっての家というと、雨風がしのげて寝床があるというイメージしかない。それを家と呼ぶにはまだ早い気がしている。
 だが、有人はオレの提案について肯定的なようだった。

 §★★★

 帝国学園から駅へ向かう途中、帰宅する大学生やらサラリーマンやらで少し通行人が増えてきたので、有人の手をつないだ。
 思っていたより強く握り返されて、オレは少し驚きつつ、確かにこの状況ではぐれたりしたらサイアクだよな……と想像してみてゾッとした。
 迷子になりそうな性格ではないと思うが、万が一のことを考えて連絡先カードを持たせるべきだろう。
 人混みというほどではないが何となく人が多いので、子どもの手をつなぐ。そんな常識が自分の中にも普通にデフォルトとして備わっていたことを実感して、オレはちょっと意外だった。
 いつどこで覚えたのだろう。すれちがった親子の姿か、映画の中か、自分の両親か。

「あきお」
「ん?」

 下の名前で自己紹介するんじゃなかったと、慣れない呼ばれ方に若干後悔しながら斜め下を向くと、有人が立ち止まった。

「と……トイレ」
「あぁ……んじゃ、こっちだ」

 駅の改札に入ってしまえば、中に比較的キレイなトイレがある。オレは有人を連れて、急ぎ足でエスカレーターへ向かった。

★  清掃の行き届いた新しい設備の男子トイレから出て、通路の脇で有人に、ハンカチを持っていない時の手の乾かし方を教え、ささやかな罪悪感に苛まれていると、女子トイレから出てきたのだろう、通りがかった老婦人が立ち止まって声をかけてきた。

「あらァ、かわいいぼうやね。いくつ?」
「6さいです」

 胸を張ってきりりと答える様子はさすがだなと思いつつ、やはりあの性格は生まれつきだったんだなとオレは思った。
 しかしそんな一見和やかな空気は、一瞬で淀む。

「あなたは……パパさん? 随分お若いのねェ」
「いや、オレは……」

 否定しかけて、何と答えれば適切なのか分からなくなり、言葉に詰まってしまった。親戚にしては、目鼻立ちや髪や目の色がかけ離れすぎているし、保護者と言ってもあらぬ誤解を受けそうだ。
 そんなオレの心境を知ってか知らずか、有人ははっきりと言い切った。

「ふどうは、おれのマブダチだ」
「あらまァそうなの、すてきねェ」

 老婦人をご機嫌のまま撃退できたことも驚いたが、6さいの子どもがそんな死語を知っていることにも驚いた。
 しかも、状況と相手によって呼び方を変えるテクニックまで使いこなしている。只者じゃないガキだ。

「……マブダチって何?」

 試しに聞いてみると、有人は少し例え方を考えてから答えた。

「サッカーしてたのしい、なかま」

 なるほど。

「あと、いっこしかないプリンわけてやる」

 なるほど。思わず笑って歩き出しながら、人が少なくても自然に手をつないでいることに気付いた。外を出歩くときは普通なのかもしれないが、有人は十分一人で歩けるだろうと思う。

「でもおれ、プリンはきらいなんだ」

 ホームで電車を待っていると、有人が言った。

「そーなの? オレも」
「ぶどうゼリーがいい」
「ぶどうゼリーね。覚えとくぜ」

 やってきた電車に乗り込み、空いている席に並んで座る。

「あきおは?」
「オレ? ん〜、甘いモンはあんま食わねえけど……強いて言うならチョコかな」
「おれもチョコすき!」
「あ、そう……ぶどうゼリーとどっちすきなの?」
「チョコ」
「チョコつっても色々あるけど、どんなやつ?」
「えっとね……四角くて、小さいやつ。粉かかってる」
「ふーん? スーパーに売ってる?」
「たぶん……」
「よし、じゃあ後で探してみるか」
「うん」

 電車の中でそんな会話をしながら、有人が控えめにぶらぶらと揺らす二本の足をときどき眺めた。座席には一人で座れるが、座ってしまうと足が床まで届かない。
 ふと目が合って、ちょっと笑いあった。いつの間にか、素で会話している。

 §★★★

 主婦の皆さんに混じって、スーパーで買い物をして帰宅した。有人のお気に入りチョコも見つけて、買った。
 朝の時点で薄々気付いていたが、有人に聞いたら、荷物は全く持っていないと言う。つまり、身分証すら無いのだ。なのでスーパーの二軒隣にある衣料量販店で、数枚の着替えと下着と靴下、パジャマを購入した。もちろん、柄は限定されてはいたが、本人に選ばせて。

「本当はチェックじゃなくて、ペンギン柄がいいのか?」
「うん……」
「じゃあ今度ネットで探してみようぜ」
「うん」

 そんな会話をしながら歩き、やっと家へ着いた。
 オレの部屋はマンションの七階。エレベーターに乗ってドアを閉じるボタンを押すと、若い女が走って来るのが見えて、開くボタンを押してやった。

「すみませぇん、ありがとうございますぅ」

 会釈で応じ、再び閉じるボタンを押す。
 有人がまた怯えたように、オレのズボンを少しだけ握って体の陰に隠れようとしていた。
 オレがムスッとしていたら、女は四階で降りて行った。女が居なくなると、有人も手の力をゆるめた。
 今の女も、佐久間も、共通点はロングヘアだということだ。もしかすると、施設でロングヘアの女にイヤな思い出があるのだろうか。

「オレだけじゃ、心もとないよなぁ。なんか、友達の女の人に来てもらったほうがいいか?」

 何となく聞いてみると、有人はぶんぶんと首を振って、嫌そうな顔を見せた。

「別にいい」
「そうか。オレでいいなら、いいけどさ」

 やっと七階へ着いて、ドアの前まで歩いていく。
 鍵を開けようとしているとき、有人が言った。

「あきおがいい……」

 不安そうな顔で、そんな風に言われたら、父性本能がくすぐられないわけにはいかない。というかオレにもそんな部分があったのか、ちょっと驚く。
 わざと不安にさせた罪悪感が多少あったので、オレはやわらかいドレッド頭をぽんぽんとした。

「わかったよ。そんならオレ、しっかりお役目を努めさせていただきます」

 有人は少し安心したようだった。

★  帰宅して、ホコリっぽくなったし、サッカーで汗をかいたまま歩き回ってしまったので、米を炊いている間に自動で溜まるよう設定していた風呂へ入ることにする。

「しっかし、小さい頃からこの頭だったんだなぁ……」

 シャワーキャップなどが無いので、有人に手で目を覆ってもらい、髪を軽く洗った。体は自分で洗えるらしい。

「……」
「どうした?」

 湯船に浸かって黙ってしまったので、心配になって尋ねたら、理由はこうだった。

「何もうかんでない……」
「なに、ペンギン?」
「ペンギンはうかぶんじゃないんだ。プカプカするのはアヒルか、ふねだよ」
「そっか。船ね……」

 まだまだ足りないものがあるようだ。
 オレは水鉄砲のやり方を教えてやった。

★  部屋着がないので、とりあえずパジャマを着せて、その上にニットのベストを着せた。
 夕食は記憶を頼りに、鬼道が好きそうなものを並べて和風にしてやったら、美味そうに平らげていた。朝からさんざんサッカーをやって、昼にラーメンを食べたとはいえ、その後もあちこち歩き回ったから、さぞかし体力を使っただろう。早めに寝かせるべきだろうなと考えつつ、洗い物を片付けた。

「おれもやる」

 いつの間にか有人が、キッチンの入り口に立っていて、考え事をしていたオレは少し驚いた。

「えーっ、良い子だねェおまえ……じゃあ、これでテーブル拭いてきてくれよ」
「わかった!」

 絞った台ふきんを渡すと、意気揚々とダイニングへ戻っていった。
 見ると、短い手を懸命に動かして、しっかりきれいにしようという意志がうかがえる。ついつい、ぼっちゃんは座っててくださいと言いそうになるが、有人はまだ御曹司ではない。
 一体これからどうなるのか分からないが、今、自分にできることは百パーセントやろうと思っていた。

★  子どもが喜びそうな物は何も無い家だと思って、内心焦っていたが、唯一、有人の好きそうなものを見つけた。

「おーい、ゆうとくん。サッカー見たい?」
「見たい!」

 思った通りの食いつきっぷりだ。我先にとテレビの前へ行き、追いかけるオレを見上げる赤い目がきらきらと喜びと期待に輝いている。

「マブダチゆうとのために、とくべつだからな〜」
「いぇ〜いっ!」

 夜になってきたせいもあるが、両手を上げてノリノリだ。あいつにもこんな時期があったのかと思うと、無性に微笑ましくなる。
 ディスクを入れてソファに座り、有人に隣へ座るよう促した。

「うぉぉ〜!」

 録画してとっておいた三年前のオリンピックの試合映像が流れ始め、有人が前のめりになって歓声をあげる。当時から、何度も繰り返し観た先輩たちの戦いぶりは、見るたびに新たな刺激を得られるため、オレもつい真剣に観てしまった。

★  それでもDVDが終わる頃には、すっかり疲れて眠そうな顔になっていた。
 寝室へ案内してニットを脱がせ、ベッドを使っていいと言ったら、一緒に寝ないのはおかしいと言わんばかりの目で見られた。そのまま気付かなかったことにして、部屋を出て行こうとする。

「あきお」
「ぁン?」

 つい振り向いてしまった。
 有人は、今にも壊れそうな表情でオレを見ている。

「あ~……一緒に寝るかぁ?」

 一緒に、と言った時点でこくんっと頷かれ、オレは部屋を出る代わりに、有人に許可をとってから電気を消して、ベッドへ戻ることにした。暗いのは平気らしい。
 別に一緒に寝るのは構わないが、セミダブルとはいえ、オレは一度寝たら朝まで起きないので、有人を潰したり、ベッドの端から床へ落としたりしないか心配だ。でもさっきの顔はもう二度と見たくない。
 布団の中へ入ると、さっきまでと打って変わって満足げな有人が隣に寝転んでいた。

「今日は楽しかったな」
「うん。たのしかった」

 まんぞく100パーセント、という感じで、オレは思わず口元をゆるませた。

「鬼道にも会えたしな?」
「……おれ、やっぱりていこくがくえん行きたくない……」
「ハハハッ、そうか。別にいいよ、帝国に行かなくてもオレは困らないしさ」

 帝国学園に通わないとしたら、どんな風に育つのだろう。今日見たところでは、根本的な部分は知っている鬼道とほとんど変わらないようだった。それでも、有人はまだ、何も塗っていないキャンバスのようで。
 ――ただひたすら純粋なだけの、天使のような存在。
 気付いた時には、涙が頬を伝っていた。ガラにもなく。

「あ、いや……あくびしたら、目にゴミが入ったみてェ」

 我ながらひどい言い訳だ。
 有人は真剣な眼差しで、じっとオレを見つめている。

「もうだいじょぶだぞ! おれがいてやるから」

 その子供らしい精一杯の気遣いに、内容よりも彼の気持ちに対して感情があふれた。
 そんなこと言ってもらわなくても、とっくに癒やされている。だから涙が出たのだ。

「はは……頼もしいねェ。ありがとな」

 やわらかいドレッドをぽんぽんと叩くように撫でて、悔しいような、情けないような気持ちにどうしたらいいか分からず苦笑すると、有人はそのオレの手を取って握った。フフンと誇らしげに構える姿が、よく知る彼の姿の前振りに思えた。

「おやすみ、ゆうと」
「おやすみなさい」

 小さな手をそっと握り返して、オレは目を閉じる。
 願ったって叶わない時もあるから、多くは期待しないが。もし明日も有人がここに居たら、このまま日々が続いていくのだろう。
 先のことは何も分からないけれど、もし続くのなら、全身全霊をかけて守り尽くす。そう誓うほどに、手の中の温もりを眩しく感じた。




end




2014/06

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