<朝の挨拶>






 晴れやかな初夏の朝。
 キャラメルブラウンのつやつやした毛並みをきらめかせながら、廊下をコツコツと革靴の底を鳴らして優雅に歩く姿に、周囲の者たちは何度見ても思わずうっとりと立ち止まる。十七歳のユーナは、それこそ同性でも異性でも誰もが憧れる存在だった。
 鬼道財閥の一人娘というだけで、彼女のステータスは決定してしまうだろう。そこに加えるならば、容姿端麗、文武両道、成績優秀。さらに付け加えて、健康状態が良好なメスのオメガであり、長い耳を顔の両脇に垂らして常にふわふわした短いしっぽを揺らす、誇り高き兎族なのであった。
 あんな高嶺の花には、自分の手なんて届くはずがない。全校アルファがうっとりとため息をつく中、一人だけギラギラと目を光らせる生徒がいた。それが不動アキオだ。

「よお」

 人目につかない場所に来たところでユーナの前に現れ、声をかけると、四角い眼鏡の奥でルビーがむっと睨んできた。

「……おはよう、不動」
「なんだよ。つれねぇなぁ……」

 アキオは狼族だ。ふさふさした長いしっぽを揺らし、自分の感情がそこに現れてしまっていることを自覚しつつ、ユーナの感情を尖った耳と優れた鼻で観察する。

「そろそろヒートじゃねぇの?」
「ひゃっ……」

 今朝は機嫌が悪くなさそうだと判断したアキオは、ユーナの膝まであるプリーツスカートの下から手を入れ、下着越しに丸い双丘を撫でた。一瞬のうちに、もう少しでふわふわのしっぽに指先がたどり着くところだったのだが、思わず反射的に片足を上げて蹴りを繰り出すユーナの足を避けるため飛び退くはめになる。

「やめ……やめろって、言ってるだろう!? この万年発情期ばか!!」

 真っ赤に頬を火照らせて怒るユーナもまた魅力的だと思うが、今はそれよりもっと触っていたい。

「あっぶね。お前なぁ、もうちょっと可愛くできねぇの? オレだって普段はこんなにナンパ野郎みたいな真似しねぇんだよ。鬼道ちゃんに近付くとお前のフェロモンで盛っちまうの」
「じゃあ近付かなければいいだろう! そもそもちゃんと抑制剤は毎朝飲んでるのか?」

 オメガ、アルファの発情期は十六歳から始まるため、高校では毎朝、抑制剤を配っている。アルファの衝動を抑えるためのものと、オメガがヒートに入らないように抑えるためのものだ。各性はそれぞれ政府機関から配布された学生証を見せ、自分の性に合った薬を飲む。もちろん、どちらにも属さないベータは、横から気楽に登校していく。

「飲まなきゃ入れねーだろうが。それに、他のオメガには何とも思わねえんだよ。この意味、分かるだろ?」
「……いいや」

 くるりと踵を返し、ユーナはつかつかと歩き出した。アキオはその後を、少し離れてついて行く。向かった先は階段、その手前にある休憩室。
 保健室の隣に四つあるこの小さな部屋は、簡易ベッドが置かれており、具合が悪くなったり突然ヒートになってしまったオメガなどがいつでも休めるようになっている。
 というのは名目で、実際は早くしてつがいになった校内カップルが使っており、それを学校側も暗黙の了解で管理していた。つがいになる前の、ユーナとアキオのようなカップルも、空いている時間帯にこっそりと利用している。
 今朝は素通りしようとしたユーナだが、アキオが声をかけて来る前からアキオの匂いも少し荒い呼吸の音も感じ取っていたし、尻を撫でられただけでどんどん下着が濡れ始めている。今日はオメガ用の少し分厚くて吸水性のいい専用下着だけで、パッドはいらないと思っていたのに。
 自分でコントロールしようと思っても、フェロモンや愛液腺は言うことを聞かない。心を動かす好意を抱く相手に対しては、特にだ。

「な……オレ、マジだから」
「ふ……不動」

 歩くペースを落として、このまま階段へ向かおうか迷っていると、アキオが後ろから近付いてきた。振り向けば、三号室のドアに手をついたアキオに囲われてしまう。
 きっと、鼓動の音も聴こえているだろう。廊下から話し声がして、こんな場面を見られては堪らないと思い、とりあえず隠れるために三号室のドアを開けた。
 ちょうどそのとき、隣の四号室のドアが開いて、カップルが中から出てきた。

「……あ」
「おう、おはよう! 不動に鬼道!」

 大声で挨拶したのは犬族の円堂マモル、隣に寄り添いながらユーナと目が合ってさっと頬を赤らめた長身の美人が豪炎寺シュウカだ。二人はユーナの親友で、恋人同士だから、カップル部屋を使うのは当たり前のことだが、まさかこんなところでばったり朝の挨拶を交わすことになるとは。
 ユーナはアキオとのことを直接話したことも、紹介したこともあまりなかったのだが、親友であるシュウカに、顔の良いサッカー部の同学年に言い寄られていることや、それについて悪く思っていないこと、むしろ嬉しいかもしれないこと、三ヶ月前にヒートに入って抑制剤を飲んでいたのにアキオを拒みきれず体を許してしまったこと、それによって初体験となってしまったが予想していたより痛くなかったことや、その日からちょくちょく盛られていること、やはり拒めないこと、むしろ嬉しいことなどを相談という建前で話をしてはいた。
 ユーナとしては抑制剤が効かない時があることについて相談したかったのだが、謎を解明するどころか、いつも互いの彼氏の惚気話で終わってしまっているところが新たな悩みである。
 なので、その相手と三号室に入るところをしっかりと目撃され、シュウカは照れくさそうにしながらもアキオを見て、ああこれまでの話は全て不動のことだったのかと言いたげにユーナに微笑みかけたりしてくるものだから、ユーナは語り尽くした親友とはいえ顔から火が出そうなほど熱く羞恥を感じた。

「今日はHR無いから、ゆっくりできるぞ」
「じゃあな〜! また後でな!」

 シュウカとマモルには、軽く片手を振る程度の対応しかできなかった。他の通行人が来て目撃されたりする前にと、急いで三号室の中へ入り鍵を閉める。

「お……おまえのせいだぞ!!!」
「あ? なにがだよ?」

 ベッドと人が一人通れる程度の通路があるだけという狭い部屋なので、ドアを閉めると否が応でも互いの体は密着してしまう。とにかく隠れることを優先したかったため、中が用具入れレベルで狭いことによってさらに欲情が高まる点はすっかり失念していた。
 腕とブレザーで胸を保護していても、今はアキオの胸に寄り添う格好で、彼の熱すぎるほどの体温を全身で感じ、腰を抱き寄せられ、くらくらめまいがするほど心臓が高鳴る。

「鬼道ちゃん」
「んっ……ん……」

 鼻の奥から抜けるような声を漏らして、ユーナは震える。アキオがそっと腰に触れると、びくんと肩がはねた。これまではそういった反応は怯えさせているのかと勘違いしていたが、そうではないらしいことを最近理解しつつある。
 兎は意外に強い。スカートの下から手を入れれば、下着へ辿り着く前に押し倒され、ブレザーを脱ぎ捨てて跨がってくることもあるほど。ふるふると震える小さなしっぽが、スカートの布地に当たっている音が聴こえている。
 ユーナはヒート期用の強い抑制剤を携帯しているが、今日はまだ校門でいつものを飲んだだけだろう。

「ん……ぁ、ふどう……っ」

 ユーナは自分の太ももをアキオの太ももに擦り付け、吐息をこぼした。急いでベルトを外す手が覚束ないくらい沸騰したアキオの頭の片隅で、オメガがヒートに入った時にセックスしたらどうなってしまうのだろう、取り返しのつかないことになるんじゃないだろうかなどと、理性がうるさく騒いでいる。
 しかしそんなことは、今はどうでもいい。やわらかい肌に触れ、雑音が消えていく。
 正気を失う直前、なんとか部屋に備え付けられているコンドームの包装を破った。








2019/11


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