<鬼百合は実る>





キドウグループの中で主軸の役割を務める本社ビルは50フロア分の窓がほとんど暗くなって、一日の業務が終了したことを表している。
ライトアップが控えめになったエントランスからハイヒールを鳴らし、ビル前の路上の定位置に待機している黒い車に乗り込んだのは、二十四という若さで社長に就任し、肩書きだけでなく明晰な頭脳と冷静で的確な判断力によって早くも任を全うしつつある鬼道財閥の一人娘、鬼道有奈である。
赤い瞳から放たれる目線は燃える矢の如く、射抜かれた男性は数知れないが、何百という社員を統率し常に先を行く立場だけでなく、リーダーの器に相応しく女王たる風格を生まれ持ち強気な性格の女性によくあることで、集まり寄って来るのは尻に敷かれたり鞭で打たれたりされたいタイプの男子ばかりだ。女性として一番光輝を放つ時期でなくとも彼らは女王に忠従する蟻のごとく、鬼道を崇め尊敬した。
毎日山のように届く見合い写真の主たちも、鬼道の婿になりたいというよりは、一種の忠誠心をアピールする手段として送り、花を届け、パーティーへ誘うのである。学園に居た頃と変わらないそんな毎日に慣れてしまって、今ではあしらいかたも上達した。
先ほども秘書の佐久間が止めに入る前に、若き部長にくだらない事に労を費やしているより部の成果を上げて認められるようにしろと、鋭い一撃をくれて退社してきたところだ。
実際に、恋愛はくだらないやり取りだと思う。だが鬼道は、自分の恵まれた人生にひとつ大事なものが欠けていることに気付いていた。彼女が森の影にそっと咲く花だったなら、上質な土も新鮮な空気も綺麗な雨も降るのに、いつまで経っても夜が明けず太陽が見えないような感じだ。
六年前の夏を思い出しかけた時、いつの間にか自宅に到着した車のドアが開いて我に返った鬼道は、運転手に労いの言葉をかけて静かな夜の住宅街へ降り立った。

「お帰りなさいませ、有奈様」

出迎えた召し使いたちにコートと鞄を預け、二階へ向かう。
老いた父はさすがに家から出ることが少なくなったが、書斎で会長の職務を如才なく発揮している。

「ただいま戻りました」
「おかえり。遅かったな」
「来週からの新企画について、幹部内でミーティングの必要があったものですから」

仕事に関しての報告をいくつか、間単に済ませて、鬼道は退室のため踵を返した。

「有奈」

先ほどよりも優しげな、会長ではなく父の声が、その足を止める。

「今日、医者に糖尿と言われてしまったよ。歳は取りたくないものだな」

幅のある腹を軽く叩き苦笑する父に、言葉が見つからず鬼道も苦笑を返す。

「あまり……ご無理なさらないでくださいね」
「そんな顔をするな。大丈夫だ。孫の顔を見るまでは死ぬわけにいかんからな」
「お父様……」

複雑な思いで書斎を後にした鬼道は、一階のバスルームへ向かう。父のためにも決断は避けがたい。今まで色恋には無頓着なふりをしてきたが、そろそろ将来を真剣に考えなければいけないと感じた。明日の休日は、ろくに目を通してもいない見合い写真を片っ端から開いて過ごすことになりそうだ。



***



メイドに髪を乾かしてもらい、バスローブ姿で自室へ向かう途中、横切ろうとしたエントランスが何やら騒がしい。緊急事態でも何でもなく、ただの招かれざる客のようだが、こんな時間に一人で乗り込んで来るとは、大した度胸のある奴だ。ガードマンのいる門から玄関ドアまで来れたことだけでも、表彰してやることができるだろう。すぐに追い出されるだろうが、顔だけでも拝んでやろうかと好奇心につられて見に行くと、案の定ボディガードが数人で玄関の大きなドアを遮っていた。

「一体何時だと思っているんですか? お引き取りいただけないなら痛い目に遭ってもらいますよ」
「まだ22時じゃねーか。鬼道ちゃん居るんだろ? 一目でいいんだ、会わせてくれよ」

その声に、鬼道は全身の血が逆流するような感覚に襲われた。

「――源田、入れてやれ」
「は、はい。お嬢様」

怪訝な顔の源田が退くと、そこに六年前姿を消した不動明王が現れた。
モヒカン不良少年の面影を残しつつ、白いメッシュを入れた茶色いくせ毛を肩まで伸ばし、ピアスを開け、その辺の大学生が着ているようなフード付きコートに細身のブラックジーンズはアーミーテイストのショートブーツに入れて、ともかく夜の繁華街をうろつくならまだしも、財閥邸を訪問するような格好ではない。そもそも、隅から隅まで常識自体が無い男だ。

「不動……何しに来た」

解放された途端に、というより鬼道を見つけた途端になぜか固まり黙ってしまった不動に、やっとのことで口を開いた。突然の訪問者はあろうことか一瞬吹き出し、だがすぐに真顔になって鬼道を見た。
なぜ笑ったのか、よくある緊張と混乱の極みから生じた妙な身体的反応であっただろうが、鬼道に不快感を与えたのはそれだけではない。

「帰った」

にやついた顔や態度はともかく突然現れたことだけでも鬼道を大きく揺さぶったうえ、その一言で完全に張り詰めていた糸が切れた。

「――っ、ついて来い」

背を向けて、一段ずつ踏みつけるようにして二階へ向かう。自室へ不動を招き入れ、静かに扉を閉めた。心情としてはここは思いきり、扉が壊れるほど八つ当たりしたいくらいだったのだが、流石に育ちの良さが表れている。そんな彼女は深呼吸をして心を落ち着かせ、完全にパニック状態の思考をまとめる。
だが、振り向いたとき力強く抱き締められて、持っていた言葉をすべて落としてしまった。

「ちょ……、」
「会いたかった。鬼道ちゃん」

聴いたこともない優しい声に危うく涙腺がゆるんでしまったのを、慌てて引き締め、不動の胸を力一杯突き飛ばす。鬼道としては後ろに転ばせるつもりで思いきり打ったのだが、不動は少しよろめいただけですぐに体勢を立て直した。それも頭にきたが、もうそれどころではない。

「私に触るな! 今まで何をしていた! 帰ったって、何だ? ここはお前の家じゃない! 気安く入って来て、何の用だ!」

最初は一つずつ疑問をぶつけるつもりだったのに、気付けば防波堤が崩れたかのように、心に浮かんだままをぶつけていた。

「悪かった」

数秒の沈黙を置いて、不動はそれだけ言った。やけに落ち着いた声で、突然素直に謝られて、肩透かしを食らったような気分になる。鬼道が次に何から攻めるべきかと怒りで混雑した頭で必死に考えていると、沈黙を拒絶と受け取った不動がため息を吐いた。

「六年前のオレは確かにバカだったよ。好きな女に吊り合う男になりたくて、けどそんなんクソ恥ずかしいから、何も言わずに飛び出した。でもおかげで、今やちょっとした有名人になれたんだぜ。あー、鬼道ちゃん、サッカーとか見ねぇだろ?」

唐突に不可解なことを言われて、つり上がった眉をさらに寄せる。不動は苦笑した。

「だよな。まぁそれはいいんだけど」

サッカー選手……それでさっきの身のこなしか、と合点がいく。一瞬他のことに気を取られたせいで、不動が一歩近づいてきたのに気付くのが遅れた。そのせいで隙を突かれ、完全に相手のペースに乗せられてしまった。自嘲気味に微笑む深緑の眼が、ずっと待ち続けていた想いを映して煌めく。

「世界を掴んだ今なら、胸を張ってお前の彼氏を名乗れるぜ」

鬼道は彼がどれだけの思いで姿を消したのか、六年間どんな気持ちで生きてきたのかを無意識のうちに探り当て、感じて、そして理解した。

「何一つ信用できない。お前なんか、とっくに彼氏なんかじゃない。出て行け」

腸が煮えくりかえるほどの怒りが、激しい情熱に変化していく。震えながら強く言い放った先で、不動はまだ動かずに鬼道を見つめている。あと少し耐えれば、不動は出て行って二度と戻らなかっただろう。その憎い顔や声に、二度とこんな風に動揺することも無くなっただろう。
視界がぼやけた瞬間、何がなんだか分からなくなって、不動の表情どころか、何が起こったかも分からなくなった。喉の奥から嗚咽が漏れて口を手で覆うが、両の目から溢れる涙を止めることができない。認めたくないのは最早ただの意地とけちなプライドに過ぎないと分かっていた。

「出て……行けっ」

伸ばされた不動の手を、払いのける気力は残っていた。しかし不動は引き下がらず、手首を掴んで捕らえる。最後の理性が彼を拒んで抵抗したが、強引なキスに吹き飛ばされた。

「……契約解消なんて聞いてねーよ?」
「……して……、どうして……っ」

溢れかえる記憶が、磁石のように彼を求めて叫ぶ。認めたくないと強く思うと同時に本能が声の限りに叫んでいて、鬼道は不動のコートを脱がし、ベルトを外し始めた。

「おい、待……っ」

肩を掴んできた不動に、キスをして黙らせる。不動は面食らったような顔で、驚いていたのだろう、再び突き飛ばすと容易くベッドに倒れた。



まさか彼女に押し倒されるとは思いもよらなかった。いや、かつて妄想したことはあったかもしれないが、いくら勝ち気な性格だからといって、この状況で唐突な行動に、さすがの不動も面食らった。

「マジ待てよ、オレ帰るつもりで……」

体を起こしかけて、上に乗ってきた鬼道に胸を突かれ、またベッドへ沈む。

「この期に及んでまだ私を弄ぶ気か?」

半ば狂乱状態とも言えるだろう鬼道は、涙を手の甲で雑に拭い、真っ赤な目で睨み付けてくる。

「は? イヤ、そーじゃなくて……つーかアレ持ってないし」
「無くてもできる」

どこかのスイッチが入ってしまったにしても、原因は自分である。崖から落ちそうになった理性を片手で支え、手を離すべきかどうか悩みながら不動は上体を起こし、大人しくシャツを脱がされる。

「どこに居たんだ」

さっきより随分と静かな声で尋ねながら、鬼道はバスローブを肩から下ろした。滑らかな肌が露になって、思わずゆっくりと舐めるように撫でる。

「イタリア。オルフェウスってチームで、世界杯で優勝した」

淡々と答え、首筋に口付ける。上質な石鹸の、ハーブや花の混じったアロマのような香りがした。高級感があって、強すぎず、繊細で芳醇な香りだ。
思わず舌を伸ばして舐めると、鬼道の手が背中にしがみついて抱き寄せてきた。求められることがこんなにも心に響くとは、不動は知らなかった。
そのまま下へ向かい、相変わらず小ぶりな乳房にしゃぶりつく。頭上で吐息が漏れ、頭を抱き込まれて、腰が揺れた。

「ぁ……ンッ……だ、大体……、約束は守ったのか……?」
「そりゃあもう。男ともヤってねーよ」
「証拠は」

不動は彼女の手を掴み、ベルトを外しただけになっているズボンの上から股間に当てた。鬼道の手は驚いて一瞬引きかけたが、すぐにチャックを下ろし、中に滑り込む。少なからず、不動は動揺した。

「あとは仲間に聞いてもいいし、」
「もういい」

鬼道は不動のズボンを脱がし、下腹部に跨がった。触られる前からすっかり元気に勃ち上がっていた息子を握られ、不動は訝しむ。口を開きかけて、鬼道を見つめた。その目は憎しみに燃えているでも、快楽に溺れているでもない。

「はぁぁん……ッ」

鬼道が腰を落とし、六年ぶりに繋がった強すぎる快感に頭の中が真っ白になり、危うく気を失うかと思った。全身を震わせ、ゆっくりと根元までくわえこみながら締め付けてくる彼女の中に、六年前言えなかった言葉がすでに存在しているのを知って、不動は泣きそうになる。

「ッン、ア、あぁ……っ」
「なぁ……っ、おい、出る……」

早すぎる吐精感に恥を偲んで訴えるが、体を起こそうとして突き飛ばされた。本日何度目だろうか。不動は目で訴え、さらに口を開きかけたが、異議を唱える前に柔らかい唇で塞がれる。鬼道は腹の上で身体をくねらせ、喘いで、しかし先程から相も変わらず、赤い瞳はいつになく濡れて輝いていた。

「あ、ぁア……やぁ、やッ――!」

腹に置かれた鬼道の両手に力が込められ、筋肉に爪が食い込む。痙攣した後、まるで絞り出すように激しく締め付けられて、不動は射精した。

「――ッ!」

荒い呼吸を繰り返しながらぐったりと力なく座り込む鬼道の胸を撫で、恍惚と見下ろす彼女の視線を捉える。
そのまま抱き寄せて押し倒し、体勢を入れ換えた。役目を終えたばかりの性器はさらなる欲望に、お互い擦れ合って悶え、再び絶頂への準備を始める。
どこか不安そうに見えた鬼道の表情に、切なげな声もまだずっと聴いていたかったが、想いを込めてキスをした。
撫でるような律動を繰り返しながら、何度も口付け、やがて鬼道が唇を開いて、舌を絡ませ合う。何か言おうと思っても今は言葉が全て陳腐に思えた。
鬼道の目から涙がこぼれ、それを神妙な気持ちで舐め取ると、彼女の両腕が首に回された。
初めて、微笑を見た。半ば意図的に笑いかけるようなほほえみではなく、心が満たされた時に自然に表れるものだった。

「有奈……っ」

もう一度長くて甘ったるいキスをした、その後のことはほとんど記憶にない。狂ったように腰を打ち付けて、内壁を突き上げて奥を叩いた。
肩にしがみつく細い両腕の感覚に酔いしれ、花の蜜を吸う蝶のように、恍惚に陶酔した。



***



もう真夜中だろう、部屋は薄暗いのになかなか寝付けず、黙って横になっていた。
ふと不動が起き上がり、鬼道はその手を掴んで引き留める。

「トイレどこ」
「そこだ」

手はすぐに引っ込められたが、
戻ってきた不動は手を握って映画のラブシーンさながらに肩を抱き、寄り添った。この男にこんな顔ができたとは、今まで想像もしなかっただろう。

「で? これからどうすんの」
「ゎ……私が聞きたい」
「オレは……」

照れ隠しなのだが、突き放すように言って背を向けた鬼道に、不動は一瞬顔を曇らせた。

「引き下がるつもりはねぇよ。鬼道ちゃんがOKしてくれるまで」

後ろ肩に唇をつけ、腕が枕になるように抱き寄せる。鬼道はフンと鼻をならして、だが不動の好きなようにさせておいた。

「OKだと? 六年のペナルティがあるくせに、よくそんな口がきけるな」
「ハイハイ分かってますよ。何をすればお気に召しますか、お嬢様?」
「やめろ、気色悪い」

ふざけたやりとりの後、訪れた一瞬の沈黙を破って、鬼道は不動の腕にそっと手を添えた。

「それくらい自分で考えろ、クズ」

台詞に反して、手の感触はとても優しくて愛しい。耳元で小さく笑い、不動は彼女を抱く指先に少しだけ力を込めた。
この後二人がどんな人生を育んでいったかは、ご想像にお任せする。




いつまでもつづく



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