人間の不×人魚の鬼という捏造満載のファンタジーなパラレルです。 円豪、立春を含みます。 ※鬼道さんは人間の姿になると女の体になるので注意(意識は男。性的行為はありません)








 人間が辿り着くことのできないほど深い大海の底に、いにしえより続く人魚の帝国があった。
 今日初めて水面へ出る許可を貰い、十六歳の誕生日を迎えた乙女が、輝く翡翠色の鱗よりも可愛らしく爛漫な笑顔で、上へ上へと泳ぎのぼっていく。その後から心配そうに追いかける、彼がこの物語の主人公だ。
《ハルナ、そう急ぐな》
《大丈夫よ、兄さん! はやくはやく!》
 彼は首と胸部の下にあるエラからため息をひとつ、先へ行ってしまう妹を見失うまいと再び尾ひれを強く打った。若く逞しい筋肉で彩られた上半身は無駄がなく、腰から下は青みがかった深い緑色の鱗で覆われている。ひれはオーロラを映し、動くたびに水晶のようにきらめいた。冷たく暗い海底でも鋭い瞳は炎のような赤で、凛々しい眉の下に気難しさと高貴さを漂わせながら、好奇心と爛漫に輝く。
 両腕に嵌められた黄金の腕輪は王族の証、超音波を拾うひれのような耳には淡く赤みがかった白真珠がひとつ、これは亡き母の形見で妹と一つずつ付けている。髪は海底に眠る黄土色の砂金で出来ているかのようなドレッドで、肩を隠す程の長さがあり、頭の高い位置で一つに結い珊瑚を差して留めている。
 彼――皇子であり兄であるユウトは、妹の身を案じて水面へ顔を出した。
「兄さん、あれは何?」 
 水平線に歓喜し、既に鼻で呼吸することにも慣れたハルナが、息を弾ませ青い瞳をきらきらさせながら、声を出すのが楽しくて仕方ないといった様子で尋ねた。揺れる波の上に、ぐらぐらとちっぽけな船が浮かんでいる。それは実は王国の跡継ぎが乗った大きく豪華な船だったのだが、大海原に住まう人魚たちからしてみれば、ちっぽけで馬鹿馬鹿しい乗り物にしか見えないのだった。
 「あれは船というものだ。人間たちが海を移動するために、木の板で造った。分かっていると思うが、決して近付くなよ」
 妹は不服そうに肯定の返事をしたその時、点のような人影がへりから落下するのが見えた。
「兄さん! 誰か落ちたわ。大丈夫なの?」
「ああ、奴等は賢い。すぐに救助される――」
 落ちた人間は哀れにも泳げないらしく暴れもがいていて、船上が騒ぎ出すのがここまで聞こえてくる。ユウトは潜って海中を見た。落ちた人間とは別の影が見える。
「向こうにサメがいる」
「えっ!?」
 顔を出して言うと、ハルナは自分でも確かめたあと、素早く泳ぎだした。考えを口に出せば兄が引き留めるのは明白だからだ。舌打ちをするのとほぼ同時に、ユウトも後を追う。先ほど水面で暴れていた人間は静かになってしまった。
《ハルナ、人間は気を失ったようだ。岸へ連れて行け》
 超音波に乗せた言葉に頷いて、ハルナは人間の腕を抱え引っ張りながら、岸へ向かって泳いでいく。
 ユウトは岸を背にして海中へ潜り、音なき指笛を吹いた。彼の周囲に無数の泡がたち、その中からペンギンが五羽現れる。果敢に追ってくるユウトの意識の一部とも使い魔ともいえるペンギンたちに、サメは餌を諦めた。
 ほっと胸を撫で下ろし、ユウトは妹を探して岸へ向かう。人間は砂浜に横たえられ、ハルナは側に屈んでいた。人間の胸にかざした手の内側が、淡い光を放つ。
「ハルナ、早く戻れ」
「うん。でも、この人……大丈夫かな?」
 不安そうなハルナのために、腹這いになって近付き、横たえられた人間の様子を見る。大地の色をした髪と凛々しい眉をしていて、地味な服装と逞しい体つきはとても王族に思えないが、彼の親指にはめられた金の指輪は、海辺の国の王子の物だった。その手にそっと触れると、強い生命の気を感じた。まったく知らない相手なのに、少なからず興味が沸き起こるのを無視できない。
「死んではいない。怪我もなさそうだ……一時的に気を失っているだけだろう」
 ハルナに解説していると、遠くから叫ぶ声が聞こえた。
「マモルーッ!」
 はっとして、兄妹は水の中へ戻る。岩場に隠れて様子を伺うハルナをどうにかして水面の下へ隠したかったが、全身を使って泳いできたもう一人の人間を観察する方に気を取られた。
「マモルッ、おい! しっかりしろ!」
 白金の長髪を首の後ろで結わえ、黒い水晶のような眼は切れ長だが情熱と慈愛に満ちている。彼がマモルの胸を強く押すと、マモルは水を吐き出したあと意識を取り戻した。
「良かった……このバカ野郎」
「ごめん……でも、見ただろ!? やっぱり人魚はいたんだ! 俺のこと助けてくれた!」
「いるわけないだろう」
 会話を聞いて、兄妹は岩場に乗り出していた体を慌てて引っ込める。
「マモル様~! シュウヤ様~!」
 一艘のボートが岸へ近付いてくる。王国の家来たちだろう、マモルとシュウヤは彼らに救助され、無事に船へ戻っていった。これから湾を回って、反対側の崖の上にそびえ立つ城へ行くのだ。
 人間たちのボートが去ってから、ユウトは先程のマモルという男について思い出していた。
「兄さん、どうかした?」
「いや、何でもない。そろそろ戻るぞ」
「えーっ」
「またいつでも来れる。サメも居たし、あの人間はおれたちのことを知っていた…それに、父上がごちそうを用意して待っているぞ」
 ハルナは兄に続いて海へ潜った。
《ねえ兄さん、知られるのは悪いことなの?》
 ユウトは答えられなかった。以前の彼なら一刀両断しただろうが、先程見た二人――マモルとシュウヤは確かに、話に聞くような残忍で卑劣な蛮族には見えなかった。特に、マモルが人魚の話をした時、大地を切り取ったかのような目には、期待と興奮と好奇心が入り交じって輝いていた。それを、ユウトは見てしまった。

 Ψ

 エンドー王国は広く大きく栄えた国だった。ダイスケと忠実なる家臣たちが繁栄させた後は、彼の愛娘と婿入りに来たヒロシが現在まで平和と安定を保っていた。その後を継ぐのはダイスケの孫、マモルである。彼は十七歳にして天才的な剣の技術を持ち、戦の勘に冴えていたが、争いを好まぬ心優しく寛容な性格ゆえに、家臣からも民からも愛されていた。
 マモルの唯一無二の親友であり海を挟んだ同盟国の王子であるシュウヤは、白い部屋着にガウンを羽織り、宛がわれた客室のバルコニーへ歩を進める。夜風に当たりながら、暗くたゆたう海の上に昇った真珠のような月を眺め、数時間前の出来事を思い出していた。
「シュウヤ」
 抑えられてはいるがすこし弾んだマモルの声が、寒々しい心をふわりと掴む。振り返らず、陰で奥歯を噛んだ。
「こんなとこにいたのか」
「こんなとこって……ここは俺が借りた部屋だろう」
 苦笑しながら、隣に並んだマモルに顔を向ける。バルコニーの手すりに凭れ、マモルは尋ねた。
「何、考えてたんだ?」
「お前のことだよ。頼むから、もう危ないことはしないでくれよ」
「分かったよ。でも、人魚はいたんだ。すっげぇよな!」
「まだ、いたかどうかは……」
「ええっ? 俺を助けてくれたのはシュウヤじゃないんだろ? だったら、沖から浜辺まで一気に運ぶなんて、人魚以外に誰がいるっていうんだよ」
「マモルが幸運の女神に気に入られているから、潮の流れが浜辺まで連れて行ってくれたのさ」
 納得しきれない様子のマモルに苦笑しながら、存在を確かめるかのようにその肩に手を乗せる。
「でも、良かった……本当に。マモルに何かあったら、俺は―― 」
「なーに言ってんだよ。ばかだなあ」
 くしゃっと耳の上を撫でる手が温かくて、シュウヤは目の奥が震え思わず瞑った。その隙に乾いた唇が押し当てられ、じわりと大きな安堵が広がる。
 そのまましばらく――指先のわずかな力加減に体の芯が熱を持つまで、その逞しい肩を抱き寄せて、遠くに穏やかな波の音を聴いていた。
「先に行ってるな」
「ああ……すぐに行く」
 伏せ目がちに、シュウヤは答える。マモルが扉を開けたまま退室してからも少しの間、元のように月を眺めていた。ゆっくりと、深呼吸する。水平線の向こうにもう一つの大陸があり、そこにシュウヤの父が治める国がある。
「マモルといるとつい、何もかも置き去りになってしまうが……俺もゴーエンの王子なんだぞ……」
 己を戒めるように呟き、バルコニーの薄いガラス扉を閉める。少しだけ躊躇ってから、シュウヤはマモルの寝室へと向かった。

 Ψ

 ユウトは海底にどっしりと構えるすべすべした岩に腰掛け、遥か頭上の水面を見上げていた。すぐ後ろには人魚の国へ通じる洞窟の入り口がある。ずっと奥へ行った王宮の広間では、妹のハルナが友達に囲まれて笑顔でいることだろう。大勢の、様々な種類の魚たちが行き来する流れを見て、そこから一歩引いた自分を思う。
 すぐそばのイソギンチャクからクマノミが出てきて、彼の尾ひれをくすぐった。しかし撫でる間もなく、クマノミはすぐにイソギンチャクの中へ隠れてしまった。
《どうした。何か、悩み事か?》
《いえ、父上……》
 洞窟から現れた王に、海中の生き物たちは頭を垂れる。その手に持つ三叉の鉾でゆっくりと半円を描くと、民衆は距離を保ちつつ日常へ戻った。
《成人の儀は来年だ。花嫁候補は急がずともよい……じっくり考えなさい》
 肩に手を置き、王は珍しく父として微笑んだ。ユウトは誤解に心を痛めながら微笑み返す。
《お前なら大丈夫だ、ユウト》
《はい、父上……》
《さて、私はハルナのゲームに参加してやらねば。お前も来ないか?》
《ええ……もう少ししたら、行きます》
 王が去り、民衆はすこし緊張を解いた。ユウトは、再び出てきて尾ひれを優しくつつくクマノミに手を伸ばして、そっと撫でてやった。
《お前は人間を知っているか? 恐ろしく、野蛮で残忍な種族だと思っていたが……。もっと知る必要があるな。陸のことや、人間のことを》
 クマノミは首を傾げ、ユウトの滑らかな手の甲に恭しく口付けた。
《お前たちのように、自由に生きて行けたらいいのにな……》
 そう思った直後、ユウトは自分があるまじき思考を持ちかけたことに気付き、恥じた。クマノミはイソギンチャクの中に戻り、ユウトは洞窟の中へ入って行った。海はいつもと同じように静かだった。

 Ψ

 すがすがしい朝、同じ年頃の人魚たちが広場で戯れている。
 ふらりとやってきたユウトに気付くと、彼らは海草の根っこを編んで作った鞠を尾ひれで打ち合うのをやめ、自分達に用があるのかと期待した。
《ユウト、一緒にどうだ?》
 幼馴染のサクマがボールを渡しても、ユウトは反応が鈍く、そこでやっと友達が集まっているところに考え事をしながら突っ込んでいったことに気付いたのだった。
《ああ、すまない……考え事をしていた。しばらく皆でやっていてくれ》
《散々皆でやって、ユウトを待っていたんだけどな……》
 既に聞いていない様子でゆっくりと去っていくのを見送って、サクマとゲンオウは顔を見合わせた。

 黒い海を青く染め昇る朝陽の光を浴びて、マモルは両腕を広げ大きく伸びをした。きらきらと光る波が、大きな魚の鱗のようだ。
 振り返ると、真っ白なシーツにくるまってシュウヤが寝息を立てている。いつも無表情か、考え込む眉間のシワのおかげで必要以上に冷たく見える目を閉じて、髪と同じ温かみのある銀色の眉は気持ち良さそうにわずかに弧を描き、さっきまで寄り添っていたぬくもりに包まれて体を休めている。それを見て、マモルは自分の心の中に渦巻く不安を塵すら残らず燃やし尽くしてしまう程の愛情が沸き起こるのを感じた。
「くぅー……!」
 海に向かって大声で叫びたい衝動に駆られる。安息の眠りを邪魔したくないので静かに抑え、それによって生じる満ち溢れた気分に浸っていると、風が吹いたので目を閉じて身を任せた。
 国を背負う器にならなければという不安も、玉座の隣に相応しい女性を見つけなければという不安も、馬鹿馬鹿しくなっていく。今このまま空だって飛べそうな気がした。
「よーし、今日もやるぞぉ……ん?」
 砂浜から続く岩場の陰に、人の上半身が見える。マモルがそれを人魚だと認識したのと、人魚が岩に隠れたのとは、ほぼ同時に一瞬のうちに起こった。
「あ! ねぇ、君! 人魚さん!」
 岩場には何も見えないが、一瞬しか見えなかった今の光景を気のせいとして片付けたくはなかった。
「名前! 名前、教えてくれよ。俺はマモルって言うんだ!」
 ちらと、顔が半分ほど見えて、マモルは狂喜した。自分は幻を見ているのではない。カフェオレみたいな色の長いドレッドと、紅く光る眼を認識したところで、もう一度話しかける前に人魚は潜って見えなくなってしまった。居ても立ってもいられなくなって、部屋を飛び出し階段を駆け下りる。召し使いとぶつかりそうになりながら裸足のまま浜辺へ出ると、口の両側に手を当てて大きな声で叫んだ。
「オレ、マモル! なぁ、友達になろうぜーっ!」
 寄せては返す波が足を撫でる。ひどく寂しくなったが、きっとまた会えると信じることにした。

 一目散に珊瑚礁を通り抜け、一番深いところまで泳いできた。ユウトは周囲が暗くなってきたことで、自分がいかに奥深くまで来てしまったかに気付いた。岩ばかりが重なり合い、光の届かない海の底は、凍えるように冷たい水が滞留している。ここは人魚の国よりも深い、誰も近寄らない場所だ。戻らなければと引き返したが、行けども行けども同じような景色を繰り返すうち、さっき見たような岩を見て居場所すら分からなくなったことを認めた。
 砂の上で沈黙していた朽ちかけた法螺貝に腰を下ろし、泳ぎ疲れたひれを休める。最近の自分は軽率すぎる行動ばかりで、これでは王の鉾を持つ資格などない。人間などに興味を持つのは間違いだと言い聞かせ、それに抵抗するもう一人の自分を抑えつける。
《迷ったか》
 下から響き震動する低い音波が、凍てつくような水を通して聞こえた。ゆらりと暗闇から姿を現したのは人魚ではなく、イカのような姿の男だった。腰から下には、光沢のある漆黒の十本の足がうねっている。
《あなたは――カゲヤマ。七つの海を知り尽くし、百万の魔法を使う者だとか……まさか、こんなところでお会いできるとは》
《ほう、流石はキドーの王子だな。少しは教養があると見える……》
 グレーの長髪を一つに結わえ、厳めしい鼻にサングラスをかけ、すき昆布で編んだ上衣を纏っている。目を合わさずとも、横溢する魔力が見えるかのようだ。
《美しい……強く、そして勇敢な眼。なんという輝きだ》
 ひゅっ……ひゅっ……と品物を見定めるようにユウトの周囲を回ってから、カゲヤマはゆっくりと目の前へ落ち着いた。思わず身構えるユウトにふっと口元を曲げ、呟くように言う。
《願い事があるようだな》
《な、なぜ……》
《何でもひとつ、叶えてやると言ったら……どうだ?》
 ひやりとした長い足の先端が、肩をそっと掴んだ。さっと離れたユウトを見て、巨大イカはくつくつと笑う。いかにも、対価を選り好みしているような目だった。ユウトは少しずつ後退りした。
《よく……考えます》
《そうだな、よく考えるといい。またいつでも来い……帰り道ならこの方角だ》
 カゲヤマの長い足が一本、真っ直ぐに斜め上へ伸びる。ユウトは軽く会釈をして、その方角へ泳ぎだした。しばらくすると暗く淀んだ水域を抜け、サンゴ礁が見えてきた。
 ほっと胸を撫で下ろし、ユウトは速度をゆるめる。振り返ると遠くに、さっき通り抜けてきた深海の入り口である岩の割れ目が見え、その冷たさを思い出す。ひと呼吸置き、いつものように門番の人魚に挨拶して、自分の部屋へ向かった。


 
 

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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki