Ψ Episode 2 Ψ

 理解されないのは悲しい。だがもっと悲しいのは、理解はしているのに、同意を示さず、変わろうとしてくれないことだ。
 ハルナは、彼女にしては珍しく沈んだ気持ちのまま、行く宛もなく泳いでいた。とにかく王国や父や兄から、離れたかった。かといって、あまり暗く深いほうへは行きたくない。そこでハルナは気を取り直し、サンゴ礁のほうへ気分転換に向かった。
 カラフルな小さな魚たちが、思い思いに泳いでいるのを眺めると、不思議と心が落ち着く。イソギンチャクたちに挨拶をして、ヒトデを撫でて回りながら、徐々に気分が晴れていくのを感じた。
《あっ……ハルナさま……!》
 ざわつきの中で聴こえた、とても小さな声。意識を向けると、カクレクマノミの親子が、ウロウロと心配そうに同じところを泳いでいるのを見つけた。
《どうしたの?》
 近づいていくと、さっと岩の陰に隠れたあと、ゆっくりと出てくる。一度隠れるのが彼らの習性なのだ。
《あの……ママを助けて……》
《こら……! ハルナ様に、なんて畏れ多いことを……》
 恐縮して子供を背に隠しながら、イソギンチャクの中へ入ろうとする父親を見て、ハルナは苦笑しながら二匹に手を伸ばした。
《いいのよ。そんなに畏まらないで。それより、ママはどうしたの?》
《ああ……ありがとうございます、ハルナ様……》
《ボクのママ、病気なんだ。ハルナ様に治してもらえたら、どんなに良いだろうなって》
《なんてことを……! ああ、申し訳ありません、ハルナ様のお手を煩わせるようなことでは……》
 ハルナは恐縮する父親の小さなひれに触れて、じっと見つめた。
《よく分かったわ》それから息子に目を向ける。《ママはどこ?》
 息子がぱぁっと目を輝かせ、身を翻した。
《こっちだよ!》
《ああ、もう……》
 父親が慌てて後を追う。
 イソギンチャクの群生している岩の下に小さな窪みがあり、そこに小さなカクレクマノミが一匹、じっとしていた。両目が白い膜で覆われ、元気がない。
 ハルナは彼女をそっと両手で囲むと、目を閉じた。
《めぐりめぐる いのちのひかり あなたのなかにかがやく とおくせかいのはてでは うみとそらがつながって やがてとどく いのりのかぜ》
 歌が水を伝い、ぽぅっとハルナの両手の内側が光を放った。カクレクマノミの父親と子供が見守る中、母親は柔らかい光に包まれ、やがてその光が収まると、目の白い膜は無くなっていた。
《あ……ああ! 見える……! 見えるわ、ぼうや! あなた……!》
《ママ!》
 子供は喜びに母親の周りをぐるぐる泳ぎ、父親は涙ぐんで彼女に寄り添った。
《ハルナ様……本当に、ありがとうございます。なんとお礼を申し上げたらよいか……》
《いいの。私は私にできることをしたまでよ。それに、お礼なら、この美しい皆の海を、維持するように協力してくれるだけで十分よ》
《ありがとう! ハルナ様、だーいすき!》
 カクレクマノミの子供の頭を優しく指先で撫でてやり、ハルナは清々しい気持ちで帰っていった。
 人魚の治癒能力は個体によって強弱があり、ハルナは特に秀でていた。あまり使いすぎると精神力を消耗するため、普段は滅多に使うことがないが、今久しぶりに能力を使って、分かった。やはり、あの船から落ちて溺れそうになっていた人間を助けたことは、正しかったと。
 無性に陸が恋しくなって、ハルナは上へ向かった。

 エンゼルフィッシュ、マダラハナダイの群れ、エイ、ウミガメ、誰に聞いても、ハルナは見かけていないようだった。朝から姿が見えないということは時々あっても、必ず近くの誰かが居場所を知っていたのに。ユウトは一番当たって欲しくない懸念が大きくなったことに青ざめた。
 上へ向かい、周囲に何の影もないことを確認してからそっと波間に顔を出す。沖から目を凝らさずとも、岩場の青いうろこは太陽にキラキラと光ってよく見える。
 陸を警戒しつつ速やかに近付くと、気付いた妹は慌てた。
「兄さん……! ご、ごめんなさいっ! あのね、風が気持ちよくて、つい……」
 無事を確認して大きく溜め息を吐いたユウトは、困り果てて眉をひそめた。風が好きなのはよく分かる。
「だがこんな、陸地の近くは危険すぎるぞ。せめてもっと沖に――」
 気配がして、ユウトは岩場の向こうを見た。まだ何も現れないが、砂利の混じった土を一定の間隔でゆったりと叩くような音がする。あれは人間が履く靴底がたてる、足音というものだ。
「人間だ。帰るぞ」
 囁いて身を翻すと、しかしハルナは微笑んでいた。
「大丈夫だよ、彼は優しいの」
 驚いて、憤りと焦りに一瞬ハルナの腕を掴むのを躊躇した時、がさがさと茂みをかきわける音がして、人間が現れた。鎖を繋ぎ合わせた服に鈍い銀色の板を付けて、腰に細剣を差している。
「ハルナちゃん。あっ……お友だち?」
 微笑んだ彼は黄土色の柔らかそうな髪を首の上で切っており、澄んだ目は空のように青く、確かに一目見て攻撃的な印象は受けなかった。しかしどんな人間であれ信用はおけない。
「来い」
「あっ、待って兄さん……ごめんなさい! またね!」
 ハルナが陸の男に言い終わるか終わらないかのうちに、ユウトはその腕を引っ張って底まで泳いでいった。
《離して!》
 怒りがこもりつい力が入ってしまっていた手を離し振り向くと、ハルナは悲しそうな顔で兄を見ていた。
《人間に見つかったら逃げろと、あれほど言っただろう。しかも言葉を交わしたのか?》
《兄さん、人間だからといってすべての人が悪いわけじゃないわ。彼――ユウキは、陸の王様に仕ている騎士の見習いでね、戦が好きじゃなくて、動物とお花が好きな優しい人なの》
 ユウトは饒舌に話す妹に裏切られたかのような絶望を感じ、尾ひれの感覚を失ってわずかによろめいた。
《あんな恐ろしい生き物に関わるんじゃない。何かあったらどうするんだ》
 努めて冷静にと常に心がけているのだが、今はそれが冷酷さを助長していた。
 ハルナはユウトの周りを一周し、次に向き合った時には深いブルーグレーの瞳が怒りに燃えていた。
《どうしてなの? もっと理解するべきじゃない! 知りもしないのに、勝手に悪だと決めつけるのは……》
《母さんが殺されているんだぞ! よくそんなことが言えるな》
《兄さんだって、しょっちゅう浜辺に行ってるくせに!》
 日頃から溜まっていたものはお互いに同じ。勢いに任せて出た台詞は、ユウトの心を激しく動揺させた。兄が黙るのを見て、ハルナは苦しそうに表情を歪め、ひらりと身を翻して行ってしまった。
《待て、ハルナ……!》
 全速力で来た道を戻る彼を、さっきハルナを庇ったウミガメが寂しそうに見送った。

 Ψ

 ハルナを見失って、ユウトは泳ぎ疲れたひれを休ませながらゆっくりと波に身を任せ漂っていた。困惑が空虚を呼ぶ。先刻の言葉が胸に突き刺さったまま、首をかしげている。それを振り落とすようにして、彼は再び進んだ。
 洞窟を抜けて、別世界のような人魚の国へ入っていく。なめらかな岩棚に囲まれた安全な世界を淡い光を放つ水晶が照らしており、格調の高さと優雅な物腰に誇りを持つ人魚たちは、王子が通りすぎると恭しく会釈した。
 王宮のどこにも、妹はいなかった。ユウトの怒りは、とっくに悲しみと不安で凍りついていた。
《父上、ハルナを見かけませんでしたか!》
 勢いよく室へ入ってきたユウトに、キドー王はやや瞠目した。
《どうしたんだね? 何かあったか》
《ハルナがどこにもいないのです。早く見つけないと、何をしでかすか分からず……》
 王は片手を少し動かして家臣たちを下がらせ、ユウトに落ち着くための時間を与えてから再び尋ねた。
《何があった?》
 ユウトは一瞬躊躇ったが、ほとんどありのままを話した。
《――ハルナが初めて海の上へ出てから、まだ月は一周していません。おれは冷静さを忘れずに細心の注意を払って、一年のうちに培った知識と判断力で危険をある程度回避することができますが、あいつはまだ、人間がどれほど残忍でずる賢く卑劣な種族なのか分かっていない。おれ一人では限界がありますので、捜索隊出動の許可をください》
 王は頷いて、将軍に指示を出しに行こうとした。ユウトはさらにその背に呼び掛ける。
《ハルナは、人間は悪い者ばかりではないなどと言っていました。父上からもしっかりと言ってやってもらえませんか?》
 ゆらりと振り向いた王は、痛ましい想いに目を閉じた。
《いつか、こうなるような気がしていた。ハルナはあれに似て、どうにも優しすぎる》
 壁の岩棚に飾られた貝殻で出来た王妃の肖像を眺めたあと、王は険しい顔で息子を見た。
《何としても見つけるのだ。おまえが指揮を執れ》
《分かりました。父上》
 ユウトは真っ二つに意見の分かれた心を何とか抑えながら、王の室を出た。

 Ψ

 揃った軍に、班を分け海域ごとに手分けして探すよう伝え、自分はサクマやゲンオウたちと出発した。
《大丈夫だ、きっとすぐ帰ってくるよ》
 みんなに口々に慰められ、しかしユウトはハルナが残した言葉にまだ動揺していた。ユウキという名前を知り合うほど、あの人間と言葉を交わしたのだ。王に仕える騎士だというのに、警戒心や敵意が全く感じられないところも理解できない。水から出ると思考共有ができなくなるのは本当に不便だ。人間たちはどうやって暮らしているのだろうか。やはり知識が足りなさすぎると感じたユウトは、ふと冷たくて長い十本の足を思い出した。
《……ハルナが行きそうな場所に心当たりがある。おれ一人で行ってくるから、おまえたちは引き続きこの辺りを頼む》
《だけどユウト、一人では……俺も行くよ》
 サクマに向けた微笑は、いつもの自信にあふれた彼独特のものだった。
《大丈夫だ……兄妹のことだ、おれだけで行かせてほしい。何かあればすぐに呼ぶ》
 サクマがそれ以上の言葉を探しているうちに、ユウトは尾ひれを翻してカゲヤマのいる割れ目へと向かった。途中、もしやと思い左右を見渡しながら泳いだが、ハルナの姿は見かけない。また上へ行ってしまったのかもしれないが、もし船に近づいたら捕らえられてしまうだろう。

 割れ目の前にたどり着き、ユウトはその周囲に漂う刺すような冷気に躊躇ったが、意を決して中へ滑り込んだ。
 しかしどうやら、カゲヤマは留守のようだった。賢者も出掛けることがあるのかと驚いていると、小さな声の歌が聞こえてきた。
《ハルナ!?》
 薬草や種や石、小さい妙な生き物の入った色形様々な小瓶が並んだ棚を見渡す。青白く淡い光を放つ小瓶から、その声は聞こえた。耳を近付けると、確かに妹の声だと分かり、気が遠くなって思わず小瓶を落とすところだった。
《今度は探し物か》
 驚いて振り返ると、カゲヤマが腕を組み、不敵な笑みを口元に浮かべていた。
《ハルナをどうしたんですか!》
《案ずるな。元気にしていたぞ》
 まるで今見てきたかのような言葉に、ユウトは警戒の色を濃くする。
《どこに居るか、ご存知なんですか?》
《陸だ》
 事も無げに、カゲヤマは答えた。
《な……っ!? 陸の上では――》
 人魚は生きられない。と言いかけて、カゲヤマの顔からその答えを得る。カゲヤマはユウトの顔色が変わったのを見て、フッと微笑んだ。
《何でも欲しいものをやるから、人間にしてくれと頼まれた。だから、可愛らしい歌声をいただいたまでだ》
 言葉が見つからないユウトのそばをゆらりと通りすぎ、カゲヤマはいつも腰かけているなめらかな岩の出っ張りに落ち着く。
《お前の願いも叶えてやろう》
 はっと赤い目が動揺に見開き、ユウトは身構える。
《おれの願い……?》
《望み通りにしてやろう》
 ユウトは一辺に色々な思考を整理しているときによく起こるように、どこを見るでもなく目をあちこちと素早く動かした。
《条件は? 貴方の望みは何ですか》
 カゲヤマはにやりと笑って岩から離れた。嫌な予感がしたが、ユウトは帰るわけにはいかなかった。
《あの日からずっと、この時を待っていた……何年も何年も、この暗く冷ややかな岩の間で。やっと私の願いが叶うと言うのに、今日の海は静かだな》
 カゲヤマが言ったのは嵐の類いのことで、捜索隊の呼び声は別だ。確かに今日は晴れ渡り、青い空がどこまでも続いていた。そんな光の一筋さえ、ここには届かない。
 長い十本の足がユウトの体を触れずになぞり、ため息が聞こえた。
《私が欲しいのはお前だ、ユウト》
 ユウトはぞくっとして、反射的に後ずさった。しかし背中がひんやりした足に当たり、退路が閉ざされたことを知る。
《お前が私のものになるのなら、妹を説得しに行けるよう人間にしてやろう》
《妹はいつ元に戻るんですか?》
《期限はない。乙女の歌声は命より貴重だからな》
 青白く光る小瓶を満足げに眺め、カゲヤマは同じくらい蒼白になったユウトの顔を見た。
《私は頼まれないことはしない。妹に事情を話し、七回日が落ちるまで――お前の願いの効力が切れるまでに戻ればいいだろう。妹は海の中へ戻り、お前は私のものになるのだ》
 ユウトは少し躊躇ったが、口をぎゅっと引き結んだまま頷いた。彼にとっては、自分よりも妹の無事の方が大切だった。
《分かり……ました。どうすればいいのですか?》
 カゲヤマは一本の足で合図した。盲目の痩せた深海魚がヨロヨロと、骨のペンと海草に書かれた契約書を持って来た。
《サインしろ》
 光る文字を見て、ユウトが震える手でサインすると、カゲヤマはくつくつと抑えきれない笑いに体を揺らした。
《これで、お前は私のものだ。約束通り、七回日が落ちるまで人間にしてやろう》
 十本の足のうち一本が、岩棚の下の方から黒ずんだ小瓶を取り出して、ユウトの目の前に持ってくる。受け取ると、小瓶の中の液体がゆらゆらと怪しい光を放った。
《飲め》
 蓋を開けて、流れ出す前に口を付ける。味のしない紫色の光は、ごくりと嚥下した後に効果を現した。
《こ、呼吸が……苦しい! なんだこの痛みは……!》
 口を開けてあえぎもがくユウトを、カゲヤマは満足そうに眺めている。このまま死ぬのかと思うほどの苦痛だ。ハルナにちゃんと会えるだろうか、父は何と言うだろうか、そんなことを考えるのもままならず、次第に増していく全身を引き裂かれるような痛みに、とうとう、ユウトは意識を手放した。

 Ψ

 あたたかい光に照らされている。ユウトは目を開けた。どうやら、まだ生きているらしい。肘をついて上体を起こすと、自分が浜辺の波打ち際に倒れていたことが分かった。
 しかし安堵したのも束の間、水に浸かったままの下半身は人間の足とそっくり同じに変貌している。ハルナがいなくなってから悪い夢ならいいのにと願い続けたが、やはり夢ではなかったのだ。
「……っ」
 たしか人間は二本足で立って、交互に前へ出して移動するのだ。ユウトはゆっくりと膝を曲げ、力を入れる。砂浜についていた手をそっと離すと、何とか座ることができた。
 海を見るが、自分を探しているかもしれない捜索隊や父の気配はしない。穏やかな波の音だけが繰り返されている。隣に広がる岩場を見て、ここはいつも自分がこっそり来ていた場所だと気が付いた。カゲヤマが知っていたのかどうか、人間の気配がほとんどしない岩場で、ユウトはよく歌を歌った。風に吹かれ鼻で空気を吸いながら、もちろん誰にも聞かれないよう小さくだが。
 鼻で呼吸し喉から声を出して歌うことは、母を思い出す。母はいつも波間に漂い、我が子を抱きながらそうして太陽に照らされ、楽しそうに歌っていた。
《こんなところで時間をムダにしている場合じゃない。ハルナを見つけなければ……》
 ユウトは気を奮い起たせ、立ち上がろうとした。しかし足にうまく力が入らず、バランスを崩してしまう。
「……うっ」
 胸を打ったが、どうも何かがおかしい。違和感を手探りすると、大きすぎず小さすぎない乳房で膨らんでいるのが分かった。
《な……なぜ女になって……カゲヤマは何を考えているんだ?》
 女にしてくれとまでは頼んだ覚えがない。混乱するユウトの心に、小さな疑惑が芽生える。
「くっ……」
 とりあえず横向きに倒れたところからやり直していると、人間が近づいてくる気配がした。慌てて海へ戻ろうにも、こんな状態ではたかが知れている。見ると、男が一人、驚いた顔で辺りを見回してから急いでこちらへ来るところだった。
「おい! 大丈夫か? 何だってこんなとこに……」
 身体中が強張り、思わず波打ち際へ後退する。男は目の前まで来て、着ていた上衣を脱いでユウトにかけようとした。そう言えば、人間は鱗が無い代わりに、布で肌を隠している。
「ほら、なんもしねぇよ。安心しろ」
 怯える肩に半ば無理矢理に上衣をかけられ、ユウトは鼻からの妙な感覚に困惑した。これが臭いというものなのだろう。不快ではないが、特に心地好くもない。
 改めて見ると、その人間は濃茶のくせ毛を首の後ろで束ねた若い男で、ぶっきらぼうな話し方をするが、晴れた日の海のような深い青緑色の目をしていた。
「ほら、立てるか?」
 男は先に立ち上がる。差し伸べられた手が助けとは思わず、反射的に体を引いたユウトを見て、男は苦笑した。
「大丈夫だって。とって食いやしねェよ」
 よく言う冗談が、ユウトには生々しく聞こえる。
《とって食うこともあるということか!? なんという野蛮な種族だ。やはり逃げなければ!》
 逃げ出そうとするが、足はうまく動かない。なかなか立ち上がれない様子にはぁと溜め息を吐いて、男は言った。
「もしかして喋れねえのか? オレの言葉分かる? つか、聞こえてんの?」
 はっと顔を向けた良心が答えになってしまった。ふっと笑って、男はゆっくり手を差し伸べる。
「大丈夫だな。ほら、とりあえず、腹減ってねぇか? そんなカッコじゃどこにも行けねぇし、とりあえずオレんちに来いよ。連れてってやるから」
 ユウトはぱくぱくと躊躇ったあと、男を睨み付けた。
「し……しゃべ……、しゃべる、くらい、できる。見くびるな」
 男は驚いたあと、苦みを残しながら面白そうに笑った。
「別に見くびってねぇよ……んだよ、思ったより元気そうじゃねぇか。ほらつかまれ、連れてってやるから」
 何をするのかと思えば、男はユウトの腰と膝の下に手を入れて抱き上げた。
「よっと」
「っな! なん……くそ、おろせっ!」
 ユウトが暴れるので、砂浜に二本足で立つように下ろされた。
「落ち着けって。んじゃ、一人で歩けんだな?」
「そっ、そうだ」
 ユウトは胸を張って歩き出そうとしたが、ぐらりと揺れて男の腕にしがみついた。何とか倒れるのは防げたが、やはり足に慣れて自力で歩けるようになるまでは、時間がかかりそうだ。
「無理すんなよ」
 呆れたような声に、観念する。とりあえず今すぐ食べようとはしなかったし、とくに悪いことをするような人間ではなさそうだったので、ユウトは大人しく運ばれていった。
 男の肩越しに振り向いた景色の中で、反対側の岬にそびえ立つ城が見える。ハルナと二人で助けた王子が、あの中にいるはずだ。考え出すとまた混乱しそうで、目線を前に戻す。生い茂る緑の前に小さな箱型の室がぽつんとあり、木の板で出来ているらしかった。すぐ横から続く細い道の先には、小さな塔が建っている。
 ここは森の端にある灯台で、滅多に人間の来ない辺鄙な場所であり、男は一人でこの小屋に暮らしていたが、ユウトにはそのようなことは関係なかった。
「ほら、着いたぜ。おろすぞ」
 すとんと、二本の足にさっきより力を入れることができて、ユウトは自分の足だけで立っていた。ゆっくりと壁につかまりながら、男が開けた扉の中に、一歩ずつ示されるままに入っていく。ちょうどよい木でできた段があったので、ユウトは腰かけた。座っている方がよっぽど楽だ。
 男は奥から出てきて、ユウトになにか柔らかい軽いものを投げるようにして渡した。
「それ、母親の。やるよ」
 柔らかい生なり麻で出来たワンピースを広げてはみたものの、眺めるばかりで一向に着ようとしないユウトを見かねて、男は裾をたくしあげ、頭から被せて着せてやった。脱がせた上衣は自分の肩に戻す。
「まったく、どんな生活してたんだ? 一歩も外に出たことないみてぇな顔しやがって」
「……まあ、そうだ」
「服も着たことないとか、言うなよ」
 ユウトは何と答えていいか分からなかったし、どういう表情をすればいいかも分からなかったのだが、アキオがその困惑した沈黙を勝手に解釈したらしい。彼は少し青ざめた。
「マジかよ……そういうわりにはキレイな顔だな。どこから来た? 逃げて来たのか」
「まるでおれが奴隷か何かのような言い方だな」
「違うの?」
「なぜそう思うんだ?」
「そりゃ、あんなとこで女が素っ裸で倒れてたら、奴隷か露出狂かどっちかだぜ」
「そうなのか……」
 男は頭痛でもしたのか額を片手で押さえ、しばらく沈黙した。次にハッと顔を上げた時、男は何かを思い出したかのようだったが、すぐに表情を戻してしまった。ユウトには分からないことだらけだった。
「まぁ、とにかく、服はとりあえずコレしかねーから。で、靴がねぇんだよな。とりあえずコレ巻いとくけど、気をつけて歩けよ」
 よれよれした布をコンブのように裂き、幾重にも足に巻き付け、端と端を結んで固定する。窮屈に感じたが、意味を理解したユウトは何も言わないでおいた。さっきも砂浜で小石を踏んで、少し痛かったのだ。
《まったく、人間は不便なことばかりだな。落ち着け、おれは今人間なんだ。人間らしくしろ》
 男はユウトが大人しくしているのを見て、壁に掛けてあった袋から赤くて小ぶりのリンゴを取り出し、コップに入れた水と一緒に持ってきた。
「こんなのしかねぇけど、腹の足しにはなるだろ」
「これが……食べ物なのか?」
 純粋に尋ねると、男はやや憤慨した。
「悪かったな。もっと良い食べ物は、町に行きゃ腐るほどあるよ。――まったく、どこのお姫様だよ」
「まち? どこだ?」
「歩きで二時間ってとこかな。いいから食っとけ、切ってやるから」
 男がナイフで赤い丸を切り分けている間、ユウトは必死に思考を巡らせていた。
「おい、人間。おれを町へ連れていけ」
 そう言ってリンゴの欠片を丹念に見て、恐る恐る一口かじったユウトに、男は絶句していた。
「――あのなァ。まず第一に、オレにはアキオっつー立派な名前があんの。それから人にものを頼む時は、お願いしますを付けるんだよ」
 ユウトもまた驚いていた。忌み嫌い敵視していたことを忘れてしまうくらい、彼らは誇り高く強かで、慈愛に満ちた良心を持っていると分かったからだ。だがその驚きは彼の心の氷を少し解かしたと同時に、絶望のふちへ一歩近づくことにもなった。
「アキオ……頼む」
 まっすぐに目を見る。
「いもうと……大事な者を、探しているんだ。七回日が沈むまでに、見つけなければ――」
「……見つけなければ?」
 魔物の言いなりだなんて真っ平だと思っていたユウトは、少し大げさに言った。
「おれは、死ぬ」
 アキオの表情が目に見えて深刻になった。
「まじかよ……それじゃ、おまえ……」
 なにか言いかけて、アキオは再び、溜め息と共に額を押さえる。そのまま腕を組み、しばらく考えているようだった。
 そろそろ声をかけようかと思った時、閉まっているのが不思議なくらい蝶番がゆるんだ古くさいドアをトントントンと叩く音がした。
「アキオさーん」
 渋々といった感じで、アキオはドアを開けに行く。彼の体越しに見えた外には、大きな犬ほどもある麻袋を抱えた若い男が立っていた。ユウトには微かに見覚えがある。
「はい。今週の食糧で――」
「貴様! よくもハルナを!」
「えっ!?」
 驚いた騎士はどさりと袋を落とした。確か、ユウキという名を呼ばれていたと忌々しく思い出す。
「あ、あなたは……ええと……ええっ?」
 向こうもユウトが誰だか分かったが、随分と混乱を招いたようだ。それもそのはず、種族も性別も変わっている上に、居るはずのない場所に居るのだから当然だろう。口を開けたまま言葉を失ったユウキと腕組みしながら睨み付けるユウトを交互に見て、アキオが言った。
「なに、知り合い?」
 我に返ったユウキがしどろもどろな中から何とか言葉を見つけようとする。
「いやぁ……その、なんていうか……」
 もごもごと言うユウキを睨み付けたまま、ユウトはぴしゃりと言い放つ。
「そもそも全ての発端は貴様だ」
「ええっ。す、すみません……」
 未だに疑問の解けないアキオは黙って見ているしかなかったが、何かあればこの女の味方をするという方向性は固まっていた。特別に女子供に優しいわけではなく、相手が嘘つきかどうかを見ているのと、自分にとって利益が多く得られる選択をしているだけだった。そうとは知らないユウトは、変わらない口調で言う。
「ふん、貴様なんぞどうだっていい。ハルナはどうしている? どこで何をしているんだ?」
 ユウキは彼――否、彼女と言うべきか――の纏う雰囲気に呑まれ、美貌に目を見張り、自分がここに立っていることは何かの間違いだと百回唱えていたが、そんなことはユウトには関係なかった。
「え、ええと……今は城に……」
 事情の分からないアキオが訝しげに見守る前で、ユウトはゆっくりと表情を変えた。
「そうか。まあ、当然の待遇だな」
「は、はあ……」
 海を統べる王国のたった一人の姫君であるわけだから、ハルナが城でもてなされるのは至極当たり前のことだと、ユウトは思った。陸の人間たちは、予想に反して、残忍で冷酷なばかりではないらしいとも思ったが、それはまだ今すぐには認めたくない考えだった。
「よし、おれも城へ連れて行け」
「ええっ……そ、それは……王が……」
 もごもごと自信なさげなユウキに、赤い瞳が炎を吹く。
「モタモタするな。今すぐだ」
 まだ生まれたての子鹿のような足のくせに勢いよく立ち上がったユウトを支え、アキオが見習い騎士の代弁をしてやった。
「名前も素性も知らねえ奴を、簡単に城に入れたりすっかよ?」
 ユウキは言われるがままにこくこくと頷く。憤慨を通り越したユウトは、フンと息を吐いて唇の端をゆがめた。
「ハルナに会えば分かる。いいから連れて行け」
「わ、分かりました。でも、どうなるか……」
 まだ戸惑うユウキを、じろりと睨み付けてやる。彼からすれば大きな秘密をもう一つ抱えることになってしまって、その上ハルナと会わせるためには様々な難関があり、自分のせいで周囲に巨大すぎる秘密が露呈しないか不安なのだった。
「おい。連れて行くのか、行かないのか? 貴様が連れて行かないのなら、別の手段で行くまでだ」
「行きます! 行かせていただきますっ!」
 どのみち面倒は避けられないことや、今従っておかないと後でどうなるか分からない恐怖が、ユウキに大きな声を出させた。
「よし、いいだろう。頼んだぞ」
「それならオレも行くぜ」
 二人のやり取りがまとまっていくのを見ていたアキオが言い、ユウキが再び焦り始める。
「だめですよ! ここを離れたら、アキオさんはとんでもないことに……」
「大丈夫だって。日暮れ前には戻りゃいーんだから」
 話の前提が分からないユウトは訊ねるタイミングを図っていたが、アキオがさっさと外へ出ていくのをユウキも追いかけて行ってしまったので、ふらつく足を必死にコントロールして二人を追わなければならなかった。
 よろめきながら外に出ると、アキオが戻ってきて腕に掴まらせてくれたが、できるだけ頼らないようにして歩き出した。
「あっ! すみません、どうぞ乗ってください」
 ユウキが慌てて馬を引っ張ってくる。
「何だ?」
「えっと……人間が移動に使う動物です。座ったまま楽に行けますよ」
 アキオに聞こえないように小声で説明してくれるのは助かるが、これはこれで怪しまれていそうだ。
「いや、歩いて行く。慣れないとな」
 そういう訳で、アキオの腕を支えにして、自力で踏ん張って歩いたのだが、灯台が見えなくなる前に早くも躓いて転びかけ、アキオも共倒れになるところだったので、結局しぶしぶ楽をすることにした。
 怪我どころか捻ってもいないのに、大人しい動物の背に座らされ不機嫌な顔を見て、アキオが言う。
「お姫サマらしくなってきたな」
 意味が曖昧だったし、面白がっているような顔が癪にさわったので、無視しておいた。
 それよりもユウトは、初めて触れる空気や土や草木や動物に、心を奪われた。馬は黙々と、生い茂る木々の中を通っていく。枝葉の隙間から陽光が差し込み、音楽のように小鳥がさえずり、茂みの奥に一瞬小鹿を見かけた。
「こいつ、どうやらどっかに閉じ込められてたみてぇなんだよな。陸のこと、何も知らねえんだ」
 アキオがユウキの耳に口を近づけて言う。ユウトには聞こえているが、否定する理由もない。
「そ、そうなんですか……一体、どこから来たんでしょうか」
「何も覚えてねーみてぇだしよ。早いとこ王様に会って、面倒見てもらうようにしようぜ」
 厄介な拾い物をしたと言わんばかりのアキオに頷きながら、ユウキは少し微笑む。孤立した灯台で暮らす彼と一番関わっているユウキには、それが本心の態度ではないと分かっていた。アキオは口ではそう言いながら、浜辺に倒れていた厄介な拾い物が心配でたまらないのだ。しかしユウトにとっては今のところ、アキオは無礼で浅はかな乱暴者という印象でしかなかった。



 やがて森を抜け、広い野原に出る。その真ん中になだらかに通る馬車道をぽかりぽかりと歩きながら、一面に咲く白を見て、ユウトはまた新鮮な驚きを味わった。
「あの白いのは、なんだ?」
「あれはオオアマナという花ですね」
 さした細い指の先を見て、ユウキが答える。これは木の枝に成っていた淡い黄色のレモンの実、さっき見かけた子鹿の次に、ユウキに投げかけられた質問だった。
「オオアマナ……何のために在る?」
「花は、主に……人々を喜ばせるため、でしょうか」
「なぜ喜ぶんだ?」
「ええと、花はきれいだから……眺めて癒されたり、その、愛する人に贈ったりするんです」
 彼が少し頬を染めたことは、ユウトの位置からは見えなかった。
「成る程な、真珠の代わりか」
 そんな調子で、ゆったり歩いているように思えたが、ただ黙って過ぎていく時間とは違い、あっという間に町へ着いた。
 城下町は明るい色のレンガと削り取った石を重ねて作った家が小さな町並みを形成しており、港を中心に市場がある。路上には人間たちが老若男女ひしめき合っており、その騒がしさにユウトは驚き警戒したが、彼らは一人として襲いかかったりなどはしなかったので、黙って馬上から観察していた。
 彼らは声を張り上げて品物を売り、買い、歩き回っていた。食べ物や装飾や容れ物や道具や、その他こまごまとした意味の不明なものを求めて、子供から老人まで男女大勢がひしめき合っており、アキオとユウキは彼らの隙間を縫って進む馬にはぐれないようついて歩く。
 ユウトは馬上から、市場を埋め尽くす人間たちの表情を見ることに忙しかった。次々と通りすぎていく男や女や老婆や少年は皆、忙しく見えるが深いところで安心感に包まれ、ささやかで慎ましい日常を愛しているようだった。
「こんにちは。これ、いくらですか?」
 ユウキが立ち止まって、地面に敷かれた布の上に並ぶ品物を一つ取り上げた。形状からして、先程アキオが無いとこぼしていた靴というものだろう。見れば、通行人の女性たちも履いている。素足に布を巻いただけの姿を見てユウキが気を利かせてくれたのだが、ユウトにとってはよく分からない物だった。
「銀貨一枚だよ。何だいユウキ、誰かに贈り物かい?」
「ええ、友人が靴を失くしてしまって」
 ユウキが馬上を指すと、怪訝そうだった靴屋のおばさんは、ぱっと顔色を変えた。
「なんだい、なんだい! こりゃまたえらい別嬪さんじゃないか!」
 靴屋のおばさんは陳列した中から、ユウキが買おうとしたものより丈夫そうでつやのある靴を取り上げた。
「そういうことなら、話は違うさ。うちの靴は歩きやすくて丈夫、しかも見た目もきれい。ま、あんたみたいには、いかないけれどねぇ」
 にこにこと上機嫌で喋りながら、彼女は馬に座ったままの別嬪さんに靴を履かせてくれた。ユウトは足を掴まれて一瞬怯えたが、彼女の丸くて温かい指が優しくしっかりと紐を絞めるのを感じて、危害を加えるわけではなさそうだと判断した。
 靴屋は自分の寡黙な亭主が作った傑作が理想的な足にぴったりと収まったのを見て、満足そうに微笑む。
「こんなきれいな娘に履いてもらえるなら、この靴も本望だろ。お嬢さんにあげるよ」
「えっ、いいんですか?」
 ユウキが驚いて言ったが、靴屋のおばさんはユウキが反論を用意する前に答えた。
「いいも何も、ぜひともそうしてくれなくちゃ! 断ったりなんかしたら、靴が泣くよ!」
 ユウトは、妹の口癖を思い出した。ハルナはいつも、ユウトが考えこむたびに、それが物であろうと人魚であろうと、相手が泣いちゃうから応えてあげてと言うのだった。
「……ありがとう」
 その微笑を見て、靴屋のおばさんはさらに機嫌をよくした。これ以上に素晴らしい日は、五十年生きてきて、寡黙な亭主と結婚した日以外今まで無かった、そう言わんばかりの笑顔だ。
「ユウキ、あんたも隅に置けないねえ。頑張んなよ!」
「い、いえ、この人はそういうんじゃなくて……」
 赤くなって慌てるユウキと靴屋のおばさんのやり取りを見ながら、ユウトは身を屈めてアキオに尋ねる。
「何だ?」
「あー、お前がこいつの恋人だと思ってるのさ」
「なっ!? 違うぞ! 完璧に誤解だ。こいつとは、会ったばかりで……」
 ユウトが話に割り込んだことで、靴屋のおばさんはさらに嬉しそうに言った。
「おやまあ、若いっていいねえ! この子はこんなにひょろっとしてるけど、剣を持たせたらピカ一の腕前だし、どこに隠してるんだか、でっかい根性もある。こういう旦那さんを見つけなさいって、あたしの娘にも言ってやらないとねぇ」
「いえ、その……」
 ユウキはすっかりのぼせて何も言えなくなっていたので、アキオがため息と共に馬の手綱を取って歩き出した。
「おら、行くぞ」
「あっ、ま、待ってください!」
 こんな頼りない男がハルナを誘って道を誤らせたのかと思うと、腸が煮えくりかえりそうだ。
 走ってきて追い付いたユウキに向かって馬上から屈み、ユウトは睨み付けた。
「ハルナが陸へ上がったとき、見つけたのはお前か? 一人だったのか?」
「な、何もしてませんよ……! 見てもいません! あ、いや、見つけたのは僕ですけど、そうじゃなくて……」
 小声に小声で返すユウキを睨んだまま、人間の青年が抱える悩みなど知らないユウトはふんと鼻を鳴らした。
「早くハルナに会わせろ。話はそれからだ」
 馬を下りようとするユウトの腿を押さえ、アキオが言った。
「おっと。おてんば姫さんよ、乗ってる方が早く着くぜ。城はもうすぐだ。ほら、あそこに見えてるだろ?」
 伸ばした指の先に、見たことのある大きな石造の建物と尖塔が見えた。ユウトは下りようとするのをやめ、代わりに、それでも下りたければご勝手にとでも言いたげなアキオと、小さく苦笑いを浮かべるユウキを、順に、急かすように睨み付けた。
 馬は大人しく蹄を鳴らしている。腹立たしい限りだが、今はこの二人に頼るしか術が無い。ユウトはゆっくりと深呼吸をして、ふさふさしたたてがみを引っ張らないようにそっと握りしめた。


 
 

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